Sam-Rist ch.
「今年も雪は降らないな」
天気予報が告げる無情な結果を、認めたく無い気持ちを押し殺すように声に出した。
どうやら“君”は今年も帰ってこないつもりらしい。
「またねって、言ったくせに……」
思わず口を突いて出てきた言葉が、なんだか言ってはいけない言葉だったかのように思えてきてとても気まずくなってくる。
僕はその気持ちを紛らわすように目の前の組み立て式のテーブルに置いてあった、まだほのかに温かいマグカップを手に取った。
ゆっくりとカップを傾けながら中の液体を少しだけ口に含む。カカオと牛乳の混ざり合った甘さに温められてほぅ……と深く息を吐いた。
地球温暖化などと騒がれていてもやはり冬はそれなりに寒い。暖房で暖めた部屋と外との温度差など考えたくも無いが、室内にいても徐々に体温が奪われていくのは、つまりそういうことなのだろう。
「寒い……」
体がぶるり、と大きく震える。しかしそれは決して身体が冷えたからだけではない。
心が、想いが、「時間」という無機質な冷たさに冷やされて、次第に温度を失っていくような寒さだ。
その証拠と言わんばかりに君のいなくなったあの日から僕の胸には何かが詰まっているような息苦しさが続いている。
肺に到達するはずの温かい空気が何かにせき止められていて、今この時も内側から冷えていくのがわかる。
「っ……」
ぎゅっと目を瞑る。
思いっきり息を吐いて、吸う。
大丈夫、大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせる。
潰されそうなほどの質量を持った冷気を無視するように僕は目を開けた。
いつの間にか聞こえなくなっていたもの、見えなくなっていたものにゆっくりと目を向けていく。
エアコンの暖かい空気を吐き出す音、外の風、揺らされる窓、つけっぱなしのテレビ。
その全てが段々と現実味を帯びていき、自分の中に閉じ籠ろうとしていた僕を引き戻す。
「大丈夫、大丈夫……」
そう繰り返すとようやく頭がはっきりした。
手に持ったままのマグカップに注がれていたココアはもうだいぶぬるくなってしまっている。それなりの時間をボーッと過ごしてしまったのだろう。折角今日から貴重な冬休みだというのに、勿体無いことをしてしまった。
少しだけ後悔した。
『ご覧くださいこの幻想的な光景を!!』
不意にテレビの中のアナウンサーの言葉が聞こえてきた。
画面には近所の大通りのイルミネーションが映されている。
「イルミネーション祭」という名前で毎年地域の活性化の為に行われているもので、規模が大きく、娯楽の少ないこの辺りでは僅かな楽しみの一つとなっている。地方のローカルニュースとはいえ一つの特集として組まれているほどだ。目的は十二分に達成されていることだろう。
定番のサンタクロースやトナカイを始め、クリスマスツリーや有名なキャラクター。ジンクスを掲げたハートで囲まれたベンチなど、キラキラと輝きを放ちながら若い女性のアナウンサーに紹介されていく。
『このイルミネーションは明日まで点灯されます。本日は夜の12時までとなっておりますので、まだご覧になっていない方は是非足をお運びください!!』
一通り紹介が終わると点灯時間や詳しい場所などが書かれたテロップが映され、番組が終わった。
ーー綺麗だね!まるで夢みたい!!ーー
声。否、昔の思い出がテレビ越しの景色に触発されて蘇る。
一人の少女がくるくると回りながら楽しそうに辺りを駆けている、懐かしくて、温かい思い出。
何故か忘れていた。僕は君とここに行ったんだ。
「……そうだ、行ってみよう」
冷たいばかりだった想いが少しだけ溶けていくような記憶に半ば縋るようにそう決めると、壁にかかった時計に目を向ける。
午後11時35分。家から大通りまでは走って5分とかからない。
まだ間に合う。
急いでクローゼットからコートを取り出し、昨日の終業式につけて行った後放るように床に置いたマフラーを首に巻く。
ちょっと迷った後、飲み残していたココアを一気に飲み干して部屋を出て階段を駆け下りた。玄関でスニーカーを引っ掛けるように履くと、
「ちょっと出かけてくる!」
リビングにいるであろう両親にそうおざなりに声をかけて外へと飛び出した。
歩いてなんていられずに、家を出たのと同じ勢いで走り続ける。
温かいこの記憶が冷えてしまわないうちに。
温かい「君のいた時間」を忘れないうちに。
正直20分前に着いたとしてもまだイルミネーションが見れるかは微妙だとか、手袋をしていない手が外気にさらされてすごく冷たいとか、そんなことは考えたくなかった。
帰ったら親に怒られるだろうなぁ。
そんな思いも頭をよぎった気がする。
軽く頭を振った。
夜中ともいえるこの時間に明かりのついている家など数えるほどしかなく、黒い塊のようなそれらは流れるように目の端に映り、後ろへと消えていく。
冷気に晒された頬が冷たい。
耳は痛く、千切れそうだった。
でも、あと少し。すぐそこの曲がり角を行けば……
体を傾けて左足を前に伸ばしてそのまま後ろへと蹴り上げた。
「はぁ、はぁ、はぁ………」
急に立ち止まったせいで息が苦しくなる。
ゲホッ、ゲボゲホゲホっ……
そのまま何度か咳き込んでようやく落ち着いてきた。ふと顔を上げると、輝いた景色が視界に飛び込んでくる。
