第三話
うぉぅー、――ぅん。うぉぅー、――ぅん。
「……」
狼の遠吠えに意識が共鳴したのか、突然深左衛門は瞼を開いた。
ぼんやりとした視界に映るものは暗闇。吹き抜けるような風の音が聞こえている。
全身は鉛のように重く、あちこちから鈍痛が脳髄に響いている。とくに左腕からは千切れそうなほどの痛みを発している。
なぜ、こんなにもずたぼろなのか。深左衛門はそんなことを思った。そしてすぐに鬼島の刺客にやられたのだと気がつく。確か豪慶の一撃が直撃して、山肌を転がり落ちていったのだ。そして、転がっている最中からの記憶が無い。
「気を失ったのか」と、舌打ちをしながら深左衛門は起き上がる。そして周囲を見回した。
「洞窟?」と、深左衛門が訝しげな声でそう呟いた瞬間、
「目覚めたかえ?」
と、傍らから若い女の声が聞こえた。ぎょっとして振り向くと、なぜ今まで気がつかなかったのか、すぐ隣に若い女が横になって身を縮ませているではないか。
なんだこれはと深左衛門は思った。さすがの深左衛門もこの状況を完全に把握するにはもう少し時間がかかりそうだった。山を転がり落ち、意識を失い、目が覚めたら若い女と頭を並べて眠っていたのである。深左衛門でなくても、思考停止は必至であろう。
若い女は、自分を見て硬直した深左衛門によって気を悪くしたのか、ゆったりと身を起こすと眉間に皺を寄せた。身を起こしたせいで外のぼんやりとした明かりが女に当たり、少しだけその姿が露になる。
――綺麗だった。長い黒髪、切れ長の目、白い肌。年は深左衛門より二つか三つ下くらいだろうか。藍の着物に紅の帯という鮮やかさが、美しすぎて目に痛い。
「うちの顔に何か付いておるかえ?」と、きんとした透き通った声が洞窟に響いた。女から流れる香水の匂いが鼻腔をくすぐると、深左衛門は一瞬頭がぼんやりとした。
『ばかもの!何を呆けている!』
突如、頭の中にヌイの声ががつんと響いた。意識間の会話とはいえ、音量が大き過ぎである。
ヌイの声でまたもやくらっとしつつも、意識をしっかり取り戻した深左衛門は、その遊女のような艶かしい女を見据えた。女は上の空だった深左衛門が突然背筋を伸ばしたのを見て、可愛らしく微笑みながら「どうしたの?」とでも言うように小首を傾げる。深左衛門はそんな仕草を無視して、「お前は誰だ」と唸るように言った。
「それ、助けてもらった者に対して言う言葉かえ?」
若い女はからかうように言った。
「こんな山奥になぜあんたのような女が独りでいる。怪しすぎるぞ」
「まぁ良いではないか。減るもんじゃなし。それともうら若き乙女が山で静かに暮らしていてはいかぬ掟でもあるのかえ?」
上目遣いで流し目というコテコテの演技をしながら若い女は言った。怪しいことこの上ないが、変な方向に気でも触れた人間なのかもしれない。少なくとも鬼島一派のような危険人物ではなさそうである。
深左衛門は女の態度を極力無視して、質問を続ける。
「俺を介抱してくれたのか」
「うちが助けてやらんかったら、今頃野犬の餌になっとったところじゃの」
女は、まるで面白いものでも見たように楽しそうな声で物騒なことを言った。深左衛門はその態度に少々苛立ちながらも「それはありがとう。世話をかけた」と、礼を言った。
「うむ。その心意気やよし。なら、当然礼をしてくれるんじゃろう?のう、お侍さんや」
そう言うと若い女は細い体を深左衛門にすっと寄せ、にししと嫌らしい笑みを浮かべる。
――図々しい。深左衛門は頭の中でそう呟くと、
「助けてやった礼はしてやりたい。だが、生憎返せそうなモノは無い」とぶっきらぼうに言い放った。
「んもう、仕方が無いのう。銭が無いのなら、体で払ってもらおうかの」
そう言いつつ、うっとりとした眼をして若い女は細い指で深左衛門の顎に優しく触れる。美人に弱いその辺の男なら、一発で骨抜きになるだろう。そんな魔性の気配を感じさせる仕草だった。深左衛門も多少意識がぐら付きはしたが、次に若い女が言い放った言葉でそんな恍惚な気分は一瞬にして消し飛んだ。
「――その呪われた体で、一緒に鬼退治をしてもらおうかの」
囁くような声で呟かれたその言葉に、深左衛門の背筋に寒気が走った。この女の細い指が、直に背中を撫でたかのように。
しかしその感覚のお陰で全身が敏感になった。先ほどまで本調子じゃなかったので気がつかなかったのか、それとも若い女が初めから隠していたのかわからないが、今、この女からは常人では発せられないほどの霊気を放っている。すなわち、人ではない何か。
「――妖怪か」
深左衛門の言葉ににやりと笑む若い女。黒髪がさらりと揺れ、唇が妖しく光る。
「妖怪は嫌いかえ?」
「別に。質の悪い奴ならむしろ好都合だ。ヌイの餌に丁度いい」
「なるほど。その目つきの悪いメス犬は霊気を食って生きておるわけか。お主、難儀なものと生きておるのう。どうじゃ?うちと一緒に生きてはみぬかえ?きっと楽しい生活になるぞよ」
「黙れッ!」
