第18話 ヒミツノカンケイ その3
茉莉花から顔出しエロ画像の直接投与を受けてから数日が経過した。
相も変わらず学校生活は平穏で、これと言って表面的な変化は見当たらない。
――思っていたより普通に過ごせているな。
などと変わらぬ日々に安堵を覚え始めた頃に、それは起こった。
昼食を終え、トイレに用を足しに行った帰り道。
『オレもオレも』と着いてきた史郎と共に教室に戻る最中のこと。
廊下の反対側から見覚えのある姿が近づいてきた。
腰まで届く艶やかなロングストレートの黒髪。
校則違反ギリギリ(というか多分アウト)な短いスカートから伸びる白い脚。
学校指定の夏服を内側から押し上げる豪快な胸元。
煌めく漆黒の瞳は大粒で、眼差しは涼しげで。
すーっと通った鼻梁も、小さめな口も、耳の形までもパーフェクト。
全身に比して小さな頭部に絶妙な配置で収まっている、『THE・美少女』の生きた見本。
学園のアイドル『立華 茉莉花』であった。他の者ならいざ知らず、彼女を見紛うことなどありえない。
勉と茉莉花は、つい先日まで積極的に関わり合うことはなかった。
現在でも勉が手掛けたノートを貸してはいるが、茉莉花側の事情(カリスマとしての面目が云々)で人目は避けている。
だから、これまでと同じように素知らぬ顔で通り過ぎようとしたのだが――
「あ、狩谷君、おつかれ~」
「む」
茉莉花の方から話しかけてきた。これは完全に想定外。
驚きのあまり気の利いた反応ができなかった。
びっくりしていたのは勉だけではなかった。
隣を歩いていた史郎だけでなく、その場にいた生徒たちは一様に意外そうな表情を浮かべて、互いに目配せを交わし合っている。
「茉莉花、いつの間にガリ勉と仲良くなったの?」
蔑称ともとれる勉のあだ名を口にしたのは、茉莉花を取り巻く生徒のひとり。
誰だっただろうかと訝しんだ。記憶にはない顔だがクラスメートだのはずだ。それ以上はわからない。
勉は基本的に人の顔と名前を覚えるのが苦手だ。一致させるのはもっと苦手だ。
「いつの間にって……同じクラスなんだから普通じゃない?」
特に意識していないと言った風に返す茉莉花の顔を見て、勉は言葉を失った。
――あれ、怒ってるな。
ノートを貸すようになって、SNSのIDを交換して。
以前とは比べ物にならないくらいに茉莉花と近しくなった勉は、彼女の顔に浮かんだ微かな不快感を見逃さなかった。
……というか、日頃から彼女と親しいはずの周囲の人間が誰も気づいていないことの方が不思議で仕方がなかった。
「まぁまぁまぁ、別にいいじゃないの」
俄かに不穏な気配が漂い始めたところに割って入ってきたのは史郎だった。
この男はこういう時にいい仕事をする。これまでに何度も見てきた。
「天草君……まぁ、そうかも、なのかな?」
史郎の口ぶりはいつもと変わらぬ軽妙なもので、誰もが『まぁ、いいか』とスルーした。
茉莉花の顔には、何とも形容しがたい感情が垣間見えたが、勉は気づかないふりをした。
……肌にチクチクと視線を感じた。茉莉花の漆黒の瞳からの圧が強い。
「……ふ~ん。ま、いっか。それじゃ」
「あ、ああ」
立ち去っていく一団の背中を見つめていた史郎がひと言、
「立華さん、めちゃくちゃ怒ってたぞ」
あれはやべー奴。
掠れた声で呟いた。
勉も、まったくの同感だった。
★
『何なの何なの何なの、もう!』
スマートフォンの彼方で茉莉花が昂っている。
ノートの貸し借りだけでなく、シームレスに勉強を進めるために連絡先を交換した。
ず~っとスマホ漬けになるのではないかと危惧していた勉の予想とは裏腹に、茉莉花はかなり節度を守っていた。
昨日までは。
今日は勉が家に帰ってきてアレコレ片付け終わったタイミングを見計らったかのようにメッセージが届き、以後この調子である。
『そんなに怒ることか?』
勉が返信すると、高速で流れていた茉莉花からのメッセージが止まった。
そして振動。通話だ。相手は――茉莉花。直接話がしたいようだ。
とてもではないが断ることはできそうにない。観念してディスプレイをタップした。
『狩谷君!』
「……声が大きい」
『あ! えっと……夜分遅くにごめんなさい』
「今さら過ぎるし別に構わない」
『でも、狩谷君は勉強してるんじゃないの?』
それこそ今さらだとは思ったが、さすがに口に出さない程度の分別はあった。
勉の危機回避スキルは、そこまで低くはない。
「今日の分はもう終わっている」
『そうなの? 私に気を遣ってない?』
言葉に詰まらされる。
嘘はついていない。
予定していたところまでは、すでに片付けている。
いつもならば、ここから予習モードに入るだけで。
