走れタイガ
タイガは恐怖した。
必ずかの冷酷無比な教官を得心させねばならぬと決意した。大河には魔導が分からぬ。大河はただの学生である。海辺に佇み、空を見上げてのんびり暮らしてきた。けれども自分の限界には、人一倍敏感であった。今日未明、タイガは床を出て、教官の檄を受け止め、矛を躱し、拳を防いで、十刻をかけて魔導の習得に勤しんでいた。今の大河には家族も友も無い。同郷のもの無い。ただ冷酷で、鉄仮面な教官の個別指導を受ける日々であった。
―――
(冗談じゃない。高位の魔の者を捕らえれば帰れるかもしれないだって?!それは一体何百年後の事なんだ!)
「ふっ」スイロンの繰り出す矛を躱しながら大河は考えていた。
(このままでは、魔導について何の成果も得られないまま、1ヶ月が立ってしまう。日々睡眠時間を減らされて追加で訓練をしているというのに。手を抜くのが戦場での死なら、今の生活は数週間以内の過労死だ!)
大河は運動が苦手ではない。体術も武器の扱いも未だ初歩的なレベルではあるが、順調に腕を上げていた。この世界の歴史や世界情勢も概ね把握したのだ。勇者の力は特殊であるから、遅いのか早いのか分からないが成長はしているようだ。
しかし、魔導の習得が一向に進まなかった。
魔導を行使する上で最初に大事なのは、魔導の元となる魔素を知覚することである。これが出来ていなかったのだ。したがって、その先の一切は知識として聞き及んでいるのみで、全くもって未知の領域である。
(俺の異世界生活、詰んだ。)
大河の心は折れかかっていた。せめて彼の体術や武器の扱いが人並みはずれているとか、勇者の力が並外れて規格外であるとかであれば、いっそ魔導の習得など必要なかったかもしれない。
しかしながら、彼の体術と武技は人並みだった。悪くはないのだ、ただそれだけでは、他の欠点を補うことは出来ないのである。 そして頼みの綱、彼の勇者としてのアイデンティティであるその力がさらに彼を苦しめた。
今彼の力で出来ること。それは、彼が一切身動きできなくなることである。当然その間攻撃をすることはできない。感覚は機能しているようだが、反射すら起こらずただただその場に立ち尽くす。効果時間は不明である。
唯一評価できるのは、効果時間中、大抵の攻撃を無効化してくれている事である。ここで重要なのは『大抵の攻撃』というところである。
この能力、どうやら打撃も斬撃も効かない。火で炙っても本人は燃えないし火傷もしない。ただ抱えれば持ち上げられるし、そのまま海や川に沈めたら溺死してしまう。ちなみにこれを試す過程で彼は地獄を見た、
そんなわけで、一番あてにしていた勇者の力がよく分からないままなので、彼の戦闘力向上には魔導の習得が必要不可欠であったのである。
「正直なところを申し上げますと、ここまで飲み込みの悪い生徒を持ったのは人生で初めての経験ですね。」いつだったか夕食を食べている時のスイロンの言葉は彼の自尊心をズタボロにした。
「もうやだ、帰りたい。」
「帰るのは構いませんが、まずはご自分の身を守る実力を身に付けることが先決ですね。」
ドスッ と鈍い音がする。スイロンの拳が大河の腹にめり込んだ音だ。
「ぐっ、こはっ、、、ぁぁぁ」
拳か引かれると同時に大河が地面にうつ伏せに倒れ込む。当然勇者の力無くして殴られればこうなってしまうのだ。大河の様子を特に気にすることもなく、スイロンは今日のペナルティを発表する。
「さて、本日はいつもより沢山攻撃を貰ってしまいましたね。締めて74回ですね。早く起き上がって演習場を74周してくることをお勧めいたします。夕食のお時間までにペナルティを解消しませんと、残りの回数が倍になってしまいます。今日はお早めにお休みになられた方が良いのではないですか?」
(か、帰りたい。切実に。)
日本でやったら捕まりますね。多分