魔王の手鏡
両親を半年前に交通事故で亡くしたばかりなのに、優しくて大好きな祖母までが心筋梗塞で還らぬ人となった。
祖母も両親も一人っ子で近い親戚も兄弟もいない私は、喪失感を抱えながら田舎の家で通夜、葬儀を執り行い祖母を見送った。
祖母の遺品を整理しながら今後の身の振り方を思案する。
大学在学中に訳あって就活出来なかった私は、両親の死後、年老いてきた祖母と田舎で一緒に暮らすつもりでいた。
でも祖母が亡くなり、田舎で暮らす気力も無くなってしまった。大事な人を立て続けに亡くし、何もかも失った気がして、祖母が普段からよく着ていた着物を前に涙が溢れてきた。
一頻り泣いて着物をしまい、整理するのはもっと落ち着いてからにしようと、祖母が大切にしていた古い手鏡を鏡台の引き出しから取り出した。
それは洋風な装飾が施された美しい手鏡で、子供の頃に大切なものだと見せてもらってから、祖母の家に来る度に手に取り眺めていた。祖母は嬉々として手鏡を眺める私に、大きくなったら私にあげると約束してくれていた。
まさか形見になるなんて……。
鏡面に繋がる繊細な細工を眺め指でなぞると、泣き腫らした顔が涙で滲んで鏡が歪む。指先で涙を拭ってもぼやけて写る私の顔は、白い肌に赤い瞳の美しい男性に変わった。
「え?何これ?」
手鏡を握りしめ食い入るように見ながら言葉を発すると、手鏡の男性の口元が動き出す。
『カナエじゃないのか?』
「きゃあっ!!」
思わず手鏡を放り投げた。
どこから声がしたの?手鏡から?あり得ない現象に混乱する。
男性の声は続く。
『お前は誰だ?カナエはどうした?』
"カナエ"と祖母の名前を口にする男性に得体の知れない恐怖と、祖母を知る人だということに複雑な感情が沸いた。
恐る恐る手鏡に手を伸ばし観察する。スマホみたいなものかもしれないなんて思ったけど、手鏡に間違いなかった。
不思議な手鏡に映る姿は人と変わらない。長い黒髪に彫りが深い端正な顔立ちで、異様なのは赤く光る瞳だけの美しい男性だ。
震える声で応えた。
「……私は、カナエの孫の鈴音です。……あなたは…?」
『カナエが付けてくれた名ならある。奏司だ。そうか、お前が鈴音か。』
祖母が付けた名前?鏡に映るこの人は何者なの?私のことも知ってるの?疑問ばかりが浮かんでくる。
『カナエはどうしたんだ。その手鏡で私とお前が通じてるということはカナエから譲り受けたのか?』
思考が纏まらないのに質問される。黙ってるわけにもいかなくて応えた。
「祖母は、3日前に亡くなりました。」
『何!?死んだ?だからあれ程言ったのに………。美しく聡明な人間だったのに儚いものだな……。』
人間……?
やっぱりこの赤い瞳の男性は人間じゃない?
