第25話 試験終了、ふたりの打ち上げ会 その2
訪れたことこそなかったものの、勉にだってカラオケボックスの知識ぐらいはある。歌を歌うところだ。
しかし、茉莉花に誘われて実際に足を踏み入れてからすでに1時間が経過しているにもかかわらず、勉は1曲も歌っていない。
右手にマラカス、左手にタンバリン。リズムに合わせて両手を鳴らす。ひたすらにぎやかし役に徹していた。
「~~~~~♪」
レンズ越しの視線の先には、マイク片手に熱唱する茉莉花がいた。
慣れた手つきで機械を操作し、どんどん曲を入れてガンガン歌っている。
たまにテレビの歌番組を見る程度の勉でも知っているヒットナンバーから始まり、聞いたこともないような歌もしばしば混じる。
アップテンポな曲調から、しみじみとしたバラードまでバリエーションも幅広く、普段から相当カラオケに親しんでいることが窺える。
歌は――上手い。勉は音楽に疎く、したり顔であれこれ言うことはできないが、曲に合わせてしっかりと響く美声は耳に心地よい。それで十分だった。
茉莉花のテンションはずっと高いまま、水分を補給するわずかな時間を除いてマイクから手を離すことはない。
――体力あるな……
歌って歌って歌いまくっているというのに、茉莉花の声が掠れることはない。
リズミカルに躍動する身体にも疲労の陰りは見られない。
白い肌は興奮のためか紅潮し、額には汗が煌めいている。
薄暗い室内の照明に照らされる姿は、教室で見る彼女とはまた異なった趣があった。
「ねぇ狩谷君、楽しんでる」
歌声が止まったと思ったら、目の前に茉莉花がいた。
ぼんやり見惚れていたせいか、接近に気付かなかった。
仰け反る勉に向かって、ずいっとマイクが突き出されている。
見上げると――先ほどまで上機嫌に歌っていたのと同一人物とは思えないほどにブスッとした表情を浮かべていた。
『整い過ぎた顔にその表情はもったいないな』と心の中で独り言ちた。褒め言葉ではないので、本人に直接言うのはやめておく。
実際に口にしたのは、彼女の質問に答えるための全然別なセリフだ。
「ああ。楽しんでるぞ」
無難オブ無難。
嘘はついていないが面白くとも何ともない返しだった。
案の定というべきか、茉莉花の表情は晴れない。
「ほんとに? 私ばっかり歌ってるし、狩谷君の目が凄いことになってるし」
「俺の目つき?」
「うん、凄いガチだった」
穏やかな心持ちでいたつもりだったが、目が口以上に物を言っていたようだ。
長く艶やかな黒髪、大ボリュームの胸元、短すぎるスカートなどなど。
茉莉花の色々なところが揺れていて、追いかけるのに必死だった。
見目麗しく発育著しいJKは、見どころが多すぎて困る。
だから視線が鋭くなるのも仕方がない……と面と向かって口にするのは憚られた。
両手をフリーにして眼鏡を外し、目蓋を閉じてそっと指で押さえる。
「そ、そうか? それはすまなかった」
「いいけどね。狩谷君はえっちだってわかってるし」
バレバレだった。というか、以前からバレていた。
バレていることは知っていた。どうしようもなかった。
とは言え……誤魔化せないとしても、取り繕う必要性は感じる。
「待て、それは良くない」
「そう?」
空いた手でマイクを遮って歌う意思がないことを示すと、茉莉花は勉の横に腰を下ろした。
『ちょっと休憩』と称して、テーブルの上に置かれていたオレンジジュースに口をつける。
ごくごくと液体を嚥下する音と、前後する喉の動き。鼻を掠める汗の匂い。
――これは……落ち着け。冷静になれよ、俺。
心の中で何度『BE COOL』と呟いても、まるで効果がなかった。
裸眼でも見えるほどの近距離に美少女がいるという夢のようなシチュエーションに慄く。
眼鏡をかけ直して大きく深呼吸すると、隣に座っている茉莉花から漂ってくるむせ返るような芳香を吸い込んでしまい、あっという間に意識と視界が桃色に霞む。
「カラオケ、苦手だった?」
