第二話
朝。深左衛門は村外れの丘にある墓場から一人空を見上げていた。
雲間から差し込む日差しは極めて穏やかで、流れる風は体を包み込んでいる。村を出、新たな日々を迎える門出には丁度いい空だ。
もちろん深左衛門の事ではない。両親を無くし、寄る辺の無くなった双子の兄妹に対してだ。
彼らの母親の亡骸は傍らにある簡素な墓の下である。今朝早く埋葬してやったのだ。母親の魂はとうに昇天してこの場には居ない。昨夜母親としっかり別れを告げた兄妹にとって、亡骸に未練は無い様だった。むしろ亡骸があるとかつての記憶が蘇って足枷になるのだろう、一瞬でも早く完全な別れを告げたそうだった。まだ幼いというのにしっかりしたものである。きっと良い母に育てられたのだろう。そういう意味では、母親の死は早過ぎたと思う。まぁ深左衛門には関係ないことだが。
そんな兄妹は今、空っぽの家で旅の準備や村人に事情を説明しているはずだ。身辺の整理がつき次第、母の墓の前で集まることになっている。故に深左衛門は一人、この何も無い空を見ているのだ。
「どこに行っても、墓場の風景は同じだな」
迷うことなく風は流れ、殺風景な景色が続く。半ば強制的に静かにさせられた無の空間。空気は澄み、ここだけ別次元のように奇妙な肌触りがする厭な空間。生きとし生けるものの果て、正に幽世の世界観。深左衛門は時折訳も無くこの世界観に同調することがある。
――否、心の中身がこれになる。
理由は分からない。何年も迫害を受けてしまったせいなのか、犬神を背負っているからなのか、本物の愛情を知らないせいなのか、自分の中の歯車がどこか欠落しているせいなのか。
「……何を考えてるんだ、俺は」
雑念を払うように頭を振る。ぼんやりとした意識は泡沫の様に消滅し、目の前に広がる無機質な景色を再認識する。日差しが網膜を貫き、光を感じさせる。白く、じっとは見つめていられない存在。つい目を背けてしまう存在。
誰かさんのようだ、と深左衛門は自嘲した。それきり、深左衛門は目を閉じて兄妹が来るのを待った。
* * *
半時ほど待つと背中に荷物を背負ってこちらに走ってくる二つの影が見えた。見まごうことなく、次郎丸とシズである。
二人は息を切らせて深左衛門の傍まで来る。そして次郎丸は「お待たせしました」と言った。
「色々と片は付いたのか」
深左衛門の問いに次郎丸は頷く。そして母の墓に花を添えた。同様に仏頂面のシズも花を置く。どこにでも咲いていそうな、どこかで見たような花だ。だが二人の気持ちは十分に込められていることだろう。ならば手向けの花としてこれ以上のものはない。
「――」
兄妹はしばらく無言で母親の墓を見つめていた。今は亡き、文字通り抜け殻になった肉体が眠るこの墓を。
ぼんやりと、風や木々のざわめき、鳥の囀りがこの場に満ちる。自然や動物はいつだって傍に居る。大地は、空は、今日もいつもと変わらない日々を繋いでくれる。
――そして、
「行ってきます。さようなら。また来るよ」
次郎丸はシズの気持ちをも代弁するように淡々と呟いた。
兄妹の目は極めて穏やかで、優しげである。だが、頭上に広がるこの空のようにカラッポの様で透明だった。
「……行こう。兄さん」
シズはいつものツンとした顔になると、母の墓を見つめる次郎丸の裾を引っ張った。
「……ああ。行こう」
次郎丸はそう答えると、深左衛門を見た。そしていつもの精悍な顔で次郎丸は言う。
「深左衛門さん。本当にありがとうございました」
深左衛門はそっぽを向くと、背中で答える。
「……いいから。さっさと行くぞ。道案内しろ」
ほんと、人のいい奴だ、と深左衛門は思った。