恐る恐る尋ねてみた。
「あなたは一体何者なんですか?」
人に向けて尋ねる言葉としては失礼な言い回しだと思いながら、そう聞くしかなかった。
『私か?カナエは魔王と言っていたな。』
「魔、王……?」
冗談を言ってる表情じゃない。当たり前だと居丈高に振る舞う。
彼が魔王ならこの不思議な手鏡も分からないでもない。けど、魔王?悪魔とかそういう?魔王がおばあちゃんの知り合い?訳が分からなくなってきた。
『今、一人か?』
眉間に皺を寄せて考え込んでると、ふいに訊かれた。
「……はい。」
『よし、鏡面を上にして床に置いてくれ。』
言われたとおりに手鏡を置くと黒い靄が辺りを包み、背が高く黒装束に包まれ、鏡ごしに見ても暗くて分からなかったけど………頭から羊のような立派な角が生えた男性が姿を現した。
「きゃあーー!!」
突然姿を現した魔王に悲鳴をあげ、もがきながら這って逃げようとした。
「そんなに驚くなよ。さっきまで話していたじゃないか。ほら、此方に来い。」
グンッと身体が引っ張られる感覚がして、掴まれてるわけでも抱えられてるわけでもないのに、一瞬にして重力が無くなったように宙に浮いた。
「ひぃあっ!」
喉の奥から変な声が出て、私は魔王の腕の中に連れていかれた。
「なっ、何するんですか!離して!!」
もがくけど、魔王に肩と腰に腕を回されてびくともしない。怖い。男性に自由を奪われることに恐怖する。
「暴れずに落ち着け。あんまりうるさいと連れて帰るぞ。」
連れて帰ると言われて、ワイドショーで取り上げられる映像が浮かぶ。
《22歳女性、相次ぐ肉親の死から行方不明に!!》《遺産を手にして消えた女性は今何処に!?》
世間をお騒がせしたくない!!連れていかれたくないので大人しくする。
「どうした?震えてるじゃないか。寒いのか?」
ギュッと抱きしめられる。検討違いにも程がある。
「違っ、……違います。………あなたが怖いんです。」
「私の何が怖いんだ?見た目は人間と変わらないだろ?」
頭から角が出てるけど?
「見た目の問題……もありますが、……男性だし、魔王、なんでしょう?何されるか分からないから怖いんです。」
「魔王の地位は返上したから、元魔王だな。」
魔王は私の身体を離して床に置いたままの手鏡を手に取り、懐かしそうに語りだした。
「……何時だったか、カナエがこの手鏡を骨董屋で見かけてな、どうしても気になって買ったそうだ。」
手鏡を撫でながら続ける。
「これは私と繋がっていて、自由に人間界に来るために置いていたんだ。ちょうど出た時にカナエに見付かって……あの時のカナエの驚いた顔と言ったらなぁ。」
祖母を思い出して笑いだした。
「でも驚いたのは最初だけで、落ち着きを取り戻すと矢継ぎ早に質問してきて、私に名前まで付けるんだ!」
祖母は明るく、優しくて礼儀に厳しい人だった。いつも動いていてゆっくり座ってるのは私と遊んでくれる時や、じっくりと話を訊いてくれる時だけだった。自分に一番厳しい人だったと思う。
好奇心旺盛なところもあって、友人が多くて習い事や趣味のサークル活動にも勤しんでいた。
大人しいと形容される私の憧れだった。
この魔王も快活な祖母に好意を寄せていたんだろうな。私の相槌も気にせずに、"祖母を知る人物"である私に思い出を嬉々として語っているもの。
魔王の好意が祖母に向けられてることに安堵する。
「私の魔法でもっと長く生きられたのにな。カナエは人間は寿命があるからいいんだと、私と共に生きてくれなかった。」
