3日間の恋人。~羽の靴のプリンセス~
おそらく。
僕がたった今から書こうとしているモノは、いわゆる小説や物語の類ではなく、
僕と彼女が見た「夢の記録」である。
誰にでも経験があることだと思うけれど、夢の内容を思い出すという作業は
実に困難なもので、時に「起きていなかったはずの事象」が記憶に混在することがある。
願望なのか、好奇心なのか、それとも後悔なのか、畏怖なのか…
『これが物語だとするならば、このシーンは蛇足でしかない』
と言い切れるような場面が、「結・起・承・転」の順でやってくる。
これこそまさに夢である。
僕の深層に眠る、どの感情が見せた景色なのかすらも判らない。
心の色は、見る角度によって狡猾に表情を変えているようで、
どうやら僕自身に対しても、本当の姿を見せたくないらしい。
それ故に。
僕はこの記憶がいつかカタチを変える前に、ここに残しておきたかったんだ。
だから、許して欲しい。想いの侭に、綴る事を。
そして、2度目の「はじめまして」を。
【1】
朝、目が覚めた。不思議と緊張感はなく、いつも通りの朝。
でも、おそろしいほど体が重い。鼻の奥の方に熱いものを感じる。
『まさか、このタイミングで…』
そう、この症状は毎年かかっている「それ」に酷似している。
アレルギーだかインフルエンザだか原因はハッキリしないが、
とにかく毎年、1月になると決まって高熱が出る。
体のツラさよりも、このタイミングで体調を崩す自分に腹が立った。
約束の時間は午後1時半。時計に目をやると午前10時半を回ったところだった。
『風邪なんて…ひいてる場合じゃないよ!』
気合を入れて布団を弾き飛ばすと、そのままの勢いで支度を始めた。
意外と早くに身支度を済ませた僕は、車の洗車を始めた。
誰かのために車を洗うなんて久しぶり。
通りすがった近所のおじさんが『キレイになりますね。』
と一声かけて去っていった。
なんだか、現実のような夢のような。不思議な世界を見ている感覚だった。
いつも見慣れている風景や、毎日挨拶を交わすおじさんも、
なんだか今日は違って見えたから。
程なくして僕は、約束の時間に向けて車を走らせる。
午後1時を過ぎたあたりだろうか、友人の秋城信からメールが来た。
『葵ちゃん!今日、香川の人来る日だよね?会えた?』
そう。
今日、香川の人、来る日。
僕が今日という日をどれだけ待ちわびたことか。
今日は、僕がネット上で付き合っている(交際しているという意味ではない)女性が、
初めて僕の住む東京に遊びに来てくれる日なのだ。
お互いのブログにコメントを送り合うコト数か月、そこから個人的な会話をするまでには、
さらに数か月を要した。僕はいわゆる「出会い目的」で異性に声をかけるのが苦手だったし、
「そういう出会い」が蔓延るネット上だからこそ、極力そう思われないように言動には注意してきたつもりだ。
それが功を奏してか、彼女の警戒心は徐々に解れていったようで、僕たちはいつしか互いに興味を持ち、
「会って直接話をしてみたい」というところまでこぎ着けたのだ。
「結果、出会い目的なのでは?」という意見については、声を大にして否定したい。
「出会いを目的として話しかけた」のではなく、「話しているうちに出会いたくなった」のである。
これは、大きな違いだ。もちろん、僕に下心などは微塵もない…はずである。
この一連の流れをよく知っているのが、信だ。
忍と僕の関係は話せば長くなるのだが、端的に言えば「モトカノ」というヤツだ。(思ったよりも短かった)
僕たちは学生時代に数年間付き合い、互いの仕事が忙しくなると自然に別れた。
別れた…というよりも、関係を解消したという方が正しいかもしれない。
僕たちは、別れた次の日も自然と電話をするくらい、当たり前の存在だった。
だからなのだろうか。僕はネット上の身の上話も彼女にだけはしていたし、
時に恋愛話のアドバイスすら仰いでいた。モトカノ相手に恋愛話とは
デリカシーのない男だと自分でも思っていたのだが、サッパリとした性格で
モトカレを引きずらない信に関しては、そんな気を遣わなくても良いらしい。
僕としては、男友達よりも楽に接することができる「盟友」だった。
『どう?今度は大丈夫そう?あの時と同じ失敗をしちゃダメだよ!?』
そう、あれは…忘れもしない、一昨年のクリスマスだ。僕はネットで知り合った女性と待ち合わせをしたものの、
なぜか現地で会うことができずにフラれるという大失敗を犯した。
(その後、「実は彼女は来なかったのではないか?」という疑惑が持ち上がったが、僕は断固として受け入れなかった。)、
