長女:春海の章6
わたしはブラウスの裾を歯で噛み、ビィッと引き裂きました。白く細い布を少年の足に巻き付け、きつく縛り上げます。簡易な応急処置ですが、これで止血できるでしょう。
少年の足首は鎌にやられたのか、ざっくりと裂けていました。骨がむき出しになり、止めどなく血が流れ出していた傷口を思い出し、わたしは身震いしました。
いけない、いけない。
仮にも看護士志望なんだから、こんなことで怯えてちゃいけないのに。
少年はわたしの仕草一つ一つに怯えていたみたいですが、手当が終わるとほっとしたらしく、表情を緩めて泣き出しました。何を言っているかわかりませんが、きっと『痛い』とか『助けて』と言っているんでしょう。
「大丈夫だから、落ち着いて。ね?」
わたしは泣きじゃくる少年をそっと抱きしめました。本当はアキとはぐれて自分が泣き出しそうな状況ですが、子供を前に弱気になってはいられません。
少年はひっくと息をのむと、やがてゆるゆるとわたしに寄り添いました。
「ニール」
わたしが優しく名を呼ぶと、彼は驚いたように身を離して、目を一杯に見開きました。
「Warum wissen Sie meinen Namen?」
何かをドイツ語で言っていますが、わたしにはさっぱりわかりません。
「わたしは春海。ハル」
自分を指さして、もう一度ゆっくりと言い聞かせます。
「ハル」
「は、る……」
つたない声で繰り返されて、わたしは思わずにっこりと微笑みました。
「そう。ハル」
その笑顔がニールにはどう見えたんでしょう。少年は急に目元をうるませると、ぎゅっとわたしに抱きついてきました。
「Helfen Sie mir,はる!」
「しー、静かに」
声を潜めたのが伝わったのか、ニールは無言で頷きました。
家族や召使いたちが軒並み殺されてしまった今、ニールが頼れるのはわたしだけです。頼りなげに見上げてくる青い瞳には、不安と恐怖が色濃くありました。
わたしだってアキがいなくて不安です。でもそれを表には出すまいと、ぐっと口元を引き締めて少年の小さな肩をかき抱きました。
……しっかりしなきゃ。ニールが頼れるのはわたしだけなんだから。
それからどれぐらい経った頃でしょう。わたしがニールのやわらかな金髪を撫でたとき、ニールのお腹がぐぅっと鳴りました。
ニールは小さな手でお腹を押さえ、顔を真っ赤にして俯いてしまいました。
わたしはにっこり笑います。
「お腹がすいたの?」
ニールは俯いたままぴくりともしませんでした。
わたしがにこにこしていると、今度はわたしのお腹が派手な音をたてて鳴りました。
「……キッチンに、行ってみようか」
ニールの手を引いて立ち上がりました。
彼は一瞬抵抗しましたが、またお腹が鳴ったため、黙ってついてきました。
◆
ひっそりと食堂を通り抜けようとしたわたしたちは、驚いて足を止めました。
食堂のテーブルには、豪華な料理一式が準備されていたんです。
二人分の席には、綺麗に並んだナイフとフォーク。焼きたてのドイツパンに、温かいスープ。サラダはすでにドレッシングがかかっているのか、ツヤツヤと照り輝いています。湯気をあげる肉料理は分厚いステーキ。魚料理には白いソースがかかっています。中央に置かれた篭にはリンゴや洋なしなど、フルーツが山盛りにのっているじゃありませんか。
「どうして? さっきはなんにもなかったのに……」
明らかに今さっき準備されたように見えるフルコース一式に、わたしは驚きを隠せませんでした。
「もしかして、他にも生きてる人がいるの? シェフとか?」
豪勢な食事を前に、わたしが立ち尽くしていると、ニールは繋いでいた手を離して椅子へ駆けよりました。慣れた仕草でちょこんと席に座ると、フォークとナイフを小さな手にとって、上品にステーキを切り分け始めます。
ニールは一口ぱくりと食べて、
「はる、Ich bin kostlich!」
