第23話 放課後、帰途について
教室での一件を経て以来の、勉と茉莉花が腫れ物のように扱われる日々は――それほど長く続かなかった。
学年主席と学園のアイドルのコンビは目立ちはするものの、他の生徒たちにとってはゴシップよりも目先の試験の方が重要だったから。
中間考査が近づくにつれて、勉たちもありふれた学生風景のひとつとして日常の一部に埋没していった。
そして今日もまた、ふたりは向かい合って図書室で試験勉強に勤しんでいる。
「……」
勉は気づかれないようにノートから視線を上げた。
そっと。あくまでそっと上げる。誰にも気づかれないように。
対面に座っている茉莉花は、うんうんと唸りながら問題を解いていた。
悩んでいるからと言って、すぐに助けを出したら彼女のためにならない。
考えて考えて考えて、それでもどうしようもなくなったら声をかける。
タイミングを見計らう必要があるから、様子を窺うことは正しい。
茉莉花に見惚れながら、心の中で理論武装を整える。
――綺麗、だよな。
図書室で一緒に勉強するようになって、改めて思い知らされた。
『立華 茉莉花』は掛け値なしの美少女だった。
『噂にたがわぬ』どころではなく『噂では足りない』ぐらいのスペシャルな美少女だった。
学園のアイドルどころかガチのアイドルと言われても違和感がない。
1年生の頃はクラスが違ったから、そもそも接点がなかった。
2年生になってからは同じクラスに編成されはしたけれど、やはり接点がなかった。
姿を目にする機会こそ劇的に増加したとはいえ、茉莉花の周りには常に人だかりができていて直視する機会なんてなかった。
そんな彼女が昨年来の推し裏垢『RIKA』と同一人物であると知った。言葉にし難い驚きに見舞われたものだ。
SNSに投稿された写真では、身体をじっくり眺めることはできても隠されている顔を見ることはできなかった。
あれやこれやがあって今、こうして傍で顔を直視できる立場になると、改めて感嘆のため息をつかざるを得ない。
茉莉花の美貌は芸術品めいた美しさではない。女性としての美しさだ。彼女からは常に思春期の性を連想させられる。
――いかんな……
ついつい茉莉花に意識を奪われてしまいがちだ。
ここ数日、いつもより集中できていない自覚があった。
もともと試験勉強をしない勉は、この程度で成績を落とすことはない。
多少の予習の遅れはあるが、帰宅してひとりで机に向かえば問題ない。
支障をきたすと言ってもその程度のレベルだから、ノープロブレムだ。
しかし――
「どうかしたの、狩谷君」
「いや、何でも」
「さっきからチラチラ私の方見てるよね」
――バレてたッ!
全身が熱を持ち、ぶわっとおかしな汗が噴き出した。
同時に頭が真っ白になって、論理的な思考を阻む。
茉莉花と関わるようになる前にはなかった経験だ。
対策する余裕もなく、口から思考が駄々洩れになってしまう。
「あ、ああ。その……間近で見た立華がきれいなもので、つい……」
「褒めてもらえるのはうれしいけど、顔だけじゃなく胸をガン見してるのもわかってるから」
「お、おう」
咄嗟にぼかそうとしたところをストレートにツッコまれて面食らう。
ずり落ちた眼鏡の位置を直しつつ、次の言葉を探す。
レンズ越しに中空を彷徨う視線が、どうにも落ち着かない。
狼狽する勉をジト目で見つめていた茉莉花の様子は、いつもと変わらない。
口元にはうっすらと笑みを浮かべており、余裕すら感じられる。
「ま、いいけど」
「いいのか!?」
茉莉花の言葉は、勉の想像の斜め上を突き進んだ。
見られることには慣れていると耳にしていたが、まさか堂々と見る許可が出るとは。
驚きのあまり裏返った声に、遠くから咳き込む音が被さった。
「図書室ではお静かに。ね、狩谷君」
「う、ぬぐ……」
当てつけだとわかっていても、反論が見つからない。
大きく息を吐き出して机上の問題に向き直る。仕切り直しだ。
このまま眼前の美少女のペースに乗せられていたら、どれだけ墓穴を掘るかわかったものではない。
教科書も参考書も、そして自作のノートも、書かれていることが全く頭に入ってこない。困った。
俯いて悩む勉の頭の先で、茉莉花が柔らかく微笑んでいることには気づかなかった。
★
「いや~、今日も捗ったわね」
「そうだな」
下校時間のチャイムに急かされて校舎を後にした勉と茉莉花。
