目撃者を求めて
からりと晴れた冬の朝だった。私は私の事務所で新聞を開いていた。特に見るべき記事はない。それは開く前からわかっていたことだった。新聞を開いて眺めることだけに意味があるのだ。私はあくびを噛み殺しながら、文脈のない記事たちを読み飛ばしていた。どこかで誰かが行方不明になっている。大物芸能人が飲酒運転をした。天気は不安定である。日経平均が底をついた。もう十分だ。私は新聞を畳んだ。立ち上がり窓際に寄って、冬の淡い日射しを浴びた。窓の下の通りでは、足早に行き交う人々が息を白くさせていた。十分な寒さだ。私は机に戻った。やることはもうなかった。
電話が鳴ったのは、畳んだ新聞をふたたび広げていた時のことだった。私は新聞を丁寧に畳んでから、受話器を取った。
「ああ、アンタかい? あんな、うちの孫がね、学校行ってないんだって。家を出たって言うのに。もう十時でさあ。そんでどこに行ったのかも見当がつかないんだ。ちょっと探してきてくれないか。もう警察には言っておいたんだが、アンタにも頼んどきたくてさ。アンタ、人探しは得意だろ」
「警察ほど得意ではありませんがね」
「人手は多いほどいいだろ。ウチは親族総出でやってんだ。いいから手を貸しな」
「いいでしょう。報酬は考えなくてもいいですよ。家賃を安くしてくれるのならね」
「アンタが見つけられたら考えるさ。さあ、早く仕事をハジメな。ウチラもウチラで伝手を探していくからね」
電話はそこで切れた。私は一つ顎を撫でてから、基本的な事実を思い出した。私は大家の孫の顔を知らない。
私は大家の家に行き、写真を手に入れた。十二歳の少女の写真だった。少女は火の灯ったろうそくの合間から笑顔を覗かせている。
「今年の誕生日の時の写真さ。見ての通り、かわいい子だからね。まったく。はやりの誘拐とかだったら洒落になんないよ」と玄関先であった大家は頭を抱えていた。
「最後の目撃証言は分かりましたか?」
「さあね、いつもあの子は友だちと学校に行くらしいんだ。今日は違った。一人で朝早くに行ったのさ。飼育小屋の仕事があるとかそんなこと言ってたようだ。飼育小屋には行ってないみたいだし、学校の方も困惑してたね」
「彼女はなんらかの問題を抱えてませんでしたか?」
「問題? アンタ何考えてんだ?」
「つまり家出したくなるような事情はなかったのかという話ですよ」
「ないね、まったくない。息子夫婦の仲も悪くないよ。むしろ良すぎるほどだね。今、二人とも仕事を休んで手当たり次第に事情を聴きまわってるよ」
「学校のほうは?」
「さあね。アイツらは本当のことを言うのかわからんからね。少なくともウチの孫は昨日まで元気に学校へと通ってた、それは事実さ」
「男の影は?」
「ないよ。たぶんね。そういうのが怖いから息子たちはケータイすら持たせてないんだ。だからこういう時困るんだよ。いまならGPSとかあるんだろ? それさえあればこんな慌てふためいて探す必要はなかっただろうに」
「なぜ誘拐だと思ったんですか?」と私は訊いていた。老婆は大きく目を開いてから、じろじろと私を見た。
「アンタ、新聞読んでないのか?」
「開いてはいますがね」
「今、行方不明の女の子がいるんだよ。同じくらいの年齢で、しかも二つ隣の駅でね。立川美衣って名前だったかな。二週間ほど前に居なくなってそれっきりらしいんだよ。それも誘拐なんじゃないかっていう噂なんだ。だからウチラもすぐ警察に連絡したんだ。同じ犯人かもしれないからさ」
「わかりました。警察はなんて?」
「各交番などに写真を手配するってさ。事件性が不確かだからそこまで人員はさけないとか言いやがってたよ、まったく。どう考えても最重要な事件じゃないか。全職員を捜索に回してもいいくらいだよ」
「そうですか」と私は肯いていた。この問題は私の手におえるものではないと頭脳は悟っていた。だが目の前に運ばれてくる問題はたいていそんなものだ。
「アンタ、これからどうするんだい?」
「そうですね、まずこの少女の家の近くに行ってみますよ。できればご両親にお話を伺いたいんですがね」
「そうかい。なら話しつけとくよ。あの子の家に行けば会えるようにね。あの子の家の場所は分かるか?」
「分かってたら、探偵なんてやってませんよ」
「そうかい、そうかい。ちょっと待っときな、地図渡すから」と大家は言って家の中に入って行った。こうして私は少女の家に向かうことになった。
少女の家は大家の家から徒歩で三十分ほどの距離だった。昼前の割かし静かな住宅街を二つほど渡り歩いた先に、その家はあった。
インターホンを押すと男の声が返ってきた。私は短く自己紹介をした。
「ああ、母の知り合いの方ですか。少々お待ちください」と男は通話を切った。私は門の前で少々待つことになった。
家の正面にある道路は、少し先で国道につながっていた。交通量の多い国道だ。歩道も広く整備されている。その国道を南下していくと、学校が見える。少女が通っている小学校だった。この家から小学校まで大人の足で十分弱、元気な子供なら十五分で着くだろう。その十五分の間に少女は誘拐されたのだと、大家は考えているようだった。私はどうだろうか。少女はこの道でかどわかされたのだろうか。
扉が開いた。私は道を眺めるのをやめて玄関を見た。戸口から男が私を見ていた。
「丸尾さんですか?」
「ええ、下崎、いえ、ミツコさんからの依頼でお伺いに参りました」
「ああ、どうもすみません。どうぞ中にお入りください。ここじゃ寒いですから」
「お気遣いありがとうございます」
こうして私は家の中に入った。玄関先には少女が描いたであろう絵が飾ってあった。何らかの賞を獲っていたようだ。写実的な絵だった。下崎はその絵について私に説明することもなく奥へと入って行った。
