"ぴあの"を弾く女の心を知った時は
冷たく、壊れかけた地下室の扉にはいびつな鍵穴が付いている。それはあまりにもいびつで小さく、リリルアもそれに気づいたのがつい先ほどだった。そこから片目をのぞかせてじっと目の前の情景を傍観した。あまりに状況、と言ってしまうにはリリルアにとって非日常的すぎる。この教会には椅子がない。これも不思議と思わなかったが今見てみると不思議だ、礼拝堂に落ち着く場所がない。それが取り除かれたものなのかもとよりなかったものなかは分からないのだが。
地下室の入り口は教会の入り口から向かって右奥にあり、けっこうな距離があるものだからそれだけ自分が移動したことも驚きに値する。教会の丁度真ん中に蔦で覆われていた、今は綺麗さっぱり錆も緑も消えた楽器が位置する。過去に崇拝されていただろう神の像と祭壇はその楽器より奥の突き当たりだ。
楽器も石像も過去の遺物だ、こんなところに今、人が集まるとしたのなら異教徒扱いされて処罰は免れられないだろう。ただここは比較的最近まで信仰の場として用いられていた場所だ、ところどころに残る血痕と乱雑に書き殴られた無秩序な落書きがそれを物語っている。もちろん初めて入った時に感じた血なまぐさい雰囲気というのはこれらのせいである。しかしながら、その時間軸を決定づけるための落書きは考古学的知識も一般よりは深いリリルアにも解読できない、それはそれが落書きであるからだ。ところどころ「死してなお」や「この命尽きようとも」のような文章は見てとることができるができたとしても全て解読しようとは思わないのは、少しズルいのだろうか。
それでもその文字の羅列は生への執着や死の匂いを漂わせて見て見ぬ振りをしようというリリルアにもはっきりと何か訴えかけてくる。憶測にすぎないが殉職者の最後の砦だった、とでも言うべきか。酷く何かにすがろうと屈しなかった心の数々が見て取れる。「沈黙」。そういう言葉がよく似合う場所だ。リリルアには理解ができない、沈黙をいつまでも守り続ける神を信じ続けて死まで享受しようとする神経が。
その時アリクイが話を始めた。
「あ…家族の…トコへ…」
明らかに演技だということは遠くのリリルアには明白だった。アリクイは今まで鳴っていた音楽に心酔していたと言っていたし、先の少女の言葉からその音楽が彼をここに留めておけた理由だということは分かっていた。だから正常な心のまま地下室から出て行くように見えるということが、何より不自然だということを理解しての行動だろう。まあ、リリルアには誰か出て行ったところで何ができるのか分かりはしないのだが。
「あなたに家族なんてありませんよ?夢でもみたのです。お戻りなさいな。」
そう断言した後で女ははぁとため息をついて片手を頭の上に添える。傍観しているリリルアにもフサっとした髪の音が聞こえた。その髪は真白だった。
「ない…!?ツクル…!」
「あなたは亜人。それにどういういわれぇかその血は特異。無理なんですよ…欲が出ましたか?あなたは他ならず主人さまによって救われたのですよ。あなたが前いたところへ戻ったところで…死ぬだけです。さぁお戻りなさいな。」
そういう会話を取り繕って目の前の亜人を切り捨てる女の手は真っ白だ。無色ではないのか…そういう勘違いさえ起こさせるほどに白い。体は恐ろしいほどに細いし、骨ばって肉すら一片も残っていないようで、それに加えて目も見えていない。今にも死んでしまおうがおかしくない、それでも見つめれば自分が芯の芯まで支配されて動けないような威厳は一体なんだというのだろう。そしてその無謀なまでの体が醸し出す甘さは威厳と絡み合ってなんだろう…
こんな人間もいるのかと、この後に及んでさえリリルアの胸には憧れの波が立つ。希望の味だ。あれが貴族と呼ばれたのだとしたら、貴族と呼んでも往々にしてそうであるような皮肉にはならない。
その女の体のどこにも生気は感じないが眼帯として動いているアンティーク調の時計はまだ生きているような気がした。髪の上へため息と共に運ばれた手の軌跡もまだそこに残り香を放っているような気がする。そんな風に女の動きの一つ一つが鮮明にリリルアの記憶に残った。そしてそれは甘い香りを放っている。怖い。そういう感情がこんなにもリリルアを憧れに掻立てる。
ああ、鐘を鳴らしたのはこの人だ。ここの管理人はこいつだ、ここがここである所以、ここへ自分が来た理由、全てこいつなんだ。唯一彼女の中でアクセントを放つ片目につけられたアンティーク調の時計は動いている。それだけ本当に動いていて、体は本当に動いていない。だがリリルアの中のそんな恍惚とした観察の時間も束の間、その温度とは裏腹に現実は冷え切っていることが思い出される。
「アリクイ様…言ってしまぁうのは心苦しいのでありますが、下手な演技は見苦しゅうございます。私もちょっぴり芝居を打たせていただきましたが、あなたがここへ出て参った理由は私の音楽でも心の乱れでもないのでしょう?」
