プロキオン伯爵家の侍女
読んでくださる方に感謝を。
プロキオン伯爵家。
家格こそ伯爵だが、建国より続く歴史は、他の追随を許さない、国内きっての名家である。
そんな伯爵家の令嬢であるコラットお嬢様が、颯爽と学園の廊下を歩いて行く。カフェテリアに向かっているのだ。
顎をそびやかし胸を張り、惚れ惚れするほど姿勢がいいお嬢様の隣を、遅れないようについて行く。
本来なら、侍女である私、メヌエットがお嬢様の隣を歩くなど許されない。使用人は分を弁えて、後ろに控えるべきだ。
もちろん、私は自分がお嬢様と対等だと思っているわけではない。
当代のプロキオン伯爵である旦那様、その奥様、次期プロキオン伯爵の若様、果てはまだ幼い妹様にお嬢様の婚約者様から、お嬢様の隣を歩く許可を得ているのだ。
なぜかというと――
「あっ」
お嬢様から小さな声が漏れた。私はすでに行動を開始している。
前のめりに倒れていくお嬢様の体。その肩と腰を支えるようにして、正しい位置に戻す。
もう何度も経験したおかげで、どこをどう支えればいいのか、完璧に把握している。
「ありがとう、メヌエット。私ったら、また転んでしまうところだったわね」
普段はつり上がった猫目の目尻が下がっている。失敗を恥じるような照れ笑いを浮かべるお嬢様は、とてもお可愛らしい。普段はきつく見える顔立ちも、このときばかりは愛らしさしかない。
「メヌエットがいてくれなかったら、また顔をぶつけていたわ」
そう、これこそ、私がお嬢様の隣を歩くことを許されている理由である。
お嬢様はとにかく転ぶ。石畳や階段など、転んだらひどい怪我をしそうな場所では、どれほど足下が不安定でも転ばない。しかし、ふかふかの絨毯や芝生など、柔らかそうな場所では必ず一度は転ぶのだ。
――お嬢様がご無事で何よりです。さあ、参りましょう
お嬢様を見つめて一つ頷き、先を促す。
「ああ、約束の時間に遅れてしまうものね」
再び歩き出したお嬢様の隣につく。廊下には、精緻な模様が織り込まれた敷物が敷かれている。カフェテリアに着くまでにもう一度くらい転ぶかも知れない。
気を抜かないよう、いつでも支えられるようにお嬢様を注視したが、結局食堂で席に着くまで、お嬢様が転ぶことはなかった。
「コラット、待たせたか?」
「大丈夫ですわ、キース様。お気になさらず」
「メヌエットはどうした?」
「お茶の用意をしてくれています。もうすぐ戻ると思いますわ」
お嬢様とキース様が会話をしているのが見えた。お嬢様の対面にキース様が座られて、仲睦まじい様子だ。
手にした茶器を気にしつつ、可能な限り素早く戻る。
――お待たせしました
机の傍で一礼し、手早く紅茶を用意する。
「ああ、ありがとう、メヌエット」
「スコーンと、アプリコットジャムもあるのね! ありがとう、メヌエット!」
しがない使用人にも礼を尽くしてくれる二人に、もう一度頭を下げる。
ニコニコと優雅にスコーンをほおばるお嬢様を、キース様が優しい瞳で見つめている。
キースホンド・エルナト様。
この国の王太子であるこの方は、私の名前を覚えているだけでなく、愛称で呼ぶことを許可してくださっている。
お嬢様は現在キース様と婚約中で、その仲の良さは生徒の羨望の的だ。
「メヌエットも一緒にどう? 美味しいわよ」
お嬢様手ずから引かれた椅子を拒むことは不可能に近い。キース様も喜々として茶器に手を伸ばしている。私にお茶を淹れるつもりなのだ。
――失礼します