リビングのテーブルに我々は座った。私はコートを脱がなかった。ワイシャツにパーカーを羽織っている男は、ときおり眉毛を痙攣させながら私に話をした。
「妻はいま学校の方に行ってます。ええ、私はここで警察からの電話を待ってるんです。見つかったら電話が来るようになってるんで。フミエは、今日の朝まで様子がおかしいとかそんなことはなかったんです。いつもどおりでした。だから、やっぱりそうなんですかね?」
「どうでしょうか。誘拐されたのか、そうでないのか。私にはまだ判断できませんね。誘拐されたのなら、通学中のことでしょう。私が見た限りでは、ここから小学校まではいくつもの防犯カメラがありました。この家の前の通りでもそうです。両隣の家も向かいの家も、防犯意識が高いようですね。通りに面したガレージの前に防犯カメラが設置されています。もしなんらかのことが起こっているのであれば、そのカメラがとらえているはずです。何らかのことが起こっているのであればね」
「無事だと、いいんですが」
「警察はなんと言ってましたか?」
「とりあえずこの周辺を探してみると言ってました」
「そうですか。目撃されているのであれば、もう警察の耳に入っていることでしょう。今は十一時です。フミエさんが家を出たのが七時くらいだったんですよね?」
「ええ、そうです」
「警察に連絡したのは?」
「えっと、八時半くらいでした。七時五十分ごろに学校から連絡がありまして。ちょうど私が仕事に行こうとしていた時です。ええ、まだ学校に来ていないと先生からの電話がありました。飼育委員のエサやり当番なのにまだ来ていないって。フミエは飼育委員だったんです。週に一度朝早く出るのも、そのためでして。ええっと、それで私たちは一時間ほどこの近所を探してました。先生方には学校の周りを探してもらってました。登校する児童たちにも話を聞いてたみたいです。けど、見つからなくて。それで、警察に」
「いつも一緒に登校しているお友達は学校に?」
「え? あ、ああ。はい。みのりちゃんたちは学校にいるみたいです。いつも通りに彼女たちは学校へ行ったようでした」
「過去にこの近所で不審者を見かけたという話はありましたか?」
「いや、特にないんです。五年ほどこの家に住んでいますが、近所でそういった話はまったく聞いたことがありませんでした。だから、ほんと寝耳に水というかなんというか」
「最後の目撃情報は分かりますか?」
「あ、警察の方にもお話したんですが、二軒先の熊谷さんがランドセルを背負ったフミエが国道の方へと歩いていく後ろ姿を見たと言ってました。七時少し過ぎくらいだったらしいです」
「後ろ姿ですか」
「ええ、フミエのランドセルは水色なんで目立つんです。それで熊谷さんも覚えてたみたいで」
「そうですか」と私は意味もなく頷いた。
「やっぱり、連れ去りですかね」
「どうですかね。国道に出ればもっと人目があります。それに国道を小学校とは反対方向に向かうと駅がありますよね。朝の七時ごろならその駅に向かう人も多いはずです。そういう状況で連れ去るのは、なかなか難しいんじゃないんですかね」
「じゃあ、フミエは自分で学校以外のどこかに行ったんですか? ランドセルを背負ったままで?」と父親は私を見つめた。
私は口を閉ざした。父親の言いたいことは分かっていた。だがそれに対する答えを私は持ち合わせていなかった。下崎は考え込むようにして顔を伏せた。私は立ち上がった。
「フミエさんの部屋を見せていただけますか?」
「え、ああ」と曖昧に頷いてから、男も立ち上がった。「二階の部屋です」
男は先導して階段を上った。その部屋の扉には『フミエの部屋』と書かれたプレートがぶら下がっていた。下崎は扉を開けて中へと入って行った。それから、ゆっくりとした動作で部屋を見回していた。
ベッドと机、タンスとぬいぐるみ。壁紙は白かった。窓のカーテンは閉っている。男は電気をつけた。本棚には図鑑や小説、漫画がきちんと整頓されて収まっている。机の上にはノートが出しっぱなしになっていた。日本の歴史をまとめていたらしい。流麗な筆跡だった。大人の字と見間違えるほどだ。
「このノートは、フミエさんが? キレイな字ですね」
「え、ああ、そうです。幼いころからフミエには習字を習わせていまして。それで今ではウチの中で一番達筆になったんですよ」
「他に習い事はしていましたか?」
「えっと、週に四回ほど、隣の市まで塾に通ってます。電車で二駅ほどのところです。中学受験をしてみたいと言ったので。それで、少し遠くても大手の塾に通わせようと思いまして」と下崎は部屋をうろうろと歩き出した。私はファンシーなゴミ箱を見ていた。くしゃくしゃに丸められた新聞紙がいくつか放り込まれていた。不釣り合いなゴミだった。
「新聞を購読しているんですね」
「え?」と父親は私を怪訝そうに見た。私はクローゼットの前に立つ、挙動不審な男を見返した。
「なにかお探しですか?」
「あ、ええ。塾用のカバンが見当たらないなと思いまして。ショルダーバックなんですが」と男はきょろきょろと部屋は再度見回し始めた。
「別の部屋に置いたままなんじゃないですか?」
「そう、かもしれません」と無理やり納得したように男はうなずいた。
私は部屋に置いてある一つ一つの物を把握していった。特に意味のない作業だった。この部屋に住む人物はキレイ好きであり、ぬいぐるみは三体までとし、物を多くは置かないことを美徳としているようだった。十二歳の少女の部屋にしては落ち着きのある部屋だ。私に分かるのはそれだけだ。