バレている。それもそのはずだ、少し生死の間を体験しているに過ぎない亜人と行きずりの商人の浅知恵がその道のプロフェッショナルに敵うはずはない。リリルアの認識さえ正しければ女は一般人の常軌を逸するほど馬鹿げた状況を乗り切って今ここに立っている人間だ。それを勘違いだと思わせないほどの貫禄が彼女にはある。下手な嘘も子供騙しの襲撃も通用のしどころがない。多分だがこの教会を今の状態にした人間も… 嫌な妄想だった、異教徒の掃討。それは宗教上の理由で殺すことのできない無抵抗な人間を殺すということ、その実行犯が目の前の女だったのならと考えるだけで背筋が凍りそうだ。それでもそういう殺しを通してできた雰囲気が彼女の今のそれだと考えることは何らおかしくない。その彼女の口からひんやりとした洞窟の風のように言葉は溢れていく。
「水滴。入り口からずっと、地下室の入り口まで。温度の高い鼓動が一つ。名前が一つ落ちていますね…あぁれ。でもアリクイ様と一緒で落ちている事実以外名前に中身がありませんね。まぁあ。どれだけ隠れ上手でも私に存在を隠すことはできませんよ…随分と怯えた様子ですね、通用しもしない逃げるための手段をこんなにも無様に取って。」
彼女はふふっと笑った。まるで可哀想な人だとでも言いたげだ。
「その扉の奥のお客様、殺しはしませんし逃して差し上げますから…出ておいで。それとアリクイ様はいい加減その縄での自虐行為はおやめ下さいな。」
アリクイはこれも演技を自然なものとするために縄の中で縛られた手首をしきりにひねっていた。外的要因の一つでもなければおかしいと考えたのだろうが、それも虚しくリリルアの浅はかさと女の感覚の鋭さによって無意味なものとなっていた。
すると女はおもむろにまた一つ細い針を取り出し投げて瞬時にアリクイを刺した、今度は彼が倒れこむ様子はない。同時に鍵盤を五つほど叩くと、アリクイの傷は癒えていった。
「もう平気でございます、安心なさいな、私に敵意はありませんから。お客様も、ですよ。」
そう言って女は微笑みを見せる、思えばこいつはここへ来てからずっと優しく微笑んでいる気がする。こんな人が無抵抗な人まで殺してしまうのだろうか。もしその可能性があるとしたら、それは微かにさえ動かない目元に隠した何かにあるのだろう。その目の周りは動かない。
もはやリリルアもアリクイも二番煎じの抵抗は全くの無意味であることを悟った。微笑みの裏の女の目元はまた、絶対的な力の証明であるとも思われたからだ、目が見える人間以上に見えている鋭い目。戦闘能力の乏しいリリルアに抵抗は許されないと言っても過言ではない。例えばライオンの群れに囲まれて手も足も壊れてしまったジューシィな牛のように無力だ、それほどまでに。ライオンの群れに例えられる女は確約された美味な生き物の匂いを前に、その欲望を掻き立てられていたかもしれないし。時々見せるゆったりとした、言葉のイントネーションを伸ばす様がそう思わせる。
リリルアは無意識に、その存在を前に目の前の扉を開けて棒立ちになっていた。
「あぁら…商人さん!その物腰は。大変ものを売るのがお上手なんですね。よくこの教会に雨宿りのため立ち寄って下さいました。私の演奏は商人様のお気に召されたでしょうか…お構いなくごゆるりと、そしてお好きな時にお帰り下さいませね。」
こういう女の余裕はリリルアの考えが無駄に深すぎてそもそも酷く浅はかだったことを感じさせる。絶対的な無関心だ。誰が何をしようとその人の髪の毛の先一つにすら触れられないのだろう。
今リリルアは大変な人と対峙している。今後どこへ逃げようと、例え死んだとしてもこの女との因縁は途絶えてくれないだろう。だから今のリリルアは声も出なければ指一本動かすことすらできなかった。まるで死という絶対的な終わりの海が空間の隅々まで散りばめられていて、それに溺れてしまっているようだ。
これでどこへ逃げろと言うのか、この女は何かものすごく大事なことを履き違えている。普通の人間であれば自分を前にした時恐怖を前に何をすることもできないのだという最も重要な要素を。自覚していないのか遊んでいるのかは分からないが。
静か過ぎるこの空間は女の独壇場。ポツポツと話しかけられているのは分かる、ここから今すぐ出て行っていいのも分かる、けれど彼女の言葉は一つ一つが大きすぎ誰が特別目を向けるでもない広大無限な空間そのものだ。それを凝縮されて現実に突きつけられるとしたのなら我々が畏怖して見つめる一つの山や海より大きい。我々が偉大だとか怖いとか思っているものは案外ちっぽけなものだ、当たり前なものを突きつけられることが最も怖いものなのだ。
人は普通人の言葉を自分の中で噛み砕いて初めて認識することができる。だから魔法の言葉は知識や思慮の浅い人間にとって理解不能、位の高い魔法使いならばその言葉の音韻から効果を予測したり所々に音を横から加えて他の魔法にしたり打ち消したりすることができるという。それでも一般の人間にはそれを理解してしまえば身に降りかかる人智を超えた力を前にどうすることもできないという恐怖が待っている、だから分からないということこそ、認識すればなす術もなく自分が壊れていくという現実に対する最も適切で強い防衛本能。それが他ならぬ事象の不可解性なのだ。
