霊害請負業 有限会社 アザーサイドコンタクト その壱
「十五分前には着くのが社会人のマナーです」
仁美に時間厳守を言い渡され、コンビニのパンを噛む朝食となった。
志空は携帯片手に齧り付いたツナドッグを噛みながら、名刺の住所を地図検索に掛けて調べた。
そして、二人揃ってその立地条件に目を見張った。
「大阪キタに事務所構えてるってのは知ってたけど」
「凄いですね。この場所なら相場で月々五、六十万はするんじゃないですか?」
駅を出てすぐだ。チェーン店が軒を連ねる一郭の角地。所謂、一等地である。駅までの徒歩時間を見ても十分以内だった。実入りが良いと豪語していたのはあながち嘘では無いようだ。
――意外と好い職場なのかも知れない。
あっさりと主義を覆した志空は、早朝の通勤ラッシュでごった返す街中へ、足取りを軽く最初の一歩目を踏みだした。仁美の早歩きは一般人の小走りに相当するので、並んで歩く際に気分が軽い事は思った以上に助かる。
「ところでどうやって実習に取り付けたの? 万道さん名刺貰ってなかったよね」
「明無さんから見せて貰いましたよ。私記憶力は良いんです」
「給与の条件も俺と同じ?」
「ええ、そうなんですよ。私はお願いする立場ですから、只働きでも良いからお願いしますって言ったんですけど「気に入った!」って言われて同じにしてくれました」
この場合、仁美の為人が物を言ったのだろう。
春が顔を覗かせる陽気の下、志空は久々(びさ)のなよやかさにオフの日の散歩に出た気分だった。
しかし、三階に事務所を構えているという住所のオフィスビルの前で最後の一歩を踏みしめた時――。
志空の浮ついた気持ちはたたらを踏んで尻餅ついた。
百科事典の間に差し込まれた文庫本のような見てくれのこれ(ビル)。
仁美と二人で下から順に見上げていった。フロアを埋めるテナント名が目に入るたび、志空の意気消沈の度合いが階乗倍された。
一階、超天然力石販売店『ミネラルエナジー』。
二階、民間金融『win-win loan』。
三階、テナント募集中。
そして四階――。ビデオ試写室『蓮根次郎』。
この階の窓に至っては、昔懐かしのテープによる補修跡があった。縫った傷口のように見えるアレだ。
――南無三……。
ちくしょう、あの常軌逸脱学者と巨人染色体野郎……。
――謀りやがったな!
「ちょっと悟成さんどこ行くんですか!」
見るからに如何わしいビルの前で、溜め息を吐ける一時を堪能した志空は踵を返した。
丸くなった背中のコートを仁美が掴んで引き止められる。
「放してくれ万道さん。俺なんてどうせREI能力があっても誰かに騙されて馬鹿にされる低度の存在なんだ。〝家帰って芋食って屁こいて寝る〟のがお似合いなんだ」
「とにかくここの関係者に訊いてみましょう! 公共の場でスーツ姿でトラウマなんか再燃させないで下さいよ。止めてる私までDQNだと思われるじゃ無いですか!」
二人が雑踏から神経質な距離をおかれてだしたところに、件のビルから人が出てきた。
「そこで絶対に報われないネガティブアプローチ紛いをしてくれているホワイトカラー候補の方。大変申し上げ難いのですが、テナントで入ってる企業にとっては甚だ御呼びじゃないと思われますので、即刻止めて下さい。大変、鬱陶しゅうございます」
このビルの関係者にしては清らかな声質だった。そして随分と癇に障る言い回しだった。
子供じみた争いを止めた志空と仁美は声の主に振り向く。
二十代後半か三十歳になったばかりくらいの男が眉根を寄せていた。頭にはヘッドセットを被り――マイクと思われる部分がなぜか額にきている――、ライブハウスのDJというのか、ラッパーみたいな格好で見た目の落ち着きは全く無い。
「素直に聞き入れて貰えて有難いですよ。ではお帰り下さい」
しかし、彼の操る敬語の抑揚は実に紳士的なモノだった。目下のところ消沈を晴らせない志空の代わりに仁美が応対した。
「すいませんでした。彼は少々変なところがありまして――」
「その様ですね」
切れ長の鋭い目が志空を一瞥する。
「そちら方は精神疾患でも患ってらっしゃるんですか? それとも――」
咄嗟に「いいえ」と言えなかった仁美を尻目に、青年は事もなげに決定的な言葉を踊らせた。
「霊害でも?」
唐突に出た単語に驚いた仁美が口をぱくぱくさせ、抑揚を欠いた声で訊いた。
