無題
あるところに無駄なことばかり繰り返す無駄男がいた。その男は、やることなすこと、無駄なことばかりで、結果のほとんどが芳しくない。今日も黙々と教室で無駄なことに励んでいた。
授業中の教室。生徒が二つ折りした紙を渡す。前から後ろに、一枚の紙切れを回していた。教卓にいる先生に見つからないように、前から後ろに回す。その中間に『ぼく』はいた。どうやら、ぼくも紙を後ろに回さないといけないようだ。
前から紙切れが届いた。
「後ろに回して」
そう言われた。それだけだった。それだけで、全て暗黙の了解で、ことが進んでいく。その紙切れがなんなのか。ぼくは知りたくなった。だから、勝手に覗いた。
「……」
無言しかなかった。それだけだった。これを後ろに回さないといけないのか、と思うと気が重くなった。だから、こうしてやった。無駄だけど。
「あ!」
後ろの方で、音がした。驚いたような唐突に響く声音だ。そういう反応になることはわかっていた。勝手にこんなことをしたら、酷いだろう。だから、勝手なんだって。みんな、勝手だ。つまり、ぼくも勝手だった。
紙を四つに折って、挟みで切り刻んだ。
勝手だった。みんな、勝手なんだ。こんなことしたって無駄だけど。でも、それで、だれかはもしかしたら、助かったかもしれないだろう。だから、勝手に、ぼくはやるんだ。
ぼくは、だれの味方でもない。
*
道を歩いていた。道には気づかないだけで、たくさんのゴミが落ちていた。空き缶とか、たまに車に轢かれた小動物の死体が落ちていた。それは、ゴミと同じように、分別されて、廃棄処分される。人間もいつか、正しい手順で処分される。
公共の道路は人間達のセンサーが敏感で、汚いものが落ちていたら、その日のうちに適切に取り除くだろう。
果たして、どこまでがゴミで、どこまでがゴミではないのか。よくわからなくなってくる。
どこまでが、いらなくて、どこまでがいるのか。あなたは、不要ではないのか。
そんな自問をしながら、下を向いて歩いているとき、視界の中に特異な存在を発見した。
丈の長い白いソックスに、膝下まであるプリーツスカート。その上に着ているのは半袖のブラウス。一般的な制服姿だった。
なにが異なっていたのだろう。なにが異質で普通ではなかったのか。それを知りたくて感覚を研ぎ澄ましてみた。
靴が擦れるような音がした。ざっざと、地面が擦れて、小石が転がる。どうしたのだろう。どうして、こんな音がするのだろう。
登校する道を歩いていて、前を歩いているその人物のことが気になって仕方がなかった。進むスニーカーの動きをなんとなしに見たりしながら、それは突然おこった。
有り体に、飾らないで説明する。
彼女はなにもない場所で——こけた。
平坦な道だった。そんな黒いアスファルトの上でつまずくのは至難の技だと思う。そのはずなのに、事実、いま、滑稽な転び方をしそうだった。前のめりになったところで、なんとか転ぶ前に体勢を立て直したようだ。
あいつの名前は知っている。同じクラスだったので、記憶力の弱いぼくでもなんとか覚えられた。本名、無理無理無。因みに姓が無理無だ。どうでもいいけど。
それから、校舎に着いた。校門の前で通り行く生徒に挨拶する先生を尻目に見て、
「おはよう、ございます」
「おう。無駄田おはよう!」
「先生の方が早いですが」
という会話をしながら、登校を完了した。無駄田無駄男。これは両親から授かった大切な名前だ。くだらないところが無駄にかっこいいと気に入っている。
「どうした、そのビニール袋は?」
「どうした、とは?」
先生が、なにかを訝しむように言った。なんのことだろう。意味不明だった。
「またゴミ拾いをしてたのか? エライな」
「なんのことを言っているのか、さっぱり」
エライ?
