清き宗教も今は昔
そこは森の奥深くに佇んでいるという事実以外、普通の教会だった。ただ見回したところ、少し雰囲気が恐ろしく思えるか。雰囲気は現代の教会と変わらない、ただ一昔前の信仰をたたえているものだろうと思う。品のない落書きに血痕、正面奥には首から上のない神だったのだろう像が十字架に架けられている。間違っているかもしれない、多分「キリスト教」と呼ばれたものだ、リリルアは文献の知識からそう思う。多少古代の文字に造詣のある彼女は天井に薄っぺらく書かれた文字をこう読んだ。
私から学び、また伝えなさい。
と。
現代の宗教に学ぶだとか伝えるとか、そういうものは一切ない。ただ人々は苦労なく楽な人生を歩んでいきたいだけだ、宗教は今薬物の売買に尽きる。神がいるわけじゃない、明確なイメージがあるわけじゃない、特定の人間に従って何かをすれば悩まないで済む。そういう金の取引になっていたから、リリルアに古代宗教は好感の持てるものだった。なぜってそれは単純な取引、命令上の安寧は一種の市場独占であるからだ。宗教中毒者にまともな交渉は効かない。
一度だけ情報の間違いで宗教中毒の街へ立ち寄ってしまったことがあるが、狂信的な歓迎から抜け出すのに手一杯だった覚えがある。噂によるとそういう街が薬物を受け取る対価として特定の団体に操られているそうな。
従っておけばいい。
そういう迷信の植え付けられた人々は都合の良過ぎる駒に過ぎなくなっていく。
そんなことを考えていたら、今いる血なまぐさい雰囲気が漂う場所こそ最も正しい場所に思えて、その齟齬についてちょっと嫌な気持ちになるのだった。
老朽化した木の扉を開けた時から冷たい木の匂いがしていた。昔の木で作られた建造物は現代人に何かノスタルジックな気持ちを起こさせる。こんな山奥にあるのだ、魔力の回廊が確立されているわけでもなく明かりはない。雨の音が室内に入ったことで遠めに聞こえており、いびつな間で、カビの生えたステンドグラスを雷が照らしていく。見渡せばするほど、人のすみそうな場所では決してない。あの澄みすぎた鐘の音は戯れにリリルアのような旅人が鳴らしたものでしょうか。ゾッとした。こんな場所へこんな時、雨宿りに入るのはいい、けれどここで鐘を鳴らす余裕まで持つ者。そんな奴にロクな人間はいない。彼女は知っている、今の時代で芸術的観念を忘れない人間は人を苦しめる者だということを。それは人を殺すことかもしれない、拷問、窃盗、そんなことを快楽のためにする人間なのだ。
音など立つはずもないのに、じっくりと腰に隠してあったナイフに少しばかり体勢を落として手を添える。こいつは飽くまで護身用に持っているものだ。武器でもなんでも物であれば、それと契約(これについては今後詳しく説明する)を結ぶことによって物理的に持ち運ばずとも取り出すことができるがその魔法が醸し出す雰囲気に敏感な人種もある。だから一つは武器を体につけておく、それは旅をする人の常識。
ゆっくりとその体勢のまま、気を頂点まで張って辺りを少し徘徊すると扉を見つけたので入ってみようと思った。教会へは雨宿りのためだけに来たはずなのに、今のリリルアは誰が鐘を鳴らしたのか、ここがどういう場所なのか、それを知りたいと思っている。
冷たい空気が滲み出ているので地下室への入り口か何かだろう、その風の中に人の熱は感じられない。これはリリルアの生まれつき持った才能の一つで、風に敏感だ、風が好きだ。ある程度近づけば人の性格もある程度分かる。だからこの扉の向こうに変質者はいないだろう、そういう感じがした。ただ若干自信のない感覚でもあるため、明確に警戒体勢を解いたりはしない。そっと扉を開けてみた、暗いところだ。右ポケットにしまってあったマッチを灯すと、壁の方で驚いたみたいにカサカサっ、と、無数の影が動く。ゴキブリの類みたいだ。小さいからいいものの、推し量っただけでも相当な数だ、いい気持ちはしない。虫に対して一般的な女性的恐怖心はないものの。
目の前には階段が満ちている、やはりここは地下室だった。
これは突然の事…
嫌な音の数々に顔を少し歪めると風が動いた、マッチの火が揺らぐ、リリルアの視界の中から一匹の虫が姿を消した。次の瞬間、長い鞭のようなものがリリルアを襲う。
どういう状況か判断する間もなくナイフを握りしめてとっさにそれを眼の前で防ぐと、それはしなやかにナイフに巻きついていく。生き物だ、特殊な虫か、長い部位を持った人間か、とっさにナイフを引き抜く。柔らかく、鞭では決してない。ぬめりとした緑色の液体が吹き出して周囲を濡らす。
切り落とした。
それは死にかけのミミズみたくうごめいて階段を落ちていく、舌だ。
亜人かーーー
亜人というのはこの世界で身体的特徴を、何らかの獣や虫と同じくしたものである。
着ていた布を通して血の感触が伝わってくる、醜い、汚された、そう思う。こびるように力なく動いている舌の先端部は一層その思いを強調した、爬虫類系の亜人はリリルアが最も嫌う人種だった。
「気持ち悪い、気持ち悪い!」
反射的に叫んで顔を引きつらせ地下室の奥の方へマッチを投げる、続いて左ポケットに入れてあった酒の小瓶も投げた。勢いよく燃え上がって炎で地下室は異様に明るく照らされた、壁にへばりついていた虫たちは逃げ惑い、肌の焦げる匂いがする。亜人の燃える匂いはひどい、燃やして殺せば気持ちの悪い思いが心に残る。生かしておくよりはマシだがこいつには慣れないままだ。しかし鐘を鳴らしたのはこいつか、嫌なーーー
ー
リリルアが地下室とおぼしき部屋へ入ると、意外と地下室らしき雰囲気はしてこなかった。虫の一匹でも、こんなに放置されたところにはいてもおかしくないとは思っていたが、そういう気配はちっともしない。ただ何かいる、肌にじめじめとした他者を通してだけ感じられる風がリリルアの体にまとわりついた。こんなに気持ち悪い風は亜人種にしか作れない、とっさにマッチを、酒瓶と一緒に、擦って投げた。するとマッチはあっけなく床に落ちた、というのも酒瓶が何か細長いものに取られていってしまったからだ。その時、間もなくして部屋に明かりが灯る。
リリルアの目の前には階段を下りきったところで腕を縛られ跪き、彼女をじっと見上げているトカゲ男の姿があった。