周りには、ふたりと同じくギリギリまで試験勉強していた生徒たちがいたのだが……誰も彼もがよそよそしい。
あからさまに避けられているようにしか見えない。人の心に鈍感な勉でも流石に気付くレベルだった。
「何だか距離を置かれているな」
「今さら過ぎる」
茉莉花の声には呆れの成分が多く含まれていた。
勉と茉莉花を巡るゴシップは校内を駆け巡っている。
他の生徒たちからしてみれば、興味津々であることには変わりない。
試験を間近に控えて誰もが耳をそばだてる余裕を失っているだけだ。
迂闊に勉の勘気に触れるとロクなことにならないことも知れ渡っている。
その微妙なバランスの上に成り立っているのが、現在の距離感だった。
「……まぁ、邪魔にならないならいいか」
勉は生徒たちへの関心を失い、空を見上げた。
いまだ夏は遠いとは言え、徐々に日が暮れる時間は遅くなっている。
昼と夜の狭間と呼ぶには明るさが強い頃合いだった。
部活動が休止されていなければ、学校はもっと活気にあふれているだろう。
「今晩、お楽しみに」
「ん?」
唐突に呟かれた声が耳朶を打つ。
横に目を向けると、茉莉花が白い手でスマートフォンを握りしめて上下させていた。
調子っぱずれの鼻歌とご機嫌な笑顔は魅力的だが……顔に浮かぶ表情は、校内で見せるカリスマじみたものではなかった。
勉の横で黒髪を靡かせる少女は、もっとアンダーグラウンド的というか、妖しく淫靡な雰囲気を纏っていた。
「最近やってなかったからね」
ニヤリと吊り上げられた口の端を見て、彼女の言わんとするところを理解した。
学園のアイドルとして君臨する少女『立華 茉莉花』が持つ、もうひとつの顔。
エロ写真投稿系人気裏垢『RIKA』として、SNSに写真をアップするつもりらしい。
「せめて試験が終わってからにした方が良くないか」
勉は心にもないことを口にした。
『RIKA』の正体を知ってしまったものだから、試験に向けて頑張っている茉莉花に『最近投稿がないんだが?』と催促したい欲求を抑えていたのに。
当の本人が乗り気とあっては、否定の言葉に力が籠められない。
「気分転換もしないとね」
「気分転換って……」
「楽しみにしてくれてるフォロワーもいるしね。誰かさんみたいに」
「む」
勉強中に胸元を凝視していたことがバレているだけに、言葉に詰まらされる。
なんだかんだ言って新しい画像が投稿されたら、拝礼して保存するに違いない。
どうするべきか悩んでいる勉の様子を笑っていた茉莉花は、ふいに頭を巡らした。
『う~ん、ま、いっか』とひとりで納得して、ちょいちょいと白い指で勉を引き寄せようとする。
何やら他の人間には聞かせたくないことがある模様。周りを見回すと、チラホラ生徒の姿が見て取れた。
ふたりの関係がバレた時のように、誰かが監視している可能性を鑑みれば、彼女の用心は当然ともいえる。
「何だ?」
耳を近づけると、茉莉花が唇を寄せてきた。
ふたりの距離が縮まると、鼻先を甘い空気がくすぐった。
接触していないにもかかわらず茉莉花の体温を感じる……気がした。
――頭がクラクラする……
「あれ始めてから気付いたんだけど……私、そっちの趣味があるみたい」
「そっち?」
「だから、みんなに見られるのが気持ちいいって感じ」
「ほんとか!?」
「し~~~~~っ!」
またしても声が裏返ってしまった。
茉莉花が慌てて唇に人差し指を当てて静止してくる。
口を閉ざして周囲に視線を巡らせる。勉の異変を見咎める者はいなかった。
再び茉莉花に目を戻す。頭のてっぺんから足の先まで、まじまじと見つめてしまう。
この少女にはしばしば驚かされてきたが、今回もまた飛び切りの爆弾発言だった。
――露出癖……立華が……
上下する視線は、最終的に漆黒の瞳に縫い止められた。
夕暮れ時の陽光を受けて煌めく闇に吸い込まれそうになる。
「……って言ったら嬉しい?」
「嬉しいというか……いや、嬉しいことは確かだが、どう言えばいいのか……冗談だよな?」
「さて、どうでしょう?」
隣を歩いていた少女が、クスクスと笑って歩みを進める。
揺れる艶やかな黒髪と白い脚に見惚れていると、唐突に揶揄われたと気付いた。
振り向いた茉莉花がひと言、
「狩谷君のえっち」
「立華ッ!」
「ふふっ、怒っても怖くないし」
「ぐぬ……」
教師も生徒も恐れない自分が、茉莉花には振り回されっぱなしだ。
情けない事実を目の当たりにさせられたが……それほど不快でもなかった。