これこそ話せば長くなるので割愛するが、その経緯を知る信が、また同じ失敗をするのではないかと連絡を入れてきたのだろうか…。(まぁ大半は好奇心のはずだが)
『いや、これから会うとこ。今、東京駅。でも、なんか風邪っぽくてさ…』
『なんかこっちがドキドキしてきたよ!どうなるんだろうねぇ!?』
風邪の話は見事にスルー。このあたりは彼女らしい。
それにどうなるって…。会えなきゃ困るって。でも、今度はケータイも持っているし、
どうしてかわからないけれど、「あの人」なら当たり前に会えそうな気がしていたんだ。
メールのおかげで緊張が解れた。時計を見ると、約束の1時半だ。
ジャケットのポケットからケータイを取り出すと同時に、手のひらに振動が伝わってきた。
画面には、「彼女」の名前が躍っている。
『アオ!来たよ!いまドコ?』
『あ……!』
探すまでもなく、その人は僕の目の前にいた。
今日一日彼女といて、一番不思議だったのがこの瞬間だった。
【2】
何故なら、
その時、口をついて出てきた言葉は、意外にも
『おっ、いたいた!』
だったからだ。
僕と彼女は初対面で(写メは送り合っていたけど)
基本的に僕は彼女の見た目を知らない。写真と実物は大きくイメージが変わるもので、
実際に見てみたら、イメージと全然違う!なんてことも少なくない。
だけど、今まですごく遠くに離れていた糸がスルスルと引き合うように。
ビックリするほど自然に、僕らは出会った。
お互い、ほとんど挨拶はなかった。
『よし、じゃあ行こうか!』くらいの感覚。いつも遊んでいる友達の感覚。
これがホントに初対面の2人の姿だろうか。
僕は特に女性に対して人見知りをするタイプなので、いっそうその気持ちは強かった。
すぐさま彼女を連れて車へ向かう。いつもなら気後れするところだ。
普通に考えて、初対面の男の車に1対1で乗り込むなんてありえない。
僕はそういうところを気にしてしまうし、断れない状況で申し訳ないという
感覚が強かったのを覚えている。
でも、彼女はそんな心配などどこ吹く風で、まるで何度も乗ったことがある乗り物のように
僕の車に飛び乗った。
会話はスムーズだった。僕にしてみれば、驚くくらいスムーズだった。
人見知りとは言ったが、実は僕は本来、話ベタではない。
初対面でも、異性を意識しなければフツーに接することができるし、
相手のちょっとした話題を拾うこともそれほど苦にしない。
でも、それ以上に彼女は会話がうまい。会話のふり方も自然で、聞き手にまわったときの
反応もいい感じだ。
パソコンのチャットで話す彼女のイメージそのままに、会話は弾んだ。
【3】
今日のランチは、築地でお寿司。
「オシャレなカフェでも」と思い事前に調べていたが、カフェは3日目に行くコトになっているので
パスした。まぁ築地なんてフツーの旅行では行かない場所だろうし、これも楽しいかな、なんて。
東京駅からしばらく走ると、大きな魚の看板が見えた。適当な駐車場に車を停めて、お店を探す。
実を言うと、僕はそれほど築地という場所に来たことがなかったので、
正直に『あんまり知らないんだよね』と告げた。
何軒かのお店を回り、人がたくさん入っていたお寿司屋さんに決定。
僕は女性を引っ張りまわすと遠慮してしまう方なので早めにお店を決めようとしていたが、
『あっちのほうも回ってみようよ!』
彼女は僕の中の冒険心を見透かしたように、僕を引っ張ってみせた。
お寿司を食べながら、ようやく普通の会話。
『何時に家を出たの?』とか『飛行機どんなだった?』とか。
そういえば普段チャットでこんな話しないな…。会って初めてできる話ってヤツか。
なんだか新鮮な感じがした。
食事のあとはお台場へ。
築地からの道筋は、実はよくわからない。
断片的な記憶を辿り、『多分こっち』的に道を選んだら
高速道路の入口に入ってしまった。猛烈にカッコ悪い。
『え?高速乗るん?』
当然の質問だ。だって、築地からお台場なんて、地図で見たら目と鼻の先だもの。
ただ、僕はこれでもいいやと思っていた。
以前、「お台場に行くときは、車でレインボーブリッジを渡ってあげるよ。」
なんて約束をしていて。ホントは夜に渡ろうと思っていたんだけど…まぁいいか。
『ね、これ昼間の方がキレイだよ。夜も多分キレイだと思うけどさ。』
彼女のフォローがやけに温かく感じられた。
およそ3分ほどのハイウェイドライブを終え、お台場の海沿いへ。
もうここ何年も僕の癒しの場所になっている、潮風公園だ。
ここに人を連れてくるのは久しぶりだった。もっとも、今まで連れてきた人間も限られてはいるが。
緑の木々が作り出した壁を抜けると、突然視界が大きく開けた。