女妖怪の挑発的な言葉を聞いて、ついに今まで黙っていたヌイが激怒した。深左衛門と女妖怪の間に挟まる形で現界したヌイは、怒りで肩を震わせながらぐぉるるるると低く唸っている。
「あらまぁなんと可愛いこと。こんな幼い犬神がいるなんて初めて知ったわ」
「喧しい!どこの狐か知らないが、余計なことを言うでないわ!性悪女狐め」
「はぁ……ほんと、どいつもこいつも犬はよく吼えるのじゃな。余裕が無い女ほど雅が無いものは無い」
「なにぃ――」
深左衛門は女同士の喧嘩には一切気を取られず、冷静に相手を見極めていた。
狐。あまり狐の妖怪に会ったことがないので話程度しか知らないが、狐はもともと神の使いと呼ばれ霊格が高く、妖怪の中ではかなり高い位置に君臨している存在らしい。また、狐は長く生きれば生きるほど霊格が上がり、それに応じて尻尾の本数が増えるそうな。中でも尻尾が九本もある妖弧は神々に匹敵するほどの力を持つとか。まぁ目の前の妖弧は間違いなくそんな偉いものではないだろう。神々と同等の霊力を持った存在が、こんなくだらない言い争いをするわけがない。
深左衛門は二人?の口げんかに大きなため息を吐くと、「おい」と声をかけた。そして振り向いた二人に対して話し始める。
「二人ともいつまでやってるつもりだ。とくにヌイ、勝手に現界するなと言ってあるだろ。それから狐、あんたの目的を説明しろ。命を助けてもらった件もある、話の内容によっては手を貸さないこともない」
「ほうほう鬼退治を手伝ってくれるのじゃな?流石はうちの見込んだお侍様!」
狐はそう言って両手を組んで黄色い花のように笑った。そしてヌイは眉毛を逆ハの字にすると、「馬鹿者、話の内容によってはと言っただろうが」と突っ込んだ。狐はもはやヌイのことなど眼中に無いのか、ヌイに突っかかることなく事情を話し出す。
「うちはとある理由で京から来たのじゃ。で、とある理由でこの地に再び生れ落ちた鬼を滅ぼす命を受けてのう。この辺りの主と二人でやれと上に言われたのじゃが、相棒はいずこへと去ってしまってなぁ。一人でやれぬことも無いが多少不安な面がある。そこでどうしようか考えてきたときにお主が天から降ってきたのじゃ。いはやは、神の思し召しとはまさにこのことじゃな!」
あっはっはと天晴れに笑う狐。
――嫌な縁だ。思わず深左衛門は苦虫を噛み潰したような顔をした。
土着というのはヅヅのことだろう。そして鬼というのはきっと鬼島の連中が復活させたものだ。そして仕組まれたようにこの狐に助けられた。気持ちが悪いくらい巡りが悪い。
神妙な顔をしている深左衛門を知ってか知らずか、狐はすっくと立ち上がるとこう言った。
「仲間もできたことだし、早速鬼退治に行こうかえ。ほれお侍殿、起ちんしゃい。傷はもう治っておろう。なんせうちが直々に治したからのう」
そういわれて見れば全身の痛みが無い。ところどころ疼くところはあるが、動きに支障をきたすほどではない。
しかし今はそれよりもこの狐がどういった存在なのかが重要だ。深左衛門は極めて冷静に話を続ける。
「勝手に話を進めるな。俺はあんたのことが何も解っちゃいない。名前も知らないし、京から来た真の理由もわからない。一緒に鬼と戦うのなら、その辺をしっかり話して貰おうか。安心しろ。俺は人間だが、ほとんどそっち側に足を突っ込んでる。事情さえわかれば他言もしない」
腰に手を当て仁王立ちしている狐は胡坐をかいている深左衛門を見下すように目を向ける。そして一瞬の間のあと、唇を少し傾けてから言った。
「そうかえ。お主は嘘つきには見えんし、信じてやろうかの。神様に頼られるとは、お主も幸せ者じゃな!それにうちのように見目麗しい女神に縋られるとは、男として実に誉れ高いことじゃと思わんかえ?普通は逆なのにのう。いやはや、世の中不思議なものじゃ」
「わかったからさっさと言え」
だんまりを決めていたヌイがぼそりと呟いた。
「そう急くでない。余裕が無いのは美しくないぞよ。――うちが京へ来た理由は……いやその前に互いに名乗ろうか。うちの名はキツリじゃ。お主は?」
「山田深左衛門だ。こっちは――」
「ヌイじゃな。先ほど聞いた。さてうちがこの地へ来た理由じゃが――毎年この時期になると八百万の集会が行われておる。本来ならうちの本神にあたるウカ様がそこに行かれるはずでおったが、雑事でどうにも出られなかったらしく、代わりにうちが使いとして出されたわけじゃ。ヌイとやら、お主も神ならば出たことがあるのじゃないかえ」
キツリの言葉にヌイは少し考えた後、首を横に振った。その態度にキツリは少し虚を突かれた様だった。
「おや、そうなのかえ?八百万の集いは各地の主神ぐらいの力を持つものであれば、参加は必須のはずであると国起こしの掟で決まっておる筈じゃが。ああ、それともお主も上の者がおったのかえ?」
しかしヌイは首を縦に振らない。そして短く呟く。
「それも違う。わたし自体は元々人間だ。神などではない」
キツリは顎に指を当てて首をかしげて考えた。事情を知っている深左衛門は、少し俯いた。
「ふむう、どういうことじゃ?まぁよい。お主の過去は話せば長くなりそうじゃな。また今度茶でも飲んでおるときに話しておくれ」
