誰がためにに鳴る鍵盤楽器
「誰…!?ねえ、こんなことならもっと早く…!」
今までとっとと出て行ってしまおうと思ったリリルアが今一度振り返って静かに、動作は叫ぶように、亜人の男に投げかけた。こんな状況に素より陥ったことがなかったのだ、もしかすると入ってきたのはただ雨宿りをしようという人間だったかもしれないのだが。
リリルアにそんなことを考える余裕はなかった、ずっと焦っていた。いてはいけない場所に自分がいる、そんな焦燥感に。誰にだって初めて入る場所には緊張を伴うものの、今回は自分の生死に関わる。ただ焦っても仕方がない、状況は悪くなるばかりと理解できたリリルアは落ち着いて振舞っていたが、今のドアの音は死刑宣告だったかもしれない。それで平常心を失った。だって分からないのだ、呪術師について、捕虜なんてものがいる場所について。大義名分を持った兵士は戦場でそう億したりしないものだが、なぜ自分が戦っているのか分からない兵士は薬の力を借りるしかない。だから勇気とは理解であり、分からないということは一番怖い。
戦闘についての知識を持たないリリルアは危険だと思う場所に努めて入らずにいる、街で危ない人間に絡まれてしまった場合も誰かが守ってくれる、リリルアは綺麗で小さい女の子だから。そんな甘ったるいところを歩いてきた。だけど今日は特別だ、リリルア自身が美しい鐘の音に呼ばれている気がした、行ってみたいと思った、だから怖い。本当はリリルアが自分だと強く思って行ってきたことは、結局自分の選択ではなかったのだろう。だって生きていて怖かったり、不便だと思ったことはなかったから。そうなるようなことなら、いち早く察して逃げてきた。
ゆったりとした足音がしている。近づいてくるーーー
やっぱり、震えていたのかもしれない。
「商人さんね…ああ…!安心していいんだよ…」
目をつむって空を仰ぐようにアリクイが話し出す。静かに。
「あれは小さな女の子の足音だよ、君ほど小さくはないけどね…ここはすごく、鼻を澄ませてみると鉄の匂いがするでしょう。教えてくれたんだ、これが"ぴあの"っていう楽器の錆びた弦の匂いなんだって。ものすごく昔に流行っていた楽器なんだってね、その錆びた弦を動かして音を出すんだってね…でも触るのは鍵盤なんだ、弦じゃない、それくらいは教えてくれたんだね。」
アリクイは続ける。
「あぁ、本当に…!安心していいんだよお嬢さん…あの楽器は蔦にまみれて、うん、苔まみれだね…でもあの子が触れると素敵な楽器に変わるね。奥の奥の弦にひどく錆びれている匂いがしていてね、でもあの子がくるとスッと消えてしまうね…
そういえば、商人さんが来なければ僕は逃げようなんて思わなかったよ、思わなかったんじゃないけど、思えなかったんだ。思ってしまいたくなかった。時々来てくれる女の子の音楽が…商人さんも驚くよ、この地下室も緑でいっぱいになる。そういう声がしてくるからね…」
アリクイはなんだか感動するようなことがあると語尾に不自然なほどネを付けるらしい。
惚けたことだ、それはつまりこのアリクイとかいう奴に強い縄が必要なかった理由に他ならない。それが本当ならリリルアもここに止まれば、ここからは逃げられない。多分、呪術師一派の鼻を明かしてやろうという人間でさえ、ここを嗅ぎつけてやってきたところでこの定期演奏会に身を滅ぼす。リリルアは初めて理解した、呪術師が決して表に出てこない理由と、その存在が噂に留まっている理由を。
こんなことには関わらないと思っていて深く考えたことはなかったが、不覚だった。噂の内容より噂にしかならない理由、その方が理解して然るべき危機だったのだ。殺されるのではない、噂されるということは。それは既に洗脳されているか、おぼろげに覚えている人間が恐怖体験として感じたものを払拭し語り継ぐ、のどちらか。
自ら対面して手を下す必要もないのか、呪術師にとって人間、舐められたものだ。そんなにも触れ難いものだということを実感する。
そもそも鐘の音からしておかしかった、なかなか洒落た罠じゃないか。
艶に染まった音がする。綺麗な艶だ、雨の中でも濡れることはないかのように。
音を聞く限りアリクイが言った通りずっと昔の楽器だ。特別教会に入った時目についたわけではなかったが"ぴあの"というのは書物で読んだ覚えがある。社交の場で披露されるものと記されていた気がするので、教会にあるのは場違いのような。教会にも音楽は不可欠だっとようではあるが、現代の社交場で披露されるのは大抵踊りと金属でできた楽器の演奏だ。それに大勢の人で弾くものだから、一人で演奏する、宗教の場で演奏する、そういうのには慣れない。そんな今の常識からは掛け離れた楽器であるはずなのに、音がしている。
