第22話 放課後の図書室にて
中間考査を目前に控えたその日、放課後の図書館は多数の生徒を迎えて盛況であった。
大量の蔵書と学習スペースを擁するこの部屋は、立地的にも感覚的にも校内では辺境扱いされている。
ほとんどすべての机が生徒で埋まるなんて、常日頃ではまずありえない光景だった。
いつも暇そうにしている司書が喜びの鼻歌を歌っている。
誰もが机上の教科書や参考書と睨み合い、ノートにペンを走らせる中で、奥まった位置の机がぽっかりと空いていた。
鞄を抱えた生徒のひとりがこれ幸いと歩みを進め……途中で『ひっ』と息を呑んで回れ右。
彼が慌てて視線を切った先には、ひと組の男女が向かい合って腰を下ろしていた。
お互い机の上にノートや教科書、参考書を広げており、時折男子が女子の質問に答える形で勉強を教えている。
遠くから見れば何とも青春のいちページな光景なのに、近づくことを躊躇わせる雰囲気がまき散らされていた。
女子生徒の方は、校内で知らぬ者などいるはずもない有名人。
腰まで届く見事な黒髪と整い過ぎた顔立ち、完璧なスタイルを併せ持つ美少女『立華 茉莉花』
男子生徒の方は、校内で知らぬ者がいるかもしれないが実は有名人。
バッサリと短くカットされた黒髪と、眼鏡の奥に鋭い眼光を宿す学年主席『狩谷 勉』
どちらも2年生であり、そしてクラスメートでもあるふたりが試験勉強に勤しんでいた。
……表向きは。
「まぁ、無理して隠す必要なかったのかも」
ノートにリズミカルに走らせていたシャープペンシルを止め、茉莉花がボヤいた。
勉はチラリと目だけで唇の動きを追って、再び手元に視線を戻す。
傍からは口を閉ざしたまま、一心不乱に参考書に取り組んでいるように見えた。
「てゆーか、聞いてる? 狩谷君やりすぎ。助けてもらったのは感謝してるけどさぁ」
『感謝している』と口にしながらも、学園のアイドルは不満を隠そうとしない。
きれいに整えられた眉を寄せ、桃色に艶めく唇を尖らせている。
そんな表情さえ思わず見惚れるほど絵になる少女だった。
「あれじゃみんなを敵に回したも同然だよ」
「別に――」
「『どうでもいい』はダメだから」
「む」
食い気味に先手を打たれた勉に返す言葉はなかった。
『どうでもいい』と思っているのは嘘ではないのだが。
校内に広く出回っている勉お手製のノート、通称『ガリ勉ノート』の供給停止をちらつかせて、自分と茉莉花の関わりをほじくり返そうとしたクラスメートを鎮圧した。
一件落着と思いきや、茉莉花は勉の対応を是とすることなく、事あるごとに苦言を呈してくる。
勉が他の生徒たちにノートを使わせているのは、将来を見据えた長期的な作戦のひとつだった。
一年以上の時間をかけて作り上げてきた感想フィードバックシステムの放棄が、計画に大きな影響を与える可能性は否定できない。
とは言え、とん挫したところで痛手というほどではなかった。
大学受験のための勉強方法は、別途考えればいいだけだから。
だから平気だしへっちゃらなのだが……
「あんな言い方……何かあったらノートを盾に脅しをかける人って思われちゃうよ」
平然としている勉をじ~っと見つめていた茉莉花は、ため息とともに吐き出した。
言葉の端々に強い不満が滲み出ている。
「間違ってはいないな」
そういうつもりで始めたわけではないが、そういう風に使えるのであれば、それはそれで悪くない。
あの時は茉莉花の風評を守ることに大きな意義を感じたのだ。
手札の切り処を間違えたつもりはなかった。
「でも……もっと穏便な方法があったんじゃないかなって」
「穏便な方法か。あったかもしれないが咄嗟には思いつかなかった。立華はどうするつもりだったんだ?」
「え、私? えっと、う~ん」
鉛筆の尻を顎に当てながら、茉莉花は中空に視線を彷徨わせる。
学園のカリスマである彼女にしては珍しく、回答を迷っていたように見えた。
あのまま放置しておけば、絡んできた女子(名前は憶えていない)は嵩にかかって口撃を続けたに違いなかった。
状況を開始した勉の判断は――即応して叩き潰す。それも広く見せしめにする。
今後の禍根を断つために他のクラスメートをけん制する効果も期待できた。
茉莉花の機嫌を損ねている点を除けば、概ねベストに近い形に決着したように思える。
「結果として丸く収まったんだ。あれでよかったんじゃないか?」
「ん~、納得いかない」
「何がそんなに不満なんだ」
「何がって……みんなに誤解させちゃったじゃない」
「そうか?」
「そうだよ」