わたしへにっこりと笑いかけると、同じく料理がセッティングされた向かいの席へ手をさしのべて、座るようにと促しました。
わたしはおずおずと席に着きました。辺りを見回してみましたが、蝋燭が照らす薄暗い室内に、他の人の気配はまったくありませんでした。
わたしは銀のフォークを手に取り、ドレッシングで艶めくサラダをそっと口に運びました。
「――おいしい!」
香草風味のサラダはお酢の酸味がきいていて、わたしの口にとてもよく合いました。
重量感のある銀のナイフでステーキを切り分けると、中はほどよくレアです。赤みの残る肉をソースと絡めて口へ運べば、そのおいしいこと。今までに食べたことのない茶色のソースが抜群においしく、かみしめれば肉汁があふれてきます。おそらく肉質そのものは日本のそれと比べれば劣りますが、空腹という名の調味料が加わったお肉は、実際の五割増しでおいしく感じられました。豪勢で温かいディナーを、私は夢中でほおばりました。こんな状況にありながら食欲の減らない自分を、内心でそら恐ろしいと思いながら。
「……でも、いったい誰がこんな料理をセッティングしたの?」
澄んだコンソメのスープを口へ運びつつ、わたしは呟きました。
向かいで大きなドイツパンをちぎっているニールは、何も不思議に思っていないようです。こうして素晴らしい料理を出されることが当たり前の生活をしてきていたんでしょう。
色々と聞きたいことはあるものの、ニールはドイツ語しか話せません。わたしのつたない英語すらまったく通じないため、身振り手振りでなんとか意志を通じさせるしかないんです。
おいしそうに料理をほおばる少年を眺め、わたしは独りごちました。
「こうして料理が作られたってことは、まだこの城に生きた誰かがいるってことなんだよね……」
白身魚の骨をナイフとフォークで不器用に取り除きながら、状況を想像します。
殺人鬼がお城中の人々を殺して歩いているなか、一人気づかず料理を作り続けているシェフ。給仕が来ないために、自ら食堂へ赴き、料理をセッティングするも、すぐ隣のエントランスの死体に気付き、慌てて外へ――
ありえなくはないと思います。でも、こんな可能性はほとんどないと、理性が告げていました。あちこちに死体がある城で、誰がのんきに給仕なんてするでしょう。それにスープだけならまだわかりますが、すべての料理が一度に並べてあるんです。コース料理の出し方としてはいささか不自然でしょう。……もしかしたら、この時代ではまだ、フルコースの出し方が違っているのかもしれませんが……。
わたしが首をかしげながら篭に盛られたフルーツへ手を伸ばしたとき。
ギィィィ、と妙に響く音がして、エントランスから食堂へ通じる、穴の開いた大扉がゆっくりと開きました。
少しずつ、暗いエントランスに立つ、兜を被った給仕服の男が姿を現します。
男の持った鎌が蝋燭の明りにギラリと光りました。
「――――!!」
わたしたちはとっさに椅子から腰を浮かし、男とは反対側の扉へ向かって走り出します。
二人で扉へかじりつき、押し開こうとしたとき。
カッと、扉に大鎌が突き刺さりました。
男が鎌を投げつけてきたんです。ニールの頭上、わたしの顔の真横に突き刺さったそれを、肝が冷える思いで見つめました。
わたしたちが動きを止めた一瞬を、殺人鬼は見逃してくれませんでした。
男は素早くわたしたちに駆けより、その血に濡れた手でわたしの首を掴もうとしました。
「きゃあッ!」
とっさにしゃがみこみ、間一髪で避けました。
ニールが何事かを叫びながら走り出します。
わたしもとっさにそれにならい、ニールの後を追いかけました。
彼は開いているエントランス側の大扉からするりと逃げていきます。わたしもそれに続きつつ、ちらりと後ろを確認しました。
殺人鬼は扉にささった大鎌を抜こうと必死になっているところでした。大の男が力一杯引っ張っても抜けない様子からして、凄まじい力で投げられたんでしょう。あれに当たっていたら命はなかったことは確実です。