村を出た後、深左衛門たちは東の街道へ向かった。ちなみに鬼島の下っ端と争った因縁のあの道である。
一行が目指すは山を越えた先にあるヒサイという町だ。次郎丸やシズが住んでいたアキボクの村から大の大人が歩いて二日ほど。しかし次郎丸とシズが居る上に山を越えなければならないのでもう二日程度かかると深左衛門は見込んでいる。道中何も起きなければいいが……。深左衛門はそればかり考えていた。
「しんどい畠仕事しなくて良くなっちゃったから、なんだか晴れ晴れとした気分だわ」
傍らを歩くシズが伸びをしながら言った。その言葉に次郎丸も頷く。
「そうだね。色々と不安だけど、開放された感じはする」
そう次郎丸が言って、はははっと二人は笑った。深左衛門としてはあまりのお気楽さに若干呆れていた。
お前達は飯を食うための仕事や雨風を凌ぐための家を探すことの難しさを知らんのか、と怒鳴りたかったが、旅を始めたばかりだというのにいきなり言うのは流石に酷か、と思って黙っていた。
それに少なくとも飯を食うということの大変さくらいは知っているだろう。若い身空で両親も無くしてしまっている。先ほどのように振舞っていてもそれなりに厳しい思いをしていることだろう。ならばせめて今くらいは自由に思うままに生を謳歌するというか、旅を楽しめばいいと思う。
若いとは、本当に素晴らしい。瑞々しいというか、どんな苦難に直面しても明るい未来を信じているような瞳をすることができるのは、やはり若さの特権というものだと思う。
それに比べて自分が次郎丸くらいの年の頃は何をしていたのだろう。笑ったことなど無かった気がする。いや、あったか。数えるほどだが。唐突にその記憶が蘇ってきた。
どうせ道のりは長い。あまりいい記憶ではないが、歩きながら思い出を覗いてみることにしよう。
幼い頃の深左衛門には友達がいた。数少ない、唯一の友ともいえる存在。
当時、山田家は里の薬屋として生計を立てていた。先祖代々受け継がれてきた製薬書に基づき、祖母が薬を作っていた。深左衛門はその手伝いをしたり、犬神憑きとしての修行を行ったりしていた。
深左衛門は自ら進んで友達を作ろうとはしなかった。いや、本当は作りたかったが、作れなかったというのが正しい。
犬神憑きにはその印として鋭い牙が生える。もちろん当代の継承者である深左衛門には生えている。ちみに犬神が次世代に受け継がれると、脱皮をしていくように牙が縮んでいき、最後には普通の歯となる。
深左衛門は犬神の牙を家の者以外に見せるわけにはいかなかった。見せれば自分が呪われているということを知らしめてしまうから。ではどうすればこの牙を隠すことができるか。
――答えは至って単純。『喋らない』ことだ。
故に深左衛門は村人と一言も喋らなかった。すべて態度や表情で感情を表していた。故に村の人間からは『言葉の喋れない子』として有名だった。
山田家の薬でも治せない病を患っている、ということで村の人間から避けられてもいた。
――あいつに関わったらうつるのではないか、と。
その点で鬼や妖に呪われていると勝手に思われ、同年代の子供に深左衛門はいじめられていた。呪いがあながち間違いではないのが怖いところである。
しかしまぁそこは所詮子供。本気で深左衛門をのけ者にしようとしている者はおそらくいなかった。ただ、簡単にからかえる対象として扱っていたのだろう。彼らにとって深左衛門は玩具なのだ。
子供は年を重ねるにつれ扱う玩具が複雑になっていく。最初はただ動いたり音が鳴ったりと単純なものだが、自分という存在価値を意識し始める頃になると、次第に対象は人間という最も複雑で魅力的なものに飛躍していく。
