次男:勇二の章2-2
二百年後に届く手紙……か。
俺は今の自分の状況を手帳に記しつつ、小脇に杖を挟みながらゆっくりと廊下を進んだ。
殺人鬼のうろつく妹たちの世界とは違い、俺には脅威となるような存在がいない。いきなり襟首を掴んで外へほっぽり出してくるような住人たちもいないし、こそこそしなくていいだけ楽だ。まあ、代わりに味方の一人もいないんだが。この孤独に俺の精神が耐えられるうちは、特に主だった問題はないだろう――。
――と思っていた俺は、甘かった。
突然「にゃあ」と猫の鳴き声がして、俺は廊下の先を見た。
どこから現れたのか、一匹の黒猫が廊下の奥にいるじゃないか。
「猫っ、どこから入ってきたんだ?」
猫好きなうえ、秋代と話した後で孤独感が膨れあがっていた俺は、思わず駆けよっていた。
猫が走って逃げる、その後を追いかけて角を曲がった瞬間、俺はつんのめってその場でたたらを踏んだ。
廊下にばかでかい穴が開いていた。落とし穴としか思えないそれは、暗い穴の底にたくさんのチューリップが咲いていた。ご丁寧に蜂まで飛んでいる。その穴の奥で、黒猫は丸くなって眠ろうとしている。
なんて平和的な落とし穴なんだろう……。いや、ただの穴、か?
俺が混乱のあまり後ずさると、今度は何か柔らかい物を靴の裏で踏んだ。
「うあっ」
思わず足を上げると、めちゃりと靴の裏が鳴る。おそるおそる下を見れば――
踏んだのは、ババロアと思われるケーキだった。
「なんで、こんなもんが……」
呟いて後ろを振り返ると、廊下の両脇にずらりとケーキ皿が並んでいて、八等分にカットされたケーキがちょこんとのっているじゃないか。
俺は開いた口を閉じれず、そのままぽかんと沈黙した。
だって今通ってきた道にだぞ? こんなもんがあるわけないだろうが。
混乱する頭とは対照的に、俺の腹がぐうっと鳴った。こんな怪奇現象を前にまったくもってのんきな腹だが、思えば朝から何も食べてないんだ。
俺は震える手で携帯電話を取りだし、ケーキの並ぶ廊下を写真に納めた。これからは異変が起こる前の状況も撮っておこう。そうすれば後で何がどうなったのかわかりやすい。
そして足元のショートケーキをおそるおそる手に取り、小さく囓りついてみた。
「……うまい」
甘みの強いクリームに、苺の酸味が絶妙にマッチしている。口の中ではかなくほどけるスポンジがおいしくて、三口で食べてしまった。俺は次のケーキを手に取り、頬ばった。木イチゴのムースが甘酸っぱくて、これもまたいい。
俺は夢中になってケーキを食べた。チョコケーキにモンブランやシュークリーム。どれも味は絶品だった。
ただ、どれだけ食べても俺の腹がふくれることはなかった。
「とりあえずこんなもんにしとこう」
口元をぬぐって杖をつき、立ち上がる。満腹感はなかったが、口が甘い物に飽きてしまったんだ。
「けどなぁ、いったい誰がケーキなんか作ったんだ? あの空の厨房で? そんなバカな」
俺は改めて辺りを見回した。やはり人の気配はない。
「みんな隠れてるとか……? 俺を騙して遊んでる?」
そんなはずはない。俺はガラスを割って不法侵入した男だ。普通なら騙す前にねじり上げて、ボコボコにしてから警察に突き出すだろう。
色々な場合を想定しながら歩き、俺は小さな部屋へ入った。女向けの装飾がされた室内には見事なドレッサーがある。きっとこの城の奥さんの部屋だろう。
部屋を眺め、俺はまず手元の携帯で写真を撮った。窓から差しこむ光が石造りの壁には反射している。
それからドレッサーの引き出しを開け、中に入っている宝石類を物色――ならぬ、捜索した。別に貴金属が狙いじゃない。なにか役に立ちそうな物が入ってないかと思ったんだ。
「お、当たり」
俺は宝石箱の中に、小ぶりな鍵が入っているのを見つけた。金でできているのかずっしりと重い。大きさは宝石箱の鍵というには大きすぎるし、扉の鍵というには小さすぎる。ちょうど金庫の鍵くらいだ。
「金庫の合い鍵ってとこかな。よし」
その鍵を俺が目の高さへ掲げてみたとき、その背景がおかしいことに気付いた。急いで俺が壁に目線を戻すと。
壁に、三枚の絵画が掛けられていた。さっきはなかったものだ。
「……は?」
目の前で起こった変化に、俺は間抜けな声を出すしかなかった。
壁には肖像画と思われる男の描かれたものと、花や果物が描かれたもの、風景の描かれたものの三つがかけられていた。
「嘘だろ……」
俺の手元の携帯写真には、何もかかっていない壁が写っている。それを何度も確認し、俺は生唾を飲み込んだ。この城は完全に空っぽなのに、まるで目に見えない執事がいるかのようにどんどんと変化していく。それが……気味悪くなってきたんだ。やっとって言うのかな。今までは、考えただけで発狂しそうになるのを無意識に押しとどめるために、あえて恐怖を感じないようにしていたのかもしれない。
俺は一階から逃げるようにして地下へおりた。ランドリーやアイロン室、暖房室も、もちろん人はいない。狩猟室や拷問室と思われる怪しい器具のある部屋にも、人影一つなかった。
その間にも変な場所から生えてきたチューリップが咲いていたり、消してあったはずの照明がすべてついていたり、ないはずの花瓶に生花が活けてあったりした。
それらの現象を見なかったふりして、俺は城を探索した。
このままこの世界が狂いきったら、いったい俺はどうなるのだろう。
秋代の言ったとおり、人知れぬ場所でひっそりと死んでいくのだろうか。
そんなのは嫌だ。兄貴のようにとは言わないが、せめて迎えにきてくれる家族の一人ぐらいは欲しい。……四百年も待たずとも。
俺は焦った。なにか、なにかあるはずだ。俺たちをこの時間から救う、すべが。ニールを救うのは秋代たちにしかできないが、それを手助けすることはできるかもしれない。なぜならここは過去だからだ。巧妙に隠せば、未来へはきっと届く。
……なにを?
