表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/20

雨に濡れた唇は弱さに向けて、そっと囁く

「あの鐘を鳴らしたのは…貴方だったのですか、いえ、でも、そうでないとしたら誰が…?」


リリルアは驚いていた。変な感覚の既視感がある、投げ出した酒瓶に、マッチに。デジャヴュというものがあるとは聞いていたがそれがどういうものなのか、実感したことはなかったのだが今になってこれがそうかという確信がすっと胸の奥で繋がる。そして何より魔力の気配もしないまま今の光景を見て、物理的に目の前の人間がアクションを起こせたとも思えない。不思議な場所だった。外で感じた鐘の音という現実が、人の気配を感じないという感覚と一致してくれない。


「分かるよ…初めての感覚、既視感、驚き、とまどい…」


リリルアが戸惑いを隠せないでいると静かにそっぽを向いたまま、亜人の男が語り始めた。それ独特の低い声で。


「僕には死ねないこと、その呪いがかかってる…僕は死ねない…これは多分僕を救ってくれた人のものだ、だけどそういう感覚だけで本当に救ってくれたのか、どういう風に救われたと言えるのか僕にさえ分かりっこないよ。そんな僕が誰かと対面するんだから、君が驚くのだって当然のことなんだ…分かってるさ…旦那様、僕は呪いの主をそう呼ばなくちゃいけない気がする。旦那様は一体どうしてこんな呪いを僕に与えなすったのか、それも説明しなきゃいけないだろうけどそれを考えるにはまだ分からない、多すぎて答えは出せないよ…いや、そもそも僕はここで幸せだ、君みたいな既視感を誰かが持ったとしたらそれを探求したがるのは必然、だからそんなこと求めたら世の中上手くはやれない…そういう感じがする、そもそもこれを呪いと呼んでいる僕が正しいのかどうかすら分からないさ…」


明るくなった部屋の奥でそう語る男は怯えていた。うわ言のようなことを聞いてもリリルアにだって何も分からない、ただ既視感があってそれを言い当てられたということは一度世界が逆行したということか。憶測に過ぎないが妙に自分の中で説得力があった、そもそもこの教会自体が何かおかしい、現実とは隔離されていて今まで蓄積してきた感覚は全く通用しないのだろう。だからここから生きて出るためにはまずここについて知ることだ、反射的にリリルアは一歩階段を降りてみた。


「ただ衝動的に話されるだけでは分かりません、貴方の名前は、ここはどういう場所ですか、そしてその呪いについてもう一度答えてください。前者二つの質問に答えた後で。」


怯える男と変な教会はリリルアを怯えさせるに十分過ぎたがこちらも怯えた素振りも見せたらお互い同じ穴の狢になってしまう。内心は内心に止めて優しく問いかけてみる。


男は憑き物が剥がれたような顔をしてリリルアを凝視した。


「あ…」


そして僅かな間の後、また男が語り始める。誰かが違う感情を持って問いかけてくれる、それで初めて成り立つ話もあるという。


「僕は食蟻獣(アリクイ)…そう呼んで、多分一番しっくりくる名前なんだ。ここは教会、ここはその地下室、旦那様の土地だと思う、それ以外の所持者は考えに及ばない…僕にかかった呪いは僕が死ぬと時間が巻き戻る、その記憶が僕以外から無くなることは君が体験した通りだよ…それに鐘を鳴らしたって、それは僕じゃない、でも旦那様はここへは来てないよ…ここへ来るのは君が初めてだから…」


名前はリリルアがリリルアと呼ばれているようなものだということが理解できた。名付け親を覚えていないか、存在しないか。後付けて誰かに呼ばれたということだろう、恐らく「旦那様」という奴だ。呪いには名前がいる、きっと食蟻獣というのはかけられた時の記憶だ。リリルアにもなぜ自分がリリルア・ララルアなのか分からないしきっとリリルアはリリルアでない。

アリクイは続ける。


「君を突然攻撃しようとしたのは謝るよ、覚えてないだろうけど…でも鐘を鳴らしたのは僕じゃない、君が求めて来たものは僕にない。もういいだろ、この部屋からとっとと出てってよ…」


