長女:春海の章3
『この手帳を見た人へ
誰かが俺を見つける……なんてことが起こるとも思えないが、ここに書き記しておく。
俺の名前は白崎勇二。一九九三年生まれの十八歳だ。
そう。俺のいる時間――一五六八年からみると、ずっとずっと未来で生まれたことになる。ここの住人たちからすれば、俺は未来人ってわけだ。
事情をはじめから書き連ねる余裕はないから、簡単に言おう。
ここはエゼルブルグ城だ。
そして俺は、この城から出られない。おそらくこの時間からもでられないんだろう。俺にはもう、同じ日を繰り返しているのか、違う一日なのかすらわからないんだけれど。
俺はこの城の城主の娘、レイラの命を救ったんだ。
井戸の事故で死ぬ予定だった彼女を救った。それが良かったのか悪かったのか、今の俺にはわからない。なにしろ、その日からぱったりと城の住人がいなくなってしまったからだ。倉庫にあったはずの食料も不思議と空になってしまっていた。
城から出ても森の中をさまようだけで、麓の村にもたどり着けない。
俺は完璧にこの城に閉じ込められてしまったんだ。
飢えて死ぬもそう遠くないだろう――』
そこまで読んで、わたしとアキは顔を見合わせました。
「つまり、この死体が勇にぃで……ここはエゼルブルグ城ってこと?」
「一五六八年って……。四百年以上も昔じゃない。そんなこと、あり得るはずないよ」
わたしたちは目の前の髑髏をまじまじと見つめました。すっかり骨だけになった顔には勇兄さんの面影なんて残っていません。
「信じらんない、……けど、ほんとうに勇にぃのパスポートだし、携帯も……」
アキは顔を引きつらせながら、鞄から取りだした青い携帯をぱかりと開きました。真っ黒な画面があるだけです。充電が切れているだけでなく、携帯には赤い錆が浮き、プラスチックの外装もぼろぼろになっていました。
わたしたちは互いの顔を見て、頷きあいました。
「もう少し調べてみよ」
「うん」
アキは勇兄さんと思われる骸骨の手帳を更にめくります。
『――ここから先は、俺の推測だ。もしかしたらまったく当てにならないかもしれないが、一応書いておく。
俺が十六世紀に飛ばされてしまったとき、妹たちも一緒にいた。だがこの世界には俺だけだ。だからもしかすると――こんなことは思いたくもないんだが――妹たちも違う時代のエゼルブルグ城にいるんじゃないかと思ってる。
兄貴のメールによると、この城の幽霊はレイラの他にもう一人いて、
『もう一人は十二代目領主の次男ニール。こっちはすごいぞ、突然発狂した召使いによって、一家惨殺されたんだそうだ。この子は十八世紀頃にやってた増築のおかげで、壁の隙間に逃げ込んで唯一生き残ったものの、そこから出られず餓死』
とある。
もし俺の推測が正しければ、そしてもし妹たちも俺と同じ状況にあるとしたならば、あいつらは十八世紀の殺人鬼がうろつくエゼルブルグ城に閉じ込められているんじゃないだろうか。
もしそうだとしたら、そして運良く妹がこの手記を見つけてくれたとしたら……。俺は妹に対してこう言いたい。
春海、秋代、そしてもしかしたらいつきも。
お前らを閉じ込めてるのは、ニールだ。
そいつを何があっても助けろ。殺人鬼から救うんだ。
それできっと、お前らは――もしかしたら、俺も――この城から出られると思う。
お前らを救うためだったら、俺は何だってする。
何だってするから。
だからどうか、無事でいてくれ』
そこで手記はぱったりと途絶えていました。
「勇兄さん……」
わたしは震える手で目元をぬぐいました。勇兄さんらしい、朴訥とした文章に、この骸骨が勇兄さん以外の何者でもないと確信してしまったんです。
勇兄さんが誰もいない過去で、飢えて死んでしまった。
その事実がわたしの涙を止めどなく流させました。かたわらでひからびた骸骨を見下ろしながら、何度も鼻をすすります。
「泣いても仕方ないよ、ハル。今はどうにかして勇にぃの言ってるこの、ニール君? を見つけないと」
「で、でも……。考兄さんが死んじゃったばっかりなのに、勇兄さんまで死んじゃうなんて……!」
「でもここでうじうじしてたら、あの殺人鬼にニール君が殺されちゃうかもしれないんだよ? そうなったら……もし、勇にぃの言ってることが正しかったら……、わたしたち、一生この城に閉じ込められちゃうかもしれないんだよ? それともハルは勇にぃみたいになりたいの?」