悲しそうに独り言のように呟いて魔王は黙ってしまった。
祖母に好意を寄せて、その死を悲しむ魔王にすっかり絆され提案した。
「……人間は故人を偲んでその死を見送るものです。おばあちゃんの話をお互いにして、見送りましょう。私の思い出話も聞いてくれますか?」
魔王も私も祖母を失い一人になってしまったんだ。
心の傷を慰め合うのに丁度いい相手かもしれない。
リビングに場所を移動して葬儀後の宴会で残ったお酒とちょっとしたツマミを用意したところでふと疑問が湧いた。
「魔王さんは人間の食べ物を食べられるんですか?」
「ああ。カナエの手料理はなんでも旨かった。」
「おばあちゃんみたいに上手に作れませんけど、料理はたくさん教えてもらいました。お口に合うといいんですが……。」
「鈴音の料理も楽しみだ。いただこう。」
初めて名前を呼ばれた。
魔王はよく食べ、よく飲んだ。私はツマミが少なくなると新たに拵え、美味しいと食べてくれる魔王と語り合った。
いつの間にか話は祖母のことだけでなく私の身の上話や魔王の世界の話になった。
魔王は戦いに勝ち続けて頂点に上り詰めたけど、支配することには興味がなくて人間の世界に入り浸るようになった。
多種多様な人間の生きざまは、魔王には新鮮で多くの人々と関わりを持った。
この世界では角を隠し目も髪の色も変えて、見た目も行動も人間らしく振る舞うけど、魔法でなんでも出来てしまう魔王はお金持ちでイケメンで、数多くの美女が彼の虜になった。
ただ唯一、祖父が大好きだった祖母だけは最期まで友人だったそうだ。
「魔王さんはおばあちゃんが好きだったんですね。」
「カナエは魅力的だからな。……ところで鈴音は私のことをいつまで魔王と呼ぶんだ?カナエが付けてくれた名前でもいいが、鈴音に名前を付けてほしい。魔王以外の呼び名がいい。」
なんとも可愛らしいことを言う魔王にすっかり酔っ払っている私はご機嫌になった。
漆黒の髪に赤い瞳。羊のような角を生やした異形の魔王。なんて名前が似合うだろう?
悪魔と云えばルシファー?マモン?………そういう直接的な名前は違う気がする。
日本人顔ではないし、手鏡から出てきたし……。一つ思い浮かんだ名を口にしてみる。
「ミラージュはどうですか?」
日本人には見えない神秘的な風貌の、手鏡から出てきた彼にミラージュという名前はピッタリかもしれない。
「ふむ。ミラージュか。私に合ってるいい呼び名だ。」
黒い靄が立ち込め姿が消えたかと思うと、三人掛けソファに座る私の隣に身体をピタリと寄せて現れた。
「キャ!近いです!」
逃げようとすると腰に手を回された。
「いいじゃないか。物理的に距離が近付くと心の距離も近くなるだろう?」
愉快そうに笑い、からかってくる魔王は人間っぽいのに掴み所のない蜃気楼だわ。
私は男性が怖いレベルで苦手なのに、人間ではない彼の見た目のせいか、はたまた名前を付けたことでペット感覚になったのか、男性に対する恐怖心はミラージュさんには湧かなくなっていた。
距離が近くなってお酒も進み、旧知の友のように親密になっていった。
お酒が切れたので用意しようと立ち上がるとふらついて、ミラージュさんが長い腕で支えて抱き止めてくれた。
彼の広い胸に収まりドキリと胸が疼いた。
「あ、ごめんなさい。」
謝って離れようとするけど、ミラージュさんは腕の力を強めた。
「あ、あの……。」
「ん……もう少しこのままで……。人は暖かいな。」
ドキドキが止まらない。ミラージュさんは何を思って抱きしめるの?おばあちゃんの代わり?
