第27話 ある梅雨の日の放課後に その1
これより『ガリ勉君と裏アカさん』第3章を開始します。
本日は3話更新の予定です。
これが1話目。
『勉君、今日は店休むから』
そのメッセージを勉が目にしたのは金曜日の放課後、一週間の最後の授業の終了を告げるチャイムの音が鳴り響いた直後のことだった。
いつもなら教師たちの制止を振り切った生徒たちが週末に向かって躍動する頃合いだけれど、今日に限っては校内のどこもかしこも重苦しい雰囲気が漂っている。
そんな教室でポケットから取り出したスマートフォンをタップした。着信があったことは授業中に気付いていたから。
表示されたのは本日の仕事の休業を知らせる伝言だった。勉がアルバイトに勤めている店の主から送信されてきたものだ。
――まぁ、仕方なかろうな。
軽くため息をついて、スマホをしまう。眼鏡の位置を直した。
気のせいか頭が締め付けられるような痛みを訴えてくる。
窓の外に視線を向けてみれば――外は土砂降りの大雨だった。
それも『一寸先は闇』レベルのメチャクチャっぷり。
水のカーテンの彼方、黒い雲に覆われた空をしばし凝視して、もう一度大きく息を吐き出した。
これから帰宅する生徒のひとりとして、暗澹たる気持ちにならざるを得ない。
★
一学期の中間考査を終えて暦は6月を迎えた。
夏に向かうこの季節の日本はとかく雨、雨、そして雨。
いわゆる梅雨であり、今日もまた例外ではなかった。湿気も込みで不快指数が半端ない。
加えて太平洋上に発生した季節外れの台風が北上しており、梅雨前線を刺激してうんたらかんたら。
兎にも角にも大雨が降ることは予想されており、ツイッターは朝からその話題で埋め尽くされている。
『働きたくないでござる』
『こういう日は仕事休みにしろよ』
『雨が降ろうが雪が降ろうが、伝染病が蔓延しようが日本は変わんねーな』
『今日は……帰れそうにないの』
『それはいつものことでは↑』
授業を終えた生徒たちは揃いも揃ってどんよりとした瞳を窓の外に向けていた。
学校に寝泊まりする生徒はいない。帰らなければならない。帰りたい。でも……
天気予報に誤りがなければ、今日はこれからさらに天候が崩れることになると言う。
「はぁ、たまらんな」
「まったくだ」
勉の肩を叩きながらため息をつくのは、数少ない友人のひとり『天草 史郎』だった。
髪を茶色に染めた甘いマスクの遊び人で、勉が作成したノート通称『ガリ勉ノート』の胴元でもある。
人懐っこく交友関係が広く、常に軽薄な表情を浮かべている男にしては珍しく、顔に陰が差している。
無理もないと思った。きっと勉も似たような顔をしている。
「せっかくの週末だってのにこの天気。な~んもできね~じゃん」
「家に籠って勉強でもしたらどうだ?」
「あ~あ~あ~、正論なんて聞きたくね~」
史郎は両耳を塞いで大袈裟に身体をくねらせた。
控えめに言ってウザかったので、目を逸らした。
ただでさえ塞ぎ込みたくなる気候なのに、余計なものを視界に入れたくはない。
「勉さんは今日もバイトか?」
「いや、休みだ」
店主から送られてきたメッセージを見せると『だよなぁ』と史郎が頷く。
梅雨&台風のツープラトンに立ち向かって店を開けても客が来る可能性は低い。
無駄に経費が掛かるだけだろうし、客だけでなく他の店員だって店と家を往復する手間が半端ない。
さっさと店を閉める決断をしてくれるのは、雇われる側としてはありがたい。
「こんなところでグズグズしててもどうにもならんな。電車止まる前に帰るか」
「それがよさそうだな」
勉の口から零れる相づちは、どこか他人事のような突き放したものだった。
「家がすぐ近くにある奴はいいよなぁ」
史郎が肩を竦め、勉は無言で頷いた。
遠距離から通学してくる生徒にとって、移動手段の確保は極めて重要な問題だ。
現在の空模様と今後の雲の動き(動くとは言っていない)を見るに、電車が運休する可能性は高い。
週末ともなれば解放感に浸って寄り道することが多いクラスメートたちも、今日に限ってはさっさと帰途につく者が多いようだった。
「じゃあな、勉。また来週」
「ああ、またな」
ひらひらと手を振って教室を後にする友人の背を見送り、ゴキゴキと首を鳴らした。
史郎の言葉に誤りはなく、勉は学校からほど近いマンションの一室を借りてひとり暮らしを営んでいる。
学校の近くに居を構えていると色々融通が利く。高校に入ってからは、それを痛感している。ありがたいことだった。
これほどの荒天に晒されては、たとえ傘を差してもずぶ濡れになることは避けられないだろうが、帰宅すること自体は問題ない。
家にさえたどり着ければ、濡れても風呂に入って着替えればいい。買い置きがあるから夕食だってどうにでもなる。風呂も食事も、ひとり暮らしなら自由だ。
――立華はどうしてるかな?
