第19話 暴露されたカンケイ
本日は2話更新予定です。
これが1話目。
「ねぇ、茉莉花ってガリ勉と付き合ってるの?」
昼休みの教室に響いた女子の声は、決して大きなものではなかった。
しかし、内容がセンセーショナルであるがゆえに聞き逃す者はいなかった。
学園のアイドル『立華 茉莉花』の恋愛模様は、芸能人のスキャンダルに似ている。
テレビやインターネットを介することなく身近に接する相手ゆえに、注目度や生々しさは茉莉花の方が格段に上まである。
数少ない友人のひとりである史郎と何気ない雑談に興じていた勉は、その声を耳にしてハッと頭を上げた。
レンズ越しの視線は自然と教室の中央へ向かう。
そこには机に腰かける艶やかな黒髪の少女の背中があった。
『自分で決めたこととはいえ、メンドクサイのは確か』
ノートを貸すことに決めたときにぼやいていた姿が思い出された。
輝かしいカリスマであり続けるために努力を人に見られたくない。知られたくない。
水面を優雅に滑る水鳥に似ている。あの手の鳥は、水面下では必死に足をバタつかせている。
ここで自分たちの関係を暴露されることは、彼女の努力をフイにすることに繋がってしまう。
――どうすればいい?
勉だけの問題であれば『お前たちに関係あるのか?』と一喝して終わりだ。
人づきあいが得手とは言えない勉と積極的に関わり合おうなどと考える奇特な人間は少ない。
にべもなく拒絶されれば、踏み込んでくる者はこの教室にはいないだろう。
……そもそも興味を持たれているかどうかすら不明なレベルだが。
チラリと横に視線を向けると、史郎と目が合った。
作り物めいた爽やかさが売りの顔に苦み走った表情を浮かべている。
それほど長い付き合いというわけではないが『迂闊なことは口にするな』と忠告されている気がした。
今までに見たこともない眼の光。背筋に得体の知れない震えが走った。
「え~、いきなり何? どうしたの?」
茉莉花の返答は渇いている……ように聞こえた。
いつもと同じく明るくて華やかな音程にもかかわらず、不安を掻き立てられる声。
振り向くことなく放たれた言葉を一言一句聞き逃すまいと神経を尖らせる。
俄かに緊張感が高まってきた。無意識のうちに、ゴクリと唾を飲み込む。
「だって、最近アンタら仲良すぎない?」
「そう? 普通だと思うけど」
同じクラスの仲間じゃん。
軽やかに交わす茉莉花の発言のひとつひとつが、勉に得体の知れない苛立ちを覚えさせる。
身に覚えのない衝動に、沈黙したまま戸惑いを覚えていると、
「私、見たんだ。茉莉花とガリ勉が昼休みにデートしてるとこ」
粘着質な響きの後に、教室のそこかしこから騒めきが続いた。
声そのものは決して大きくはない。でも、静まる様子を見せることもない。
その在り方は大地震の後に続く余震に似ている。
背を向けたままの茉莉花もまた、勉と同じように口を閉ざしてしまった。
ただ……室内の注目を一心に集める少女の肩が、ビクリと震えた。
――見られていたのか!