広い胸に顔を埋めて恥ずかしさを隠した。
頭や背中を撫で、ミラージュさんは身体を離し私の顔を覗き込んだ。
「真っ赤になってるな。」
「酔ってるだけです!!」
恥ずかしくて顔が見れなくて両手で顔を覆うと、子供をあやすように頭を撫でられた。
「もう、今日はおしまいです。寝ますから帰ってください。」
決まりが悪くて片付け始める私をよそに、ミラージュさんがパチンと指を鳴らすと、汚れた皿や空き瓶が消えてしまった。
「ふえ!?」
「片付いたな。さ、寝ようか。」
そう言ってリビングを出ようとする。
「ちょっ!ちょっと待って!お皿とか、え?何処にいったんですか?」
「ちゃんと綺麗にして戻しておいた。私は便利だろう?まあ、カナエは怒ったけどな。そんなことしたら人間はダメになると言ってな。」
「一瞬で片付くのは楽だけど、それに頼っていたらだらけてしまいます。私もおばあちゃんの意見に賛成です。」
ミラージュさんは嬉しそうに私の頭を撫でる。
「鈴音はそう言うと思った。人間の血の繋がりは面白いな。」
頭を撫でる手を背中に回し、歩き出す。
「ミラージュさん?!手が……何するんですか。」
私も歩き出すしかなくて、抗議を言葉で表す。
「なんだ?寝るんだろ?」
「寝ますけど……ミラージュさんは帰ってくださいよ。」
「私もここで寝る。寂しい者同士一緒に寝たらいいじゃないか。」
背中に回した手に力が入り抱きしめられる。
「鈴音は私が嫌いか?」
優しい声が耳元で響く。甘く低い声は私を魅了するけど、精一杯腕を押して拒否した。
「好きか嫌いかなんてまだわかりません。一緒に寝るなんてダメです!」
この魔王は本当に何なの?からかって私を翻弄して楽しんでる。
「私は巧いんだよ?」
カーッと赤面して私は叫んだ。
「何言ってるの!!帰ってーー!!!」
私は大人しい筈なのに、出したことない大声を張り上げて色欲にまみれた魔王を帰らせた。
勝手に来られたら敵わないから手鏡を布で包んで袋にいれてタンスの奥に突っ込んだ。
侵入経路はこれで絶てた筈。………でも、明日の朝になったら手鏡は出しておこう。掴み所のないミラージュさんともっと話をしたい。
好きとは違う、ただ興味を持っただけと心の中で呟いてベッドに潜り込んだ。
ーーーーー
翌朝、目が覚めるとミラージュさんが隣で寝ていた。
飛び起きて声にならない悲鳴をあげた。
「んん、鈴音、おはよう。」
「ミ、ミ、ミラージュさんっ!!おはようじゃなっ!!なんで居るんですか!?」
「ん?会いたかったから?」
ニコリと笑って手を伸ばしてくるので、ベッドの上を這って逃げた。
「鈴音はつれないな。」
苦笑いして欠伸をするミラージュさんに背を向け慌てて部屋を出た。
心臓が爆音を立てて治まらなくて、部屋の前で深呼吸する。
手鏡は閉まっておいたのに他に出入りする場所でもあるの?勝手に隣で寝るなんてどういうつもり?
ミラージュさんが何を考えているのかわからなくて、戸惑うだけだった。
顔を洗って朝食を作り出すとミラージュさんがリビングに入ってきた。
「出汁のいい匂いがする。朝はやはりご飯と味噌汁だよな。」
ニコニコ笑ってダイニングチェアに座って待つミラージュさんに呆れる。
「………突然来るのはやめてください。しかも、横で寝てるなんて……私は未婚女性ですよ。」
「そんな固いこと言うなよ。多くの人間はもっと奔放な恋愛を楽しんでるよ。鈴音、恋をしよう。」
「恋をしようって……、適当なこと言って誰でもいいんでしょう。私はミラージュさんみたいな軽薄な人とは恋をしません。」
怒りながらご飯を作ったら美味しくならない気がして手を止めた。
コーヒーを注ぎミラージュさんに出してミルクと砂糖の数を聞く。
「誰でもいいわけないし、私は軽薄じゃないよ。鈴音、怒った顔をしてても私にコーヒーを淹れてくれるところが好きだよ。」
頬杖をついて優しい目で見つめられる。突然好きだなんて言われ動揺して、私の分も注ごうと持っていたコーヒーサーバーが揺れて中身を溢してしまった。
「あっつっ!」
「鈴音!大丈夫か!!」
優しく手を包まれるとじんじんとした痛みは引いて鼓動は高まり、溢れたコーヒーは跡形もなく消えた。
「魔法を使ったが緊急事態だ。許してくれ。」
「いえ、……。」
心配そうな顔をして魔法を使ったことを詫びるミラージュさんに胸が締め付けられる。
私は男性が怖い筈なのにミラージュさんはどうして平気なんだろう。ミラージュさんからは恐怖を感じない。寧ろ暖かくて私を労る気持ちが伝わってくる。
勝手に上がりこんで、楽しそうにからかってくるかと思えば、優しく心配そうに私の手を擦って……擦りすぎじゃない?