「お前なんかに話すかっ」
「まぁ連れないお人。それはさて置きそういうわけでうちは集いに出席した。そしてある議題――全国に潜む鬼の眷属についての話が始まった。細かいことは流石に話せぬが、まぁ、腰を上げて対処せねばいかんな、という結論に至った。で、それぞれ任が与えられ、うちはこの地の鬼を滅ぼすか再封印しなければならぬこととなった。後は先ほど言った通りじゃ」
「なるほどな……」
神々の世界にも色々な掟や集まりがあったのだな。知らないことを聞けて得をした気分になった深左衛門だった。
「で、もちろん行くのじゃろ?お山田殿。秘密にしなければならぬ理由も名前も話した上に、なによりこの麗しい女子の頼みを無碍に断るというのかえ?」
キツリは再びしゃがみ込むと、深左衛門の体に寄ってくる。狐だと分かった以上、あまり緊張もしなくなった深左衛門である。
深左衛門はキツリに目をあわさず静かに言う。
「結論から言うと、可能な限りお前に手を貸そう。命を助けてもらったからな。どんな形であれ礼をしなければなるまい」
「まぁ、感謝しますお山田様!主ならそう言ってもらえると信じておったぞぅ」
大げさに喜び抱きついてくるキツリを無視しつつ、深左衛門は別のことを考えていた。それは次郎丸とシズのことである。あの場所から逃げ出せはしただろうが、次郎丸のあの状態、シズの疲労を考えると心配である。鬼島と直接因縁があるのは深左衛門だが、もし鬼島に捕まってしまえば深左衛門を釣る餌として扱われる可能性がある。そうなれば命の保証は無い。最悪捕まる際に抵抗して殺され、二人の死体を傀儡で生きているように操って深左衛門を呼び寄せるということもできるはずなのだ。となればやはり二人ともう一度合流した方が良さそうだ。「キツリ、明日は直接鬼島へ殴り込みに行くのか?」
深左衛門の言葉に、キツリは目を丸く開いて驚いた様子だった。
「なぜ鬼島を知っておる?うちは一言も喋ってないはずじゃが」
「こっちも言うのを忘れていたが、色々あって因縁を付けられているんだよ。土着というのもヅヅの守のことだな」
「ということは、元々目的は一緒じゃったということかえ?まったく、そこまで知っておるのなら、二つ返事で手伝ってくれても良いではないか。ケチンボめ」
キツリのツンとした顔も美しい。が、狐である。
「確かにそうだが、俺は自分と鬼島が関係なくても助けられた礼はするつもりだった。だから良いじゃないか」
「そう言っていつもうちのような気弱な女子を惑わしておったんじゃな。うちには分かる」
「余計なお世話だ。それから、明日鬼島のところへ行く前に俺は旅の連れと合流したい。だから少し寄り道させてくれ」
「嫌じゃ」
まるで駄々っ子のように即答したキツリ。多少予測していた深左衛門は、予め用意しておいた言葉を言おうとすると、有無を言わさずキツリが話し出す。
「明日は必ず鬼島のところへ行き、任務を終える。別のことなどする余裕など無い。じゃから寄り道するのなら今すぐじゃ。今夜中にその連れとやらを見つけるのじゃな」
「もちろんだ」と言って深左衛門は立ち上がった。「今から探しに行くつもりだからな。ヌイ、行くぞ」
「承知した」
ヌイは霊体に戻ると、再び深左衛門の中に還る。全身が少しだけ温かくなったような感じ。
「当然じゃが、うちも行くぞよ。夜逃げされたらたまらぬからのう」
キツリはゆっくりと立ち上がると、思い切り背伸びをした。そして深左衛門の目を見据えると、
「では、これからよろしく頼むぞよ。お山田殿」
淡い月光を背中に湛え、美しく微笑むキツリは綺麗だった。
――が、やはり狐である。
まず深左衛門は安貞たちと争っていたあの広場へ戻った。そこからヌイの鼻を使い、次郎丸とシズの臭いを探し出し、それを頼りに二人の場所を目指す。まるきり犬の行動であるが、深左衛門はとくに気にしていなかった。しかしキツリは眉間に皺を寄せており、鼻をひくつかせて周囲を探る深左衛門の姿を見て目を細めていた。どうやら怪しいことこの上ないらしい。まぁキツリのそんな気持ちなんぞ深左衛門にとっては関係ないが。
暗闇の中、ヌイの魔眼で茂みや枝を掻き分けて進むことは決して楽ではない。安貞と豪慶との勝負の後ということもあり、深左衛門はかなり体力を消耗していた。
しかし次郎丸とシズを心配する気持ちの方が強かった。深左衛門はこれ以上あの兄妹に不幸を与えたくなかった。両親を失い、家を失い、たった二人でこの世知辛い世を歩かなければならなくなった二人を不幸に曝したくなかった。
だが、今回の事件は深左衛門自身のせいでもある。最初に鬼島とやりあった時、下っ端三人を全員抹殺しておけばこんなことにならなかったかもしれない。その後悔が、汗になって額から流れては顎から落ちる。そして兄妹を助けたはずなのに結局面倒な自体に陥らせてしまったという現実が、見えない縄で首を締め付けるようにして深左衛門を苦しめていた。
