第七章 子殺しの城
第七章 子殺しの城
――その時は、いつまで待ってもこなかった。
俺は強くつむっていた目を、おそるおそる開く。
「あ、兄貴……っ、あれっ!」
俺は覆い被さっている兄貴越しに天井を指さした。そこには、重さ一トンはありそうなテラスが、見覚えのない太い梁に乗っかってゆらゆらとしていた。
ぐらりと傾く大きな石の塊は、今にも落ちてきそうだ。
「――っしゃあ! 逃げるぞ、勇!」
兄貴が俺の腰をぐっと抱き起こす。
力のままに引っ張られ、春海たちがいる階段の上方へ駆け上がったとき。
ドゴンッ、と重い音が響いて、テラスが落ちてきた。
「っ!」
階上に勢いよく投げ出されて、俺は顔面から苔むした石床に滑り込んだ。
兄貴も背中からざっと床へ寝転ぶ。
「へ、へへ……。なんとかセーフってヤツ?」
引きつった笑みを浮かべつつ、兄貴は俺の頭をくしゃりとなでた。
二人そろって両手を口元へあてていた妹たちが、止まっていた息をふぅーっとはき出す。普段はばらばらなくせに、こういうときだけそっくりだ。
先に硬直をといたのは、秋代のほうだった。
「ふ、二人とも、大丈夫?」
と、俺たちのほうへ駆けよってくる。
「兄さんたち……怪我してない?」
春海もおそるおそるといった調子で近づいてきた。
秋代が俺の手を引っ張って上体を起こさせた。
春海も孝一兄貴に同じことをしている。
俺と兄貴は、そろって答えた。
「ああ、大丈夫だ」
「なんとか、な」
ばらばらな答え。だが、その意味はどちらも同じだ。
妹たちは二人そろって軽く黙りこんだ。春海は目元の涙をぬぐい、秋代はぷいっとそっぽを向く。
それから秋代は服の袖でささっと涙をぬぐい、こっちへ振り向くと。
「――よかったー! 勇にぃ、生きてたあ!」
珍しく大げさに抱きついてきた。
「もう、勇にぃのばかぁ! ほんとに死んじゃうかと思ったんだからぁー!」
と、俺の胸をべしべし叩いてくる秋代。けっこうな力があって、痛い。
それに合わせるかのように、春海がぼろぼろと泣き出した。ああもう、ほんとにこいつは泣き虫だな。
「ほ、ほんとに無事でよかったぁ、勇にぃさん……。会えても骸骨だったらどうしようって、ずっと思ってたんだからあ……」
そう言って春海まで俺の肩をべしべしと叩く。地味に足まで響いて、とても痛い。
「大丈夫……とは言えないけど、生きてるよ。心配させたんだな、ごめんな」
俺が苦笑いを浮かべながら春海たちの頭を撫でると、兄貴がにやにやと笑ってはやし立ててきた。
「おやおやあ? なんか知らないうちにモテモテになったな、勇」
「なに言ってんだよ」
ふてくされた俺の声を無視し、兄貴はニカッとした笑みでくしゃりと頭を撫でてきた。
「それにしても助かったな、あのばかでかい飾り梁がなかったらと思うと、ぞっとする」
「飾り梁……?」
「ああ。どう見てもただのお飾りだ。こんだけ無駄のない整った設計なのに、なんであんなもんつけたんだろうな?」
俺たちは自然と上を向く。一時的にでもテラスを乗せていてくれた、命の恩人のような大きな梁。
しかし設計的に見ると、明らかに無駄な構造だった。太い梁が吹き抜けの間を無粋に横切っていて、美しい天井画を見るのに、思いっきり邪魔になっている。その天井画も、ほとんどがはがれてぼろぼろなのだけれど。
はっと、隣で秋代が息をのんだ。
「あ……そういえばあたし、あんな梁を描きこんじゃった気がする……過去で」
「過去で?」
「そう。設計図に」
秋代がピッピと宙に二本の線を引く仕草をした。
俺と春海、そして秋代は互いに顔を見合わせた。
自分たちがさっきまでどこにいたのかを、視線で確認し合う。
それは、この城の過去だ。
俺は大きく喉を上下させてから、おそるおそるつぶやいた。そんなバカな、とみんなに言われるかと思いながら。
「じ――じゃあ、秋代が過去を変えたから……」
先を言うのをためらい、小さく息を吸い込む。それからひたと妹たちを見つめた。
「兄貴が生きてるってことか? 本当に?」
こくりと頷く秋代。その眼に嘘はなかった。
「過去が変わったから、今も変わったんだと思う。考にぃは、助かったんだよ」
――兄貴は助かった。
その言葉が俺の胸の奥でじんじんと響いて、全身に広まってくるようだった。
俺たちのやりとりを春海は目をまん丸にして見つめていた。そして「……ほんとに?」とつぶやいて、また泣き出した。
秋代たちのいた十八世紀に再増築されて、今のエゼルブルグ城がある。だから、秋代が描きこんだのは一番新しい、今のこの城の設計図のはずだ。素人の落書きをそうとは思わず、忠実に再現した結果がこの飾り梁だったらしい。あるいは、建築士がその落書きから新たな発想を得たのかもしれないが。
そんなことはどうでもいい。
今は、そのおかげで兄貴が無事でいることのほうが、百万倍大事だった。
俺は大きく息をついてしゃがみ込んだ。
「兄貴……よかった。本当によかった……!」
緊張の糸が切れたのか、俺はその場で泣き崩れそうになった。
もちろん妹の手前そんな真似はできず、スン、と鼻を鳴らす程度におさめる。