「もう大丈夫です。十分参考になりました」と私は言って部屋から出た。一人で階段を降り、玄関まで行こうとした。もう聞くべきことはないように思えたのだ。そのときに電話が鳴った。父親は転がるようにして階段を駆け下りて、勢いよくリビングに入った。私は腕時計を見た。十一時五十三分のことだった。
「はい。キヨコか? ああ、うん。そうか。え、ああ、連絡はまだないよ。まだ帰ってきてもいない。うん、そうか。分かった。家で待っておくよ。うん、じゃあ」と男は言って受話器を置いた。
「見つかったんですか?」と私は聞いた。男は一度驚いたような顔で私を見た。焦点の合わない眼で数秒ほど私を眺めてから、口を咀嚼する牛のように動かしてから声を出した。
「ええ、いや、ランドセルが見つかったらしいです」
「ランドセル?」
「そうです。学校で見つかったみたいです。どういうことですかね?」と男は眉根を揉みながら自問するように言った。
「詳細を調査してきましょうか? 事情を聴いてまとめるだけになりそうですが」
「え、ああ、そうですね。お願いできますか?」
「大丈夫です。できれば奥様に私が行くことを伝えてほしいのですが」
「そうですよね、キヨコに電話しておきます。話が通るように言っておきますね」
「ありがとうございます」と私は言った。「名刺を置いていきます。何かあったらこの携帯番号にかけてください」
男は私の名刺を受取った。私は男にこの家の電話番号を聞いてメモを取った。それから家を出た。
冬の空は薄い雲に覆われ始めていた。冷たく強い風がときおり私の首筋を撫でて行った。私は小学校へと向かっていた。この調査は一銭の金にもならない仕事だ。だからと言って手を抜いていいわけではない。大家からの信用をこれ以上下げる気はない。それに新聞をただ捲っているよりは、足を使って何かを探している方がまだましだ。
ランドセルが見つかったという事実は何を意味しているのだろう。少なくとも下崎フミエはいまランドセルを背負っていないことは確かだ。では、そのことは何を意味しているのだろう。私の貧相なニューロンたちが結論を出すよりも早くに、私はパトカーが横付けされている小学校の門の前に着いていた。
昇降口に向かう途中に制服を着こんだ二人組の警察官たちを見かけた。彼らは私に興味を持つこともなく、グラウンドの方へと向かっていた。私は授業中であろう校舎を眺めた。音はなく、全ての窓が締め切られていた。そろそろ給食の時間のはずだ。これから少し騒がしくなるのだろう。
「丸尾さんですか?」と後ろから声をかけられた。女の声だった。振り向いた後、私はまた自己紹介をする羽目になった。その女は下崎フミエの母だった。
下崎キヨコは私に水色のランドセルが見つかった場所を話した。それはグラウンドの片隅にある旧体育倉庫の中だった。その倉庫は老朽化のためにもう使われることはなく、来春には取り壊す予定になっていた。いつもなら鍵がかかっているはずだったが、今日に限ってはそうではなかった。若い新任教師がそのことに気が付いたようだ。彼女は中に入って、入り口のすぐそばにあったランドセルを見つけた。だがそれ以外は何も見つけることは出来なかった。
「いま警察の方がいろいろ調べてくださってます」
「そうですか。私が向こうに行っても意味はなさそうですね。むしろ邪魔になりそうだ」と私は笑った。「できれば、ランドセルを見つけた先生とお話をしたいのですが」
「そうですね、いま警察の方から事情を聴かれているので、それが終わったら丸尾さんとお会いしてくださるように頼んでみます」
「ありがとうございます。すみませんが、飼育小屋の場所はわかりますか?」
「飼育小屋?」
「ええ、一度見ておきたくて」
「ああ、それなら体育館の裏にあります。いつもと変わらなかったみたいですけど」
「一応見ておきたくて。では、飼育小屋の方にいるとお伝えください」
「分かりました」と女は言って去って行った。夫とは違って私に意見を求める気はないようだった。
飼育小屋には数羽のウサギとチャボがいた。金網の中で彼らは歩き回っている。今朝のエサが少し遅れたことなど気にも留めていないみたいだった。鐘が鳴って、校舎の方が少し騒がしくなった。給食の時間が始まったのだろう。私は飼育小屋に近づき、金網の扉とその内側にあるボードを見た。扉は簡単な留め金で閉められているだけだった。おそらくこれは南京錠で留め金を開かなくするタイプのカギだ。だが今は、人間だったら誰でも開けることができる。
私は扉を開けて、内側にあったボードを見た。日付とそのわきには二つのチェック欄が書いてあった。今日の欄には何も書かれていなかった。その前日の場所の一つには河原と書きなぐったような字があった。エサをやった生徒が名前をサインする所なのだろう。もう片方には丁寧な字で北沢と書いてあった。おそらくエサをやったのを確認した教師のサインだ。
新任教師は十分ほど後に来た。北沢と名乗る若い女だった。私はその頃には屈んで、ウサギを眺めていた。ウサギもこの時間にいる人間が珍しいのか、それともただエサを期待しているのかどうかわからないが、私を見つめ返していた。
私は簡単な自己紹介をして、教師から話を聴いた。見つけたのは偶然のことだったようだ。体育の授業の時、グラウンドを歩いていたら倉庫の横開きの扉が少しだけ開いているのに気が付いた。訝しく思った彼女は倉庫に近づき、扉を開けた。それでランドセルが見つかった。それだけの話だった。
「どうしてあんなところに下崎さんのランドセルがあったんですかね?」と教師は聞いてきた。
「分かりませんね。しかし、倉庫の鍵はどうして開いてたんですかね?」
「それも不思議なんです。あの倉庫の鍵は職員室に仕舞っているはずなので。先ほど確認したんですが、ちゃんと鍵はいつもの場所に置いてありました」