慌てて手を引いてミラージュさんから離れた。
「もう大丈夫です!ありがとうございましたっ!」
「んーー、怒った顔も可愛いけど、笑顔が見たいな。」
「そうやってすぐ軽口を叩くからダメなんです!」
ミラージュさんが触れた手を擦りながら鼓動を抑える。こんなにドキドキしてるのは女子校育ちで、恋愛経験が皆無だからで、ミラージュさんが好きとか………じゃない。多分。
そもそも私は男性恐怖症だ。ストーカーされていた。
でも、ミラージュさんはあの人とは違う。大声を張り上げないし、私が嫌がることはやめてくれる。
あの人は自分の要求ばかり押し付けて、私の話を少しも聞いてくれなかった。ミラージュさんは勝手なところもあるけど、私を尊重してくれるし、ちゃんと聞いてくれる。
抱きしめられた時もドキドキ胸が高鳴るだけで、怖くなかったし、少しも嫌じゃなかった。
父親以外の男性とこんなに長い時間話したこともないし、同じベッドで寝たことも………目が覚めた瞬間のミラージュさんの寝顔を思い出して赤面する。
「顔が赤いよ?どうした?」
「な、何でもないです!!ご飯、作ります!」
バタバタとキッチンに向かい朝食を作り、ミラージュさんと食べた。
食べながらも会話は弾む。魔界の話は面白いし、何より彼は話が上手なんだ。
「鈴音はこれから先、どうするんだ?」
食後のコーヒーを飲みながらふいに訊かれた。
「将来、ですよね、……。迷ってます。」
生まれ育った都会の喧騒は私に合わない。おばあちゃんが居たら田舎で住もうとしただろう。友人が多く住む地元を離れ、知り合いのいない田舎で全てを新しく始めることに躊躇してしまう。でも……私は地元を離れなきゃいけない。
「おばあちゃんが生きてたらここで暮らしたかったです。でも一人になっちゃったから……。」
「……じゃあ、私と暮らすのはどうだい?」
「……え?ミラージュさんと暮らす??」
「そう。場所は何処だっていい。此処でも、鈴音の地元でも、それこそ魔界でもな。私は鈴音と一緒に暮らしたい。 」
まっすぐに真剣な眼差しを向けられ目をそらせなかった。
「一緒に暮らすなんて、私たちは昨日知り合ったばかりで、恋人でも何でもありません。からかうのも程々に……。」
身を乗り出したミラージュさんに手を握られ、手の甲にキスされた。
「な、何を!!」
「私は真剣だよ?からかってなんてない。鈴音ともっと一緒に居たいんだ。」
優しい瞳は私だけを映して、愛を囁く。
「言葉を交わし、知れば知るほど鈴音への愛情が溢れてくるんだ。愛してる。私と同じ時を生きてくれないか?」
握られた手からミラージュさんの温もりと愛情が伝わってくる。
愛してるなんて初めて言われた。
恥ずかしくて顔を見ていられない。俯いて目をそらすとテーブルを回り込んでミラージュさんが横に立った。
繋いだ手が離れ、頬を温かい手のひらで包まれる。
鼓動は大きく早く打ち、壊れてしまいそう。
「鈴音、嫌なら私を拒絶してくれ。そうしたら二度と姿を現さない。」
「!!……二度と、会えないのは……ちょっと………嫌です。ミラージュさんは意地悪だけど、一緒に居て楽しいし、もっと、話したいです。」
額と額がくっつく。近いっ近いっ近いっっ!!!逃げようにも頬を両手で挟まれて上手く動けない。ミラージュさんの広い胸を必死で押してもビクともしない。
「あ、あの、ミラージュさんっ!」
頬から身体に手が回り込み、抱きしめられる。
「私に抱きしめられるのは嫌?」
パニックでもう、よくわからない。
「も、あの、……嫌じゃない、けど、わかんない……です。」
「嫌じゃないってことは抱きしめても良いってことだよな?鈴音はウブですごく可愛い。ずっと守ってやるからな。」