アリクイはまたリリルアから目を逸らして、否定の色を示そうとする。

奇妙な呪いもあったものだ。どうしてそんなものがあるのか、そうしようと考える人がいようものか、さっぱりリリルアには分からない。ただこの呪いの感覚は自分の奥の奥にある、名づけ得ない何かに似ているな、そう思った。それがデジャヴュだ、時間が巻き戻ったことによって懐かしさによる強い好奇心がリリルアの中に沸き起こっている。彼女の記憶にはもうない汚されたという思いよりも、今目の前にある呪いのことが気にかかる。


「その…旦那様という呪術師は今どこに…?」


答えは恐ろしいほど早く返ってきた。


「知らないって言ってるだろ、僕のことも分からないのに他人のことなんて分かるわけないだろ…!顔だって、名前だって、匂いだって。旦那様だって僕のことなんか何も知らないだろうさ、お前だって知ってるはずだそんな人だろうって。呪術師なんて聞いて、自分が呪いにかけられてる。人を呪える奴なんて呪いに憑かれたような奴さ、人を呪わば穴二つってね!笑えるよ、僕にこんなに問題を突きつけているくせに旦那様は自分で単純に、すべきだと思ったからしただけ、僕のことなんか何一つ理解しちゃいない。全部僕任せさ、それでいいと思ってる、それでさえ自分の思い通りことが運ぶと思ってる。長ったらしい術式や魔法の言葉は覚えても人のことなんて認識すらしない、覚えない、そんな人が何か人に晒すことなんてあるわけないだろ…!」


リリルアにだってそれはわかっていた、そういう職業につくということ自体が「まとも」ではない、ただちょっと淡い期待を抱いてみただけなのだが。案の定相手を動揺させてしまったことは悔やまれる。自分を捕縛している人間がどういう人間なのか、知ろうとすることも恐怖に他ならない、多くの呪術師は上流階級の人間に「玩具」を提供して生計を立てていると噂されているからだ。暗殺、人身売買の仲介役、そういったものをこなして行くのが呪術師一派であるから金持ちが多いことは確かなのだが、当人の娯楽のために使われてしまうためか有名で金持ちな呪術師、というのは聞かない。またそういうような人間を市場で見かけることもない。うまい具合にどこか知らないところで経済体系が出来上がっているはずだ、本当にうまい貨幣の流通具合だ。漏れない、潤っている、理想的と言えよう。彼らの欲求は潰えない。何が金に変わっているのか、どういう意味を持つ金を持っているのか、それは往々にして分からない。リリルアだって呪術師家業で作られた貨幣を受け取ったことがあるかもしれぬ、ただそういう金は然るべき場所へ流れていくと決まっている、金の業とも言うべきか、そんなものは明るみにそう出てこない。金は使い手の純粋な鏡とも言うことができる。まあその価値というものに、商品価値以外、より誰かに認められたいだとか、ステータスだとか、自分の生命だとかが関わってくる世の中なのでロクな流通具合が見受けられないのだが。

人の弱みを煽れば金が入る。甘えには誘惑を。悪いものは悪い人にしか買われない、逆もまた然りだ。


とにかくリリルアの知っているような呪術師が「旦那様」なのであれば目の前の亜人は格好の商品だ、売られてしまいになるだろう。たいてい差別の対象となる亜人を忌み嫌う人間は貴族に最も多いと言えるだろう、死なない亜人なんて高値で売れるな、そう思う。どれだけいたぶってもいたぶるという快楽は終わらない、格好の餌食だ、十分すぎる玩具だ。誰かを殺したいという憎しみ、誰でも持っている、それを好きな時結果を伴わず発散できるだなんて、リリルアだって買いたいかもしれないな。そんな金はないしそこまでの市場に踏み込んでいく勇気もない、増してや「殺す」ということの重みに自分の欲求を打ち当てる諦めもないな。そう思った、リリルアはただのちっぽけな商人であったから。


ところで、推測だが買い手に優秀なエルフの奴隷までいればある程度記憶の保存や自分好みのカスタマイズも可能なはずだ、人身売買にもブランドが存在するから、どれだけ使い勝手のいい術式を使うか商品の性格の傾向はどうか、隠蔽の信頼性、等々…書い手へのサービスは膨大な数で、多岐に渡る。だから儲け話になる。