助けたはずなのに悲しませてしまった。喜ばせるはずだったのに泣かせてしまった。こういう自分の行為がアダとなり、哀しい結果を生んでしまう事態は今までにも幾度もあった。とくに深左衛門は常人より次元の違う能力を持つため、そういう事態に陥ったときには極端な場合が多かった。
――すなわち、生か、死か。
後者だった時、深左衛門は本当に苦悩した。数日間何も喉を通らず眠れなかったこともあった。今回も場合によってはそうなることもありうる。むしろそうなる確率の方が高いのではないか。ますます深左衛門は複雑な気持ちになった。
「うかない顔じゃな、お山田殿」
傍らを行くキツリがぽつりと呟いた。
「そんなにその連れとやらが大切なのかえ?」
「せっかく助けた人間が、不幸になるのは胸糞悪いだろう。そういうことだ」
「お主、良い男ではないか」
言ってにししと笑うキツリ。深左衛門はそれを無視して兄弟の臭いを手繰り寄せ、それに沿って歩く。
「狐に褒められても嬉しくは無い」
「うふ、照れ屋さんじゃのう。強がることは無いぞ?素直になることも時には大切じゃ」
そんな風にキツリとの雑談を挟みつつ、一行は歩みを進める。藪を踏み散らし、枝を払いのけ、夜の冷たい空気を体に染み渡らせながら、昇ったり降りたり。それなりに傾斜のある山道なので、その分疲労も蓄積していく。額に浮かぶ汗の量が少しずつ増えてきた。しかし次郎丸とシズの臭いもだんだんとはっきりしてきた。着実に近づいてきている。それは確かな事実であった。
そうしてどれほど歩いただろうか。そろそろ山を抜けるのではないかと思い始めた頃、唐突に何者かの気配を感じた。話し声は無いが、何かがいる気配。動物かもしれない。
同時に次郎丸とシズの臭いも強いものになっていた。それほど遠くは無い。走ればすぐにでも追いつけそうな距離だ。
しかし様子が変である。明らかに異様な臭いが辺りに漂っていた。おそらくヌイの力を借りずとも気がついていたであろうその臭いは、
「血か」
言ったのはキツリ。そうなのである。辺りにはむせ返るような血の臭いが夜の静かな空気を無惨に破壊していた。
正直、深左衛門は内心気が動転していた。心臓は激しく波打ち、背中を冷たい汗がつぅっと流れる。次郎丸とシズの気配があり、血の臭いで満たされた状態。最悪の事態が頭の中でぐるぐる回っていた。
しかしここで発狂したらきっとめんどうなことになると自分自身を客観視しており、何とか冷静を保っていたのだった。
いずれにせよ、ろくな状況ではないだろう。刺客が飛び出してきてもなんらおかしくは無い。深左衛門はいつでも剣を抜けるよう構えながら早歩きで兄弟の元へ向かう。
「ん、この気配」言ったのは再びキツリ。構わず深左衛門は歩き続ける。だんだん臭いがきつくなってきた。そして視界の先に何者かの後頭部が月明かりに照らされうっすらと見える。さらに近づいていく。深左衛門は気配のする場所に到着した。
安貞たちと争った場所と同じように開けた場所である。月明かりが綺麗に差し込み、ぼんやりと明るい。広場の端っこの方に、二人の子供が見える。横たわっている少年を少女が肩を揺すって目覚めさせようとしている。そして広場の真ん中には、おびただしい量の血を流している異形の化物がいた。つるんとした男の顔が二つ、胴体は熊のようにいかつく毛むくじゃらで、下半身からは虫の様な細長く硬そうな足が四本生えている。化物は両の首をへし折られ――いや、半分くらいまで無理やり千切られ、大量の血はそこから流れ出ているようだった。当然だが、すでに事切れていた。
「起きてよ兄さん。ねぇ起きてよ」
何かに取り付かれたようにシズは次郎丸の肩を揺すっていた。何度も何度も。しかし次郎丸は何の反応も示さない。
「シズ!」
深左衛門はシズに駆け寄った。シズは一瞬体をびくつかせ、恐る恐る振り向く。そして深左衛門を見るなり、憔悴しきり涙で腫れて真っ赤になった目を見開く。
「うう、兄さんが、兄さんがっ!」
そして叫びながら深左衛門を押し倒すくらいの勢いで抱きついてきた。深左衛門は無言でシズを抱きしめつつ、横たわっている次郎丸を見つめる。
穏やかに目を閉じている顔に生気は無い。その自然物のように透明な存在感を放ち無機的な姿を一言で言うと、『死体』である。
深左衛門は我を忘れて泣き叫ぶシズをキツリにまかせると、次郎丸に近寄った。その姿は近くで見れば見るほど、死んでいるように見える。しかしまだ『死んだ』と決まったわけではない。すぐさま次郎丸を調べ始める。
まず呼吸の有無。口と鼻に手を当て、耳を近づける。
――かすかだが、空気の流れを感じる。
次に胸に耳を置き、首にそっと手を触れる。心拍の有無。
――とくん、とくんと、弱弱しいが確かな脈動を感じる。
まだ、生きている。
「おい次郎丸、目を覚ませ。俺だ、深左衛門だ」
しかし次郎丸は眉一つ動かさず、目を閉じたまま眠っている。
体に派手な外傷は無い。弱いが自立した呼吸もしている。体も温かい。なのに気を失っているとはどういうことだ。
そもそもあの化物の死体はなんなのだ。何者かが仕留めた様だが、状況がさっぱり読めない。
「シズ、一体何があった」