ギュッと抱きしめられ、ドキドキしながらも腕の中は心地よくて……私はミラージュさんを好きになってるのかもしれない。でも、よくわからない。寂しくて、誰かに守ってもらいたくて好きと勘違いしてるのかもしれないし、はっきりと好きだと胸を張って言えるくらいじゃなきゃ、人間ではない彼と一緒に居られない。
深呼吸して心を落ち着かせて、ミラージュさんを見上げた。
「ミラージュさん、私、色々とやらなきゃいけないことがあるし、今は寂しくて平常心じゃないから、ミラージュさんのことをちゃんと考えられるようになるまで待って下さい。お願いします。」
「ん。鈴音がそうしたいなら私は待つよ。好きになってもらえるように頑張るだけさ。」
そう言って額に口付けを落とされた。
「ちょ、キスはダメです!」
「唇へのキスは鈴音が好きになってくれるまで我慢するけど、頬や額のキスは挨拶だろ?鈴音が可愛くて愛しくて堪らないんだ。そのくらいは許してくれないか?」
眉をハの字にして懇願するミラージュさんに押し負けて挨拶のキスのみ許すことになった。
《ピンポーン ピンポーン》
チャイム鳴り、玄関のドアを忙しく叩く音が聞こえる。
一瞬で身体が強張る。まさか……。
「鈴音?」
「ミ、ミラージュさん……。」
身体が震える。あの人だ……。どうして此処が分かったの?監視されてるんじゃないの?
《ドン!ドン!ドン!ドン!》
玄関のドアを叩く音は強く激しくなる。
身体がビクついて、震えが止まらない。
「鈴音、思考を読んでもいいか?ドアを叩くのは誰か、心当たりが有るんだろ?」
恐怖に支配され、ちゃんと説明出来そうになくて頷いた。
「怖いだろうけど少しそいつのことを考えてくれ。……よし、分かった。もういいよ。」
そう言ってミラージュさんは姿を変えた。長い黒髪は短くなり、赤い瞳は黒く変わる。立派な角も消え、外国人のとんでもなく美しい人の姿に変わった。
「此処で待ってるか?話を付けてくる。」
「イヤ、傍に、居たいです。」
優しく微笑むミラージュさんと手を繋いで玄関に向かった。
鍵を開けるや否や扉が開き、チェーンで止まった。
「何チェーンかけてんだ。開けろよ。」
ドスの効いた低い声を出す男に心臓がギュッと握りつぶされる感覚に陥る。どんどん手足が冷たくなって血の気が引いていく。やっぱりあの人だ……。
ミラージュさんがキュッと繋いだ手を握ってくれた。
「どなたです?乱暴にドアを叩いて、警察呼びますよ?」
ミラージュさんがあの人に声をかける。
「え!?誰?え?あ、鈴音は?」
「私の恋人の名前を気安く呼ばないでもらえますか?不愉快です。」
「え?恋、人、です、か?」
「ええ、結婚を前提とした恋人ですが、何か?」
ミラージュさんの威圧的な言葉と、少し開いたドアの隙間から見える風貌に弱腰になったのか、話す言葉はおどおどした、か細い小さな声に変わる。
ドアを開けた時の低い声は上擦り動揺を隠せないでいる人が、ストーカーを繰り返したあの人と思えなかった。
「え、と、でも、俺と、鈴音、さ、んは……付き、あって、ますし……、浮気、ですよね?」
「鈴音、付き合ってたのか?」
振り返るミラージュさんを見上げ首を横に大きく何度も振る。
「付き合ってません!!付きまとわれてたんです!!」
この人の頭の中では私と付き合ってることにショックを受けた。落とし物を拾って手渡しただけで付きまとわれ、素っ気なくすると激昂され、恐怖で一時期大学に通うことが出来なくなったのに。
男性が怖くなって就活しようにも面接が怖くて在学中は何も出来なくて、両親とおばあちゃんに心配と迷惑をいっぱいかけたのに。どこをどうしたら付き合ってると思えるの?