「歌うのは……あまり得意ではないな。そもそもカラオケが初めてだから、どうしたらいいかわからんというのもあるが」
勉の状況は察しているだろうに、当たり障りのないことを聞いてくれる茉莉花に感謝した。
……彼女が心の中でどんな顔をしているかは置いておく。容易に想像できてしまうが。
「そっか。先に言ってくれたら、別のところにしたんだけど」
「構わない。歌っている立華を見てるだけで十分だ」
思ったことをそのまま口にした。
どこを見ていたかは、あえて口にはしなかった。
エロい本性がバレているとわかっていても、あえて見栄を張った。
「……すぐそういうこと言う」
茉莉花は薄く頬を赤らめ、ずずと音を立ててジュースを啜った。
『はしたないな』とも『やけに似合っているな』とも思わされる。
矛盾しているようでしていない、つくづく不思議な少女だった。
理屈では説明しきれない魅力に溢れていることは間違いない。
「なに?」
「なんでもない」
黙ってじっと見つめていたら、怪訝な眼差しを返されてしまった。
追及を避けるために勉もまたコーラを口に運んだ。
炭酸が抜けて氷が溶けて、ほとんど砂糖水と化していた。
美味くはないが、とりあえず口を塞ぐことができればよかった。
「そういえばさぁ」
勉から目を離した茉莉花は、手元の機器を弄りながらポツリと呟いた。
「私、狩谷君のことってほとんど何も知らないなぁ」
その声は、狭い個室にやけに寂しく響いた。
小さな声ではあったが、勉の耳にもしっかり届いた。
勉の胸の内が、得体の知れないざわめきに揺れた。
「そうか?」
「うん。ちょっと前までは学校で一番頭がいい人ってぐらいだったし」
「そうか」
「あと……物凄くえっちで、物凄くえっちで、それで物凄くえっち」
「それ、三回も言う必要あったか?」
「とてもとても大事なことなので三回言いました」
「……」
酷い偏見……と反論することはできなかった。
同年代の男子と比較して自分が特段スケベだとは思わなかったが、趣味は裏垢鑑賞で、しかも推し裏垢の正体がクラスメートだとわかっても止めるどころか煽り気味。
これまではあまり意識する機会がなかっただけで、茉莉花の酷評は正鵠を射ていると納得させられそうになる。
――いや、でも、男がスケベなのは当たり前だろ?
お前だってわかっているくせに。
そういい返したいところだったが、ぐっと堪えた。
茉莉花の声に、ちょっと元気が戻ってきていたから。
「あと、カッコいい」
「……誰が?」
話の流れを考えれば自分のことだろうと推測することはできる。
ただ、これまでの16年と少々の人生で『カッコいい』なんて評価された記憶がなかった。
不細工とまで卑下するつもりはないが、見栄えに優れていると自信を持つこともない。
ゆえに、茉莉花の言葉に違和感を覚えてしまい、思わず聞き返してしまったのだ。
相手が学校一の美少女であることも、疑いに拍車をかけてしまっている。
――前にもこんなことがあったな。
ココアを飲んでいたとき『可愛い』と言われたことがあった。あれも初めての経験だった。
勉強を教える際に近しく接してわかったことだが……ボキャブラリーに差異はあれど、ふたりの価値判断基準にそれほどの食い違いはない。
だからこそ、余計に彼女の意図が掴めなくて困る。『カッコいい』も『可愛い』も本気で口にしているとわかってしまうから。
続けるべき言葉を探していると、茉莉花はニヤリと口角を釣り上げて白い指を突き付けてきた。
「もちろん、狩谷君。だって……ほら、先生とか他のみんなに嫌われるの覚悟で私を助けてくれたし」
「そういうつもりはなかった。癇に障っただけだ」
咄嗟に心にもないことを口にしていた。
『滑稽だな』と頭の片隅から声が聞こえる。
「……ま、そういうことにしておいてあげる。ね、狩谷君は?」
「む?」
「狩谷君は私のこと、どれくらい知ってた?」
サラリとした口振りではあったが、覗き込んでくる茉莉花の眼差しは真剣そのものであった。