「その場所というのは、職員室にいる人物なら誰でも取れる場所ですか?」
「え、……そうですね。教師や事務の方でも簡単にとることは出来ます。ただほかの鍵と一緒にケースの中においてあるだけなんで」
「そうですか」と私は頷いた。「つまり職員室に入れば誰でも取れると言うことですね」
「おそらく、そういうことになりますね」と女教師は腕を組んで唸った。私は腕時計を見た。正午になろうとしていた。子どもたちの声が校舎の中から響いていた。
「下崎フミエさんが飼育委員であることをご存知でしたか?」と私はすでに知っていることを尋ねた。
「はい、私飼育委員会の担当なんで。あ、あと今朝、下崎さんの家に電話したのも私なんです。いつもならもうエサをあげてるの時間なのに来てなかったので。あの子、時間にはきっちりしてるんですよ。今日までエサやりを一度も遅れたことがなかったんです。だから、すぐ心配になっちゃって」
「それで電話したと」
「はい、それがまさか連れ去らわれたなんて」と彼女はため息をついた。
「連れ去らわれた……、ランドセルを置いたままで」
「そうですよね、そこがおかしいんですよ。けど、いろいろ考えると不安になってしまって」と女教師は胸を抱くようなしぐさをした。
「早く見つかるといいですね」と私は言った。
「ええ、ほんとうに」
「最後に一つだけいいですか?」
「え? はい、答えられるものなら」
「エサやりは生徒一人でやるものですか?」
「ええ、基本的にそうです。エサをやって掃除をして、そこにサインをするんです。その後、教師が来てほんとにやったか確認するんです。児童の自主性を高めるために、基本的に生徒で完結できるようにって」
「飼育小屋の鍵は職員室にあるんですか?」
「いえ、鍵は用務員の方がしてくれてます。開門してから開けて、放課後になると閉めてるんです」
「そうですか。参考になりました」と私は頭を下げた。それで女教師と別れた。
ランドセルのあった現場を見ることもなく、私は学校を去った。私が得た情報と言えば、下崎フミエはランドセルを背負って学校に行った、そのランドセルはどうしてか旧体育倉庫にあった、そして下崎フミエは結局ウサギたちにエサを与えなかったということだ。これをあの哀れな父親に伝える必要はあるのだろうか。
私がそう思い悩んでいると電話が鳴った。
「はい」
「あ、丸尾さんですか? 下崎です」と男が言った。私からの連絡を待っているはずの男だった。
「ええ、どうかしましたか?」
「えっと、さっき母から連絡がありましてね、フミエの通ってる塾講師の人が塾の近くでフミエを見かけたらしいって言うんです。それで、丸尾さんにそれが本当か実際に行ってほしいそうで」
「なるほど。塾はどこの駅が近いんですか?」
「南和良って駅です。ここから二駅で行けます」
「ああ、そこなら知ってますよ。分かりました、私はその塾に行って目撃者に会えばいいんですね?」
「ええ、ほんとは私が直接会って聞きたいんですが……。帰ってくるかもしれませんし、警察からの連絡も待たないとけないので。どうかお願いできますか?」
「構いません。大丈夫です」と私は言って、塾の名を尋ねた。CMでよく聞く名前だった。男はその後に目撃者の名前を告げてから、申し訳なそうに電話を切った。私がランドセルを見たのかどうかはもうどうでもいいようだった。たしかに少女が一人で歩いていたのなら、どうでもいいことなのだろう。簡単な話だった。少女はただ学校をサボっただけなのだ。その理由はまだ不明のままだが、直接会えば分かることだった。
私は小学校を出て、そのまま駅へと向かった。平日の昼の駅は空いていた。普段は見ないような柱や、チラシ、ポスターが目についた。大家が言っていた行方不明になっている少女の写真もあった。下校時刻を過ぎても帰らなかったらしい。この少女がどこに行ってしまったのか、それを知っている目撃者はまだ現われていないようだった。幸いなことに、下崎フミエの目撃者は見つかった。後はその周辺を嗅ぎまわるだけだ。犬のように、執念深く、なんども鼻を鳴らしながら。
南和良駅に着いた私は駅前の蕎麦屋の誘惑を振り払って、すぐに目撃者がいるという塾に向かった。その塾は割と新しいビルにあった。入り口にはしっかりと合格実績が貼ってある。私は自動ドアを越えて、受付に向かった。受付には若い女がいて、不思議そうに私を眺めていた。私は用件を伝え、目撃者を呼んでもらった。
その目撃者は佐久原という名の中年の男性で、長年この塾に勤めているようだった。メガネをかけており、話している間ときおり右側のつるを右手で触っていた。
「警察にも言ったんですけどね、僕が出勤するときに駅で見かけたんですよ。朝の八時半くらいですね。塾で使うカバンを肩にかけてました。声かけようとしたんですが、見失ってしまいまして。人込みがすごいんですよ、あの時間帯。けど塾とは反対口の方に行ったのは見ました。ヘンだなって思いましたよ。だから覚えてたんですけどね」
「反対口にはなにかあるんですかね?」
「さあ? わからないですね。デパートとか公園とか書店はありますけど。ショッピングモールも少し行けばありますね。遊ぶとしたらそこらへんかな」
「学校をサボって、遊ぶつもりだったんですかね」
「そうじゃないですか? 学校行って、塾に行って、そりゃ大変ですよ。息抜きもしたくなりますよ」と男は笑った。
私は目撃者に礼を言って、塾を出た。
目撃者の証言で物事が突然シンプルになった。娘は行方不明ではなく、ただ学校をサボって遊んでいるだけだ。それなら、遊び疲れて家に帰ってくるであろう娘を待つだけでいいのではないか?