「鈴音は付き合ってないと言ってますよ?あなたが思い込んでいただけでは?」
「そんなことねえだろ!鈴音!!俺のこと好きだよなあ!!」
「嫌い嫌い!!大嫌い!!!」
「ああ?このクソビッチ!ふざけんじゃねえ!!」
ガンガンとドアを蹴る音が鼓膜に突き刺さる。怖い、私には威圧的な態度を取るあの人が怖くて震える。
ミラージュさんが優しく私を抱きしめて、背中を擦ってくれる。
「私が居る。大丈夫だ。あいつに魔法を使うよ。今後誰も傷付けないようにするだけで、あいつにとっても幸せになる魔法をかける。私に任せてくれるかい?」
広い胸に顔を埋めて泣きじゃくる私はコクコクと首を縦に振った。
「ただ、鈴音を怖い目に合わせた罰は受けてもらうよ。私は腹が立っているんだ。」
「うぅ、ヒック、ミラージュ、さん、懲らし、めて。怖い、のは、私、だけにして。」
ミラージュさんに助けてもらえる私はきっともう大丈夫。だけど、犯罪は繰り返されることが多い。私以外の人が同じように怖い思いをするのは嫌だった。
「うん。鈴音は優しいね。あいつには罰を与えるけど、それ以外は皆幸せになるようにしよう。さ、少しの間私にしがみついていて。音と視界を塞ぐよ。鈴音はあいつの声も姿も要らないだろ?」
「はい。ヒック、見たくも、聞きたく、も、ないです。」
「ん。大丈夫だからね。私を信用して。音と光を消すよ。鈴音、愛してるよ。」
ミラージュさんの愛情に溢れた囁き声のあと、何も聞こえなくなった。
目を開いても真っ暗だろう。私はミラージュさんの胸に顔を埋めて目を閉じていた。温かいミラージュさんの腕の中に居る。それだけで私は安心していた。
ほんの1、2分だと思う。ミラージュさんの優しい声が聞こえた。
「終わったよ。あいつはもうここにいない。目を開けて。」
顔を上げるといつもの赤い瞳が優しい光を灯して私を見つめていた。
「ミラージュさん!!」
私はミラージュさんの首の後ろに手を回して抱きついた。ミラージュさんは膝を折り強く私を抱きしめてくれた。
「ミラージュさん!ミラージュさん!!」
彼の名前を何度も呼び、溢れる涙を堪えることなく泣きじゃくった。
「怖かったね。もう大丈夫。あいつは二度と鈴音の前に現れないよ。」
優しく、でも力強く、私をしっかりと抱きしめて頭を撫でてくれる。
こんなに頼りがいがあって、私を愛してくれて、優しく、暖かい、愛しい人はミラージュさんだけだ。勘違いでもいい。私はこの人間ではない、魔王が好きだ。ずっと一緒にいたい。
「ごめんなさい、ありがとう。ミラージュさん、大好き。」
「うん、ん?大好き?本当に?」
ミラージュさんが驚いた顔をして私の顔を覗き込む。
「好き、大好きです。私、ミラージュさんと一緒に居たいです。」
「鈴音、これは吊り橋効果ってやつだ。恐怖の中で私しか頼れるものがなくてそう勘違いしてるだけだ。」
「それもあるかもしれないけど、そうやって私のことを真っ先に考えてくれるミラージュさんが好きなんです。優しくて頼りがいがあって私を大事にしてくれて、男性が怖い筈なのにミラージュさんは平気なんです。抱きしめられると嬉しいんです。あなたをもっと知りたいし、私のことも知ってほしい。この気持ちは好きってことでしょう?」
私の言葉に戸惑いながらも口元を綻ばせ、言葉を探すように視線を泳がせる。