わたしとニールは一目散にエントランスの階段を駆け上り、二階へ逃げました。
先を行く少年は、今度はギャラリー廊下には向かわず、反対側の吹き抜けのエントランスをぐるりと走る細いコの字型の通路へ逃げ込みました。エントランスの正面を飾る薔薇窓の下まで来ると、手すりの下に隠れるようにしゃがみ込みます。わたしもそれにならい、ニールの隣に座りこみました。
やがて、殺人鬼の大鎌が石床をこするザーリ、ザーリ、という音が響きはじめました。
男はゆっくりと階段を上ります。鎌がコンコンコンと木製の階段を叩きます。
やがてまたザーリ、ザーリ、と石床を歩く音が聞こえ始めました。
男はギャラリー廊下へ続く正面扉へ向かい、扉へ手をかけました。
そのとき、ニールの足元でコトンと音がしました。震えた足が石床を叩いてしまったようです。
小さな音は、静まりかえった吹き抜けのエントランスによく響きました。
殺人鬼の被った騎士の兜が、ゆっくりとこちらを振り返ります。
兜は辺りを眺めると、またザーリ、ザーリ、と鎌を鳴らして、今度はこちらへ歩き始めてくるじゃありませんか。
コの字型の回廊に、逃げ場はありません。わたしたちは殺人鬼に見つからないよう、手すりより低く身を低くかがめたまま、にじりにじりと角を曲がって逃げていきます。
殺人鬼の足取りはゆっくりでした。ザーリ、ザーリ、と大鎌が床を擦る音が聞こえます。
わたしは今にも泣き出しそうになる自分自身を叱咤するのに必死でした。こんなところで嗚咽をあげたら、一発で見つかってしまうでしょう。わたしたちはただただ静かに、足音をたてずに逃げていきました。
コの字型の回廊の端まできたとき、わたしはニールの手を掴み、正面扉へ向かってだっと駆け出しました。隠れられる角はもうありません。だから、さっきと同じようにただ走ったんです。
ニールの足の怪我のことを忘れて。
さっきは恐怖で痛みが麻痺していたのが、今はそうではなかったんでしょう。走り出してすぐ、少年は顔をしかめて叫び声を上げると、足を抱えてしゃがみ込みました。いきなりかけだして、ひねってしまったのかもしれません。
殺人鬼が走り出す、バタバタとした足音が迫ってきます。
わたしはもう一度少年を抱え上げようとし、腕の力の限界を感じました。きっと最初に抱えたときほどの混乱が、今のわたしには起こっていなかったんだと思います。
ニールを抱えて逃げ切ることなんてできない。
困惑するわたしの視界に、狭い壁の隙間が見えました。どうやらこの城は増築部分と母屋の部分に細い隙間があるようです。わたしには入り込めませんが、ニールなら大丈夫でしょう。
わたしは力を振り絞ってニールを抱き込み、その細い隙間へ挟みこみました。
「奥へ! 逃げて!!」
手で少年を押しこみ、もっと奥へと合図します。
「鎌の届かないところへ、逃げて!」
ニールは戸惑いながらも後ろ向きににじり下がっていき――
ぐらりとよろけました。
そのまま背中側から倒れていき、ストンと視界からいなくなってしまいました。
わたしは一瞬、呼吸を忘れました。
ニールが、落ちた。
壁の隙間から。
下ってことは、一階?
一階にそんな隙間、あった? いや、ない。
バタバタと迫る殺人鬼の足音が、いやに遠く感じました。わたしは呆然としたまま、その場に座りこみそうなほど気力が抜けていくのを感じていました。
この隙間は、一階の壁の隙間部分へ通じる、穴になってるの?
穴って。出られるの?
……うそ。
そのとき、わたしの脳裏に考兄さんのメールの一説が蘇りました。
『この子は増築途中の壁の隙間に逃げ込んで、唯一生き残ったものの、そこから出られず餓死』
餓死。
そんな、うそ、うそでしょう?
全身の血が足元へ向かっていきます。考兄さんの死を知ったとき以来の感覚が、わたしを襲いました。
どうしよう。
わたしがあの子を殺したんだ――――!!