0話 「逃亡」
昼過ぎになって空を厚い雲が覆い始めたが、まだ雨が降る気配は無い。出窓から見る空に今晩は星空が見えない、とセナが空を見上げつつ残念に思った時、砦への侵入者を告げる鈴の音が鳴り響いた。
「―――セナ! 無事か!? 」
部屋に飛び込んできた少年が知った顔だったため、セナは隠れ小部屋からそろりと顔を出した。
「セイっ? 外で一体何が――」
「盗賊だッ。逃げるぞ、つかまれっ」
彼女に駆け寄った彼が差し出した手を、セナがつかまえると同時に二人は走り出した。
二人は屋敷の裏手にある森に逃げ込んだ。木々が密集するここは、昼間でも薄暗く大人ですら奥には行かない場所だ。しかしここを普段の遊び場にしていた二人は、森の奥や、夜でも目的場所に辿り着けるほどよく知っていた。今の黄昏時は二人にとって灯りの要らない時間でもある。だが森に入ったのを見られたらしく、セイが追跡者がいるのに気づいた。セイは岩穴に辿り着くとセナに言った。
「追手を少し足止めしてくるから、ここで耳をふさいで隠れてて。少なくとも音が聞こえる間は動いてはダメだ」
セナは走りすぎて頷くので精一杯だった。それでも言われたとおりにするのを見て、セイは安心させるように一度微笑み、岩穴から出て行ってしまった。
(それにしても遅いわ……。大きな音はもうしないし、様子を見に行こうかしら)
しかし予想よりもセイの帰りが遅い。時間がたつにつれ、不安が波のように押し寄せる。セナは岩穴からそろりと顔を出し耳を澄ます。しかし、風は葉擦れの音のみを運んでくる。動物の気配すら無く、更に不安が募る。岩穴から出て、大きな音がしていた方へと震える足に力を込めて向かう。そしてセナは息を吞んだ。
何本かの木が切り倒され、
あたりには強い鉄さびの臭いが漂う。
十数名の大人が地に倒れ、
様々な武器が持ち主の手を離れ、落ちている。
元々薄暗い森の中
倒れたモノが黒い影で浮かび上がる
黒と灰色
その二色のみの視界に
白い輝きがあった。
「――――――セ、イ? 」
力が抜けて尻餅をついた彼女は、瞬くことも出来ずに答えを求めて二つの音をこぼす。こぼした音はとても小さくて、でも音の無い静けさの中で相手に届けるには十分だった。
ただ一人、セナに背を向けて立っているひとが振り返る。
それがセナにはひどくゆっくりに見えた。
白銀の頭が動き、鮮やかな赤の瞳がセナを捉える。
その瞳が驚きで見開かれると同時に、彼はセナに駆け寄ってきた。
「セナ! どうしたっ。怪我でもしたのか?! 」
「けが、無い、けど。動け、ない」
首を振りつつ答える。まだ頭が真っ白でうまく言葉が紡げない。首は動いたけれど他には全く力が入らない。
その時、一つの黒い影が動いた。
「―――よくもセイのくせにっ」
「セイっ」
音で気づいた彼が影と向き合うのと、彼女の悲鳴は同時で。次の瞬間、再び影は地に斃れた。立ち上がれない彼女の目線はいつもよりも低くて、何が起きたのか見ることはなかった。けれど再び膝をついてセナと目線を合わせてくれた彼を見て、彼女は凍りついてしまう。
見つけてしまったのだ
さらりと流れる髪が不自然に固まっているのを。
服に鉄さびの臭いがするシミがあるのを。
そして、
白い頬に赤い滴が飛んでいるのを
それらと、黒い影達が意味するものに気付いてしまった。
「セナ? 」
答えぬ彼女を心配して、彼は手を伸ばし彼女の左手に触ろうとした時、
「―――ッ! 触らないでっ」
反射的に立ち上がり、左手を右手で包みつつ彼と距離を取る。立ち上がると目の奥から涙が溢れて止まらなくなった。
どうして彼を恐いと思うのかわからない。
彼はいつもセナに優しくて、今も心配してくれているのがわかるのに。
どうして彼の手が冷たいと思ったのかわからない。
寒さにこごえるセナの手を、包んで温めてくれた彼の暖かい手を誰よりも知っているのに。
「セイ、」
どうして
どうして
私を殺さないの?
貴男を知る生者は
もう、私だけなのに
「セイ」
ぼろぼろ涙を落として泣く少女は動けない
「セナ」
膝をつき、しゃがんだ姿勢から彼は首だけを動かし、彼女を見上げる。
「な、に」
「ありがとう、俺に夢のような時間をくれて」
そう言いつつ彼は笑みを浮かべる。でもセナにはそれが彼が泣くのを堪えているように見えた。
「どうして、セイが泣くの? 」
彼が泣くのを止めたくて一歩彼に近づく。残りは一瞬で彼の方が詰めてきた。背丈があまり変わらないので立つと自然と目線が合う。
「ごめん、触るね」
そう言って額を合わせると彼は目を閉じる。いつもと変わらぬ彼の行動に恐怖は感じず、いつの間にか涙も止まっていた。
「セイ、何かあったの? 」
「…………うん。セナ、」
「なに?」
「俺はたくさんセナから貰ったのに一つしか返せないんだ」
「……? 何かあげたっけ?」
「幸せな時間だったよ。俺にくれる人は他にいなかったんだ。でも、―――」
「?」
「睡って『セナ』。今は夢だ。だから目覚めた時に君は、『忘れて』」
窓からさし込む朝日に私は目を覚ます。上体を起こし腕を伸ばして、薄緑色の毛織の遮光カーテンを開ける。白い刺繡入りのカーテンにも手を伸ばしたら、朝焼けの光が眩しくて、思わず目を細めた。
「何か夢を見た気がするけど……覚えていないし、まあいっか」
両手を天井に向けて伸ばしてからベットから降りる。起き上がり朝の準備を始めると
「サラ! 起きてる? 朝食出来たよ~」
「ありがと! 今行くね!」