一章 エゼルブルグ城1
第一章 エゼルブルグ城
――というメールをよこした次の日、兄貴は死んだ。
件の城を見学している最中に、老朽化したテラスの崩壊に巻きこまれたらしい。
死因は圧死。旅行中の不慮の事故だということで、事件性はいっさいないそうだ。
次男の俺はドイツの大使館から連絡を受け、あっけにとられた。「は?」という一言を残してこの世のすべての時間が止まってしまった俺に、担当者は異国語訛りの日本語で淡々と事実を語ってくれた。
曰く、兄貴の無言の帰宅を日本で待つか、それとも遺体を引き取りにドイツへ行くか。
どちらか選べとのことだった。
「――行きます」
考えるより先に答えていた。
電話を切るなり、去年の家族旅行で使ったきりのパスポートを探しだした俺を、双子の妹たちが怪訝そうに見つめてきた。「どうかしたの?」という不安げな催促に、短く「兄貴が死んだ」と答えたのだけを覚えている。
「バカ言わないでよ! 新手のオレオレ詐欺に決まってんでしょ!? きっと考にぃの保険金をねらってんのよ!!」
次女の秋代はいじっていた携帯を握りしめて叫んだ。口元を押さえたまま叫び声すらあげられない双子の姉、春海とは大違いだ。
秋代の意見は現実逃避からの言葉に違いなかったが、その希望的観測が魅力的すぎて、俺もそうだったらいいのにと思ってしまった。だから父さんに連絡する前に、兄貴の携帯に連絡を入れたのだが――でたのは、へたくそな英語でドイツ市警を名乗る男だった。
つたない英語でやりとりしても、相手は金なんか要求したりせず、ただ静かに遺体の引き取りに来るようにと告げてきただけだった。まだ誘拐犯に身代金をゆすられるほうがマシだ。
結論は一つだった。
兄貴は死んだ。
五年前に母さんが死んで以来の、どうしようもない体の震えに、俺はただ自分の携帯を握りしめて突っ立っていた。
事情を察知して青ざめた双子たちとは対照的に、末っ子のいつきは何もわからない様子で俺の服の裾をつかんできた。不安げに「勇おにいちゃん」と見上げてくる幼い妹の姿に、俺は胸がいっぱいになってしまって、おもわず力強く抱きしめていた。
それが、二日前のことだ。
俺は普段のおとなしさからは信じられないくらいの行動力で家族分の飛行機のチケットを用意し、鉄道の切符を手配してドイツ南部にあるその町までのルートを確保した。
そして今、その町――エゼルブルグにいる。
ここに来るまでの道中は、我が家にはあり得ないほど静かだった。春海は無言で泣き続け、秋代はふてくされたように窓の外ばかり見ている。末っ子のいつきは事態の深刻さがわかっていないのか、泣き叫んだりはしなかった。その代わりに、ずっとうつむいてクレヨンで家族の絵を描いている。
いつもなら孝一兄貴が古くさいお笑い芸人のネタで妹たちを笑わせたり、末っ子のいつきが駄々をこねたりして、我が家の旅行が無事ですんだことなんか一度もなかったのに。まあ、ある意味では今回も無事ではすんでいないんだが……。
うざいうざいと思っていた兄も、いざいなくなると家族が一回りも二回りも小さくなってしまったように感じる。父親が仕事で二日も遅れてくるせいもあるだろうが、こんなに静かな妹たちを俺は今まで扱ったことがない。
スンスン、といまだに鼻をすするのは、タクシーの後部座席の中央にすわる春海だ。その右隣にはイライラと麦畑を眺める双子の妹の秋代がいる。同じ顔をしているのにえらく印象が違うのは、春海の長い黒髪と秋代の短めのボブカットに現れているように、それぞれの性格がまったく違うからだ。
秋代はさっきまわった遺体安置所で、俺だけが兄貴の遺体と面会したことをすねているみたいだった。受付嬢にドイツ人特有の無表情で面会を控えたほうがいいと言われたとき、「兄貴だってまだ高校生なのに……」と呟いたまま、いっさい俺と口をきかなくなってしまったからだ。
促されるままに兄貴の遺体――それも、轢死体――と対面した俺からすれば、まだ中学生の妹たちにあんな姿のものは見せられないというのは正しい考えだと思う。ただでさえ春海なんてこの二日間泣き通しだし……、……――その泣き方が、母さんが死んだ五年前を思い出させて、みんなを不安にさせているくらいなのに。
タクシーの窓にうつる景色が刈り終わった小麦畑から森へと変わった。道は砂利道になって、がたがたと車体が揺れる。