「あの、私達『アザ―サイドコンタクト』という会社の実習に参ったのですが見付からなくて。この辺りらしいんですがご存じありません……?」
表情をすっと素に戻した彼は、無感動無感情ここに極まれりと言い切れる態度で答える。
「ああ、あなた方が実習の方ですか。社長から聞いてます」
自己紹介が互いに済んで、癇に障る言い回しをする服装が煩い紳士的な彼が柳部猛雄という名前である事がわかった。
社長以外の通例なのか、彼も名刺を一枚しか持っていなかった。
「こちらです」と短く言った猛雄は仕事用の笑顔を浮かべる事も無く、志空と仁美にビルの通用口をくぐらせた。扉の脇の壁に『かくぜんビル』と書かれた金属のプレートが埋め込まれ、定礎年月日が書いてある――平成元年だ。
酷く哀愁の漂う内装で、塗装があちこち剥がれて床に積り、そこら中埃だらけだ。
階段が見えてきて、猛雄が振り向いた。
「お手数ですが、階段を使う時は右側によって下さいますようお願いします」
こちらからの質問の機会を与えずに猛雄は上り始めてしまう。その背中を眺めながら階段を上がること二階から三階の間――。
階段の左側に清掃員姿で老齢の女性がモップ掛けをしていた。
――なんだよこのビル……。
いきなり「ピー、ピー」と目覚まし時計みたいな音が階段に鳴り響き、
「こんにちは、田沼さん」
猛雄が簡素に会釈した。田沼と呼ばれた清掃員は気持ち振り向いて会釈する。
こちらに目を向けてきた猛雄が催促するように頷く。
「こんにちは」
「こ……こんにちは」
志空に続いて仁美も田沼さんに挨拶した。一階、二階と変わらず埃にまみれの三階についた時、志空は猛雄に訊いた。
「なんですか、あの清掃員の人?」
「田沼さんですよ。服装まではっきり分かるとは、聞きしに勝るREI能者のようですね」
「あそこにいらっしゃったんですか?」
仁美が訊いて「ええ、そうです」と答えた猛雄は顔色を変えずに口を動かし始めた。
「彼女は田沼さん。酒浸りで女遊びを欠かさない亭主の面倒を見続けた慎ましい女性です。三年くらい前まで派遣社員として某清掃会社に勤務。自分の事を棚に上げる夫の執拗な叱咤と暴力から逃げ出せるのは勤務時間の清掃中だけ――なので、巡回していた清掃現場に痛く心の安らぎを感じていたみたいです。ある日、ついに耐えきれなくなった田沼さんは、巡回中に備品の液体洗剤をリットル単位で飲み下し。あの場所で人生を終えました。
その後、ささやかながらもご自分を解放できたあの空間に居着いて、今も清掃を続けてくれているんです」
「地縛霊ならぬ自縛霊ですよ」と猛雄が無味乾燥に言い結んでまた背中を向けた。
「自社を構える施設内の霊害の対処もできないんですか?」
猛雄の言い回しと態度に、思いの外腹が立った志空は言葉に嫌みを忍ばせた。それを聞いても猛雄は淡々と答える。
「田沼さんのおかげでウチに仕事を求めてくる人の大まかな合否が判断できるんです。田沼さんが見える、もしくは感じれるならば無条件で合格。研修期間を設けて様子見をします。
格式張って隷属性を見定めるだけの面接で時間を浪費する必要がありません。ですから、田沼さんは優秀な面接官として必要なんですよ。でも、俺みたいに通常の面接だけで合格した珍しい例もあります」
『かくぜん(廓然)ビル』と名付けられたこの建物が、数多の皮肉を一身に受け入れてるように思え、志空は居心地の悪さを感じずにはいられなかった。
廊下を少し行ったところで人情味の欠片も無い扉が見えた。
ガラス部分には明らかな殴打によるに罅が奔り。それを裏から段ボールで補強。さらに白ペンキで『立入禁止』と殴り書きしてあった。
「ここです」と言いながら猛雄は一本の鍵を取り出した。ノブ部と足元の錠がクリック音みたいな音を上げた後――。
扉が開かれた。
志空と仁美は扉の向こうに広がる光景に拍子抜けした。
ビルの外観からこの扉まで、通貫されてきた印象は、分不相応な住宅然とした内装に払拭された。
家庭的な三和土に上がり框、板敷きの廊下に二つ三つと並んだ襖、それらが窓から朝の日差しをいっぱいに受けて、さながら縁側のように廊下が伸びている。
「どうぞ、上がって下さい」
漢字で書くといつも笑えてくるこの文言も、今は呆気に飲み込まれるばかりだった。