私は歩いた。
何かが気に食わない。
駅前のそば屋でかけそばを食べたのち、私は線路を越えて反対側の駅前広場に向かった。
駅を出るとタクシープールには六台ほど黒塗りのセダンが停まっていた。運転手たちが立ち話したりや新聞を読むほどには客がいるようだ。まず私は彼らから話を聴くことにした。
Q.今朝、この少女を見たか?
A.見たとしても覚えていない。朝は人が多すぎる。
以上の問答をすべての運転手と繰り返した。もちろん言い方、答え方はすべてこうではなかったが。
次に私は駅前広場に面するコンビニ、クリーニング屋、カフェ、その他もろもろの店に入って、同じような問答を繰り返した。それだけで胃の中にあったそばが消化されてしまった。
結論としては、誰も少女を覚えていないということだった。
我々はあまりに他人に対して無関心すぎるのではないか?
最後に私はデパートに行き、娘が寄り付きそうな場所を探った。そのデパートの各フロアでは以下のような問答が行われた。
Q.今朝、この少女を見たか?
A.見ていない。
さすがに平日の朝に12歳の少女が一人でデパートをうろついていたら誰かの記憶に残るはずだ。だが、誰も見ていなかった。簡単な話、少女はこのデパートには寄っていない。つまりこのデパートは少女の目的地ではなかったのだ。
では、下崎フミエの目的地はどこだったのだろう?
そもそもなぜこの駅までやってきたのだろうか?
私はデパートの屋上でつらつらと思考を重ねていた。
少女はランドセルを背負って学校に行った。これはサボることを親に知らせないためだ。ウサギにエサをやらなかった。これはどうだろう。親が騒ぎ出すのを恐れていたのなら、エサだけでもやって学校にいるフリをするべきだったのではないか。そうすればあの教師も電話をすることもなかっただろう。あの教師が電話をしなければ、少なくとも出欠確認までは時間を稼げるはずだった。少女はその選択をせず、体育倉庫にランドセルを放っただけで学校を離れ、駅へと向かった。これはどういうことだ。時間を稼ぐ必要はなかった。それだけに過ぎない。これはサボりが露見しても構わない、という意志だ。少女もまさかここまで大騒ぎになるとも思っていなかったのだろう。ちょっとした冒険だったのだ。平日の朝にショルダーバッグをかけて、二つの隣の駅に行き、人込み紛れどこかへと向かっていく。そういう冒険だったのだ。時刻はすでに十五時だ。あと一時間すれば学校も終わり、少女の冒険も無事に家に戻ることで終わる。大がかりな捜索も今日の夕飯には笑い話になっているだろう。そういうものなのだ。
私の考えはここで止まった。そして、思った。
少女は一体いつランドセルを回収するつもりだったのだろう?
あるいは、もう回収する気がないのではないか?
私は屋上を出た。デパートのエスカレーターを駆け下り、駅前広場を越えて、あの塾講師がいる塾へと向かった。すべての気に食わなさはそこにあった。
二十代くらいの受付嬢はすこしだけ私に慣れたようだった。特に不審がることもなく私の入塾を見守っていた。
「佐久原さんってまだいますか?」と私は聞いていた。
「あ、えっとお、今はいないんです。ちょっと用事ができたって言って、十三時くらいに出て行ったままで。もうそろそろで生徒が来るんですけど」と受付嬢は不安そうに言った。
「佐久原さんは、ここに長年勤務しているんですよね?」
「ええ、そうですけど?」と顔を上げ、少し目を細めて私を見てきた。
「いつも九時ごろに出勤してるんですか?」
「えっとぉ、そうですねえ、いつもそのくらいかな」
「朝の九時から、夜遅くまでやるんですよね。大変そうだな」と私は笑った。受付嬢は私を見てから、手招きをしてきた。私は身をかがませて受付嬢に近づいた。グレープフルーツの匂いがする女はささやくように言った。
「ほんとは、いつも早くても出勤するの十三時くらいなんです。今日はなんだか早かったです。塾長は面倒なのでそういうこと言うなって言ってましたけど、佐久原先生、ちょっと怪しい噂があるんですよ。みいちゃんについてのことなんですけど」
「みいちゃん?」
「あ、今行方不明になってる子です。立川美衣って言うんです。ウチの塾の子だったんです。ほら、駅の柱とかに貼ってあるあの子ですよ」
「へえ、そうだったんですか」
「ええ、でね、佐久原先生、そのみいちゃんに特別厳しかったんですよ。授業終わっても夜遅くまで補習とかしたりしてて。それでちょっといろいろあったらしくて」と受付嬢は言い淀んだ。
「ちょっと、ね」と私は頷いた。ちょっとがどのくらいかは知らないが、私にはその事実だけで十分だった。
「で、みいちゃんがいなくなったとき、警察の方もウチに来て佐久原先生にいろいろ聞いてたみたいなんです」
「そうなんですか」
「けど、みいちゃんがいなくなった時間帯には先生、ここにいたんですよ。だから、そこまでは深く追求されなかったみたいで」と受付嬢はそう言って私から顔を離した。
「よくわかりました」と私は笑った。
「どうしますか?」と受付嬢はじっと私を見てきた。
「佐久原先生の住所、教えてくれないか?」と私は言った。受付嬢は周囲にさぐるような視線を向けた。私たちの周りには誰もいなかった。受付嬢は机の上から一枚のメモをさっと取り出した。そしてそれをカウンターの上に置いた。そこには住所が書かれてあった。私はそれを取り、ポケットに入れた。