自分という存在を確認するには、自分より弱い相手を蔑むことが一番簡単で手っ取り早い。相手より自分は優位な存在だと。薄っぺらく表面だけの張りぼてのような存在価値。それ故に簡単に手に入れることができる自分を自分で証明できる心の拠り所。
子供は純粋故に残酷だ。彼らが凶行に及ぶのはただ自分を確認したいだけだ。自分という人間を見て欲しい。愛して欲しい。構ってほしい。求めることはそれだけ。とどのつまりただ安心したいがためだけに行動している。
『子供』という長い期間は精神的にも肉体的にも成長して様々な行動を起こすが、常に根本にあるのは生まれてから存在するたった一つの目的だけだ。子供は成長するにつれ躾けるのが大変だというが、成長して知恵を得ることによってその表現方法が愉快になり、躾けるものはそれに戸惑っているだけなのだ。かつて自分自身が彼らのようだったにも拘らず。
――それはさておき、深左衛門には友達がいた。霊視ができる少女だった。
彼女は極めて普通の少女だ。仲の良い友達もいるし、親の仕事の手伝いにも積極的。典型的な『良い子』だった。
しかし不幸なことに彼女には霊が見えた。十才の時大熱を出し生死を彷徨った後、見えるようになったという。だが霊は見るだけで深く干渉はできなかったそうだ。最初は不気味な姿かたちをとっている霊を見ることが耐えがたかったらしいが、いつの間にか慣れたそうだ。
あるとき深左衛門はそんな彼女に話しかけられた。この時のことは今でもはっきりと覚えている。
夕陽が半分くらい沈む頃、村はずれの小高い山の上でその毎度御馴染みの光景を見つめていたとき、突如深左衛門は肩を叩かれた。
「こんばんは」その優しい声に振り向くと彼女がいた。人懐こそうな笑みを浮かべ、にししと笑っている。
「……」深左衛門は当然無言だ。小首を傾げて「なんだ?」と意思表示をする。
「いつも服、ずたぼろだね」
直接いじめてくる連中の中に彼女の姿はなかったが、いじめられてずたぼろになっているのは知っているはずだ。それにも拘らずそんなことを言ってきた彼女に深左衛門は少し頭に来た。
文句の一つでも言いたい深左衛門だったが、哀しいかなそんなことを言える訳も無い。仕方なく深左衛門は再び夕陽を見つめ始めた。眼球を焼く朱色の光は、なんとなく切ない。
「前から気になってたけど、どうしていつも喋らないの?」
深左衛門は彼女の投げかけた問いに答えない。彼女の声はただ夕陽に吸い込まれていく。まるで自分は透明人間のようだと思った。「皆が言ってるように、自分の家の薬でも治せない病気なの?」ええい、煩わしい、早くどっかに行け、と深左衛門は心の中で叫んでいた。今思えば、なんて失礼なことを考えていたのだろうと自責の念に駆られる。
しかし、彼女の次の言葉で深左衛門は振り向かざるを得なかった。
「それとも、背中の大きな犬のせいなの?」
「――え?」
絶句している深左衛門に対してあ、そんな声をしてたんだ、と彼女は微笑む。
「驚いたってことは気づいてるんだね。私だけしか見えないのかと思っちゃったよ」
深左衛門は、山田家と村はずれの神社の神主以外に霊視ができる人間がいるということに驚いていた。
この頃はまだヌイを隠すことができなかったため、常に霊体として現界させていた。つまり彼女にはずっとヌイが見えていたのである。化物そのものであるヌイの姿を見てよく腰を抜かさないものだと子供ながらに感心していた。
「ねぇ、いつもこの犬は君の傍にいるけど、友達?」
深左衛門は今まで無言を通してきた。それは無言で対処できる生活だったからである。他愛ない話、挨拶、いじめ。どれもこれも詳しく自分が喋る必要は無かった。