誤解させたと言われても、特に思い当たるところはなかった。
最終的には、茉莉花も最近の授業難度の上昇に辟易しており、学年主席の勉に勉強を教えてもらうようになったという話でまとまっていたはずだ。
『2年になって難しくなってるよね』とか『茉莉花でも苦労しているのか』とか『相手が狩谷なら仕方がない』とか、そういう流れになっていたと記憶している。
「私が怒ってるのは……狩谷君のせいだからね」
「俺のせい?」
「そうだよ。それを本気で疑問に思ってるところが、凄く狩谷君って感じだけど!」
「……」
「あんなやり方良くないよ。ワザとヘイトを集めるようなことしなくても……」
「あれが手っ取り早かったんだ」
茉莉花が勉に勉強を教わること。
勉がノートの売買を辞めること。
このふたつには実際のところ関連性はなかった。
煩わしい追及から気を逸らすために派手めな衝撃を与えただけだ。
案の定、『ガリ勉ノート』を利用していた他の生徒たちが介入して、有耶無耶のうちに誤魔化すことができた。
一時凌ぎでしかなかったし、一時凌ぎでよかった。
ただでさえ相手は学園最強のヒロイン『立華 茉莉花』である。
敵に回すなら水面下で周到に準備を進めるか、場の雰囲気を利用して集中攻撃する空気を作るか。
余程の条件が整わない限りは手を出すべきではない。下手を打てば逆に敵を増やすだけ。
そんなこと誰だって常識レベルで弁えている。
ゆえに勢いを失って立ち消えになった話題を蒸し返す者などいなかった。
教室は平穏を取り戻している。ノープロブレムだ。
「だからって、狩谷君がみんなに嫌われたら意味ないじゃん」
「元から好かれていなかったし、今までと変わらん」
「あのね!」
茉莉花が身を乗り出してきた。
大迫力のバストに視線が引き寄せられる。
柔らかな膨らみが前後に揺れた気がした。
生唾を飲み込んだところで――額に衝撃。痛くはない。
白い指先が、勉のおでこをひと突きしていた。
「どこ見てるの」
「さすがにこう言うところで口にしたくはない」
「……そう言うところが、凄く狩谷君だよ」
胡乱げな眼差しを向けてくる茉莉花。
遠くでゴホンと咳き込む音が聞こえた。
図書委員が無言で警告を発している。
「立華、図書館では静かに」
「う~、もう!」
ぶ~っと不貞腐れながら椅子に腰を下ろす。
遠ざかる巨乳がもったいないのでガン見したら、思いっきり睨まれた。
「だいたい本当の狩谷君は、えっちでスケベでえっちでスケベで……」
茉莉花は『えっち』と『スケベ』をひたすら連呼している。
間違ってはいないという自覚はあるので訂正はしない。
魅力的な女性の性的なパーツに心惹かれるのは本能だ。
理性でどうにかなる問題ではない。
性欲の類は公衆の面前では隠すべきかもしれないが、人間にはできることとできないことがある。
「あれ……怖がられてる方が、カッコいいまである?」
首をかしげていた茉莉花が、ポツリと呟いた。
あまりと言えばあまりな言われように、むぐっと言葉に詰まる。
勉にも矜持がある。負けじと意識して低めの声で喉を震わせた。
「それを俺に聞いてどうするつもりだ?」
「……」
「手が止まってるぞ」
「……誤魔化した」
「何か言ったか?」
「な~んにも」
「だったら勉強しろ。試験はもうすぐだぞ」
『立華 茉莉花』が『狩谷 勉』に勉強を教わるのはおかしいことではない。
教室、ひいては校内にそういう空気が醸成されたおかげで、人目を憚らず直接やり取りできるようになった。
良くも悪くも勉と同年代の男女は空気を読む者が多い。
論理的に繋がっていなくとも、『何となく正しい』と思わせた時点で問題は解決したも同然だった。
「私に『勉強しろ』って言う狩谷君が試験範囲を勉強していない件について」
いまだ機嫌が直っていない茉莉花がぼそりと口にした。
彼女の言うとおりであった。勉の参考書は3学期に習う箇所が開かれている。
茉莉花の勉強を見る傍らで、マイペースに学業をこなしていた。
「俺はいつもこんな感じだからなぁ」
生まれてこの方、試験勉強なんてしたことがなかった。
日々の予習復習をしっかりこなしていれば、わざわざテストのために詰め込み勉強をする必要などない。
一夜漬け方式で試験を乗り切ったところで、知識が頭に定着しなければ意味がない。
そう告げると、学園のアイドルは『もはや処置なし』と言わんばかりに大袈裟に頭を振った。
ふるふると揺れる頭部に合わせて艶やかな黒髪が宙に綺麗な弧を描いた。
「これだから狩谷君は……」
――心外だな。
反論は、しなかった。