「そこです。ほんとはあたしが今日の夜に行くつもりだったんですけど」と受付嬢は言った。私は大きく笑った。
「キミは探偵に向いてるかもしれない。だが、私に任せておきなさい」
「そうしておきます」
「いろいろありがとう。これが私の名刺だ。なにかあったらここの携帯番号にかけてくれ」
「……、わかりました」
私は塾を出た。ポケットからメモ用紙を出した。住所はここから下崎家のある方とは逆方向に四駅ほど行った場所だった。ネットで検索して、そのマンションの場所を覚えてから私は駅へと向かった。時刻は十五時半を過ぎようとしていた。
目的の駅を降りても日はまだ暮れていなかった。私は佐久原の住むマンションへと向かった。駅から徒歩で十五分のところにあった。一人住まい用のマンションだった。オートロックではない。誰も拒んでいないようなセキュリティのマンションだ。私は監視カメラのない非常階段を上って、二階にある佐久原の部屋まで行った。住人に会うこともなかった。そばにある国道から車の走行音が響いてくる。212号室。私はそのドアの前に立った。呼び鈴は鳴らさない。手袋はしてある。ドアノブを回した。鍵がかかっている。当然のことだ。鍵穴を観察する。仕事ができる鍵穴だった。
私は仕事をした。
ゆっくりとドアを開けて、私は212号室に侵入した。
乾いた空気だった。私は後ろ手で鍵を閉めた。玄関には靴はなかった。人のいるような気配はなかった。靴を脱ぎ、右手で持った。足音を立てる気はなかった。廊下をするように歩き、リビングに出た。カーテンは閉っていた。テーブル、パソコンデスク、デスクトップパソコン、本棚、ソファ、ベッド。男の生活に必要なものがそこにあった。テレビのないことが気にかかったが、そういう男なのだろう。
ときおり窓の向こうから車の走行音が聞こえてくる。一通りデスク周りを漁ったが、仕事関係の書類しか出てこなかった。パソコンを立ち上げるか迷った。ここに住むような男なら、パスワードを設定しているだろう。私はそれを突破できるだろうが、その時には男が帰ってくるかもしれない。だが、問題はそうではなかった。そもそも、今ここに誰もいないと言う事実が、私の勘は外れていたということを物語っていた。
私は212号室を後にした。空は鈍色に染まっている。私が手に入れたものはなんだろう。あの男は至って真面目に塾講師をしているという事実だ。あのマンションには立川美衣も下崎フミエも居なかった。では別の場所に囲っているというのはどうだろうか。ありえる話だ。だが、しっくり来ない。立川美衣はいいだろう。佐久原がある日拉致をして、そのまま囲っている。あるいは、どこかに埋めた。それで物事は完結している。そこにどうして下崎フミエが絡んでくるのだろうか。下崎フミエは少なくとも今朝の登校途中までは自分の意志で行動していたはずだ。その登校途中に何かがあったとしよう。そう、佐久原が下崎フミエを拉致した。その後にランドセルを旧体育倉庫に放り込み、塾に出勤し、今朝駅で見かけたとウソの証言をした。完璧じゃないか。何もおかしなところはない。そうなれば下崎フミエは埋められたか、どこかで寝ているか、そのどちらかになる。私はその居場所を突き止めるだけだ。
本当にそうなのか?
私は下崎フミエの家に電話をした。3コール後に父親が出た。塾に行きその周辺を捜したとを説明した後、私は一つ質問をした。
「やはり塾用のカバンはありませんでしたか?」
「え? ああ、そうなんですよ、なかったです。さっき気になって探してたんですが、家のどこにもなくて。そうなるとフミエが持って行ったんですかね?」
「たぶんそうでしょうね」
「手ぶらだと怪しまれると思ったんでしょうか……。ちょっと息抜きのつもりなのかな。そうだといいんですけどね」と父親は不安そうに言った。
「そうでしょう。私はまた塾に行きます。手がかりがそこにあるかもしれません。ああ、あと立川美衣という子をご存知ですか?」
「あ、立川さんですか。知ってますよ。いま行方が分からなくなってるって、フミエが言ってました。同じ塾の子なんですよね?」
「そうです。フミエさんは立川さんと仲がよさそうでしたか?」
「え、ええっと、どうですかね、けど話題にするってことはそれなりの仲だったんじゃないでしょうか」
「そうですか、ありがとうございます。何かあったらまた連絡します」
「どうか、よろしくお願いします」
私は電話を切り、また下崎フミエが通っている塾へと向かった。すべての問題はそこから出てきているのだ。
南和良駅を降りて塾に着くまでの間、何人かの子供たちを追い抜いた。彼らの目的地もまた私と同じであった。ビルの自動ドアを抜けて、ロビーに入った。受付には誰もいなかった。私の後から入ってきた子どもたちは、階段を上っていった。私は受付の奥にある事務室を覗いた。何人かの男たちが机に向かって、作業をしている。その中にメガネをかけた男が居た。その男は腕時計を見てペンを置き、立ち上がって書類をまとめ始めた。私はその側まで行って、声をかけた。
「佐久原さん、こんにちわ」
「え? ああ、探偵さんですか、どうしたんですか?」
「一度お伺いしたんですが、15時ごろなんですけど。その時はいないと言われまして、また来ました」
「えっ? その時間なら二階にいましたけど」