俺は、ガラスにうっすらと映る喪服を着た自分自身を見た。噛み締めるように口を閉じ、眉間に深いしわを刻んでいる。愛想のない目元は父親似で、小作りな鼻から下は母親似だ。兄弟の中ではいつきと似ているらしいが、当のいつきは大否定している。
じっと外の景色を睨みつけていると、助手席の俺に運転手がつたない英語で話しかけてきた。
『……本当に見に行くのかい? あの恐ろしい城を』
『ええ、そのつもりです』
英語で素直に答えると、運転手は山道特有の急カーブを華麗にさばきながらぼやいた。
『俺が言うのも何だが、やめておいたほうがいいんじゃないかね。あそこにはいい噂がない』
ちらりと、森の端から黒っぽい尖塔がのぞいた。びくりと心臓が跳ね上がる。それに気付かないふりをして、俺は鞄から電子辞書を引っ張り出した。
『まさか、幽霊が出るという話を信じてるんですか?』
『信じてなかったさ、あんたらの兄さんが死ぬまでは。あそこに行く阿呆なんてもう、この何年っていないからなぁ』
『どうしてですか?』
カーブを曲がると、森の端に尖塔がちらりと見えた。白い石造りの壁に、黒い屋根瓦が載っている。瀟洒な文様とドーム型の高窓の躍動感あるつくり。
まるでゴシック調の見本のような建物に、そういった建築が好きな俺は不謹慎ながら目が釘付けになってしまった。
俺も兄貴と同様に、幼い頃から城や寺みたいな歴史的建築物が好きで、密かに建築家を目指している。大学では兄貴と同じ建築学を専攻する予定だ。幸い東京の第一志望に合格できて、この春から一人暮らしになり、うるさい家族たちから離れられるはずだった。
城が少しずつ見えてくるのとは反対に、辺りを包む森は深さを増していった。うっそうとした下生えが覆い茂り、うっすらと霧が立ちこめてくる。温かい三月の陽光はぼやけ、木立の合間に落ちる前にかすんでしまっていた。
運転手は前を向いたまま、慣れた様子でハンドルをさばいた。
『……あの城からはな、悲鳴が聞こえるのさ。夜な夜な金切り声みたいな声が聞こえてくるんだ。気味悪いったらありゃしねぇ。それに、五年前だったかな。あの城に行ったきり帰ってこねぇ子供がでたんだよ』
おどろおどろしげに言い、舌打ちする運転手。
俺は一瞬はなじろんだあと、電子辞書で言葉を調べながら言葉をかえした。
『どうせ、隙間風の音でも聞こえてくるだけでしょう。ずいぶん老朽化しているそうだし……』
『まあな、古いからな』
不味いものでも食べたみたいに口を閉じて、運転手は黙りこんだ。
その様子に不穏なものを感じ、俺はおそろおそる口を開いた。
『……あの城について、なにか知ってるんですか?』
訊き終えた瞬間、視界の端に城の塔が飛び込んできた。
俺がじっと城を見つめていると、運転手はちらりと城を眺め、すんと鼻を鳴らした。
『誰でも知ってることだ。元はこの辺りを統べる領主さまの居城で、十二世紀にはもうあったらしい。何回か増築を繰り返して今の姿になったそうだよ』
『古いんですね。一見、ゴシック調に見えますが……』
『建て直すたびに子供絡みの事故が起こったからな。もう修理する奇特な奴がいねぇ。あの城が三世代ともたないのは、あそこで生まれた子供に不幸が多かったからだとか……。――そんなこんなで、ぼろぼろに崩れて誰も近づかなくなった頃に、あんたらの兄さんが、な』
気遣うように見下ろされ、俺は居心地の悪さを感じた。この町に着いてから幾度となく感じた空気だ。
『……その節は、うちの兄がご迷惑をおかけしました』
『いいってことよ。そんなことより、事故の起こった現場が見たいなんて、あんたらも十分奇特だがね』
『………………』
俺は黙りこみ、景色を眺める。黒い尖塔がいやでも目に入った。そして静かに告げる。
『……まだ、信じられないんです、兄が死んだなんて。妹たちは面会もできなかったし……。現場を見れば納得するかもしれないと思ったんです』
『なるほどね』
俺は胸ポケットから携帯電話をとりだし、メールを確認した。新着はゼロだ。数日前のメールを開き、内容を読みこむ。
兄からの最後のメールは、いつも通りいいかげんに書かれていた。どんなときでもおどけてみせるのは、あの兄らしいと言えば兄らしい。けれどよくよく精読すれば、ふざけた調子で家族の様子をうかがう合間合間に、これから城へむかう緊張感のようなものがにじんでいるように思えた。
特に俺が気になったのは――。