シズはしゃくり上げながらキツリの胸から離れると、ゆっくりと深左衛門の方を向いた。
「兄さんは生きてるの?」
「ああ。だが、死んだように眠っている。俺が来る前に何があった」
シズはよかった、と胸を撫で下ろすと、先ほどより幾分落ち着いた声で話す。
「あの場から逃げ出した後、おかしくなった兄さんに誘導されてここまでずっと走ってきたの」
シズは化物を指差した。
「そしたら突然空からそこの化物が現れて――私は怯えて木の影に隠れていたんだけど――変になった兄さんが信じられないような動きで化物と戦い始めたわ。そして――思い出したくもない――化物の首をもいで倒したと思ったら、兄さんは死んだように地面に倒れこんだ。私が何度名前を呼んでも兄さんは起きなくて、わけが分からなくなって泣いていたらあんた達が現れたの」
「なるほど分かった。とりあえず次郎丸は生きている。安心しろ。おそらく急に人間離れした動きをした反動で次郎丸は倒れたんだろう。なぜそんなことになった理由は分からんが」
言いつつ深左衛門は次郎丸を見る。失った体力を回復するために、泥のように眠っているように見えなくも無い。
「一体次郎丸はどうしたんだ。あの人並みはずれた身体能力、何かに取りつかれでもしたのか」
「ちょいといいかえ、お二人さん」
突然、キツリが割って入った。
「そこの少年、他人の気がせんのじゃ。調べさせておくれ」
「なによあんた」
黒髪をなびかせ、深左衛門の隣に座ろうとしたキツリをシズが仁王立ちして阻止した。先ほどキツリの胸で泣いていたとは思えない態度である。キツリはシズの顔を見つめると「お嬢ちゃん、そこ、邪魔」と言った。その飄々とした態度がシズはの怒りの琴線に再び触れたのか、
「何者かって言っているのよ!深左衛門と一緒に居たけど、あんたどこのどいつよ」と激しい口調で問いただした。
「うちが山奥で迷子になっておるところをお山田殿に助けてもろうたのじゃ。ところでそこの少年を……」
「深左衛門に助けてもらったですって?信じられないわ!怪しい素性の人間なんてもうこりごりよ!」
深左衛門は目でいがみ合っている二人を仲裁すべく間に入る。
「お前ら落ち着け。ともかくキツリ、お前なんでそんなに次郎丸のことを気に留める?」
キツリはふむ、と腕を組んだ。
「薄っすらとじゃがそこの少年からヅヅの気配を感じる。もしかしたら少年が眠っている原因は、ヅヅの巨大な霊力に当てられておるからなのかもしれん。それを調べたいのじゃ」
「ヅヅ……?」
心ここにあらずといった声で呟くシズ。そして何かを思い出したようにはっと驚く。
「まさか、守り神のヅヅ?」
「ああ。どんな因果か、そこの少年の中にヅヅが入っておるようなのじゃ。なんでそんな面倒な事になっておるのやら」
キツリは呆れた声でそう言うと、はぁ、と重いため息を吐いた。
「なら早く調べてどうにかしてよ!というか、なぜそんなこと分かるの、あんた」
「うちは神様じゃからな!何でも知っておるのよ、はっはっは!」
腰に手を当てて高笑いを始めたキツリを見て、「信じられない……」とシズは呟く。同感だが、本当に神様だから世の中分からないものである。
深左衛門はいつまでも笑い続けているキツリの頭を軽く叩いて止める。
「いいから早く次郎丸を助けてやってくれ。免疫の少ない子供の体に突然神霊を叩き込まれれば、こんな風になって当然だ。後遺症でも残ったらどうするつもりだ」
「それ、うちに言うことかえ?まぁ良い見ておれ」
キツリは次郎丸の傍らにしゃがむと、山の頂上で木霊を楽しむときのように口に手を当てた。そして、
「起きろ、ヅヅゥーーーーーーーーーーーー!」
ヅヅゥーーー……。
ヅヅー……。
ヅー……。
キツリの甲高い叫びが、夜の帳を引き裂いた。まるで合戦を開く法螺貝のそれを、高音にしたかのようだった。眠っている獣全てが目を覚ますのではないか。それにしても反射的に耳を塞いでよかった。
「み、耳が……」
シズは頭を抱えてうずくまっている。どうやら反応が遅れたらしい。鼓膜が破壊されていないことを願う。
「これで起きるじゃろう。しばし待っておれ」
してやったりという風に腰に手を当てるキツリ。こんなことで本当に治るのか?深左衛門とシズはジト目でキツリを横目で見ながら事の成り行きを見守る。
しばらくすると次郎丸の鼻の穴から白い息のようなものが抜け出してきた。ゆるゆると煙のように頼りない姿だが、高純度の霊気をひしひしと感じる。そして白い煙が次郎丸の身体から完全に抜け出すと、今度は人の形を作り始めた。
「何これ」
その光景にシズは驚きの声を上げた。何も知らないシズからすれば、魂の再構築化はとても珍しいものだろう。驚いて当然だ。
そして次第に色も付き始め、最後にはくすんだ着物を羽織った白い髭まみれの背の低い老人の姿となった。まるで仙人のようである。これがヅヅの本当の姿なのだろうか。
キツリは腰に手を当てると、正体を現したヅヅに向かって仁王立ちした。そして親が子を叱るような口調で話し始める。