だが、今のこの現状を説明するには喋らざるを得ない。人外のヌイが見えている以上、下手な相槌は通用しない。しっかりと口で、説明しなければならない。
しかし深左衛門はこんな危機的状況にも拘らず、心の中は躍っていた。心臓が高鳴り、高ぶる何か。こんな気持ちになるのはいつ以来だろう。思い出せない。
彼女はもしかしたら生まれて初めて自分と話ができる同年代の人間かもしれないと思うと、この気持ちを抑えることなんてできない。今まで散々願ってきてその度に自分自身の足で踏み躙ってきた願いが、叶うかもしれないのだ。
なにせ三つ目六つ足の犬というヌイの異形を見て驚かないような図太い心の持ち主である。ならば自分が持っている犬の牙を見ても驚かないのではないか、という薄い希望を感じていたのだ。
しかし今までの環境のせいなのか、生まれ持った疑り深い性格のせいか知らないが、深左衛門は再び夕日を見つめ、背中で彼女に答えた。夕陽は陽炎で波打ち、何かをごまかそうとしている。
「友達、みたいなもんだよ」
彼女はそうなんだ、と何の疑りもせず返事をする。
「こんなすごい友達が居るのに、なんでいじめらているの?」
「それは……」
自分が犬神筋だからだ、とは言えない。いくら彼女でも犬神を知らないわけではあるまい。狙った家系を末代まで呪い続けるのが犬神だ。そんな物騒な言葉を言えるはずが無かった。
嘘を吐くのは嫌いだし本当のことは言えない。故に無言を貫き通す。深左衛門にはどうしようもなかった。
そんな複雑な深左衛門の心境を知ってか知らずか、彼女は話す。
「でもこの犬、怖い顔してるけどなんだかすごいよね。よく分からないんだけど、綺麗というか。神様みたいだよね。いつも君を守るように寄り添ってるし。まぁ寄り添ってるわりにはいじめられているときは放置しているのが不思議なんだけど」
苦難は自分の力で切り抜けろ、がヌイや祖母の方針だった。いじめは心を強固なものにするには丁度いいとか何とか。当時の幼い自分には理解できないただの拷問のようなものだった。
彼女は話し続ける。
「だから、君って本当は普通の人なんじゃないかと私は思うんだ。こんな神様みたいなものに守られているくらいなんだから、きっと正しい心の持ち主じゃないかと思うんだ」
彼女はそこで言葉を切った。そして、深左衛門の前に来て仁王立ちすると夕日を背にする。逆光で彼女の姿が墨にまみれたように黒く染まる。
「だからさ、君の事教えてよ。興味があるんだ。こんな凄い友達と一緒にいる君が」
そんなありえないようなことを言う彼女の姿が妙に神々しく見えた。夕日を背にしているからなのか、霊が見えることによって常人には考えられない思考を持つようになったからなのか、深左衛門には分からない。
しかし彼女の目は生き生きとしていた。まるで新しい玩具を与えられた子供のように。好奇心を押さえきれない、少年のような瞳。そこには嘘や策略やその他野暮な気持ちは一切感じられなかった。純粋な、ただ根源的な誰でも子供の頃必ず持っている心が感じられた。
――故に、生まれて初めて深左衛門は家族以外の人間に心を開こうと思った。
こいつになら話してもいい。信じてもいい。なぜか、そう思った。
深左衛門は彼女に牙を見せないように俯きながら言った。
「なら約束してくれ。俺のこと、信じる?」「もちろん」
「裏切ったりしない?」「うん。私、そういうの大嫌いだから」
芯の通った落ち着きのある声で返事をする彼女の言葉は本当だ。こいつは、間違いなく嘘を吐かない。