わからないふりをした。この先生は、いったいなんのことを言っているのだろう、と強く思うことにした。この程度のこと、意識的にやるようなことではない。当たり前のことなのだ。人助けをするからエライではない。当たり前のことを、当たり前のように無意識のうちにできるからエラくて優しいのだ。
「わかりません」
「……。まあ早く教室に入れよ。チャイムが鳴るぞ」
軽く会釈をしてから、早足で歩いた。どうやら、無事に遅れることなく教室に到着した。
こうして教室に辿り着いたわけだが、いまも、ぼくは黙々となにかをやっていた。大したことではない。四肢がついている、不自由のない健康な身体があればだれでもできるようなことばかりだ。こんなのしょうもないことかもしれない。
無駄なことかもしれない。きっと、無駄だろう。時間の、無駄。どうせ、そうなのだ。
休み時間。だれかの囁くような小さな声が聞こえる。それは、この空間を僅かに振動させ、言葉としてなにか意味のある文脈で、曖昧にだれかを悪くしていた。
悪いのはだれだろう。なんとなく、自問した。だれが悪い。机の上で頭を伏せながら考える。だれが悪くて、だれが悪くないのか。
暗闇の中。チャイムの音がもどかしかった。
*
「ぇ。これっ……」
無理無理無は一定の反応を見せた。机には、落書きがされてあった。それを見た反応は、口を手で塞いで息を詰まらせているようだった。どうして、そうなるのだろう。
「ぅ」
どうして、そんな表情になるのだろう。あいつは、なにを考えているのだろう。それが、気になった。どうして気になる必要がある? わからない。でも、なにかあるのだろう。恩があるのかも、しれない。
高校に入学する前。あの頃は、ただ無我夢中だった。結果的に無駄なことで、夢中になっていた。絵を描いていた。それを学校の廊下の壁に貼った。両面テープが剥がれてしまって、落ちそうになっていた。だれもそれを気にもとめないで通り過ぎた。その中で、ただ一人、気づいて貼り直してくれた生徒がいた。
それを見てあいつはいい人なのだと思った。だれも気にもとめないことに気がついて、行動できる勇気がある人なのだと思った。そんないい人が、学校で嫌がらせを受けているのを知ったのは後からだった。それはいけないことだと思った。なんとかしないといけないと思った。どうせ、無駄だけど。
その机の上に書いてあるものは、全て消したあと『気にすることはない』と書き残しておいた。学生鞄も、探しだして上に置いといた。そんなことしたって無駄で、どうせ、同じようなことは繰り返されるだろうけど、好きなようにやらせてもらった。
「ぁ……りがと」
あいつは顔を手で覆いながら、椅子に座ってじっとしていた。ぼくはそんな姿をうつ伏せで寝ている振りをしながら横目で見ていた。
*
最近、ぼくの噂が聞こえてくる。幻聴だと、そう思いたいが、残念ながらはっきりと聞こえるのだ。どうして、こうなったのだろう。
「無駄田」
授業前の更衣室で、明日野良他が声をかけてきた。
「お前、無理無のこと好きなの?」
唐突に訊かれて逡巡したが、会話のテンポを気にしてなるだけ早めに答えた。
「好き、ではないよ」
「ふーん」
それで会話は終わった。なんだか、誤解をされているみたいだった。ぼくは、無駄なことをするのが好きなだけで、特別に誰か一人だけを絶対的に好きなることはない。いや、なったことはあるけど。いまのぼくの心は冷めている。当たり前だけど過去には戻れない。
強いて言うなら『だれでも平等に好きだ』なんて戯言を吐くことになるだろう。差別も、区別も似たように感じる人もいることだし、なるだけ、だれも傷つけないようにしたい。
傷つくことは悪いことだと誤解している自分がいる。本当は傷つくから人は優しくなれるし、成長できるのに。でも、誤解を誤解のまま、なんとなく頭の隅に置いやって棚上げにしたい気持ちが強い。きっと、ぼくは傷つくことで、成長したくないのだろう。優しくなりたくないのだろう。だって、優しいってことは、それだけ傷つくってことだから。
偽善者だった。どうしようもないくらいに。いいことをしようとするだけで、自分は全く傷つかない優しくない人間。それが無駄田無駄男だった。今日も、ぼくは出来る限りのことしかしない。