「私は元が付くが魔王だ。人間ではない。それでもいいのか?」
「そんなことは最初から分かってます。私はミラージュさんが好きなんです。人間じゃないとかどうでもいいんです。」
頬に温かい手が添えられる。
「本当に私を好きだと思ってくれてるんだね。」
「はい。ミラージュさんが大好きです。愛してます。」
顔が近づく。目を閉じて彼を待つ。唇と唇が重なった。
ーーーーー
甘い雰囲気に酔いしれていると、警察が訪ねてきた。朝から騒動を起こしたから近所の人が通報したんだろう。
私が此処に住むかもしれないから警察にストーカー相談を祖母がしてくれていたようで、聴取はスムーズに済み、騒動を起こしたことをご近所に詫びて回った。………こんなことになったから田舎に住めなくなったな……とため息をついた。
二人の今後について話し合う。
私もミラージュさんも、一緒にいられるなら何処に住んでも良かった。田舎の祖母の家は魅力的だけど、騒動を起こしたし、外国人にしか見えないミラージュさんは目立つから私の地元に帰ることにした。
ミラージュさんは姿を変えられるけど、日本人男性の姿に恐怖心を感じてしまうから、私と二人だけの時は角も赤い瞳もそのままで、外に出るときは角を隠して瞳を黒くすることにした。
今後のことも決まり、ミラージュさんにあの人がどうなったか聞いた。私はそれを知っておかなければいけない。
「……あいつの話は聞きたくないんじゃないか?」
「好んで聞きたい訳じゃないです。でも、私は知っていなきゃダメだと思うんです。」
「鈴音の真面目で責任感が強いところが好きだよ。辛かったらいつでもやめるからね。」
そう言ってミラージュさんは語りだした。
あの人の興味が人に向かないように、植物しか愛せなくなるよう魔法をかけたそうだ。しかも、自分で購入した植物だけに愛情を感じるようにしたそうで、植物を買うことがなければ一生何も愛せないらしい。
罰の方はというと、私が感じた恐怖をあの人にも味わせたかったそうで、男性を惹き付ける魔法を、同性愛者が集う場所に着いたら発動するようにかけて、そこに向かわせたみたい。
………それって、大丈夫なの?
「どうだろうな?危険が迫ったら助けてやってもいいが、気は進まないな。」
「………あまり、酷いことにならないように、お願いします。」
「ある程度懲らしめたら解放してやることにするよ。鈴音の優しさが付け入れられるんだろうな。これからは私が守るから問題ないけどな。」
柔らかな笑顔を浮かべて握った手にキスを落とす。
このくすぐったい幸せをあの人は感じることを出来ないんだろうな。
「あの人はもう愛し合うことは出来ないんですね。」
「あいつの愛情は一方的なんだ。他者に応えてもらいたいわけじゃない。だから植物に愛情を向けるだけでいいんだよ。それで幸せなんだ。」
「私は、ミラージュさんと愛し合うことが出来て幸せです。大好きです。」
「私もだよ。生涯鈴音だけを愛することを誓う。愛してるよ。」
見つめ合い、言葉を交わし、愛を語り合う。それはとても幸せなことで、かけがえのないことだ。
ミラージュさんと生きていこう。長い時を二人で紡いでいこう。二人でならどんなことでもきっと乗り越えていける。
柔らかな笑顔を浮かべて愛しそうに私を見つめるミラージュさんが頬を撫でる。
私は目を閉じ、重なる唇に酔いしれた。
読んでいただきありがとうございます。