それでも兄妹にはバレバレだったらしく、兄貴が肘で俺の脇腹を小突いてきた。
「なに泣いてんだよ、勇二。男がこのぐらいの城でこわがんなっつーの」
「こわがってんじゃねぇよ」
「やっぱり考にぃがいると心強いね。勇にぃだけでも……まあ、十分ではあったけど」
「なんだって?」
「なんでもない」
秋代と春海はそっくり同じな顔でにんまりと笑った。春海なんてさっきまで泣いてたくせに、現金なヤツだ。
俺はむっとしながらも、かける言葉が見つからなかった。こういうときは放っておくにかぎる。
気分を変えようと、俺は真面目につぶやいた。
「そんなことより、俺たちはどうしてこんな場所に――いてっ」
無防備に起き上がろうとして、痛めた左足に激痛が走る。あわてて庇ったものの、遅い。じんじんと痛みが襲ってきた。
くそっ、この足さえ無事だったなら、さっきみたいな事故に巻き込まれなくてもすんだのに。
しゃがみ込んだまま動けないでいる俺の隣へ、春海がしゃがみ込んだ。
「勇兄さん、この足……」
「ああ、転んで痛めたんだ」
春海は急に看護婦らしい顔つきになって、俺の足を少し持ち上げた。
「いてっ」
「すっごく腫れてる。これ、折れてる?」
「ことはないけど、ヒビぐらいはいってるかもしれないな」
春海はさっと辺りを見回した。
「考兄さん、アキ。添え木になるような物ってない?」
「ないな……」
「なんにもないよ」
兄貴と秋代がそろって首を振った。辺りには苔むした石床と雑草しかない。階下にも、崩れた石や石柱の欠片が転がるばかりだ。
「そっか……」
と春海は小さくつぶやくと、自分のフレアスカートをさっと口元へ持っていた。
ビビィッ、と布を裂く音がして、俺は目を丸めて春海を見た。
春海はなんのことはないというように笑って、
「軽くテーピングしてみるね。少しは楽になると思うから」
慣れないながらも丁寧に布をまかれて、俺の足の痛みは少しだけ和らいだ。
「ありがとう、楽になったよ」
「ううん。本当は添え木があるとよかったんだけど……」
言いよどむ春海の隣から、秋代がずいっと顔を出してきた。
「大丈夫? 勇にぃ。ずっとこんな足で無理してたの?」
と、いつになくしおらしげなことを言う。
思えば、過去で木のウロを介して秋代と話したときには、足のことを言っていなかった。心配させたくなかったのもあるし、状況がそれどころじゃなかったというのもあったけど、やっぱり、兄として弱音が吐けなかったのが大きい……のかな。
だから俺は今回も痛みをこらえて、苦笑みたいな笑顔を作った。
「もう大丈夫だ。……ああ、杖になる物がないな。どうするか」
「わたしにつかまって。せーのっ」
春海が肩に俺を乗せると、するっと上手に立ち上がらせた。成長期を終えてひょろ長くなった俺は、中学生の女の子が運ぶには重いだろうに。どうやら関節技をうまく使って立ち上がらせたらしい。立派なもんだ。
しかし俺の体重を支えたまま歩くのは難しかったらしく、春海は一歩進んでぐらりと俺ごとふらついた。
「!」
「大丈夫か、春」
さっと兄貴が俺の腕を取ってくれた。
春海の顔がほっと緩む。
「考にぃさん、手伝って。腕を肩にまわすの」
「こうか?」
「うん」
右手には春海、左には兄貴。俺はほとんど宙づりにされるみたいになって、歩き始めた。
だが、数歩も行かないうちに足元でカサリという音がして、俺たちは下を向いた。
「?」
足元には、開かれた薄い冊子が落ちていた。
「……兄さんたち、これ、この城の……」
「設計図だ!」
秋代がぱっと冊子を拾う。革張りの装丁がされた薄いそれは、この城を訪れたときに手に取った設計図集とまったく同じものだった。
だが違うのは中身だ。一目見ればわかるように、クレヨンで所狭しと落書きがされている。
「この落書き……まさか」
「いつきちゃん!?」
冊子の中には色とりどりのチューリップや、猫、魚やチョウチョの絵が描き加えられていて、とてもじゃないが元の姿を留めていなかった。ページをめくれば大きな木が。その木のウロには虫食い穴が開いていて、下のページがのぞいている。
二枚目の設計図に書き足された一階エントランスの換気口に、俺の視線が止まる。俺が描きこんだ換気口だ。線の太さの微妙な違いが、後から書き加えたことを明確に証明している。
ページを戻って確認すれば、一枚目にも妙に太い線でエントランスに梁が書き足されていた。
三月のドイツだというのに、背中を一筋の汗が流れるのを感じた。
いつでもクレヨンを手放さず、紙と見るや即座に落書きを始めていたいつき。幼稚園児らしいカオスな絵に、俺はいつもどう褒めたらいいのか迷わさせられていたんだが……。
まさか、あの城の奇妙な現象は……。
いつきの絵が、モデルになってるんじゃ。
ページをめくって三枚目の、シンプルな設計図を見下ろす。細い木やケーキ、赤い金魚が宙を泳いでいる。
……俺が経験した怪異のほとんどが、ここにあった。
だとしたら。
もしかして、俺たちがいた世界は過去じゃなく。
……この設計図の中だったのか?