調理実習の授業のとき。無理無理奈は班ではぶられていた。班員で協力して食材を取りに行かないといけないのに女子達が「あいつに取りに行かせればいいよ」と言って笑っていたのをぼくは聞いていた。このままだと、無理無理奈が嫌々孤立するような状態に追いやられてしまうのではないかと危惧した。
なんだか腹が立ってきた。
目を細めて、そのグループを一瞥して離れたあと彼女の元に向かった。米麹を造る米の分量を量っているようだ。それをなんとなしに、横で見ていた。それだけだった。
無駄なことをしている。それはわかっていた。だけど、もしかしたら小さな抵抗でもだれかを助けられたかもしれないだろう。そんな微かな希望を抱くぐらいはいいだろう。
「……よ、し」
量り終えたその手は、小刻みに震えていた。小学生並みの感想だけど、よく頑張ったと思った。別に、話しはしない。だって、話す用事はないのだから。話したって無駄だろう。
背後で、噂話しが聞こえた気がした。また、誤解されてしまったかもしれない。でもそれは僕を怒らせる人がいけないのだと思う。グループで仲間外れにするようなことをするのは、あんまり好きではない。むしろ嫌いだ。
どうでもいい。なにもかも、どうでもいい。どうにでもなれ。僕は投げやりな気分だった。これが学生生活かと鬱屈した。
更衣室で、また明日野良他が訊いてきた。
「お前、あいつのこと、好きなの?」
「いや、好きとかそういうんじゃ」
「ふーん」
なんだか腹が立った。なんで、お前は護ろうとしなかったくせに、そんなことが言えるんだ。好きとか、嫌いとか、そういう問題じゃないだろう。なんで、見て見ぬふりができるのだろう。もしくは、鈍感なのか、視聴覚に不具合があるのか。ならば仕方がない。
なぜかわからないけれど、ぼくはムカついていた。その気持ちを言葉にはしないで胸の内に秘めておいた。どうせ、言ったところでわからないだろうし、わかったところでほぼこの問題は解決しないに等しいだろう。それに、わかるの意味は人によって違う。
やはり、戯言なのだと思った。どうせ話したところで齟齬が生じる無駄話しにしかならないだろう。しかも、笑い話しにもならない。こんな話しでぼくは笑えない。
ただ、さみしいだけだ。この空間にいることがさみしい。早く、帰りたい。あいつも、きっとそうなのだと思う。なんて、憐憫に浸ったところで、なんの救いにもならない。
なにをやってもどうせ無駄だ。やらなくても、やっても無駄なのだから、どうでもいい。好きにやらせてもらおう。こんな無駄なことに、だれも巻き込まないで、一人で勝手にやってみよう。
ところで、ぼくはなにをやるんだっけ?
*
非常に忘れっぽい僕だけれど、やるべきことはなんとなくわかっていたみたいで、身体が自然と動いていた。
雲がピンク色になりだした早朝。幻想的な空の景色を窓越しに見ながら、小さくため息をついた。だれもいない教室で、便箋に文字を紡いでみた。こんなことする馬鹿は世界になん人いるだろうかと、心の底からくだらないと思いながら無駄な文章を書いた。
だれもいない静寂。一人は孤独だ。それが良い悪いに関係なく、孤独感はなにかをうむ。
繋がりを求めて彷徨う人がいたり、孤独の中でもがいて自分だけの価値を見つめたり。そういったなんらかの動機に孤独が付きまとう。そもそも、孤独感というものがわからない人もいる。ぼくも、もしかしたらわからないのかもしれない。なんなのだろう。孤独って。その感覚は、どんな風なのだろう。
便箋に書いたのは、ラブレターでは全くない。ただの謝辞だ。助けられなくてごめんなさい。そして、掲示して剥がれた絵を、元に戻してくれてありがとう的なことを書いた。
くだらないことだと思った。でも、ぼくにとっては意味の強いくだらないだった。無駄なことをしていた。昔もいまも、いつも。
それを折り畳んで、机の中に入れた。整列された机の場所の位置は記憶力の弱いぼくでも覚えていた。これで違う人のに入れてたら笑えるかもしれない。いや、笑わないかな。
久しぶりに早く来すぎた。あとは、のんびり机の上でぐーすか寝ているふりをするだけだ。まだ時間があることだし、窓越しに見える雲の流れる動きでも眺めていようか。