学園内で最も高貴なお二人に甘えて、お嬢様の隣に席を下ろす。キース様の手から茶器を遠ざけるのも忘れない。最初の頃は頑なに固辞したものだが、断れば断るだけ困った状況になった(キース様が手ずからスコーンを口に運んでくれたときは、恐れ多さに卒倒しかけた)。
それ以来、勧められたら素直に従うことにしている。お二人ともご自身の立場を理解しているので、奔放な振る舞いは学園の中だけにとどまっている。生徒は皆平等、という建前を存分に利用されているのだ。
「そうだ、メヌエット。今日コラットは何度転んだ?」
「まあ、私が転んだことを前提とするのはやめてくださいな」
機嫌を損ねた、とわかりやすくそっぽを向くお嬢様に、キース様がスコーンを渡す。あれはキース様の分だ。お嬢様はそれにあっさり機嫌を直し、美味しそうにスコーンを口に運ぶ。
お嬢様も本気でへそを曲げたわけではない。いわば様式美だ。一連の流れが終わったところで、キース様の視線が私に向く。
――三度です
指を三本立て、回数を教える。この学園の生徒は、上流階級の子息令嬢ばかりだ。当然、内装にも手がかけられている。つまり、大抵の廊下には毛足の長い絨毯か、ふかふかの絨毯か、柔らかい絨毯が敷かれているのだ。
今日は教室を移動することが多かった。
「そういえば、今日は移動が多い日だったか。全部で転んだのか?」
キース様もそのことに思い至ったようだ。面白そうに聞いてくる。面白がっていることをあまり前面に出すとお嬢様がまた。
横を見ると、お嬢様が恨みがましい目で私を見ていた。スコーンを食べる手と口は止まらないが、じっとりとした視線だった。
「で、どうなんだ? 全部で転んだのか?」
「転んでいませんわ、失礼ですわね」
「メヌエットがすべて支えてくれたんだな。で、全部か?」
キース様は諦めない。わくわくとした瞳を無視することは出来なかった。
――はい、三回の移動時、すべてで転びかけました
お嬢様から目を背けて、キース様の疑問に答える。隣からの視線の湿度が増した気がする。
「はは、やっぱりな。いつもありがとう、メヌエット。コラットに怪我がないのは、お前のおかげだ」
瞳を細めてキース様が笑う。
お嬢様の転んだ回数をキース様が気にするのは、お嬢様を心配しているからだ。
キース様は私と違って、四六時中お嬢様にはりつけない。ずっとお嬢様と一緒にいる私に、お嬢様の安全を託している。
――お任せください。必ずお嬢様の安全を守ってみせます
決意を込めてキース様を見つめる。頷いてくれた。
「もう、メヌエットもキース様も。私の心配をしすぎです。私からすれば、二人の方が心配だわ」
「俺の心配をしてくれるのか?」
「当然です! キース様は最近、政務を任せられることが増えたでしょう。政務は大切ですが、根の詰めすぎは体に毒ですわ!」
「そう怒ってくれるな、コラット。そんなに心配してくれる婚約者がいるだけで、俺は元気になれるんだ」
「またそのような事をおっしゃって。……きちんと休んでくださいね?」
お嬢様が潤んだ瞳でキース様を見上げる。キース様の男らしい喉仏が上下した。生唾を呑み込んだのだ。
お嬢様の潤んだ瞳の上目遣いなど、かわいさの暴力でしかない。それをあんな至近距離で見つめて、キース様の理性が心配になる。
ここは学園のカフェテリア。いくら婚約者といえど、人目のある場所での不純な行為は慎むべきだ。
お嬢様を熱く見つめるキース様。わずかに身を乗り出したところで、お嬢様が私の方を向いた。キース様は我に返ったようで、罰が悪そうに椅子に座り直している。
「私、メヌエットのことも心配してるのよ?」
――何か至らぬことがあったでしょうか?