『わぁ〜!』
広がった景色に、彼女は声をあげた。夕陽のオレンジが光る海。
遠くに建ち並ぶ工場のクレーンが、その空間をどこか幻想的に見せていた。
実を言うと、僕がこの場所を好きな理由は、景色が綺麗なだけではない。
これだけ空と海が広くて、幻想的で、静かな空間なのに…まったく人がいないのだ。
彼女は感嘆の声をあげたテンションそのままに、隣で声をあげる。
『ふたりっきりやん!』
『いい場所だろ?』
そう、ここはとっておきの場所なんだ。
普段は誰も連れてこない…あのとき、ひとり傷を癒していた場所。
誰にも見られたくない自分がいた場所。
どうして彼女をここに連れてきたくなったのだろう。
【4】
その後、修学旅行生たちに交じって、僕らはフジテレビへ。
ここで僕は、身体の異変に気付いた。先ほどから、止めどなく鼻水が流れてくる。
鼻の奥がだるくて、どうも熱っぽい。動いているのでアテにはならないと思いつつ、
頚動脈から脈をとってみた。予想通り、かなり速い。まるで全力疾走をしている最中のようだ。
どう考えてもこれは…熱がある。
僕は彼女に気取られないよう、視線をはずして会話していた。
おみやげをひと通り見終わると、僕の体力は限界間近だった。
そんなタイミングを見計らったように、信からメール。
『おい!熱なんて出してる場合か!お前それでもロマナーか!』
ロマナー。それは、「ロマンを愛する人」である。
世の中には「ロマンチスト」なる言葉もあるようだが、
「そんな使い古された言葉で、この壮大なロマンを語ることはできない。」
とした我々は、あえて斬新かつ不格好な言葉に拘った。
『ロマナーね…変な言葉覚えやがって…。』
でも、その言葉には一理ある。
まだ彼女とは合流したばかり。
ここで熱など出している場合ではないのだ。
僕は気合を入れなおして、
次なるポイント、アクアシティへと向かった。
アクアシティというのは、いわゆるショッピングモールだ。
ファッション、グルメなどあらゆるジャンルのお店が軒を連ね、
海辺という絶好のロケーションも手伝って、デートコースの定番だそうだ。
ここでは、彼女の洋服を見た。
春物でもいけそうな、グリーンのコート。
いろいろな服を試着してもらって楽しかった。
いつの間にか、熱のことなど忘れてしまうくらい。
「女性の買物は苦手」という男性の気持ちはよくわかる。
けれど、僕は意外と女性が服を買うシーンは好きだ。
試着室からどんなカッコで出てくるのかな?なんて期待すると、
「見るものがないから退屈」という考えを緩和させることができる。
さらに、こっちの服を着てもらったらどうだろうか?とか、
この服を着せてみたい!みたいな感覚…いや、もはや妄想と言うべきだろうか。
自分の好きな人に対する妄想があれば、この場面は乗り切れるのだ。
アクアシティを出ると、もうすっかり夜。
陽も落ちて、「自由の女神」「レインボーブリッジ」「東京タワー」
の3つが一気に見られるという個人的名所「自由のレインボータワー」
がいっそう明るさを増していた。
何の事だかよくわからないと思うので説明するが、お台場には、
どこかの都市から友好の証に贈られたとかで小さな「自由の女神」が立っており、
その女神様の肩越しに「レインボーブリッジ」と「東京タワー」が見られるという、
絶景ポイントが存在するのだ。
あまりにも安直ではあるが、僕はここを「自由のレインボータワー」と命名していた。
『すごーい!』
彼女は瞳をキラキラとさせて、夜景に目を奪われている。
香川には、こんな景色はないだろうか。
『ホントにキレイだね〜!』
『いやいや、キミのほうがキレイだよ。』
僕はマフラーで口元を隠しながらつぶやく。
隣には、キョトンとした彼女の顔。面白い反応だなぁ。
『笑いがこらえられないから、口元隠して言ってみた!』
『失礼な〜!』
彼女は本当にいい子だな。そんな風に思った。
言葉にはキチンと反応して、理解しようとする。
だけど、冗談もわかってくれる。
彼女のいい部分を、再確認した気がした。
写真を撮るカップルを横目に、僕たちはベンチへと並ぶ。
『寒い?』
鼻をすする僕に彼女がそう言った。
『あぁ…うん、ちょっとね。でも大丈夫。』
ホントはすごく寒かった…
でもこういう時、男子としては我慢するしかないよね。
【5】
体力とテンションが上がってきたタイミングを見計らって、車に戻り出発。
帰り道、レインボーブリッジからお台場海浜公園を見下ろすと、
街の灯りがキレイなイルミネーションとなって輝いていた。
雑誌やテレビで見たことがある、あの香港の…100万ドルの夜景っていうヤツ?