きっと僕の虹彩は今赤や青、白、紫などの様々な色が映り込んでいるのだろう。
「間に合った……」
僕の杞憂など意に返さないように煌々と光るイルミネーションが辺り一面に広がっていた。
時間も時間だっただけに人も閑散としていて半ば貸切状態だったのは有難かった。
早く回らないと消えてしまう。
そう思って疲労した足に鞭を打って歩き始めた。
ついさっきまで画面越しの映像でしかなかったものたちが実体を持ってそこに存在しているのがなんとなく不思議で、かじかんだ指先と痛くなっている頬や耳、吐いた息の白さに驚きそうになる。
幻想的な光景なのも手伝って、あぁ、白昼夢とはきっとこんな感じなんだろうなと思った。
小学生と同じくらいの背丈のサンタクロースをかたどったもの、トナカイが家の壁を駆け上がっているかのように下から上へと点灯を繰り返すもの、商店の窓から忍び込もうとするサンタ衣装の有名なキャラクターたち。
前回来た時よりもかなり数が増えてはいたが、その中にも確かに見覚えのあるものはあった。
そしてその中に、君との思い出も。
ーーねぇねぇ、これ、変な顔!ーー
ーーあ、このハートかわいい。「ハートと一緒に写真を撮ると恋が成就」?ーー
ーー今日は楽しかった、ありがとうーー
そんな思い出の一つ一つを辿りながら僕は次第に歩を速めていった。この先に君が1番好きな「あれ」があるはずだ。
ーーあのね、大事な話があるんだーー
ーーお父さんが転勤になってねーー
無数の光の粒を通り過ぎる。もはや僕はそれらに目を向けていなかった。
ーーううん、日本じゃないんだーー
ーー絶対、戻ってくるからーー
この大通りに存在する唯一の広場。
ベンチや噴水、観葉植物が少しだけ生えた公園のような場所にそれはあるはずだ。
そこはもう、すぐ目の前にある。
ーーだからそれまでーー
レンガを敷き詰めた道を進み、目的の場所に足を踏み入れた。
ーーバイバイーー
夜が、本来の静寂を取り戻した
ベンチや噴水、観葉植物が少しだけ生えた公園のような場所に、それはあるはずだった。
いや、正確にはそれはきちんとそこにあった。
『本日はイルミネーション祭にお来しくださり、誠にありがとうございました。12時になりましたので、本日のイルミネーションは終了いたします。どうかお気をつけてお帰り下さい』
街灯に取り付けられたスピーカーから女の人の声がアナウンスする。
僕は目の前の巨大なツリーを見上げた。
頂点には星ではなく雪の結晶を模したものが飾られ、モミの木の胴体には雲をイメージしたわたや白や青の電飾で彩られたイルミネーション祭の一番の目玉。
通称「スノウツリー」。
「彼女」が1番好きだったものだ。
三年前、この木の前で彼女は僕に笑いかけた。舞い散る雪の中、溶けるような笑顔を残して消えてしまった。
この日に雪を待っていたのも、ここに来たのも、きっと、全部全部祈っていたんだ。
あの時と同じ世界が目の前に広がれば、きっとまた逢えるからって、サンタに願っても叶わなかったこの願いを叶えたくて。
もう一度、君に逢いたくて。
それでも気づいてしまった。胸につっかえていたものの正体に。
喪失感でも、恋しさでもないそれは「もう逢えないのかもしれない」という予感だった。
そう自覚した途端、視界が歪んで回った。
目頭が熱を帯びて熱くなる。
下を向いたらポタポタと水滴が落ちた。
待っていたんだ、ずっと信じて。
また逢えるって。
でもきっと、君はこのツリーの光のようにあと一歩のところで手が届かずに消えてしまうのだ。
あまりにもひどい終わり方だ。残酷だ。
「う……あ……」
堪らず嗚咽が漏れる。
流れた涙が頬を伝って次々と暗闇へと消えていく。
堪らなかった。
苦しかった。
だから僕は胸につっかえた息を逃がすように、溜め込み続けた想いを吐き出すように声を上げた。
「会いたいよっっ……!!」
切り裂かれた静寂はすぐに僕の言葉を呑み込んで、黒く冷たく溶かしていく。
何も変わらないはずだった。
叫んだところで何も変わらずに僕はひとしきり泣いて、家に帰り、冷たいベットにくるまって夢の中で幸せを願うはずだった。
そのはずだったのに、切り裂かれた静寂から何かがこぼれ落ちた。
冷たくて、それでいてどこか暖かい。
それは思わず空を見上げた僕に向かって落ちてくるかのように暗い空を白く染め上げていく。
「遅くなってごめんね」
嘘だ、だって、そんなはずない。
理性がそう思う前に僕は後ろを振り返った。
流れ損ねていた涙が再度質量を持って流れ落ちる。
舞い散る雪の中、君は溶けるような笑顔を浮かべて消えてしまったはずだった。
もう、逢えないと思った。
それなのに、自然に体は動く。ほんの数十歩の距離を駆ける。
「お帰り……結っ!!」
もう消えたりしないようにぎゅっと腕の中に包み込んだ。
温かいその体温が、君が間違いなくここにいることを実感させてくれた。
君は驚いたように少しだけ動きを止め、そしてきっとあの笑顔を浮かべて
「ただいま、晶」
そう言って僕の肩に顔を寄せた。
「ねぇ、今年も雪は降るかな?」
隣にいる君に僕はそう問いかけた。
「んー、どうだろう。……でも、きっと降るよ」
これは真っ赤な紅の人影が僕の横に君を置いて、帰った後の物語_____