小首をかしげて見つめると、お嬢様が私の両手をとった。
「あなたもそろそろ、素敵な方を見つけてもいいと思うの!」
「その意見には同意する」
お嬢様の勢いに面食らっていると、キース様も参戦してきた。二対一では分が悪すぎる。
――いえ、必要ありません。そのような気遣いは無用です
必死に首を振っても、二人には届かない。
「どなたか、良い方をご存じありませんか?」
「そうだな、メヌエットにふさわしい相手か。何人かめぼしい相手はいるが、メヌエットを任せられるかというと……」
「中途半端な方は駄目ですわ。私の大切なメヌエットを任せるのですから!」
「わかっている。俺にとってもメヌエットは大切だ。下手な奴は近づけさせるものか」
二人の会話の中には、次期公爵や隣国の王子の名前も挙がっているようだ。たかが一侍女にその相手は荷が勝ちすぎる。
「あら、鐘の音。残念ですが、授業の時間ですわ。メヌエットのお相手候補についてはまた後日」
「そうだな。ではコラット、また。次に会えるときが待ち遠しいよ」
「もう、キース様ったら。……私もです」
どうやら授業の時間を知らせる鐘が鳴ったようだ。お嬢様とキース様は別れを惜しみ、次の再会を心待ちにする挨拶を交わしている。これは二人の間では恒例の儀式のようなものだ。
互いのことしか見えていないとばかりに桃色の視線を交わし、そっと離れる。
美男美女の二人だから、嫌みにならず一幅の絵画のような美しさを周囲に与える。
二人の向こうに見える女生徒が、陶然とため息を吐いている。私の後ろに座る生徒も、きっと似たような反応をしているのだろう。
――お嬢様、そろそろ
お嬢様にそっと近寄り、移動を促す。急いだらそれだけ転ぶ確率が高くなるので、できれば余裕を持って移動したい。
「そうね、もう行かなくちゃ。それではまた、キース様」
「ああ、また。メヌエットも、またな」
――はい、またお会いしましょう
深く膝を折る。
キース様とお嬢様の教室は反対方向にある。キース様に背を向けたお嬢様の隣に寄り添い、共に歩く。
授業が終わる頃には、私の相手の話を忘れてくれているといい。
すべての授業を終え、プロキオン邸に帰る頃には、涼しい風が吹いていた。日中の日差しはまだまだ暑いが、日暮れの風は季節が冬に向かっていることを教えてくれる。
「メヌエット、今日はもういいわ。夕飯の後で、私の部屋に来てちょうだいね」
お嬢様は近々王太子妃、そしてゆくゆくは王妃となる。キース様を支えるためにも、ありとあらゆる知識と教養が求められる。
そのため、学園から帰っても家庭教師や旦那様からさまざまなことを教わっている。毎日ではないし、一緒に刺繍を楽しむこともあるが、今日は勉強の日だ。
――かしこまりました。それでは、失礼します
お嬢様の言葉に了承を返す。お嬢様の姿が見えなくなってから、私は庭へと向かった。
多くの客人が目にする、プロキオン伯爵家が誇る優美な前庭、ではなく。
私が向かったのは奥庭だった。ここは客人からは見えない庭だ。私的な庭と言ってもいい。
この家では、おもに若い庭師の腕を磨く場として使われている。当主の目にも入る庭なので、緊張感と責任、誇りを持って仕事に当たれる登竜門のような場所だ。
「やあ、メヌエット。いらっしゃい」
前庭とは比べるべくもないが、優美で華やかな前庭と違い、素朴な美しさのある奥庭は、私のお気に入りだ。きょろきょろしていると、肩を叩かれた。
「メヌエット、今日も来てくれてありがとう」
――カナーンさん
振り返ると、現在奥庭を任されているカナーンさんが立っていた。
「今は休憩時間かな?」
――お嬢様は勉強中です
眉を寄せていかめしい顔を作ると、カナーンさんは察してくれたようで、苦笑いを浮かべる。
「メヌエットはいいの?」
――私には、必要ありませんから
静かに首を振る。お嬢様が王太子妃として王家に嫁ぐとき、着いていくのは私ではない。