「おい、ヅヅ。何故この少年に取り付いたのじゃ。うちらのような者がただの人間に取り付いたらこうなることは分かっておったじゃろう。へたすりゃ少年の魂が上書きされて存在が消滅していたところじゃ。これは、お上に怒られるやも知れんぞ」
キツリの説教を受けたヅヅは、キツリを上目遣いで睨む。そしてあの酒焼けした様なしゃがれた声で言い返す。
「やかましいわい、小娘が。こやつ等には借りがあった。故に助けた。それだけよ」
ヅヅは吐き捨てるように言い放つと、今度は深左衛門をじろりと見つめてきた。
「お主、けったいなものを持っておるな。祟り神を背負う人間を久々に見たわい。この地に災厄をもたらせる前に、他所の土地へ早く行け。迷惑じゃ」
「た、祟り神!?」
シズは祟り神という言葉に敏感に反応した。一歩後ずさるような空気。いままで何度も感じてきた、黒い何かがしみこんでくるような気配。深左衛門は心の中でため息をついた。
「……犬神か。ただの呪いが祟り神に昇華したようなものか。そんな物騒なものと一緒に居て、今までよく生きてこられたらな」
蔑むような声色でヅヅはそう言うと、ふん、と鼻で笑った。深左衛門はヅヅとは目を合わせず、淡々と、しっとりと降る小雨の雨粒のように呟く。
「お前さんには関係ないさ。世の中色々ある。土地に縛られた神には他所の土地の細かい事情は分からないだろうがな」
「ほざくな小童。お主の何万倍生きておると思うとるのじゃ。神に対して、あまり大層な口をきくで無いぞ」
「まぁ、あんたらその辺にしとくのじゃな。ケンカしにきたわけじゃあるまい?お山田殿、お主の願いはこれで達成じゃな?旅の連れとは合流できた。さぁ鬼退治に向かおうぞ」
「まてキツリ。俺は次郎丸とシズを、叔父のいる村まで連れていかなければならない。お前の手助けをするのは、その後だ」
「こりゃ、それじゃあ約束と違うでは無いか。あの言葉は、嘘だったのかえ?」
うっすらとキツリから怒りを感じられる。ひょうひょうとした態度からは考えられないような、無数の赤黒い針を全身に突きつけられたような殺意の籠った霊気。神の使いというのは、間違いなさそうである。
しかし深左衛門はそんな気配に気圧されることなく、静かに言葉を返す。
「恩は返す。しかしお前は約束するとき寄り道するなら今夜中に済ませろと言ったな。それは覚えているな?」
「もちろんじゃ」
「では空を見てみろ。まだ暗い。夜は明けていない。ならばまだ『寄り道してもいい時間帯』だ。あの時『連れと合流したらすぐに鬼退治へ行く』という風に約束していれば、今すぐお前達と付いていくつもりだったが、お前はそういう風に言わなかった」
「……策士め」
キツリは悔しそうに目を細めると、そう呟いた。
「俺はただ約束を護っているだけだ。さて」
深左衛門はシズと次郎丸の方を向いた。シズはどこか気まずそうに深左衛門を見つめる。
どうやら祟り神という言葉が随分と効いた様である。掌を返すような態度をとられることは慣れてはいるが、やはり、辛い。相手に対して気持ちがこもっていればいるほど、その重みが変わる。
そしてこの事態はある意味自業自得。難儀な特徴を持った者は、難儀な特徴を持った者といる方が楽だ。普通の人間に関われば、様々な生活の差異で苦痛が生じる。そして、普通の生活ほど憧れたものは無い。親父の気持ちが最近ほんの少しだけ分かるようになった。すべての人間に共通するたった一つの共通項は、無いものねだり位ではないかと深左衛門は感じていた。
「シズ。お前は俺が怖くなったな」
「いや、別に……」
「お前達がこういう事態になった原因は俺だ。ヅヅが言うように、お前達には不幸しか与えられていない。祟り神というのなら、それは間違いない」
「いや、でも深左衛門のおかげで、母さんは無事に逝けたし、その後のことは兄さんと私が決めたことだし。別に深左衛門は悪くない」
「本当にそう思っているのならそれでもいい。だが、これから先、鬼島の連中に目をつけられるだろう。それは完全に俺の不始末だ。どう取り繕ったところで変えられない事実だ。本当に、すまない」
「……」
シズは沈黙した。こうなるのだ。結局、シズ達も深左衛門も苦しくなる。やはり人ならざるものと人は触れ合うべきではない。頭では痛いほど分かっているが、それを実行するのは難しい。とても、難しい。
それは、過ぎ去った記憶に残るあの時と同じだ。一番後に残るのは、無上の悲しみ。出会わなければよかったという、最悪の後悔が待ち受ける。
「けれど、僕は深左衛門さんに会えてよかったと思っています」
はっとして声のした方向を見ると、次郎丸が身体をゆっくりと起こしている最中だった。
「兄さん!」
「シズ、お前は深左衛門さんからもらったものを忘れたのか?僕は、こういう運命になってしまって辛いとは思うけど、後悔はしていない」
次郎丸は起き上がると深呼吸を始めた。まだ身体が本調子では無いらしい。
「僕は、深左衛門さんに会うまでは、時間が止まったように、ただ日々を繋げるために生活をしてたんだ。答えが出ず、目標が定まらず、悶々としながらね。だけど、深左衛門さんに会って、僕は勇気を貰ったんだ。生きると言うのは、決意を固めることなんだ」