『この二人の呪いでか、この城を手に入れた者はみな三代ともたず滅んでいるんだとか。さらに所有者がいなくなっても、不審死や行方不明が続いているとか言われてて……。ついたあだ名が『子殺しの城』だ。はんぱねぇ』
――子殺しの城、エゼルブルグ城。
大学生の兄貴が子供だとは思えないけれど、これも不審死の一つとして数えられるだろう。迷信を信じるわけじゃないが、素直にただの事故だったと思えないのも事実だ。
……あの城には、何か原因があるんじゃないか。
それを知るだけでこの胸の不快感が消えて、兄の冥福を心から願えるようになるんじゃないか。そう思うといてもたってもいられなくて、俺は宿の亭主にタクシーを頼んだ。
妹たちを連れていく気はなかったが、見知らぬ土地で三人を置いていくのも気が引けた。なにより秋代が地団駄を踏んで『ついて行く』とごねたため、しかたなく兄妹四人そろって車に乗り込むことになったのだ。
いいや、俺たちはただ、自分の目で確かめたかっただけなのかもしれない。
死体を見ても納得できないこの胸の焦燥が、まるで俺をその古城へ吸い寄せていくようだった。
「――それにしても」
窓の外を見ながらぶすくれていた秋代がイライラとつぶやいた。
「いくら老朽化してても、テラスがまるごと落ちてくるなんて、どんだけアンラッキーなのよ。考にぃってば……もうもうもう!」
こぶしを握りしめる秋代へ、春海がなだめるようにこたえる。
「しかたないよ。考兄さんがついてないのは昔っからだもの。秋代だって、考兄さんが就活のためにスーツを新調した日、覚えてるでしょ?」
「家から出るなりカラスの糞が降ってきたんでしょ」
「本人は『ウンがついた』なんて言って笑ってたけど……ほら、大学の試験の日だって」
「インフルエンザで四十度近い熱だしながら受けたんだっけ。よく受かったよね」
「第二志望以下は総滑りだったもんな……」
俺は遠くの尖塔を見つめながら二人の話に割って入った。
「あの時に、『生まれ持った運を全部使い果たした』って笑ってた。あながち外れてないみたいだな」
「考にぃらしいって言えば、らしいんだろうけど……」
秋代が手で目元を覆う。
春海がぐすりと鼻を鳴らしてから俺に話しかけてきた。
「勇兄さんは、城に行ってどうしたいの? もう、なにをしたって考兄さんは帰ってこないんだよ?」
「なにって……。現場検証ってやつだよ。あんないい加減な説明で納得できないんだ」
俺は警察官から受けた説明を思い出す。一人のときに起こった事故で、目撃者もいないが、事件性は考えられない。おそらくただの事故だろう。――それだけだった。
「警察でもないのに現場検証なんて。そんなことをして意味があるの?」
ハンカチを握りしめて問いを重ねた春海へ、秋代が横から手を出して制した。
「考えすぎだよ、ハル。お父さんが来るまではただの観光客をやってればいいじゃない。ほら、そんなに泣いてみんなに迷惑かけないの。いっちんだってもう泣き止んだのに。ハルはお姉ちゃんでしょ?」
「そうだけど……でも、考兄さんがいなくなるだなんて……」
「いつまでもすぎたことをグズグズ言うなよ。確かに俺じゃ何もできないけど……どんな建物が兄貴を殺したのか、知っておきたいんだ」
俺は徐々に大きくなってきた尖塔を見つめた。あそこで兄貴が死んだ。それを思うと、いやに心臓が高鳴る。不安と緊張と、豪奢な建築物へのほんの少しの羨望。それらが合わさって俺の中で渦を巻いているようだった。
「でも、もし勇兄さんまで何かあったらどうするの?」
「……別にどうもしないだろ。もしものことなんて気にするなよ」
俺は答えに詰まり、無意識にいらだった声を出していた。振り向いて春海と目を合わせようとしたが、相手はうつむいたままだ。
「……なによ」
春海はぶつくさとつぶやき続けた。
「もうちょっと、優しくしてくれたっていいじゃない。考兄さんならきっと優しく……ううん、もっとアホっぽく慰めてくれるのに」
「諦めなよ、ハル。勇にぃにそんな男気なんかないよ」
けっと秋代が鼻で笑う。
なめきった様子の妹たちを睨みつけてから、俺は前へ向き直った。正直なところ、とっさに言い返すことができなかったからだ。俺は兄貴みたいに器用じゃない。話術も下手だし、泣いている女の子を慰めるなんて芸当、逆立ちしたってできやしないんだ。
そのとき、森の端にちらちらとのぞいていたエゼルブルグ城が、はっきりと目の前に現れた。