「本当ですか? 受付の方がそう言っていたんですが」
「栗本さんが? どうしてだろ、僕が二階にいること知ってたはずなのに」と佐久原は首を傾げた。私は首を傾げるまでもなかった。
「栗本さんは今どこにいますか?」
「え、早退しましたよ、なんだか朝から調子が悪かったみたいで。彼女、ここ1週間ほどそういうことが多いんですけどね、何かあったんですか?」
「いまそれを知ろうとしているところです。ご協力を願えますか?」
佐久原は私の顔を見据えた。左手で眼鏡のツルを撫でた。
「つまり、そういうことですか」と佐久原は目を細めた。
「何か心当たりがあるようですね」
佐久原は小声で言った。
「ありますよ。そもそも立川さんがいなくなったのも彼女の所為なんじゃないかって思ってたんですよ、ここだけの話ですよ」
「どうしてですか?」と私が訊くと、佐久原は周囲を警戒するように睨んでから言った。
「移動しましょう、ここじゃだめだ」
「どこにいきますか?」
「二階の空き教室がいいでしょう。僕が採点するときによく使うんです。そこで遅くまで仕事したりね、それでまあいろいろ知ったんですよ。さあ、行きましょう」
佐久原はそう言って、私を二階の教室まで誘った。階段を上り時何人かの塾生たちとすれ違った。行方不明者が二人でていても塾は廻るのだ。
教室は小会議室と言ってもよかった。数台の長机と一つのホワイトボードがあるだけだった。私たちは椅子に座った。佐久原は話し出した。
「いやですね、そもそも立川美衣って子はどうも複雑な家庭の子なんですよ。両親は離婚していて、それで母親の方に親権が移ったみたいなんですが、母親は新しい男を連れてきてる。どうやら娘が邪魔だからこの塾に放り込んだみたいなんですよ。実際のところ、立川は夜遅く、ほとんど塾が閉まるくらいまで自習室に居ました。帰りも一人で帰ってたようです。母親が迎えに来たところなんて見たことありませんよ」
「それは、つまり家出してもおかしくはないってことですか?」
「おかしくないどころじゃないですよ、家出しない方がおかしいです。話を聴く限りほとんどネグレクト気味の扱いを受けてたみたいで。あ、この話は又聞きなんですよ、そうなんです、栗本さんから聞いたんですよ。彼女、立川が帰るとき一緒に帰ってたみたいで、家まで送ってたようです。僕がここでね採点してたり、仕事してる時は塾を閉めるのも僕の役目なんですよ。それでよく二人が遅くまで残っていて、どういうことなんだろって栗本さんに聞いてたんです。それが今のような事情で」
「つまり、佐久原さんは栗本さんが立川美衣の家出に関わってる、いや、そもそも家出先なのではないかと思ってるわけですか?」
「え、いや、まあそうなんですが、証拠があるってわけでもなくて、それにもしそうだとしても仕方がないことかなって思うんですよ。けど、やっぱり不味いですよね」
「法的には不味いですね。しかし、話をつけることは出来ます。栗本さんの家の住所はご存じですか?」
「知らないです、どうも駅の向こう側みたいですけど、詳しくは知らないんです」
「従業員の住所と連絡先は管理してあるはずですよね。それを持ってこれますか?」
「ええっと、まあできなくないですけど」と佐久原はメガネのツルを触った。個人情報の取り扱いが緩い塾だ。誰もがお互いの住所を教えてくれる。
佐久原は教室を出て行った。私は一人になって、少し頭を巡らせた。だいたいのことは分かった。あとはどう処理していくかだった。
佐久原が戻ってきたとき、時刻はもう17時を回っていた。佐久原は私のメモ用紙を渡した。そこには栗本の住所と携帯電話の番号があった。
「そこです、駅の向こうをちょっと行ったところみたいですね」
「そうですね、ありがとうございます」と私は立って、去ろうとした。
「あの、大丈夫ですかね、栗本さんも悪気があって家出を手伝ってるわけじゃないんですよ、きっと」
「悪気があるかどうかは私には分かりません。私は私の仕事をするまでです」
「仕事? 下崎がそこにいるんですか?」と佐久原は怪訝そうに言った。
「分かりません、それは彼女たち次第ですね」
「はあ? そうですか」
「ええ、では」と私は頭を下げ、教室を出た。
塾を出ると、すでに日は暮れていた。時折、頬裂くような風が吹いてきた。私は住所をグーグルの地図に入れ、案内を開始させた。徒歩で30分の距離だ。
30分は簡単に過ぎて行った。到着したのは小奇麗なマンションだった。オートロックもついている。簡単に侵入は出来そうにない。私は正攻法を取った。ロビーに入り、302号室にいる住人をカメラ付きのインターホンで呼んだ。呼び出し音は10秒ほど続いた。私はじっとカメラを見つめていた。そうして呼び出し音は消えた。誰もインターホンを取ることはなかった。私はロビーを出て、マンションのベランダ側に回った。302号室のあるベランダからは光が漏れていた。私はじっと漏れ出る光を見ていた。カーテンが揺れている。私はスマートフォンを出して、メモに書いてあった番号に電話をかけた。女は5コールで出た。
「どちら様ですかとは言わせない。この番号は君も知ってるはずだ」
「……、探偵さんが何の用ですか」
「君が早退したと聞いてね、見舞いに来たんだ。今君の家の前にいる。少し話をしないか? 立川美衣のことで」
「する気はありませんよ」