ギリ、と歯噛みする。
ノートの取引はできるだけ人目につかない場所を選んでいたつもりだったが、完璧ではなかったようだ。
距離を置いて後ろから見ているだけで、茉莉花が狼狽しているのがハッキリとわかった。
それにしても――
「わざわざ人前で聞くことか?」
「それは違うなぁ、勉」
呻き声にも似た憎まれ口に、史郎が反応した。
『違う』と否定されたことも相まって、茉莉花から目を離してしまう。
声を潜めつつ、意味を尋ねる。
「『違う』とはどういうことだ?」
「あれは聞いてるんじゃねぇ。聞かせてるんだ」
史郎の顔が歪んでいた。
皮肉げな笑みだった。
「聞かせている? 誰に?」
人間関係の機微に疎いことを自覚している勉にはわからなかった。
性別の垣根を越えて多くの友人を持つ史郎には、勉とは異なる世界が見ているらしい。
鈍感な勉にも、それだけは理解できた。
「えっとだなぁ……」
史郎曰く、この教室には茉莉花に想いを寄せている男子がいる(名前は伏せられた)。
そして、茉莉花に尋ねている声の主(女子)は、その男子に想いを寄せている。
だからこそ、教室という公共のフィールドで事実(?)を明らかにしようとしているのだと。
『立華 茉莉花』は学園のアイドルであると同時に恋多き少女としても知られている。
先輩から後輩まで交際相手は数知れず。彼らは例外なく長続きしなかった。
この学校の生徒なら誰でも知っている常識のひとつだ。知らなかった勉の方が異端だった。
茉莉花がこの問いにYESと答えれば、件の男子は自らの恋心に落胆する。
茉莉花がこの問いにNOと答えれば……まぁ、状況は変わらない。
勝手に巻き込まれた勉の迷惑など、この教室の人間にとってはどうでもいいのだろう。
どちらにせよ質問者にとって損のない展開になることに変わりはない。
「その男が立華を諦めたとして、あの女に振り向くとは限らないのではないか?」
「まぁそうなんだが……こういうのは理屈じゃねーんだよな」
ため息混じりの史郎の顔には諦観に似た感情が垣間見えた。
この男もまた多くの女性から思いを寄せられる身。
彼を巡って今までに似たようなことがあったのかもしれない。
そのせいか、史郎は茉莉花に同情的な視線を向けている。
――腹立たしいな。
自分がダシに使われていることに勉は苛立ちを覚えた。
同時に自分が他の人間を『どうでもいい』と評しているだけに、その怒りを正当化しづらいことも認めざるを得なかった。
興味の薄さが無関心に繋がるか、口撃に繋がるかは大違いではあるものの、根本的な部分は変わらない。
どうでもいい相手がどうなろうと知ったことではない。そんなことに心を砕く必要性を感じられない。
同族嫌悪とも言えなくもないと思い至って、慌てて頭を振って昏い思考を吹き飛ばす。
今、この瞬間に重要なことは、そこではない。茉莉花に向けられた嫌疑を晴らさなければならない。
――俺の方はともかく、立華の方をどうにかしないと……
そこまで考えた勉の脳裏に声が響いた。
耳を通じて心に刻み込まれた、凛と鳴る声。
スマートフォン越しに届いた、茉莉花の声。
『自分のことを思いっきり大好きになって、思いっきり大切にしてあげなきゃ』
随分と甘い理屈だと思った。
随分と優しい心遣いだとも思った。
自分のことを好きになるとか大切にするとか、そんなことは考えたこともなかった。
でも……正反対の価値観から放たれた茉莉花の言葉は、勉の胸に優しく沁み入った。
いつかの夜に聞かされた声が甦り、机の縁を掴んでいた両手の指に力が籠る。
「立華、動かないな」
「お前さんらがどういう関係なのかは知らねーが、変なことを言ったら傷つけるとか思ってんじゃね?」
意外と仲いいのな。
史郎の声はやけに穏やかで、居心地が悪くなる。ガリガリと短く刈り上げた後頭部を掻きむしった。
いつものようにもっと軽薄で揶揄うような口振りであれば、照れ隠し込みで『知ったことか』と無視を決め込んだかもしれない。
しかし、それは勉の矜持が許さなかった。困っている茉莉花を見捨てるなんて、そんな薄情な人間にはなりたくない。
自分自身よりも大切なものがあるのなら、自分自身のことなど――どうでもいい。誰にどう思われようとも、どうでもいい。
――すまんな、立華。
心の中で手を合わせて謝り、椅子を蹴って立ち上がる。
いきなり教室に響いた乱暴な音に驚いたみなの目が勉に向けられる。
雑然とした昼休みの室内を睥睨し、ひとつひとつの視線を受け止める。
いっそ清々しいほどに堂々と胸を張り、眼鏡の位置を直してから口を開く。
胸中に蟠っていた不愉快な感情が喉を通って唇から放たれた。
「いちいちうるさいな。最近授業についていけていないと相談されたから、教えていただけだ」