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Side history:幾億光年の女と"らあめん"

街明かりの消えた街の路地裏を白髪で華奢な女が歩いている。静かな夜だった。

ただ自然なまでに、街に散りばめられた飲み屋の数々から行き場をなくした人々の喧騒がたくさん聞こえている。もしも女がそこへ入っていったとして、日々の倦怠感を当たり散らす人々を


許すことができるのならそうしたいなーーー


そんな風なことを思って、ちょっと悲しい顔をして、歩いている女がある。これは土砂降りの雨の日だった、女はこんな雨の日を梅雨と呼ぶことを知っていた。そんなざぁざぁと降り注ぐ雨の中でも傘を差さないのは傘が無いからなのか、どれほどの雨でも彼女の心が渇いているからなのか。

暗く、まだ明かりがついているビルの中からは女の喘ぎ声や男の静かな言葉が聞こえて街を覆っている。かと思えばその横でみすぼらしい格好をしながらベンチの上で眠っている人もある。そういう明かりだけを頼りにしながら女は歩いている、彼女が行って「くだらないからもうやめてしまえ。」と言ってしまわないのは行き場所があるからだ。それともちょっと怖かったのかもしれない、そこへ入っていってしまえば涙を堪えることができないだろうという確信に。

歩くと、意味の分からない赤い暖簾が見えてくる。それは路地裏の奥の奥、誰の声も届かないほどの隅っこにある"らあめん"の屋台だった。女はそこの暖簾に「支那蕎麦」といびつな感じで書いてある文字を読むことができる。この文字を読むことができる人間は少ない。だから誰も入らない、こんな場所で赤をたたえている場所に入る勇気なんてそう持ち得ない。

その前に立って少し空を見上げて、顔を濡らすことに少しばかり感動した後、その暖簾を小さな指で引っ掛けて開けていく。近くのベンチで虚ろな目をして空を見上げていた家のない少年はちょっと不気味な目をして女の所作を見つめた。驚いているようでもあり、憧れているようでもある。


「ねえ、まだやっているのですかここは。お腹が減っていて、ここ以外入る場所もないんです。他へ入るとしたら寂しい思いをするだけだから。」


「ああ、あんたか。嫌な人だなぁ。あんたが来たんならやってないなんて言えんさ。」


暖簾の向こうには料理の熱気で程よく温まった空間がある。


「私。濡れてますが…」


「いいよいいよ、いっつも湿った顔で入ってくるんだから今日に限ったことじゃないだろうよ。」


女は少し笑ってしまった。綺麗になれべられた丸椅子の上に腰掛けてごそごそとポケットを探っていく。


「それじゃあただの醤油ラーメンを。」


ラー油いっぱいにね。そう囁いて補足した店の男主人はすぐ料理に取り掛かった。


「ああ、でもその前に"びぃる"入れてくださいな。」


うんうん、分かってるよ、そういう気分だもんね、醤油ラーメンなんて珍しいものを頼みに来たね。そういう感じで湯気を丁寧に立てている湯の中に渇いた麺の束を入れた後、テーブルに酒を出す。ほのかに明るい提灯の前でその液体は綺麗な泡を立てている。ぷちりぷちりと表面の泡がはじけていくのに今は目もくれず、女はタバコに火をつけた。そっと加える、そっと吸い込む。また空を見上げるようにして吐き出していく。煙はラーメンを茹でる湯気に重なって溶けていった。


「あんた、酒もたばこもやるように見えないけど。結構アバンギャルドなんだね、そんなに綺麗なくせにそんなに美味しそうにしちゃって。」


主人は無表情のままラーメンを作りながら、時たま客に話しかける癖は女も前々から知っている。女は軽い常連のようなものだった。その言葉の合間にタバコは咥えたままで酒に手を伸ばす。


「はい…本当にアバンギャルド、な、職でぇすから。」


「芸術的って意味、分かってる?」


「こんな場所に来る人間は野暮な仕事しませんよ。」


時々交わされる渇いた、それでいて温かい笑顔の応酬もこの店の雰囲気の一つだ。それでいて主人は「あんたどんな仕事してるんだい?」とか、聞いたりしない。こんな場所で店を開く人間も野暮な真似はしない。

主人は一度この常連客に「俺はね、昔女に作ってもらったこの変な食べ物を食べさせたいって店やってるんだよ。まあそいつがくれた代物に敵う飯を作れたと思ったことはまだないけどね。」と、そうこぼしたことがある。


「はい、お待ちどう。」


「まだタバコ吸い終わってないですが…」


「いいんだよ、そんなに安っぽく冷めたりしないよ。」


目の前に出された食事を、タバコを吸い終えた後少し口に運んでから、落ち着いたように話を進めていく。


「この頃音楽やる仕事ばっかりなんですよ。」


「でもあんた血なまぐさいよ。」


「そういう場所で弾くからですね、本当にそんな匂いがしますか。」


「人が息絶えるようなシーンを見てきたって顔もしてるようだけど。」


「見たことはあってもやるのは他の人間ですから。」


「どんな人?」


「そぉうですね。でも嫌々やってるような人でもないですよ。」


「そうかい。」


女はゆっくりと箸を進めていく。


「醤油ラーメン頼むなんて珍しいね。」


「あんまり脂っこいもの食べたくなかったんですよ。」


「疲れてる?」


「私は嫌々仕事する人間ですから。」


「でもいつも楽しそうだね、仕事の話するとき。」


「仕事をしろと言う人が好きだからですよ。」


それは良かったという風に主人は笑う。


「そういえばあんたどっから来たんだい。どこで生まれたとかどこが故郷だとかいう話じゃなくさ。」


「二十億光年の孤独…」


「なんだいそれ。」


「私が知ることを知る前から、命が知ることを知ろうとする前から私はあなたを知っている。そんなことを言う人に連れられて星の彼方からやって来ました。」


「本当に救われたんだね。でもさぞかし星の人間にここは住みにくいだろうね。」


「うぅん。やっぱり嫌々仕事する人ですからね。」


もうビールは残っていなかった。


「うまくできてるかい。」


「とっても温かいですよ。」


「そりゃ良かった。」


「でもまだまだ、あなたの味わった味には程遠いかもしれないですよ。」


「そんな話覚えてるのかよ、恥ずかしいなあ。」


「私はもう味わっているから、他の人の味ではその味と呼べないんでしょうねえ。」


ああそうか、そう囁いて主人はため息をこぼす。最後の一滴まで女はラーメンを食べ終わると席を立った。


「お釣り、要らないですよ。」


「そうかい。」


そういう静かな会話をして、食事を済ませた女は店を出た。まだ雨は降っているが街の明かりはもう全て消えようとしている。

雨の音に負けないように大きな声で女は言ってみる。


「店の名前!変えてみるのはどうでしょう!」


「店の名前?そんなものは付けたことないのに。」


「星野屋とか!」


そう言って女は帰っていった。帰る場所がある。明日の仕事もある。ちょっと血なまぐさい教会で明日も演奏することを考えたけれど、こんな時間にまで美味しいもの食べた後、そんなことを考え続けるのも野暮だなと思って。千鳥足で夜の静けさの中へ、家路につく両目の見えない白髪の少女があった。

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