なんだかアレに似ている気がして、彼女に見せたかった場所でもあった。
『うわぁ〜、これでじゅーぶんやわぁ!』
流石に香港には及ばないけれど…どうやら気に入ってくれたみたいだ。
子供のように景色に見入る彼女に、
「さっきの驚きかた、おばちゃんみたいだったよ」
と伝えると、笑顔で「うるさいわ」とだけ返ってきた。
なんだか、心地良い空間だった。
彼女は御茶ノ水で友人とお酒を飲む約束をしていて、
僕の役目はここでおしまいだった。待ち合わせ場所まで
彼女を送って、車を停める。
『…ねぇ、実はさっきから思ってたんだけど…』
『もしかして、体調悪いんじゃない?』
手を振ろうとする僕に、彼女が神妙な面持ちで語りかけた。
『!?』
『手、出してみて?』
『え、えっと…』
『いいから、ほら。』
『…はい。』
僕は手をグーにして、手の甲を彼女の手のひらに置いた。
手のひらを重ねたら、確実に熱があるのがバレる…。
『ん〜…熱はないみたいやな。』
彼女の手が僕の首に触れる。冷たくて気持ちいい。
良かった、首は大丈夫で…。
彼女の柔らかい手にドキドキしながら、僕はそう思っていた。
『ホント、大丈夫だよ。久々に緊張したから、知恵熱が出たのかも!?アハハ。』
意味のわからない言葉と共に、僕は彼女を送り出す。
彼女はイマイチ納得がいかないといった表情だったが、
それでも多くは語らず、僕の言葉を飲み込んだ。
『じゃあ…また明日ね。』
『うん。また明日。今日はありがとう。』
…彼女がいなくなった瞬間、肩がガクッと落ちたのがわかった。
結局僕は、気力で動いていただけなのだ。
寒気がひどく、急激に体温が上昇するのを感じる。
今思えば、帰り道の運転はかなり危険だったのかもしれない。
それでもなんとか家にたどり着き、薬を飲んですぐさま睡眠。時間はまだ9時台だった。
僕は熱にうなされながら、長い長い夢を見た。
彼女に会ってから、今までの夢。今まで話したこと。聞いたこと。
いろいろなことを思い出していた。
いつの間にか眠っていた僕は、大量の発汗で目が覚めた。
「これだけの体調だ、仕方ないな…」と思っていたら、
『熱あるんなら計ってみれば?』
と、妹が体温計をよこした。
でも…僕はそれを手にしなかった。もう熱があるのはわかりきっているし、
それを再確認したところで弱気になるだけだ。
明日朝起きてなんでもなければ、「熱なんて出ていなかった」で片付く。それでいい。
強気な言葉とは裏腹に、僕は祈るようにして眠りについた。
【6】
2日目。
朝、布団の中で拳を握ってみる。
『大丈夫…力入る。』
体調は、戻っていた。いや、戻したというべきか。
就寝前、結構な薬をチャンポンして、ドリンク剤で一気に流し込んだ。
あまり褒められた改善方法ではないが、一時しのぎにはなる。
いわゆる「体力の前借り」状態で反動は必至だが…
「彼女が待ってる」
それだけで、僕はその方法を選んだ。
『おはよう!これから向かうね!』
彼女にメールを送り、そのまま東京駅へ。
しかし僕は、ここでものすごく重大なミスに気付く。
『うあ!歯ぁ磨くの忘れたー!』
ありえない。ありえなさすぎる。
財布もケータイも持ったのに、まさかそんな罠があろうとは。
待ち合わせの時間はギリギリだったけれど、
すぐさまコンビニでハブラシを買って、
丸の内のオフィス街で歯を磨く。
偶然にも、すごくキレイな給湯室みたいな場所があって、
申し訳ないと思いながらも、そこを拝借した。
「ツイてるんだか何なんだか、わからないな。」
そんな風に思いながら、待ち合わせの時間を気にしていた。
彼女はコンビニで僕を待っていた。
すぐさま僕に気付いた彼女は、一瞬笑顔を見せてこちらへ向かってきた。
『ごめんね、遅くなっちゃって…!』
『私、ちゃんと場所覚えてたでしょ?偉い?』
あぁ、そうか。彼女はこういう風に気遣ってくれる人なんだ。
朝からちょっと嬉しかった。
【7】
2日目の目的地は、横浜。
車は軽快に高速を抜け、ベイエリアへと向かっていた。
クイーンズスクエア、ランドマークプラザでショッピングを済ませ、
お茶をしながらひと休み。
『何度か来た事あるから、私の方が詳しいね!』
クリームが乗ったフレンチトーストと、ベーコンエッグマフィンを
器用に取り分けながら、得意顔で話す彼女。
デートコースといえばコレでしょう!といった感じで
僕がチョイスしたのは、お台場・横浜というベタなコースだったが、
実は横浜に来るのはこれが2度目であり、当然ながら土地勘などというものはない。
彼女は以前に横浜に来たことがあるらしく、僕は彼女のガイドに素直に従った。
それにしても、今日は朝から体の節々が痛い。
もう熱が出たから以外の何物でもないのだが、左脚の腿が
特に痛くて、彼女に心配をかけてしまった。
わからないようにしているつもりではあるのだが、椅子に
座ろうと脚を曲げた瞬間に結構な痛みが走るので、一瞬動きが止まってしまう。
『脚、痛い?少し休も?』
彼女はここでも、当たり前に優しかった。
『…お友達は、どういう人なの?』
今日の夕食は、僕の古くからの友人である笹薗雅也、
通称「ゾノ」のお店で天ぷらを食べることになっている。
彼女は、先ほどからゾノのことをしきりに気にかけていた。
僕はひとこと「変なヤツだよ」とだけ告げた。
これは決して彼女の緊張を解くためではなく、ゾノは