ふいに俺の脳裏へ、現実的な疑問がわいた。
手にした鍵を見下ろす。金の鍵は光を返してテカリと輝いた。
俺はいったい、秋代たちに何を届ければいいんだ――?
◆
狩猟部屋と思われる地下室には、弓矢がいくつも用意されていた。
そのうちの一つを手に取り、俺はしげしげと眺める。
「これなら、春海でも扱える……か? いや、やっぱ無理だな」
ぽいっと机に弓矢を戻す。弓道の心得のあった兄貴なら立派な武器になり得ただろうが、春海や秋代じゃダメだろう。
そのとき俺の脳裏に、兄貴が弓を射るときの真剣な横顔がうかんだ。
普段はふざけたことばっかり言っている兄貴が、きりりと口元を引き締めて、それこそ射るような目つきで的に向かっているとき、俺はこのまま兄貴が別人になってしまうんじゃないかと不安になったものだった。それが、一矢放った後にこっちを向いたときには、もう緊張感なんか微塵も残っていない。へらりとゆるんだ笑顔で手を振ってくるだけだ。へたをすると試合の最中に投げキッスなんかを送ってきたりもした。
『真面目にやればできる子』と言われていた兄貴に対して、俺は『真面目に取り組むだけが能の子』だった。
特に五年前に母さんが病気で死んでからは、家事のうちほとんどが俺に回ってきた。いつも友達と遊び歩いている兄貴じゃあてにならないし、春海と秋代はまだ小学生だったから、自然と俺が料理を作ることが増えたんだけど。おかげで決して悪くはなかった学校の成績が、平均点をぎりぎりかするぐらいになってしまった。ただでさえ没個性的な俺は、学校という組織の中でよくあるものの一つになってしまったんだ。
それでも大して不満に思わなかったのは、兄貴がよくよく俺をねぎらってくれていたからだった。
ことあるごとに『ありがとうな』とか、『メシうめぇ!』とか言っては、俺の髪の毛をぐしゃぐしゃにかき回してきた。細かいところによく気のつく兄貴だった。
正直、その頃は大げさな態度にうんざりしていたんだが――こうして失ってみてよくわかる。俺はああやって褒められる度に小さな満足感を得て、癒されていたんだと。
そんな兄貴はもういない。
正直、複雑な気持ちだった。
ずっとうざいうざいと思ってきた兄貴。俺よりもずっと要領がよくて、明るくて、みんなを笑わせて、人気者だった兄貴。
いつも家族中心だった兄貴を、ねたましいと思ったのは一度や二度じゃない。
本当は、誰よりも憎んでいたのかもしれない。
――なのに。
兄貴を一番頼りにして、心の支えにしてきたのは、俺だったんだ。
「……今更すぎるだろ、俺」
ぼそりとつぶやいて、俺はカツンと杖をついた。
胸に渦巻く不安を振り切るように顔をあげる。
「なにか……他に武器になるものを探さないとな」
秋代たちは殺人鬼に追われている。狭い――とも言えないか。この城よりは増築されているはずだから――城の中で武器も持たずに逃げ回るのも限界だろうと踏んだためだ。彼女たちを救うため、俺はなんとかこの時代の武器を未来に届けられないかと考えている。
狩猟部屋を出て、隣の部屋へ向かう。
「っ、なんだ、ここは」
そこは、拷問室だった。
壁に取り付けられた拘束具。その下の壁には気味の悪い血の染み。重そうな鉄球は足につけるものだろう。巻き取られた長い鞭。木製のベッドには小型のギロチンが取り付けられている。そして、それにもうっすらと血の染みが……。
あの有名などでかいマトリョーシカみたいな鋼鉄の処女? みたいなのはなかったが、充分に胸くそ悪くなった。
俺はその部屋を見なかったことにして、地上へあがった。さわやかな空気が、最悪になった気分を和らげてくれる。
軽く深呼吸して、俺は次の部屋に向かおうとし――
廊下の壁際に立つ甲冑の手にある、細長い剣に目を止めた。