「兄さん……」
「あのまま村で生きていても、きっと幸せにはなれなかった。それはシズもよく分かっていると思う。けど、あの村を出る勇気が無かった。もっと早く、母さんが寝込む前にあの村を出ていたら、もしかすると母さんはもっと生きていられたかもしれない。そして、もっと笑顔を見ることが出来たかもしれない。母さんが死んでから、僕はそういう風なことを考えることが多くなった。今更だけどね」
次郎丸は自嘲気味にふふ、と笑った。そして強い光を燈した目で深左衛門を見つめる。
「僕は、深左衛門さんに会わなかったら、確実にだめになっていた。母さんという束縛からも、村というぬるま湯からも逃れられず、空っぽのまま干からびて死んでいっていた。けれど、深左衛門さんから『路』を見つける術を教えられたと僕は思っている。生きるための勇気と覚悟。今っていうものは、過去によって作られた結果なんだ。僕達はそれを受け入れる責任と義務がある。なぜなら、その結果を作り上げたのは結局自分自身だから。だからシズ。深左衛門さんを咎めるのは、絶対に間違っている。結果を選択したのは、僕たちの責任だ。今はよく分からないかもしれないけど、シズにもきっと分かる」
「兄さん……」
「なんじゃこの小童は。随分賢いことをいう。最近の人の子は、こういう人柄が多いのか?」
次郎丸の口上に、目を丸くしてヅヅは驚いていた。深左衛門は改めて、次郎丸の頭と人の良さを痛感した。こんなにできた人間に会うのは、何年ぶりだろう。こういう者こそ、頭首にふさわしい。人の上に立つべき人材だ。次郎丸はきっと、先生に向いている。
「しかし、思いだけでは理想は掴めぬぞ、少年」
ちくりと棘を刺して来たキツリの言葉に対して、穏やかな声で次郎丸は返した。
「分かっています。そのために、努力という言葉がある。僕は、深左衛門さんを見てそれを感じました」
次郎丸はそういうと小さく微笑む。そして再び深左衛門を見つめる。
「つまり、僕たちはもう大丈夫です。こういうことになったことに対して気に病まないでください。これは僕たちが決めた人生です。深左衛門さんが決めた人生ではありませんから」
言って次郎丸は立ち上がった。シズの手をつないで。
「僕達は行きます。深左衛門さん、縁があれば、もう一度会いたいです」
「待て」
深左衛門はどんどん進む話に釘を刺した。
「次郎丸。それは行き急ぐというやつだ。すべてを背負い込むことは無い。それはお前の悪いところだ。人を利用しろとは言わん。だが、助けを求めるくらいはしろ。でなければ、お前は永遠に一人だ」
次郎丸は黙って深左衛門の話を聞いている。
「お前はこれからシズと二人で叔父の居る村を目指そうとしているのだろうが、それは完全に無駄死にだ。よく考えろ。村までの道のりはかなりある。道中鬼島に襲われたらどうする。せめて村に着くまでは、用心棒が必要だろう。ならば、助けを求めるべきだ。重要なことは、命を大切にすることだ。他人はもちろんの事、自分のもだ。命を犠牲にするのはそれしか手段がなくなったときだけにしろ。手なら在る。だから無駄死にはするな」
「お主、やはりいい男じゃの」と、言葉を付け足すキツリを無視しつつ、深左衛門は呟く。
「ヌイ、奔るぞ。出て来い」
ごうぅ、と局地的な竜巻に巻き込まれたような風が逆巻くと同時に、狭い森の中に巨大な気配が生まれた。まず耳に届いた雲の中で走る雷鳴のような唸り声、次に目に入るのは暗い森の中に差し込む月光を照り返す青い鱗、そして暗闇でも驚くほど輝く禍々しい金色の三つ目、一歩踏み出せば大地が揺れ動きそうなほどあまりにも太い六つの足――神獣状態のヌイである。深左衛門は小高い丘くらいはあるヌイの上にひょいと乗ると、尻尾まで伸びる白金のような鬣をつかむ。
「こ、これは……!」
一方ヌイとシズは腰を抜かして巨大なヌイを見上げていた。完全な化物であるヌイを見てまったく驚かなかったのは、記憶の中で一人しか知らない。
「不吉な臭いがする犬じゃ。おいキツリ、本当にこいつと一緒に行くつもりか?」
「もちろんじゃとも。それにしても派手な姿じゃな。あんな小さい女子がこんな化物じゃったとは、怖い怖い」
大木のような足を叩きながら、キツリは呟いた。ヌイは鬱陶しいとでも言いたげな瞳でキツリを睨むと、軽く足を振るった。
「シズ、次郎丸、ヌイに乗れ。空を奔って村まで行くぞ」
「空を奔る!?」
再び驚く次郎丸とシズに「そうだ」と手を差し伸べながら、深左衛門はキツリに向かって言う。
「キツリ、夜明けまでにはここへ必ず帰ってくる。だから待っていろ」
「ああ。楽しみに待っておるぞ、お山田殿」
にこにこしながら手を振るキツリ見つつ、次郎丸とシズはなんとかヌイの背に乗った。「しっかり掴まっていろ」と、深左衛門は注意する。
「ヌイ。東だ。行け」
『承知した』
低く答えたヌイは一度身体を低くした。猫が跳躍するため足に力を貯める動作とよく似ている。
ぅびひゅん!