「――ねえ、これを描いたのがいっちんなら、近くにいるんじゃない?」
急に秋代の言葉が耳に飛び込んできて、俺は自分が思索にふけっていたことに気付いた。そうだ。今は過去のことより、目の前の現実に集中しよう。
「そ、そうだな。いつきを捜そう」
「呼べば聞こえるかな。いつきちゃーん!」
春海が口元に両手をあてて叫ぶ。薔薇窓から日差しの差しこむエントランスに、澄んだ声がよく響いた。
しーんと、沈黙だけが返ってくる。
俺たちは顔を見合わせて、急に大きくなった不安を確かめ合う。
「いつきも一緒に来たんだよな?」
「当然でしょ、勇にぃってば、なに言ってんの」
「すまない」
「いつきちゃーん!」
春海がなおも叫ぶ。
兄貴が頭をかきながら辺りを見回した。
「おっかしいなぁ、いつきならさっきまでその辺で遊んでたんだけど。……あれ? いねぇな」
俺から離れて、階段を軽やかに下りていく兄貴。適当に辺りを見回したあと、青い顔をして二段飛びでこっちへ戻ってくる。
「やべぇぞ。こんなとこで迷子になったら、いつ見つかるかわかりゃしねぇ」
いつになく真剣に焦った様子で、兄貴が眉をしかめた。
そのとき、冊子を見ていた秋代が「ぎゃっ!」と短く叫んだ。
「どうした?」
「どうかした?」
「どうしたんだ?」
俺たちの三重奏が秋代に降りかかる。
「こ、こここ、これ!!」
秋代が冊子の一ページ目を指し示す。
そこには赤いクレヨン――いや、血のような赤いインクで、大きくバツ印が描きこまれていた。
「いきなりこの印が浮かび上がってきたの! きんもー!」
と、冊子を俺へなすりつける。なにしやがんだこいつは。
俺は受け取った冊子を見下ろし、首をかしげた。いつきが描いたかと思えるくらい、つたない線だ。本当に今浮き上がってきたのか?
内心で首をかしげたとき。
――Danke.
幼い女の子の声が聞こえた。
ダンケ、それは、「ありがとう」という意味。
その聞き覚えのある声に、俺は辺りを慌てて見回した。
「……レイラ?」
「え? なに?」
春海が目をしばたたかせる。
俺は辺りを見回した。
「いや、今の声、子供のだったろ」
「子供? なんのこと?」
辺りを見回す春海と目配せしあってから、秋代が首をかしげた。
「声なんか聞こえなかったよ?」
「大丈夫か勇。足の熱が頭まできてんじゃねぇだろうな」
兄貴が額に手を当ててくる。俺はそれを邪険に払って、
「なんでもない。風の音を聞き間違えただけだ……と、思う」
「――そんなことより、今はあたしを信じてよ! これ、ほんとにいきなりぶわっと浮き出てきたんだから!」
秋代が俺の持つ冊子をべしべしと叩く。そこに浮かんだ血の跡のような赤いバツ印を避けるようにして。
春海が俺の手元をのぞきこんだ。
「ここって……食堂?」
「ああ。一階の食堂だろうな」
俺たちは互いに視線を交わしあい、小さく頷きあった。
俺が思うに……これはきっと、この城に巣くう霊からのシグナルだ。
ここに一体、何があるのだろう。
「行ってみましょう」
「けど、いっちんはどうするの?」
「まあなんだ。いつきを捜しつつ、いっちょバツ印のところも見てみるか。もしかしたらお宝がざっくざく、なんてこともあるかもなっ」
「もしかしたら、ここにいつきがいるのかもしれないしな……」
兄貴は春海たちから俺を奪い取るようにして肩を貸してくれると、ゆっくりと階段を下りていった。
俺は手にした冊子を見つめ、低くつぶやいた。
「……レイラ」