確かに変なヤツなのである。
今で言う「いじられキャラ」、ちょっと前の言葉ならば
「ネタキャラ」と言ったところだろうか。
ウケを取るためならば喜んで身を投げ出すタイプの人間であり、
今回も密かに何かを企んでいるかもしれない。
僕は、ゾノが何かを用意していた時のために、あまり多くを語らずにおいた。
『緊張するような相手ではないから大丈夫だよ。』
初対面の人間に緊張しているのだろうかと思ったが、
彼女は『会うのが楽しみやわ。』と笑っていた。
そのあとは、「横浜ビブレ」というお店を探して移動。
なんでも、どうしても行きたいお店があるらしい。
場所がわからず道に迷ったが、「美味しいシウマイ崎陽軒」のおばちゃんに
道を教えてもらった。とても親切にしてもらい、地図までもらった。
『良い旅を。』
今となっては、あまり聞けなくなった言葉。
なんだかとても温かい気持ちになれた気がした。
彼女はずっと、アクセサリを見ていた。
うん、たしかに今まで、彼女がアクセサリショップで見ていたのは
メンズだったな…と思い、
『彼氏、シルバー好きなの?』
と、ちょっとだけ訊いてみた。
彼女の恋愛事情は知っている。あまりにもうまくいかない現実。
きっと彼女は彼が好きだ。そして、彼も彼女のことが好きなのだろう。
気持ちは同じなのに、すれ違う毎日。
別れを切り出していないだけで、付き合っているとも言い難い状況なのだそうだ。
嫌な事を思い出させてしまっただろうか、彼女の声も、次第にトーンが落ちる。
『ごめんね。』
『なんで謝るの、全然大丈夫だよ?』
『ごめん…』
いつもはチャットで悩みを聞いている僕だけれど、実際隣に彼女がいると、余計に引き込まれた。
身の程知らずにも、ホントは抱き寄せて『大丈夫』って言ってあげたかった。
ただ安心させてあげたかった。でも自分は彼氏じゃないし…そんなことをしたら大変なことに…
でも…葛藤はあったけど、僕はそんな彼女を前に何も言わずにいられなかったんだ。
『俺は確かに彼氏ではないけど…少なくともここにいる間は彼女だと思って接してるからさ。』
な、何を言ってるんだ自分!どん引きだよこりゃ!サラっと言えば大丈夫なんて
軽く考えてたけど、めっちゃ恥ずかしいことになった!内心、ヒヤヒヤなんてものではなかった。
黙っているのが余計に恥ずかしかったので、「サラっと言ったけど、やっぱ恥ずかしかったわ。」
と言って誤魔化した。彼女は一瞬、クスリと笑った。
【8】
夕食は某有名ホテルの天ぷら屋さん。
友人のゾノが板前を務める、格式の高いお店だ。
普段は絶対に行かない(行けない)お店だが、彼女が東京に来ると決まってすぐ、
彼に打診した。どうしても、何か変わった文化に触れて欲しかったんだ。
『東京は、地元にはない何かがある』
そう思ってほしくて。
ゾノと彼女は、すぐに打ち解けてくれた。
とても不思議な光景だった。いつも遊んでいる友人と、画面の向こうにいたはずの彼女。
そのふたりが、今こうして僕の目の前にいる。世界が繋がる音が聞こえた気がした。
彼女は明るい雰囲気で楽しく食事ができる人で、場のバランスを取るのが上手い。
特に相手をフォローするのが上手で、気回しのできる人だ。
それは、初対面である友人との会話のバランスにも見て取れた。
マナーを気にできるほど僕は慣れてはいないけれど、彼女のそれがとてもキレイな
ことも理解できた。「どこに出しても恥ずかしくない、ステキな人だな。」
正直な感想だった。そのくらい思っても、いいよね?
食事を終えた彼女は、とても満足そうだった。
年末から打ち合わせしていた甲斐があった。ようやく、おもてなしできた気がした。
わざわざこんな遠くまで来てもらって、いろいろしてあげたいと思っていたから、
自分にしかできないオリジナルが披露できて、僕自身も嬉しかった。
『お腹いっぱいだね〜♪』
ご機嫌の彼女をホテルまで送り、手を振りながら車を走らせる。
そう、わかりきっていた。もう限界かも…。
僕は一つ目の角を曲がると、車を停めてコンビニの前で休んだ。
薬の飲みすぎで胃は荒れているし、そこにこれ以上ないくらい
天ぷらを食べまくったから…。それに、頭がフラフラする…。
車の中で、自分のサイドだけ窓が曇っていることに気付いた。
「実際、熱もあるっぽいか…」
かなりヤバい状態だった。昨日も今日も、かなりの綱渡りだ。
でも、とっても楽しくて。夢みたいに楽しくて。そんなの忘れてたんだ。
それくらい、幸せな時間をもらったから。代償は当然だったのかもしれない。
30分ほど寝ただろうか。少し動けるくらいの体調にはなった。
間違っても戻したりしたくなかったし、今日の食事は身体にあげたかった。
『明日のこと、相談しよ!メールして!』
彼女のことを思い出した。もう結構時間経ってるもんな…。
あまり土地勘のない場所ではあったけれど、車を飛ばして帰った。
【9】
3日目。
今日は最終日。彼女が香川に帰る日。
相変わらず体調はイマイチだったが、もう熱も下がり、かなり上向き。
品川のカフェで朝食をとり、おみやげのクロワッサンを買った。
ただ、僕はどうしてこう認識が甘いのだろう。
「そこまで長居はしないかな?」という感覚で路駐していたら、
すっかり1時間も停車してしまい、駐禁を切られてしまったのだ。
彼女がいるのに!これ、とんでもなくカッコ悪い!