「警察に行ってもいいんだ。君も十分疑われてるよ。ただ事情が事情だから警察も本腰で捜査はしてないだけだ。だが私が少し言えば、すぐにここに来るだろう。そうして欲しいのか?」
「……、何が欲しいんですか」
「そこにもう一人いるだろう、下崎フミエという好奇心の強い少女だ」と私は302号室のカーテンを見つめながら言った。「私はその子が欲しい」
「いないと言ったら?」
「話は初めに戻る。私は警察に行き、タレこみ、君は少しだけ面倒な目にあうだろう。未成年であれば同意があろうがなかろうが、親の許可なく囲っておくのは誘拐になる。それは重々承知のことだろう。だから君は、下崎フミエもその家に囲っているのだろう? 彼女が君たちの慎ましい生活をばらしてしまうかもしれないからだ。彼女に危害を与えているということはさすがにないだろうが、彼女の身柄も拘束していたとなるともっと面倒なことになるだろう。分かるか? 君はギリギリのところに立っているんだ。私はそれを何とかできる立場にある。今なら下崎フミエを君たちとは関わりがなかったことにできるんだ。
時間を上げよう。頭を冷やして考えるんだ。私の意見に同意するなら下崎フミエを解放して、ロビーに来るようにしなさい。君は来なくていい。下崎フミエがマンションの下まで来れば、あとは何とかする。その後は君の自由にしろ。私は君たちに関与しない。下崎フミエにもそうするように伝えておく。分かったか? 5分以内にそうしてくれ。5分を過ぎても下崎フミエが来なかった場合、私は警察に行く」
私はそう言って、電話を切った。カーテンはもう揺れていない。
一人の少女がエントランスの自動ドアを通って、出てきた。今朝、写真でみた少女だった。下崎フミエは立ち止まって、左右を見回していた。私はその少女に近寄った。少女は私に気が付いて、走り寄ってきた。
「あの、丸尾さんですか?」と下崎フミエは私に訊いてきた。ショルダーバッグをかけている。怪我をしているような様子もない。頬は少し紅いが、風邪をひいているわけでもないようだ。
「そうだ。私が丸尾だ。君は、下崎フミエさんだね。君のおばあちゃんから君を探すように依頼されて、こうして探してきたわけだ。さあ、帰ろう。みんなが待っている」
「あの! 二人のこと警察に言わないでください! 私が悪かったんです、ちょっとした好奇心で立川さんを探そうとして。昨日見かけたから、もしかしてって思ってこのマンションまで来たんです。そしたらやっぱりいて、悪い人に捕まってるのかと思ったらそうじゃなくて……。私が余計なことをしたから、二人が、栗本先生が捕まるの嫌です」
「彼女たちがどうなるかは私の仕事じゃないんだ。私の仕事は君を家に帰すことだよ。君は塾と学校という忙しい生活に参って、この先にあるショッピングモールで遊んでいた、そうだね?」
「え?」
「それで、私はそこで君を見つけて今から一緒に帰るところだ。そういうことだね?」
「……、はい。そうです」
「私は今からそう君のご両親に電話をする。帰ったら君は叱られるかもしれないが、好奇心の税金みたいなものだ。探偵のようなことは探偵に任せておくんだ」と私は言って、スマートフォンを取り出し、今度は下崎家に電話をした。父親が不安そうな声で出た、私は経緯を話して、下崎フミエと代わった。下崎フミエははいはいと頷き、ごめんなさいと言った。それから、私と電話を代わった。
「これからフミエさんを家までお送りします。いえ、迎えに来なくても大丈夫ですよ。ええ、責任もってお送りしますので待っていてください。はい、では」と私は通話を終えた。
星が冴える夜空だった。私たちは無言で歩いた。駅に近づくにつれ、道は明るくなり空はもう冴えなくなった。私は二人分の切符を買おうとしたが、下崎フミエに止められた。
「あの、定期もってます」
「ああ、そうだった。そうだったな。いつも肝心なことを忘れてしまうな」と私は笑った。「君が塾をたまにサボっていたことを両親に言うのも忘れていたよ」
下崎フミエは目を丸して私を見た。
「どうして知ってるんですか?」
「知ってるさ、探偵だからね。君が彼女たちを見ることができるのは、塾のある日だけだ。そして塾のある日に、彼女たちを見るためには塾から離れた場所にいなくてはいけない。つまり君はその時には塾には行っていなかった。疲れているなら、無理をしてはいけない。人を頼りなさい」
「……、はい」と少女は俯いた。
私たちが下崎フミエの家の最寄り駅に着いたとき、その改札口には下崎フミエの両親が当然のようにいた。彼らは娘を見たとたん駆け出して、抱き着いた。人々は不思議そうにその光景を横見して去って行った。大家も居た。大家は私のほうへと近寄ってきた。
「よく見つけたね」
「運が良かっただけですよ。あとは貴方の指示に従っただけです」
「そうかい。まあ、いい仕事だったよ。アンタはうまくやった」
「私はもう帰りますよ、事情聴取は後で行くと言ってください」と言って私は去った。
「じゃあね、気を付けて帰りな」と大家は私の背中に言った。
こうして目撃者は見つかった。翌日、私はまた暇だった。家賃が少し低くなった事務所で新聞を眺めていると、小さな記事があった。行方不明の家出少女が警察に保護されたようだ。それだけが書いてあった。それ以上のことは必要がないのだ。私は新聞を畳んだ。あとでその記事を切り抜こうと思った。