淡い色をした空がだんだんと澄んだ青に変わっている。率直に綺麗だと感じた。
やがて人がやってくる足音がして、机の上に伏せた。教室に入って、このいびきをかいて寝ているぼくをみたクラスメイトは、少し驚いたような声をあげてから自分の席に荷物を下ろした。なんだか、緊張する朝だった。
*
いつの間にか寝てしまっていたらしい。よだれが机上に落ちてしまっていた。慌てて、手で口元を拭っているうちに目の前にだれかが立っていることに気づいた。
「お、おはよう」
いや、ぼくの方が早いけど、つい挨拶をしてしまった。しかし、か細い声量で聞き取れなかったのか、相手は無言だった。
「ん」
どうしたのだろう。大きな双眸が、なぜ、ぼくに向けられているのだろうか。わからない。でも、綺麗な目を見るのは好きだ。だから、見つめ返してやった。にらめっこみたいになっているけど、気にしない。
この学校で、ぼくは既に浮いている。どんな奇天烈な行為を周囲に目撃されようとも、これ以上浮くことはない。これまでしてきたことを思ったら、大したことではない。
それにしても、初めて見た。
「目が、すごく面白いいい形してる。その目……好きかも」
大きくて、綺麗だ。なんだか、だんだんと細くなってきてるような気がする。笑ったように、目を細めているのか。優しそうな目に変わった。どうして、そんな目になるのだろう。ぼくがなにか、変なことをしたから思わず笑ったとか、そういうことだろうか。変なことはいつもしてるからな。
「ねえ。席に座らないの? 朝礼は?」
あれ、そういえば、みんなはどこにいったのだろう。
「もしかして朝礼終わってたのかな。そっかあ。一時限目は体育だからみんな更衣室に行ったのか。えっと、そういうこと?」
疑問には答えない。いや、疑問以前に、なにも言葉を発していないではないか。さっきから話しているのはぼくのほうで、じっとこちらの様子を窺っている。
えっと、ずっとそのままで大丈夫かな。
なにかおかしなことにならないかな。
「えっと」
意を決して、相手がどんな反応するか試してみようと思った。少し鼻で笑ってから、
「もしかして、また暴走しちゃってたかな。そういえば、紙見た?」
失念していた。目の前にいる人間が今日、便箋をあげた相手だったのだった。名前はたしか無理無理無。その双眸が伏せるように下を向いていた。そこから小さな雫が落ちていたのに気づくのに、かなり時間がかかった。汗かと勘違いしてしまった。
「ぁ、ありがと」
ようやっと声が聞けた。どうして、礼を言わるのか意味不明だったので、少し首を傾げながら、ぼくも、
「いや、ありがと、はこっちのセリフ。随分前、掲示した絵を貼り直してくれたの、すっごい感動したからさ。自分で描いた絵をまた貼り直しに行くのって恥ずかしくってなかなか行けなくて。ぼくが右往左往してるときに周りは見て見ぬふりをして通り過ぎて行くだけだったけど、その中で無理無さんだけは率先してテープをくっつけ直してくれて、嬉しかったんだよね」
「うん」
初めて合いの手を入れてくれた。どうしてだろう。なんだか、笑えてきた。あ。はは。
「ありがとな」
「うん」
彼女も笑ってくれた。まだ、鼻をすするような音が僅かに聞こえるけれど、でも、きっと、本心で笑ってくれていたのだと思う。
どうでもいい。どうせ、なにをやったって無駄だ。そう決めつける冷めた心にほんのりと淡く光るものが現れたような錯覚になった。
だって、こんなのあり得ない。こんなの現実的じゃない。まるで――夢みたいだ。
*
「無駄田起きろ」
担任の重低音の声が聞こえた。それに背後から薄っすらと笑い声が聞こえる。なんだ、夢か。どうやら、朝礼が始まったらしい。クラスメイト達はみんな起立をしている。椅子から立っていないのはぼくだけだ。
なんだか、いい夢を見た心地だった。毎日こんな夢が見れたらいいのにと思った。
ちらと、あいつを見た。夢の中とはまるで正反対のような、いまにも死にそうな目をしていた。覇気のない、この世の終わりのような表情だ。そうか。朝はこんな顔をするのか。
「気をつけ。礼」
みんなで上半身を折り曲げた。
なんだか一日の始まりを感じた。