ふと、そんなことを考えた。
口に出すことはなかった。
立華。
『立華 茉莉花』
同い年で同じクラスの女子。
昨年の文化祭で催されたミスコンを制覇した、学園一の美少女。
そして勉が推しているエロ自撮り裏垢『RIKA』としての裏の顔を持つ少女。
紆余曲折あって先日『友だちになろう』と誘われて、頷いた間柄でもある。
SNSのIDは交換済み。
身長は160センチを少し超えたあたり。体重はトップシークレット。
腰まで届く艶やかなストレートの黒髪。サラサラでツヤツヤの美髪からは、毎日ケアを欠かしていないことが見て取れる。
大粒の黒い瞳と、すーっと通った鼻筋に桃色に艶めく小振りの唇。
全身に比して小さめの頭の中に納まったパーツは神がかった配置。
薄手の夏服の胸元は内側から大きく盛り上がり、キュッと窄まった腰を経て下半身に向かう。その曲線の美しさは完璧のひと言。
お尻の位置は高く、校則違反ギリギリまで詰められた短めのスカートから伸びる白い脚は、スラリとしながらも健康的な肉付きが堪らない。
彼女は思春期男子の理想と妄想を限界まで突き詰めた美とエロスを体現していた。現実の人間とは思えない完成度を誇っている。
『立華 茉莉花』という少女はそれだけにとどまらない。パーフェクトな容姿に加え、運動神経抜群で頭脳も明晰。
コミュニケーション能力も優秀で、教室の中心人物のひとりでもある。彼女はこのクラスを照らす太陽に似た存在と呼んで差支えない。
ただ……恋多き人物でもあり男性からの支持は熱い反面、先日のやり取りを見る限りでは同性から複雑な感情を向けられることも少なくない模様。
勉に勉強を教わろうとした際も人目を気にしていたあたり、カリスマじみた人物像を維持するために並々ならぬ苦労を重ねているようでもあった。
最近の勉は気を抜くと彼女の姿を目で追いかけていた。そこに疑問を抱くこともなかった。
他の男子だって似たり寄ったりだ。別に勉だけが特別というわけではない。
茉莉花はとかく目を惹く少女だ。特に男性の意識を強く引き付ける。
以前からそうだったし、今もそれは変わらない。
――友人……か。
一学期の中間考査の打ち上げの際に、彼女から直々に『友だちになりたい』と言われた。もちろん答えはYESだ。
茉莉花と正式(?)に友人となって数日が経過した。その間、何か変わったかと問われても、特に何も変わらなった。
彼女は今でも教室の中心で眩しく輝いているが、勉から積極的に近づくことはなかった。
ふたりを繋ぐアイテムのひとつ『ガリ勉ノート』を巡る一件で、勉はクラスメートからは危険人物扱いされている――気がする。
もともと教室の連中とは別に仲が良かったわけでもないし、彼らに媚びへつらったり話を合わせたりする必要性は感じられなかったので、相変わらず勉はほとんどおひとり様だ。例外は史郎くらいのもの。
『友だちって何なんだろうな?』
相手が茉莉花であることを伏せて、史郎に相談したことがある。速攻でバレた。
ニシシと癇に障る笑みを浮かべた軽薄な友人は、
『勉と立華さんは友だちって雰囲気じゃないんだがなぁ』
などと言っていた。
『そうか?』
『ああ。だって彼女の友だちってめっちゃ多いけど、お前さんはアイツらの中のひとりって感じじゃないだろ?』
人懐っこく人間関係の機微に鋭い史郎の私見は、実に腑に落ちるものだった。
しかし、そうなると新たな疑問が出てくる。
すなわち、
『なら、俺と立華との関係は、どういうものなんだ?』
バレているので誤魔化すのはやめた。
率直な意見を聞いてみたいと思った。
『勉さんや、そんなことオレに聞いてどうする?』
史郎は珍しく顔に苦笑を浮かべていた。
『何だと?』
『お前さんたちの関係は、お前さんたちで決めるもんだ。そうだろ?』
ぐうの音も出ない正論であった。
以来、勉はずっと考え続けている。
答えは――まだ出ていない。
――立華は……もう帰ったのか?
すっかり人影が少なくなった教室を見回すも、目当ての人物の姿を捉えることはできなかった。
良くも悪くも目立つ少女だ。見間違えたり見逃したりはあり得ない。
『立華 茉莉花』は教室にはいない。それは間違いない。
安心したような、残念なような。勉はいまだ覚えのない複雑な感情を持て余していた。