「そ、そんなのは嫌だけど……!」
「だったら泣き止んで。あたし、あんたの子守までしてらんないからっ」
きつい口調で言われ、わたしは思わず黙って俯きました。
わたしは昔から泣き虫で、よくこうしてアキを苛立たせてしまいます。でも今はこんなところでグズグズしてられる状況じゃありません。自分の身体に「泣き止め泣き止め」と念じて、ハンカチで目元をこすりました。
一方、アキは無言でぱらぱらと手帳をめくっていました。
「あれ? これ……、地図?」
呟きに誘われて、わたしは手帳の最後のページをのぞきこみました。エゼルブルグ城の内部と思われる簡単な走り書きの地図に、ひとつだけ×印がついています。
「この印、何かな」
わたしが首をかしげるとアキも同じ角度で首をかしげていました。
「わかんない。とにかくこの手帳、もらっておこう」
ジャンバーのポケットに手帳を滑り込ませると、アキは改めて勇兄さんの鞄をあさりはじめました。
「パスポートに財布、ハンカチとティッシュ。筆記用具に携帯、それと……電子辞書!」
ぱっと鞄から取り出されたそれは、真っ赤に錆びついた電子辞書でした。
アキはそれをぱかりと開き、携帯を見たときと同じように、わたしへ黒い画面を見せました。
「チッ、やっぱり電池切れかぁ。こんなことなら考にぃの遺品の電子辞書、無理言って貰ってこればよかった。ドイツ語なんてできないけど、ここは気合いで行くしかないかぁ」
「ドイツ語の挨拶って、『ぐーてんたーく』だったっけ?」
「たしかね」
アキはわたしに頷き返し、それからふっと考え込むように口元へ片手を添えました。
「――ねえ、ニールってさ、さっき逃げてった男の子のことかな?」
「わたしもそう思った。金髪の男の子でしょ?」
「そう。あの白タイツの子」
わたしの脳裏に恐怖に歪んだ横顔が蘇りました。幼いながら端正な顔立ちには、殺人鬼への恐怖がありありと浮かんでいました。あんな幼い子が目の前で人を殺されて、錯乱しないはずがありません。あの後、一体どうやって逃げ延びたんでしょう。勇兄さんの手記を信じるなら、あの子には無事でいてもらわないと……。
「でもさぁ……」
アキは嫌な予感を振り払うような声を出しました。
「あの子の格好さ、今時あんな白タイツなんてないよね?」
「うん。すごく古めかしい格好だった」
わたしはニールとおぼしき少年の姿を思い出しました。白いブラウスに紺のズボンも時代がかっていましたが、あんな白いタイツをはくなんて、いくらドイツとはいえ、今時ありえません。
自然と顎に片手を添えて、わたしは考え込むような仕草で呟きました。
「エントランスの雰囲気も全然違ったし……。勇兄さんの推測を信じるなら、ここは十八世紀のエゼルブルグ城ってことみたいだけど……。わたしたちの知ってるエゼルブルグ城とはずいぶん違うみたい」
「あの城は何度も改築されてるんでしょ? 昔のエゼルブルグ城の姿なんじゃない?」
「勇兄さんが生きててくれたら、きっとゴシックだとかルネサンスだとかって、詳しく教えてくれたのにね」
建築に詳しい兄さんたちと違って、わたしたちはまったくそういったことがわかりません。それでもあのZ型階段が、現代の二又階段と違うことぐらいわかります。ここが本当にエゼルブルグ城なら、わたしたちはその過去にいるに違いありません。
わたしたちは自然と勇兄さんの遺体を見下ろしました。
「もし、勇兄さんみたいに、この城に閉じ込められたら……。どうしよう。春からやっと高校生になれるっていうのに」
わたしは看護士になる夢のために、春から念願の看護高校に通う予定なんです。このために一生懸命勉強して、中学三年の夏から冬を勉強漬けにしてしまいました。今思うとちょっともったいなかったなとは思いますが、後悔はしていません。なのに、このまま過去から出られないなんてことになったら……。そんなの絶対に嫌です!
「あたしだって花の女子高生になるために必死になって受験したんだもん、絶対に無事に日本へ帰るからね!」
そう言ってアキは携帯を握る手に力を込めました。
「まずはニール君を捜そう。話はそれからだよ!」
「うんっ」
わたしも涙をぬぐい、出入り口の暖炉の壁を振り返りました。