ホント、今までの人生でも3本の指に入る恥ずかしさ。穴があったら入りたい。
『ごめん、最後までカッコ悪すぎ、真面目にごめん!』
心の中で、何度も何度も謝った。そして、自分の認識不足がイヤになった。
もちろん、お金が惜しいのではない。ただただ、僕が馬鹿なだけなのだ。
だけど、彼女はここでもフォローしてくれた。ありえないくらい。
『ダメ!絶対罰金半分払う!』
『そんなのもらえるわけないよ!俺が悪いんだから。』
『もらわないなら、ここで車降りてひとりで空港行く!』
『…』
『どうする!?』
『でもやっぱりもらえないよ』
『そんなこという人嫌いだよ。もう口もきいてあげないよ?』
『(ダメだ…聞いてもらえそうにない…)わかった。じゃあ預かっておくよ。』
口ではそう言ったが、もらえるはずがない。この場はとりあえず受け取って、
あとで彼女のカバンに忍ばせようと思っていた。
『今度たくさん降りるときは駐車場入れよう?少しのときは路駐でいいけど。
あ、私が言えることじゃないんだけどね。ホントにごめんね。』
多分彼女は、これをふたりの教訓として解釈しようとしてくれているのだろう。
『次は駐車場入れなよ?』ではないのだ。
さらに、自分が違反で切符を切られたときの話をして、なんとか元気付けようとしてくれた。
「ブルー入ってるのわかるから…」
あぁ、本当にこの娘は、なんてステキなんだろう。
不謹慎にも、僕はそんな事を思っていた。
【10】
違反の件ですっかり時間を取られてしまったけれど、気を取り直して
僕らはカレッタ汐留へ。僕自身もよくわかっていない未開拓ゾーンに
彼女を連れて行くのは勇気が要ったが、僕はもう場所はどうでも良かった。
彼女はもうすぐ帰る。時間ももうない。できるだけ。ひとつでも多く。
『想い出を残して帰ってほしい。』
それだけ…ただそれだけを考えていた。
日テレタワーで、初めて2人の写真を撮った。
(厳密には、入口で声をかけてきたキャンペーンの着ぐるみもいたけれど)
そこにいたのはもう初対面の2人ではなかったし、それこそ僕は
自分の彼女とデートしている気分だった。それくらい彼女を信頼して身を任せられたし、
すごく自然な姿でいられた。よく考えてみれば、まだ顔を合わせて2日しか経っていないのにね。
でも、もう疑問はなかった。
彼女は、画面の向こうに見えた彼女そのままだ。一分の狂いもない、そのままの姿を僕に見せてくれている。
僕の疑問を、瞳で振り払ってくれる。
そのくらい彼女のまなざしは力強くて、彼女の中にある感情をストレートに表現していた。
僕は彼女の瞳を見るだけで、大丈夫って思えたんだ。
2人で服を見ながら、彼女が試着している最中に先ほどのお金を彼女のカバンに入れた。
やっぱりもらえない。もらえるわけないよ。
ただ、いくら仲が良くても、彼女のカバンを無断で開くのはとてもとても気が引けて…
だけど、もう時間もないし、タイミングもここしかないと思った。
僕はカバンの中を見ないようにして、なるべく端の方にお金を忍ばせた。
僕がもっと遠慮のない人間で、カバンの底に入れることができたなら、きっとこのお金は香川まで見つからなかったんだろうな。
試着を終えた彼女は、試着室のカーテンからちょこんと顔を出してキョロキョロしていた。
僕を見つけた店員さんが『あ!いらっしゃいましたよ!』と彼女に告げた。
ん…?僕を待っているのか?
『どうかな?』
彼女は鏡と僕に笑顔で語りかけた。
ねぇ。オレ、いいのかな?こんなに恵まれた時間を過ごして。
すごく心が穏やかで、『また明日』と約束して別れられる人がいて、
待ち合わせ場所に行ったら彼女が笑顔で僕を迎えてくれて…。
たいして面白くもない場所だろうに、彼女は笑ってくれる。
もう、自分にこんな時間はないと思ってた。
申し訳ない気持ちがないわけじゃなかった。
「もっと楽しませてあげられたら良かったのに」
ずっと思ってた。
でも彼女は、「そんな心配要らないよ」って、瞳で語ってくれていた。それがわかった。
嬉しかった。本当に嬉しかったよ。
【11】
飛行機の時間は刻一刻と近付いて、車は羽田空港へ。
おみやげを見ながら。彼女がお手洗いに立ったスキを見ながら。
「お金、返さなくちゃ…」そればかりを思っていた。
でも、彼女は僕に釘を刺した。
『意地悪したらイヤだからね?』
胸が苦しくなった。涙が出そうだった。
ほどなくして、搭乗のアナウンスが館内に流れた。
『じゃあ…行こうかな。』
『…あぁ、うん…。』
うまく言葉が出てこない。隣を歩く彼女もそうなのだろうか?