そして次の瞬間一気に森を抜け、藍色の中に白い星達が輝く夜の大空へ吸い込まれるように上昇していった。
高度はどんどん上がり、遠くに見える山々を越え、さらに向こうの大陸までうっすら見えてくる。眼下には緑色に広がる森や、ところどころ明るいところが見え、集落や村があるということが分かる。ヌイは東の方角へ身体を向けると、大地を走るように前足を踏み出し、進んでいく。
遮るものが無いため、空を走っているときは風が強い。ごうごうと吹き荒ぶ風を受けながら、振り落とされないように深左衛門たちはヌイの鬣に掴まっていた。
「すごい、まるで鳥になったみたいだ」
うきうきしたような声で次郎丸は言った。
「空を飛ぶってこんな感じなのね。それにしても風が強いわ」
シズはどうやら髪の毛や服がばさばさすることが気に入らないらしく、若干不機嫌な声で言った。そして神妙そうな声で、
「それと深左衛門、さっきは、ごめんなさい」
静かにそう呟いた。深左衛門は一呼吸置いて背中で答える。
「気にするな。お前は我がままだが、素直だ。お前の性格はよく分かっている。そのことは忘れろ」
一瞬の沈黙の後、「あっそう、ならいいや」と、シズはすぐにあっけらかんと開き直った。そして「一応、その、なんというか……あ、ありがとうとだけ言っておくわ」と続ける。深左衛門はひそかに微笑んでいた。
「それにしてもこれならすぐにでも村に着く事ができたわよね。最初から飛べばよかったんじゃない?」
シズの問いに、深左衛門は極めて冷静に答える。
「それだと旅の辛さをお前達に教えることはできない。それに、ヌイをこの状態で現界させるのにはかなり霊力を使う。俺自身、この状態のヌイを一日中使うことは無理だ」
「ところでヌイは本当に祟り神なの?確かに怖い見た目だけど、どことなく神秘的な姿をしてるわよね」
言いつつシズはふさふさの鬣をそっと撫でた。少し気持ちよかったのか、ヌイが低く唸る。
深左衛門は頭をかきながらシズの質問に答える。
「ヌイは犬神であるため、間違いなく祟り神だ。だがその本質は、北方を統べる山神だ。話せば長くなるから省くが、元々はヅヅの守と同類の、いわゆる土地神だ。それが犬神という枠に収められると、ヌイのような存在になる。ヌイがどういう性格をしているかお前達はなんとなく分かるだろう?祟り神という枠に入っていたとしても、ヌイのような者もいるのだ。何でもかんでも、先入観や杓子定規で計るのではなく、実際に己の目で見て聞いて、そして触れ合ってその存在を確かめることが大切だ。そういう経験が、人間と言う動物をより人間らしくしていく。お前達はまだ若いのだから、色々と経験するべきだ」
「よく分からないけど、分かったわ」
シズはそういうと、そっと身体を横にした。身体をヌイに預け、目を閉じる。
「神様だろうがなんだろうが、生きていることが大切なのよね。化物みたいなヌイでも、こうやって身体が触れ合えば、何となく温もりを感じる。優しさを感じる。触れ合うことが大切って、こういうことを言うのね」
深左衛門の言葉に感化されて、シズは何かに気づいたようだった。やはりというか、シズも次郎丸と同じく、賢い子だと改めて気づかされた。次郎丸とはまた違う素直さと聡明さ。この二人は、いずれ大成しそうな気がする。
「深左衛門さん」
ふと次郎丸が深左衛門の名を呼んだ。思わず深左衛門は振り返る。
次郎丸は真剣な目で深左衛門を見つめていた。こいつはいつも真剣な眼をしている、いつもとは違う眼の色をしていた。何かを決断したような、そんな強い眼差し。
「僕は、あなたを目指します。あなたのような、強い心を持つ人に」
「一体俺のどこに惹かれたのか知らんが、俺みたいな難儀な人間を目指すのはオススメしないぞ。まず、気苦労が絶えん。それに得られるものも無い。まるで修行僧のような人生だ」
「それでも、僕にはとても綺麗で大きく見える。生まれて初めて、僕は強く願いました。だから」
次郎丸は一度言葉を区切った。
「弟子に、してくれませんか」
しばらく、沈黙が訪れた。シズは口を挟まず、横たわったまま。次郎丸と深左衛門は、お互い見つめあったまま。瞬きをしない次郎丸の眼は、強い意思を感じられる。暗闇の中でさえも輝きが見て取れるその佇まいは、いつか見た、猛将が放つ覇気と眼力に良く似ていた。迷いの無い筆遣いで書かれた書の軌跡のように力強く、そしてどっしりとした感じ。
深左衛門は次郎丸に背を向けると、一言「駄目だ」と答えた。言って、次郎丸の眼を見なかったのはとてもずるい事だと非常に後悔した。
「でしたら、僕は勝手に目指します。あなたのその大きな背中を、僕は死ぬまで忘れない」
次郎丸は深左衛門が拒絶することを予め予想していたように言った。
「ならば、好きにしろ」
「はい」
そうして一人の男と少年の会話は終わる。淡々としているようで、濃密な時間。そこには男同士の強い意思のぶつかり合いと、ある種の愛情が満ちている。師と弟子の関係と言うのは、こういうことを言うのだろうか、と深左衛門は思った。親と子とは違う、独特の関係。不思議な繋がり合い。人の世は、面白いものだと深左衛門は思った。
そうして沈黙の揺り籠に揺さぶられながら、夜の風と時間が流れていった。月は穏やかな輝きを失わず、白い深左衛門たちを見守っている。ヌイの走る速度が、ほんの少しだけ優しくなった気がした。