深左衛門は家族以外の他人と今まで無言で接してきたせいか、人の心の動きや考えを読み取ることに図らずも慣れている。その積み重なった経験から導き出された答えは、『彼女は信じてもいい』という結論だった。彼女は、優しい。その上、人を裏切らない。
しかし面と向かって喋ることができないのは今までの環境のせいだろう。牙を見せることにあまりにも抵抗があるのだ。
「大丈夫だよ?私、大抵のこと驚かないし。君を見放すようなことはしないよ」
最後の一歩を踏みとどまっている深左衛門を見かねたのか、彼女は包み込むような声で言った。
彼女は友達になろうと言っている。そんなことは嫌というほど頭では理解している。
しかし、どう返事をすればいいのか分からない。こんなこと、初めてだから。
戸惑う深左衛門は彼女の視線が辛かった。
(何て言えばいい)
話をするってこんなにも難しいものなのかと深左衛門は痛感していた。確実に環境による弊害だが、今はそんなことを考える余裕は露ほどすら必要無い。
そんな深左衛門の姿を見て、彼女は何か察したのだろう。心底残念そうな、耳を寝かせて悲しげな遠吠えを鳴く仔犬の様にしょんぼりした声で彼女は言う。
「……ごめん。迷惑かな」
その言葉が深左衛門の鼓膜を振るわせた瞬間、深左衛門の心に何かが走った。走っていく何かはその道程にあった粘着質の雑念を無理やり切り裂いていく。
深左衛門は自分があまりにも馬鹿げたことをしていることに気づいたのだ。彼女に対してあまりにも失礼だと。
だから今すぐここで答えなければならない。自分のためにも。彼女のためにも。
しかし気の聞いた言葉なんて思い浮かぶわけが無い。この時ばかりは自分の口下手さを犬神筋以上に呪った。しょうがなく、とにかく頭に思い浮かんだ言葉を喋った。
「――あの、俺、実は呪われてるんだ」
「え?」
彼女の笑顔が凍りついた。
「深左衛門さん!」
「え、あ?何だ何か用か」
突然袖を引っ張られて深左衛門は我に返った。彼女の凍りついた笑顔が白い吐息のように消え去り、入れ替わるように眉間に皺を寄せたシズの顔が目に入る。
「昼も過ぎた頃だし、ちょっと休憩しない?」
気づけば太陽が丁度真上に昇っていた。腹も空いたし喉も渇いている。歩きながら随分と夢想していたようだ。我ながら器用な男だと思う深左衛門である。
「あそこに茶屋もあるし丁度良いじゃん。ねぇ、休もうよ。あたし疲れたわ」
とかいいつつシズは既に店先の腰掛に座り込んでいる。足をぶらつかせ必死に意思表示をしていた。深左衛門より少し前を歩く次郎丸はシズの態度を見て呆れた声でため息を吐く。
「すみません、深左衛門さん」
深左衛門は微笑みながら気にするな、と声をかけた。
「いいさ、少し休もう。先は長い。無理は禁物だ」
深左衛門は次郎丸の背中を叩くと一緒に店まで歩いていく。そしてシズの隣に腰掛けた。座ると同時に軽い疲労感がじわりと全身に広がっていく。
三人が腰を据えると奥から人の良さそうな老婆がやってきた。きっと店の人間だろう。深左衛門は彼女に声をかけた。
「団子と茶をくれ」
「あいよ」
深左衛門は婆さんに金を渡すと、空を見上げて思いっきり深呼吸した。全身に酸素が行き渡り、ゆっくりと疲れを吐き出す。
久々に一息ついた三人は、しばらくぼんやり道行く人々を眺めていた。
街道には商人らしき者や夫婦らしき者。はたまた侍のようなものやごろつきらしきもの等わりと色んな人間が歩いている。昨日とは違い、結構賑やかである。
しかし道を流れる人々はただただ口を引き結び、ただ目的地へと足を進めているようだった。耳に入り込む音は森の囁き、風の足音、鳥の歌声。やはり閑静な街道である。
「今日はどの辺りまで歩くの?」
唐突にシズが言った。