そんな事を思いながら、搭乗の列に並ぶ。
彼女の姿を見ることはできる。でも、やっぱり言葉が出てこない。
僕は、言葉の代わりにぽんと彼女の頭に手を乗せ、髪を撫でた。
拒絶されたらどうしようなんて、いつもなら思うところだけれど…
僕には…僕たちには、そんなことを思っている時間はなかった。
『…絶壁だな。』
目一杯の照れ隠しだった。
自らの名誉のために断っておくならば、僕だって、いいオトナだ。
これまでの人生で女性の髪を触ったことがないわけではないし、
その感触を知らないわけではない。
でも、それでも。
こんな気持ちになったのは、生まれて初めてかもしれない。
彼女の髪は柔らかくて真っすぐで、触れた手のひらがスルスルと
滑るのがわかった。僕の心臓はかつてない強さで拍動し、
文字通り、心臓が飛び出そうな勢いだった。
優しい笑み。いつの間にか縮まる距離。僕は右手を高く上げて、彼女の手を呼んだ。
ハイタッチというにはあまりにも切ない音が響いて、2人は離れた。
「ありがとう」?それとも「また遊びに来てね」?たしかに自分の中にある感情。
でも、ここで使うセリフじゃなかった。どうしてかわからないけど、そう思ったんだ。
列が流れて、別れのときはもう目前だった。
『あかん、泣きそうや。』
僕は彼女の真似をして、慣れない関西弁で笑顔を作った。
『そうやな、また来るからさ。』
これくらいの反応を予想していた。
だけど、僕の目の前には、彼女の手があった。さきほどとは逆に、僕の手を呼んでる。
今度は手のひらをすぐに離さずに…軽く握ってみた。
彼女の優しさが流れ込んできた気がした。
言葉は何も出てこない。ただただ、切なかった。
でも、伝えたいことはたくさんあった。彼女の笑顔を見つめて、
心の中でたくさんの言葉をかけた。
「僕はここにいるよ。だからキミがひとりぼっちになることなんてもうないんだ。」
恥ずかしすぎるセリフ。もちろん声には出せなかった。でも、一番かけてあげたかった言葉。
ひとりぼっちが悲しかった、彼女にかけてあげたかった言葉。
手から伝わる彼女の温かさと、その笑顔に愛しさが溢れて…一瞬、時間が止まったようだった。
搭乗の列の中で手を握り合う2人。周りからはどう見えたのだろう。
恋人同士に見えただろうか。
彼女が列の奥に消える瞬間、ようやく出てきた言葉は
『またね!』
だった。
また会おうね。また話そうね。またこんな時間を過ごそうね。
そんな『またね』だった。
彼女は
『うん!』
と力強く頷いて…人の波に消えた。
【 第12幕。 翔け抜ける想い。】
帰りたくなかった。羽田から出ることができなかった。
僕は、何をするでもなく空港をウロウロしていた。
あまりにも落ち着かないので自販機でジュースを買って、
TVでしか見たことがなかった空港のカウンターをボーっと見ていた。
『TV…?』
そうだ、たしかTVでバードビューを見たことがある!
金網のフェンス越しに、フライトを見送れる場所だ。
時計は16時13分を差していた。
彼女の便は16時20分発。あと7分しかない。
『…どこにあんだよアレ!』
どこの案内を見ても、そんなことは書いていない。
僕はアテもなく走り出した。
病み上がり(いや、まだ病み中というべきか)の体に
長時間のダッシュは流石に堪えた。でも、エレベーターは来ないし、
エスカレーターは混んでいるしで、方法は階段しかなかった。
バードビューなんて名前だ、きっと上のフロアにあるはず。
それはもう、根拠のない賭けだった。でも、僕は走った。
6階まで駆け上がると、柱に小さく案内が見えた。
『マジか!?』
どうやら最後の最後で、賭けには勝てたみたいだ。
息を切らせながら時計を見ると、16時19分。ギリギリだ。
いや、もしかしたらもう出発しているかもしれない。
どの便かだって全然わからない。でも、そんなのどうでもよかった。
狭い階段と長い廊下を抜けると…景色が開けた。
あのときお台場で見たのと同じ、オレンジ色の空だった。
ゆっくりと動く飛行機を眺めながら、僕は涙を堪えるのに必死だった。
『なんで泣くんだよ…!』
自分に訊いてみたくなった。
彼女はあんなに楽しそうだったじゃないか。きっと役目は果たせたはずだ。
これで十分満足だ…満足のはずなんだ。なのにどうして…涙が出てくるんだよ…!