その魔法が呪いのようなものではなく可視性であるのならば対処は不可能ではないが、それもまた自分の視覚という翻訳機を通して行なわれることだ。
だから目も見えないのに全てを見透かし、公用語で話しかけてしまう不可解性の塊のような彼女の存在が怖い。その言葉にリリルアは認識できても反応ができない、逆に認識できてしまうから。
"この女は悲しい人だったーーー
大概、彼女を認識してみようと思い立つ前に人は恐怖を掻き立てられる。人と触れ合うこと、それは理解が先立って初めて行なわれる。しかし理解されること、そこにいると認識されること、それを徹底的に拒む天性を持って生まれた女がここにいる。人々は彼女から離れていったと言うより、人々によってその存在の濃すぎる濃さゆえに、影が薄いという人々の甘えに立ったレッテルが貼られていった。避けられてきたのだ。
それ故今の彼女の佇まいこそ当然のことと言えよう。それは彼女の生き方にとって適切すぎる才能と言えよう。真性の闇の天才、そういう女だ。
ただ私は、その淋しすぎる心の色を今は概要を語るに止める。" もっともリリルア達にこれを理解する力は備わっていないのだった。
「でも、僕は売られるんだよね…?嫌だよ、僕だって怖いよ!?君たちはお金お金でいいさ、僕は一生誰かのオモチャにされて死ぬこともできないなんて嫌だ!だから僕はこの商人さんと一緒にここから出て行くんだ。お前らみたいな人間味のない奴らの側で一生を過ごすなんてごめんだよ。嫌なんだよ!」
その「人間味のない奴ら」という言葉こそ女を表現するに最適だった、それでどれだけ苦しんできたかは想像に難い一般の人間にとっては。
アリクイは吐露した、彼は知性に欠ける。空間に鈍感な人種の彼はかろうじて語ることを許された。
すると女は首を傾げた。ただ女が苦しむとしたらもうそれは昔の話になっていた、それを割り切っているからこんな場所に呪術師の信頼を一心に受けて立っているのだ。
「アリクイ様…?売る…?いえ、とんでもなぁい勘違いでございますよ。嫌がる人間を力で売り飛ばすことはしません。これまた言いにくいことですが…気弱で脆弱なアリクイ様に我々の商会に見合ったブランド力はございませんよ。もしもその呪いを受けたことで何か自分が特別な存在だと思っていらっしゃるのならば、見苦しくございます。はぁい、麗しの我が主人様は下賤な金銭を良しとしません、そういう奴隷商売と全くの無縁とは言い切れませんが。我が麗しのご主人様…そのセオリーは真に崇高な魂を持つ人間によってのみ価値のある商売は成り立つ。でございまぁす。あぁあ私の見栄も主人様のことを考えただけで崩れてしまいそうな…うふふ…ふふふ…」
女は顔を綻ばせ、両の手を顔に当てて笑っている。それは今までの雰囲気とは一転してさながら恋する乙女のようだ。もうリリルア達には目の前の女以上悪魔的な魅力を持った人間を想像することはできないのだが。目の前の女がそんな顔をできること自体想像を絶する驚きだ。
「え…それじゃあどうして?どうして僕はこんな望みもしない場所に訳のわからない呪いまでかけられてここにいるのさ!」
アリクイは必死に訴えかける、女の想像を絶する心の変わりようについていけないから自分のことだけで必死だ。
またそれに、女の心変わりは早い。目の動かないいびつな微笑みで返答していく。
「それについては主人様の崇高な目的で私なんぞがお答えできるものではりませんが…今まではあなたにかかった術式を安定させるための準備期間といったところでしょうか。はぁい、あなたはもう自由ですよ。売られるとかオモチャにされるだとか、勘違いも甚だしゅうございます。大方そこの商人様にはぐらかされたのでございましょうが、何なりとこれからの命を、旅を、楽しんでもらって私どもは願ったり叶ったりです。」
そう、リリルアはやはり甘かった。呪術師のような人間と触れ合うことすらなかった、ひどいことばかりするものだと思っていた人間の拙い妄想が横行していたのだった。それは目の前の女のような人間が常人の理解を超える話をした挙句、その雰囲気で訳の分からない恐怖を植え付けていったことと一致している。
リリルアが思っていた根源の噂の理由はこうだ。
だから人々は分からない、怖い。そして人に話をする時は自分を「何もできなかった。」と無様に見せたりしたくない、だから「ヒドイ連中だ、頭が狂ってる。」そういう噂が蔓延ってリリルアに届くのも当然のことだった。丁度いい落とし所と言えよう。
教会の古い楽器には、初めそうであったように無数の蔦が絡みついていて静かだった。
「それではあなた様がたに神様のご加護のあらんことを… May the God bless you two... そしてその道に不断の真実と胸いっぱいの愛を。」
そう言って女は"ぴあの"の前の席を立ち、身を翻してスキップでもするように教会を出て行ったのだった。