聞かない調子だ、焦りもあっただろうがここへ入るまでに楽器と認識できるものはひとつとしてなかったから相当老朽化している、おかしい。リリルアの感覚でも扉の向こうに人間は一人しかいない、独奏は多くの国で禁じられている文化だからそれもおかしく思える。本当にここは普通じゃない、法律とか常識とかそういうものではない何かで全てのものが動いている。
その不思議で常軌を逸した音はーーー早い、人間の視覚、体現できる程を超えて、死に際の獣でないと体でその速度を表し得ないほど。まるで想像できない音まで交えた無数のビー玉だ。無色のビー玉だってあるかもしれないと思わせるその彩色は飽くまで激しい。動く余地もないほど空間の隅々まで散りばめられているというのに、ここまで激しく踊るのはなぜだ。そして時々、一粒、一粒、と落ちては砕ける。そこで起きた音を聞いているような。
その音の存在前。砕けて認識されるその前までリリルアのような素人にも想像させる音楽の手腕は天才的と言えるのだろう。
またいくつかのビー玉は果てのない穴の暗闇へ落ちていってしまう。ずっと砕け散る音に耳をすませていると、あるはずの音の間に、あったはずのものがどこか知らない場所へ行ってしまう虚無感もあった。はっと振り返ると、そこにはもないという音もある。それが寂しく愛おしいながら、気づいた時にはもう他の音が鳴っている。
何を捨ててきた、何を期待してきた、何を知ってきた。その全てが暗い穴の底を覗いてしまえばズタズタに切り裂かれるという予感がまた穴へ心を掻き立てる。幾度も手招きする骨ばった手のように、その危機感はさらに暗闇が心を奪うことを許していく。
それは人の心の性。その暗闇に奪われた音は何よりもそれを知っている、けれど語らない、私がそこへ行って消えてしまうまで。そしてまた顕現した時は、砕けて鳴るビー玉になる。そうして生きていく、死んでいく。
(Fantasie-Impromptu 「幻想即興曲」)
見てみたいとリリルアは思った。どんな人間が今は音も立てられないはずの楽器で、こんなにも愛らしい曲を弾いているのか。リリルアはこの短時間で、理性には全く不可解な二度目の行動を取ろうとする。そっと地下室の風は木の扉に吹き込もうとしている、その気圧を感じる。そしてぞっとするほど冷たい扉の感触はどれだけ時間が経ったのか、その感覚をリリルアに巻き戻す。そんな扉をリリルアは少し開けてみた。
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癪ではあったが、確かに楽器を弾いていたのは女だった。その体はリリルアより小さいわけではないが、一層大きいわけでもない。目に付けているのは眼帯だろうか、ちょうど腕時計を頭に巻いてその文字盤で片目を隠しているような形だ。アンティーク風のその眼帯はとってもリアルだ、意外なことに時を刻む役割も疎かにされていないようで針は動いている。逆に、もう一方の目は前髪で完全に隠れていた。視覚なしで見慣れない昔の楽器でこれまでの演奏をする様はちょっと憎たらしい。リリルアが見てきた営みは全て見ながらやっているものだっただからだが。まあ、それは戦闘にも音楽にも縁遠いリリルア個人の感覚だったのだが。
嫌な感じの目で女を見つめて未だ終わらない音楽を聴いていると視界に靄がかかってきた。目を瞑って寝てしまいそうなのに明かりが入ってくる感じだ。アリクイが心底このパフォーマンスに心酔しているということが事実ならばかろうじて聞くことのできる雨の音が途絶えたところでデッドエンドだ。このままではいけないのだ、逃げられなくなってしまう、その先は全く予想がつかない。
とりあえず今の演奏を聞かされて部外者のただの雨宿りということはないだろう。場所が場所だからあんな芸当を持った人間が部外者なはずはない。リリルアは階段を一段またいだ姿勢で前足をそっとかがめ、手に持ち続けていたナイフを頭上で構える。この隙間ならリリルアにもナイフを投げて人を刺す不意打ちくらいならできるし今までの音で相手は気づいていない。目の前の人間を不意打ちで殺して逃げることくらいしか思いつかなかった。外すことのできない駆け引きだが距離はない。音も立てられない、一挙動だ、頭を狙う。じっとまとわりつく音楽を振り払おうと真剣に相手を見据えたリリルアの顔は少し汗ばんでいる。速くなった呼吸の音で気づかれなければいいが、照準を合わせるため息を止めるーー