まばらだった人影から小さな子供たちが足元を駆けていって…
金網のフェンスにしがみつきながら
『ねぇ、あれかなぁ?』
僕に声をかけた。
『あ…』
一粒、一粒だけ。我慢できなかった感情がこぼれた。
ただこの一瞬が切ないだけじゃなかったんだ。
僕と彼女の道は、この一瞬にだけ存在するのではない。
今まで続いてきた道、そしてこれから続いていく道。
それを思ったら悲しくて…切なくて…嬉しくて。
そんな想いだったんだ。
【12】
心を羽田に置いてきたような感覚に囚われながら、
僕はPCの電源を入れる。これはもう習慣のようなもので、
何かを期待していたわけではなかった。
でも…
彼女のブログには、もう彼女の言葉が書き記されていて。
そこにはこうあった。
『あたしは3日間、夢の国に行ってた。
大きな羽のついた靴を履いて空に飛び立ち、
着いたその先は夢の国だった。お姫様になれた。』
涙がボロボロ零れた。バカみたいにボロボロ。
この話は、他人から見たら他愛もない話なのかもしれない。
「随分と大袈裟に書くなぁ。」そう思う日が来るかもしれない。
でも、僕はこの文章を涙なしに見られなかったし、
ずっと忘れたくなかった。だからこうして、ここに書き記しておくんだ。
『ねぇ、僕は、ちゃんとやれてたのかな?』
彼女の文面を見て、自問自答を繰り返す。
涙で歪んだ画面の向こうには、彼女の笑顔と…あの優しいまなざしが見えた気がした。
☆
………
それは…とてもとても満ち足りた時間で。
これから先の人生で、こんな時間を持つことができるだろうか。
そう思った。あたしの魔法使いは、どんな願いも叶えてくれる。
最後の願いさえも叶えてくれそうな…そんな想いだった。
同じ時間に更新された、彼のブログ。
写真には、羽田空港の大きなアーチがあった。
それは、空を飲み込む切ない朱で、
あたしにとっては、鮮やかな黄色だった。
飛行機に乗って、動き出す時間。
現実へと戻るカウントダウン。
零れそうな涙を必死で堪えた。
滑走路の変更で、フライトが5分遅れるとアナウンスがあった。
もう、窓の外しか見ていなかった。
ずっと、ずっと見ていた、その景色。
乗り物酔いの激しい私はいつも景色から顔を背けるのに、
やがて機体が傾いて景色が斜めになっても、その視線は外せなかった。
羽田空港が遠く離れる。
雲の隙間から見た夕陽は、朱ではなく黄色だった。
同じ時間を、同じ気持ちで共有できた。
それだけで満足しなければ。そう自分に言い聞かせた。
高松の空港に降り立つと、すぐに携帯が音を立てた。
アオからのメール。見なくても中身は解っている。
あたしも、同じ気持ちだった。
返信のメールを打つ指が止まる。
本当にこのメールを返しても良いのだろうか。
あたしの気持ちは…
……
あたしは、携帯を閉じて歩き出した。
アオへの返信はできない。しちゃいけない。
こんなあたしに、優しくしてくれる。
大丈夫だって、勇気をくれる。
でも、だからこそ、甘えちゃいけない。
これは、あたしが選んだ世界。
あたしはこのひとりぼっちの世界で…
自分の力で、生きていかなくちゃいけないんだ。
ありがとう、アオ。
ここはきっといつか消えてしまうブログだから、一度だけ本当のことを言うよ。
本当に、本当に大好きだったよ。
ブログでやり取りをしたことも。私が彼氏の相談をしたことも。
電話料金を気にしながら長電話したことも。
空港で、最後に手を握ったことも全部。
絶対、絶対忘れないよ。
こんなあたしに、3日間の夢をありがとう。
一生分の幸せが、そこにはありました。
アナタと一緒だから、嘘のない、本当のあたしでいられたんじゃないかなって…
そんな風に思っています。
話したいことは沢山あって。
伝えたいことも沢山あったけれど。
このへんにしておきます。
どうか、アオも幸せに。元気でいてね。
それじゃあ…バイバイ。
【13】
それから僕は、長く続けた出版社の仕事を辞め、
翻訳会社で通訳の仕事を始めた。
昼夜が逆転したようなマスコミの仕事から、
完全なる朝型サラリーマンへの転身。
仕事が終われば帰って寝るだけの生活が続き、
PCを起動する機会は激減した。
その後、僕のブログに彼女が現れることはなかった。
携帯の番号を知っているのだからかければ良いのだと思うが、
なんだかそれは憚られた。
彼女がブログに姿を現さないことが、彼女の答えである気がしたからだ。
僕は彼女との時間を忘れるように、仕事に没頭した。
それから、3か月が経った頃だろうか。
僕のブログに、こんなコメントが書き込まれた。
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♪ななし♪さん
夢の続きは誰も知る事はできないんですか??(20XX年02月13日 00時10分)
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名前こそ書かれていなかったが、なんだか懐かしい匂いがした。
想い出は温かく、未来にもまた光が射している。
通り過ぎた時間に包まれながら、僕は最後のメッセージを送った。
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♪アオ♪さん
夢の続き。
もしかしたら、いつか♪ななし♪さんのところに
たどり着くかもしれませんね。
そしたら、ここのコト、ちょっとだけ思い出してあげてください!
夢にさえ、素直で、正直でありたかったおバカな男のことも、
ほんのちょっとだけ思い出してあげてくださいね!(20XX年02月13日 00時50分)
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これで、彼女と僕の夢の記録はおしまい。
小説や物語なら、このあと大どんでん返しの結末が待っているのかもしれないけれど、
現実とはそんなに都合の良いものではなかった。
きっと、これから彼女は恋愛をして、結婚をして、幸せな家庭を築いていくのだと思う。
それでいい。僕はそれで満足だ。
続いてきた道も、続いていく道もない。
この一瞬だけ閉じ込めた物語。
決して結ばれることのない、『3日間だけの恋人。』
それは、眠らなくても見られる、夢のお話だったのだから。
いつか、どこかで…
誰かがまたこの記録を開いて
夢の続きを
見てくれたらと、心から願う。
そして、そんな日を夢見ながら、
また、新しい朝を待ちたいと…
僕はまた、浅い眠りの中で思うのである。
-完-