私が誰よりお嬢様と長く過ごしていようと、誰よりお嬢様を支えるのがうまかろうと、関係ない。私は王太子妃付きの侍女にはなれない。
「メヌエット……」
カナーンさんが困った顔になった。私も眉尻が下がって困った顔になる。カナーンさんを困らせたいわけではないのだ。
私が声を失ったのは昔のことだが、音を失ったのはそれほど昔の話ではない。数年前の流行病で、私の世界から音が消えた。多少困りはするが、命が拾えたので私としてはなにも問題は無い。
お嬢様付きの侍女を降ろされることもなかった。これはおそらく、私以上にお嬢様を転ばせない人間がいなかったからだと、私はにらんでいる。
幼少期より共に過ごした私は、転びかけたお嬢様を支えるプロだ。この技術は、誰も敵わないと自負している。
そして、侍女としての能力も申し分ない、と私は思っている。これでも由緒あるプロキオン伯爵家の侍女として、お嬢様付きの侍女を務めているのだ。能力に不足はない、はずだ。
私も、出来ることならお嬢様に付いて王宮に上がりたい。ずっとお嬢様を支える仕事をしたいが、耳の聞こえない、声も出せない侍女は、王宮では邪魔にしかならない。
それがわかっているから、私は無理を言わない。おそらくだが、私が侍女を続けたいと言えば、旦那様も奥様も、そしてお嬢様も許してくださるだろう。それだけ能力を示してきた自負がある。
しかし、それでも私が抱えるハンデは大きすぎる。お嬢様が王太子妃となるための勉強に励んでいる時間、私はいつもこの奥庭に来る。王宮に上がるとなれば、私も同じ時間を勉強に充てていたのかと思うと、胸の奥がざわめくのだ。
それを鎮めるために、この奥庭の緑は最適だった。
派手すぎず、地味すぎず、そっと寄り添うような緑が、優しく心を包んでくれる心地がする。
カナーンさんも、たまに私に付き合って、奥庭の解説をしてくれることがある。私に向き合って、大きく口を動かして解説してくれるので、とてもわかりやすい。
私と接する人は皆、大きく口を開けて話してくれる。私が会話に入っていなくとも、その場に私がいれば、私に気を遣ってくれる。
必死に身に着けた読唇術と、周囲の人々の優しさによって、私は特に困ることがない。だからこそ余計に、お嬢様の侍女を続けられないことが悔しいのだ。
もうすぐお嬢様は学園を卒業する。キース様もだ。そうしたら二人の婚姻が成立するはずだ。
それまでの間、もうしばらくは、お嬢様の侍女として、お嬢様を支えることができる。
「メヌエット、ほら、これ」
――何ですか?
カナーンさんが、私の髪に何かを挿した。
「なんだか、悲しそうな顔だったから。よく似合ってるよ」
そっと手をやると、花が飾られているのがわかった。似合っていると言われ、頬に熱が集まる。
「あと、これ。お湯に浮かべるといいよ」
――ありがとうございます!
ラベンダーの束を渡され、頬が緩んでしまう。香りを胸一杯に吸い込むと、笑みが広がった。
カナーンさんを見つめて、はにかんだ笑みを浮かべる。お嬢様とキース様が私にふさわしい方について議論していたが、それは本当に要らぬ世話だ。
私は、カナーンさんにこうして優しくしてもらえるだけで、充分なのだから。
カナーンさんとしばし会話を楽しんで、夕飯の時間になったら屋敷に戻る。
夕飯の後に部屋に来るようお嬢様に言われたが、何の用事だろうか。
おしゃべりを楽しむ時間なら、私も楽しみだ。お嬢様にラベンダーを分けるのもいいかもしれない。
このときの私はまだ知らなかった。お嬢様が私を王太子妃付きの侍女にしようとしていることを。キース様や王妃殿下までも味方に付けていることを。
そして、お嬢様と共に上がった王宮で、さまざまな事件に巻き込まれることを。
このときの私はまだ知らなかったのだ。
女性は猫、男性は犬の種類から名前をとってます。