「待てよ商人…!どうして目も見えないような少女がこんなところへ来る、部外者か関係者か、十中八九関係者だこんな雨の日にこんな場所へは来ない…!山道だってまともな奴なら視覚なしで歩けるわけない。けど君は雨の日でもここへ来た、辿り着いた、そういう場所にここはあるんだいつ第三者が入り込んだっておかしくない。しかもこんな場所で大々的に金まで鳴らす、ってことは目の前の奴が仮に関係者なら誰が入り込んだって介入したって意に介さないで始末がつけられるってことだ…!それにあんな音楽が弾けるってのに商品化されてない関係者ってことだ、呪術師ってのがどんなのか知らないけど人を軟禁するような狂った奴ですら信頼する。そういう性格を持った奴ってことだろ…!きっとあわよくば第三者が介入したら端た金に変えてやる、そういう腹だろうさ。
商人さんあんた頭いいけど知恵ってやつがなってないよ…」
今まで全く頼りなく、虚ろな顔をしていたアリクイが演奏中の少女に気付かれないよう強く静かに言った。こういう状況で強く言われる方がハッとさせられる、ただリリルアには自分の背後の方で跪いている亜人の男がこんなことも言えるというのがまず驚きだった。きっとリリルアより多く危険な状況というものに立ち会ったことがあるのだろうと思われた。
確かにアリクイはそういう背景を持っていたし、培われた嗅覚はリリルアに商才と分析の能力はあっても生きることに関しては赤子同然。それを悟っていた。そして対するリリルアはその瞬間に生き抜く知恵に関してアリクイが自分の上をいくということを察した。
さらには彼の言葉が正しく、リリルアが思っていた以上に絶望的であるということも。視界が霞んでいくという破滅の予感に判断力が鈍っていたことも否めないが。人の言葉を聞くことでその靄も徐々に去っていった。
「今は生きるか死ぬか。そうでしょ…?それに君自身だけでは何の打開策もない、そういう顔だもの。僕が出て行くよ、君の悪いようにはならないように。」
どこにそんな自信があるのか、一体何をするのか、どうして通りすがりの商人のことまで考えようとしているのか、怯えているリリルアにはさっぱりだった。リリルアが掲げていたナイフを下げると、アリクイは横まで歩いてきて舌で扉を開けるための姿勢をとる。ただ今は亜人種に従うことがどれほど屈辱的であったとしてもリリルアに打つ手はない、従うしかなかった。
リリルアには分からなかったことだが、恐らく彼が死なないということを彼自身よく知っていての判断だろう。死んだことと時間が巻き戻ることを唯一知覚できる彼には何度でもやり直しが利く。だから彼が出て行ってすぐに状況を打開するまでに至らずとも偵察をすることを提案したのだ。
亜人は信用できない。そんなくだらないことにすがろうとしても、リリルアに為す術のないことを塗り替えることはできなかった。今は目の前の亜人にすがり頼ることで精一杯だ、リリルアが静かに頷いて横へと避けた。それを受け取って、頷いて答えるアリクイは強く扉を開けて走って出て行ってしまった。
その時、人の倒れる音がした。大きな音だから人間ではない亜人だ。
「あ…」
思わずリリルアは絶望的な目で口を半開きにしてしまう。彼は正しかった、次は自分だ。そういう後悔と恐れが入り込んでくる前に世界は反転する。すっとリリルアは出て行くアリクイを見送った直後のリリルアに戻った。そうしてリリルアの視界に映ったのは、勢いよく開けた反動で閉まっている扉の向こう側からこちらへ顔をのぞかせる銀色の棘一つだった。それは裁縫の針ほどに細く小さい。
「今の攻撃はぁ…アリクイ様、一度死んでしまったのでは?私の演奏がお気に召さなかったようで失礼…だけど野次はよくありませんよ?」
トン。と鍵盤が指で押された位置から戻ってくる音がしたかと思うと、慎ましやかにクスッと笑う女の声が聞こえてくる。
「今度はあなたがもぉっと無気力になるように、お気に召すように演奏致しますね…ただ、まだ捕虜の身でいる間幸せな時間を持ちたいと願うならー…です。分かるですよね?」
教会にて行われた不思議な演奏会はかくして中断されたのであった。