ただ、こんなに一見残酷に見える話でも手出し口出しは決して叶わないというのが現実だ。こういう商売のおかげで一般市民への圧政が緩和されていることは否めないだろうし、商品の修理まで行う商会もあるそうなので上層における潤いはその手の業者と切っても切れない関係にある、要は持ちつ持たれつというやつだ。そしてそれが破綻すれば一番困るのは決して貴族ではなく市民だということを多くの人間が理解している。それは貴族が困るということ、市民にそれを補う手が向けられることは同義だから。税金が上がるかもしれない、徴収に来た貴族が暴力を振るうかもしれない、そういう恐怖で成り立つ確信だ。そういう歴史も多々ある、そしてそれを理解しているから市民は愚民でない。ただ貴族は真っ当な形で市民と向き合う場を放棄した今、それを知る由もないわけだが…


リリルアにも情がないわけではない、自分では感情的な方だと思っている。ただ商人にとって金が絶対的な立ち位置を占めるから、不利益を被るようなことをすれば路頭に迷って下層部へまっしぐら。この世界で下層部に位置することは奴隷になってただの人間であるリリルアはこき使われて命が一年持てばいい方だ。そんなことは嫌だと思うのが道理と言えよう、そうなってまで誰かを救ったり不条理を正したりする必要はないのだから。


ちょっとした考えを巡らせてリリルアが状況の再確認をしていると、その流れを勘ぐったように食蟻獣はまた始めた。


「ねえ、商人さん!僕を連れて行ってよ、その…僕が…その種族が人間は大嫌いだってこと、ものすごくよく理解してるよ。でも商人さんはちょっぴりそういう人間と違うところがあると思うんだ、卑下してる感じとは違って哀れんでる、そういう目をしてるでしょ…?そう、僕も考えたんだ。本当に呪術師が僕に呪いをかけたとしたら、僕は商品だ、売られて終わり、僕は貴族にいたぶられて遊ばれて一生を終えていく。もしこの術式に終わりがないとしたらいつまで経っても歳をとらないし死にたいと思っても死ねない。何度か自殺もしてみたけど死ねないみたいだったから、そう思うんだ。ごめん、君の考えを勘ぐったのは謝るよ…でも亜人は鼻が効いちゃう、自分で考えるのは下手だしはっきり言って馬鹿だよ、でも人が考えてくれたのだとしたらそれを汲み取る力はあって、それに寄り添う勇気もあるって人種なんだ。」


食蟻獣は本当に必死だった、リリルアが考えて、悲しい結末を辿るだろうという目を向けるものだから、それを悟ってしまったのだろう。偶然紛れ込んだ他人の考え、その雰囲気によって自分の仮説を確信に変えてしまったのだった。リリルアの顔に死の香り、いやそれよりもっと強い苦しさの匂いでもついていたように。

ただ、そうだとしたら商品の横取りはよくないな。それに呪術師に目でもつけられればリリルアもどうなるのか分からない。情に流されれば損をする、金がなければ生きていけない、命あっての物種だ。商人の掟である。それでもほんの少しだけ、ここで目の前の人間を見捨てれば自分はものすごく卑しい存在に成り下がってしまうような気がする。そんな思いで商売をしても何も売れない、そんな感じがする。


「もう、それじゃあこの縄を解いてくれるだけでいいよ…!」


アリクイという亜人はまだ必死だった、リリルアがここから出してくれる、その希望はリリルアの哀れみにつけ込んで尚揺るがない。


リリルアはここでアリクイを縛っている縄のことを考えた、亜人種の長い舌、それで持ってしても解けない。つまり他人にしか解けない、解いたとすると術式の移転まで組み込まれているか…様々な懸念が脳裏を過ぎて遠ざかっていく。


もうやめようーーー


そう思って踏ん切りをつけ、振り返って今すぐにここを出てしまおうと思った時、教会の正門が開く音がした。雨で湿ったドアは異様なまでに低い音を立てる。


そっと、誰かが、程よく濡れた唇で囁きかけるみたいに。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