――今日ぐらい別に……というのは良くないんだろうがな。
何のかんのと理由を付けてサボれば、それが癖になる。
言われなくてもわかっているが……猛る茉莉花を放ってもおけない。
優先順位を鑑みた結果、今日の勉強はここまでと決めた。
「安心しろ。立華と話す時間ぐらいはどうにでもする」
『え』
「む?」
何気なく放った言葉の先に、沈黙が続いた。
スマホの向こうで茉莉花がどんな顔をしているかはわからない。
勉自身も、自分で自分がどんな顔をしているかはわからない。
『おかしなことを言ってしまっただろうか』と首をかしげていると、穏やかで優しい声が耳朶を打った。
『……ありがと。じゃあ、ちょっと付き合って』
「ああ」
軽く頷いた勉を待っていたのは、怒涛の茉莉花トークだった。
・
・
・
『だいたい狩谷君はすぐに『どうでもいい』とか言うけど、あれ、良くないよ』
「……ああ」
いくら茉莉花の声が耳に心地よいと言っても、限度がある。
時計を見ると、すでに一時間近くノンストップ状態だった。
話題のほとんどは今日の昼休みのニアミスに関わるものばかり。
面と向かって『ガリ勉』呼ばわりされたことを『気にしていない。どうでもいい』と流したら、いきなり茉莉花がキレた。
――話を聞くだけでこんなに疲れるとは……
美声の洪水に理性が押し流されて、思考能力が低下してしまっていた。
話を聞くとカッコつけてしまった手前、勉の方から通話を切るとは言いだせない。
『『ああ』じゃないし!』
「いや、本当にどうでもいい」
『また言った!』
「……」
慌てて口を抑えても、零れた言葉は戻らない。
『ねぇ……狩谷君って、自分のこと嫌いだったりする?』
ハイテンションだった茉莉花の声がいきなりトーンダウン。
前後の脈絡なく話題がいきなり切り替わる。
彼女との会話では割とよくある現象だった。
「む? いきなりなんだ?」
『なんて言ったらいいのかな? 周りの反応なんて『どうでもいい』って思ってるのは嘘じゃなさそうなんだけど、それって本当は周りじゃなくて自分に興味がないんじゃないかなって』
他の人間にどう思われても興味がないのは、自分で自分のことをどうでもいいと思っているから。
自分自身にこだわりがないから、他人に何を言われようとも気にならない。因果が逆になっているのではないか。
茉莉花が躊躇いがちに語った内容は、勉の意識の外側から鋭い一撃を食らわしてくる。
――自分のこと?
『……狩谷君?』
「あ、いや、すまない。考えたことがなかった」
『はぁ!?』
「自分のこと……自分のことか」
スマートフォンを肩と耳の間に挟んで腕を組んだ。
茉莉花に告げた言葉に嘘はない。
これまで勉は自分自身を『好き』とか『嫌い』とか、そんな基準で評価したことがなかった。
なぜなら、意味がないから。否、意味がないと考えていたから。
好きだろうが嫌いだろうが、勉は『狩谷 勉』を辞めることはできない。
――違うのか?
『か、考えたことないって……ダメだよ、それは! 自分のことを思いっきり大好きになって、思いっきり大切にしてあげなきゃ』
「そういうものか?」
『そういうもの!』
断言された。
彼女の強い言葉には、抗いがたい説得力が宿っている。
「立華は自分が好きなのか?」
『当たり前じゃない。私、自分にめっちゃ自信あるし。そうじゃなかったら自撮り写真なんて恥ずかしくて見せられないよ』
「そういうものか?」
『そういうもの!』
胸を張ってふんぞり返る姿が目に浮かぶようだ。
思わず苦笑を漏らしてしまった。
『ちょっと、何がおかしいのよ?』
「すまん。立華に感心していた」
『褒められているように聞こえないんだけど』
「褒めている。そうだな、俺も少し考えてみるか」
『少しって……まぁ、いいか。狩谷君はもっと自分を大事にすること。いいわね!』
「ああ」
言葉の端々から感じられた茉莉花の苛立ちが、いつの間にか消えていた。
ふたりはそのまま通話を続けた。時計に視線を送ることはなくなっていた。
内容は――特にない。日々の授業がどうとか、好きな食べ物がどうとか。
他愛ない会話のひとつひとつが、勉の心に暖かく染み渡っていった。
★
油断があった。
慣れとは恐ろしいものだと、これまでの十六年と少々の人生で痛いほど思い知らされてきたはずなのに。
それでもノートとスマホを介して茉莉花と繋がっているうちに、隙を作ってしまっていたのだろう。
「ねぇ、茉莉花ってガリ勉と付き合ってるの?」
昼休みの教室に、そんな声が響き渡った。
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明日は2話更新予定です。