「町に行くときお世話になってる妙生寺までかな。でも行けるところまでは行きたいんだよなぁ……」
答えたのは次郎丸。そして二人の会話はそこで途絶える。妙生寺という寺を越えてさらに歩きたいところだが、それ以上進むと雨風を凌げる場所が無いから進み辛い、そんな気持ちが取れる台詞だ。野宿という手段はお前達には無いのか、と言いかけた深左衛門である。
深左衛門はこの兄妹の旅路の指針を示さないようにしている。どうにもこうにもなりそうに無いときは手を貸すつもりだが、どこへ行くとか何をするとかは彼らに任せるつもりだ。
なぜならこれからこの旅よりもさらに厳しい世界が二人に待っているから。深左衛門は、兄妹に世間の厳しさを身を持って体験させ、これからの人生に活かして欲しいと考えているのである。用は自立して欲しいのだ。
しかしなぜ自分がこのような態度をとっているのか。まるで先生である。赤の他人である彼らをここまで深入りする理由など無い筈なのに。我ながらお人好しな男だ、と自嘲した深左衛門である。一体誰に似たのやら。そう思いつつ、団子を一つ頬張る。しっとりとした甘みと鼻腔を抜ける香りが、体に染み渡るようだった。
「向こうが騒がしいわね」
ずずっ、と茶をすすっているシズが進行方向の先を見据えながら呟いた。つられて次郎丸と深左衛門も目を向ける。
――道のずっと向こうで人だかりができている。細かいことは聞こえないが、なにやら動揺している声だ。何か起きたのか。
「触らぬ神にタタリ無しだな」
深左衛門はそういいながら茶をぐびりと飲んだ。すでに面倒ごとに首を突っ込んでいるのだ。これ以上仕事を増やしたくない。この件にはできるだけ関わらないようにするべきだ、と深左衛門の心が警鐘を鳴らしていた。
「お前達も下手なことに首を……って、お前ら!」
ふと傍らを見ると兄妹の姿は無く、食べかけの団子と茶がぽつりとあるだけだった。はっとして向こうを見れば、二つの小さな背中が見事に野次馬の中に溶け込んでいた。
シズはともかく、次郎丸まで野次馬に参加するとはよほど気分が高揚しているようだ。その理由は旅を始めたからなのか、村の束縛から逃れられたからなのかは分からないが。落ち着き払っている彼にとっては悪くない傾向だが、いささか行き過ぎのようでもある。
やれやれ、と深左衛門は重い腰を上げた。そして腕を組んで野次馬の山まで歩く。
――が、
「なに?」
思わずそう呟き、道の真ん中で深左衛門は足を止めた。まるで見えない壁にぶつかったように。
深左衛門は強烈な霊気を感じていた。それこそヌイのような霊格の高い者だけが発せられるようなものだ。
それはまるで全身に纏わりつく粘液のよう。無色透明の胃液の海に全身を突っ込まれたような感覚。皮膚は熱いのに冷水のような汗が背中を伝う。
「何が起きた……」
そう呟きつつ再び歩みを始め、野次馬達の下へと向かう。そして思わぬ事態に深左衛門は眉をひそめた。
「まずいよなぁ、誰だよこんなことをしたの」
「祠を壊すなんてありえんがな」
「きっとろくでもない奴がやったに違いねぇ」
「くわばらくわばら」
野次馬達の中心には祠があった。しかし奥に奉られている像は原形をとどめないほど粉々に砕かれ、供え物は荒々しく蹴散らかされていた。
この惨状を見て深左衛門は合点がいった。先ほど感じた霊気は奉られていた神仏から漏れた霊気だろう。祠というものは、奉られている神仏の一部のようなものである。故にそこには奉られている神仏の霊気が溜まっており、像を通してその強烈な霊気を放つことによって周囲の邪悪な存在を退けるのである。
しかし、一度その祠が砕かれれば、封印されていた霊気が辺りにばら撒かれてしまう。像を通した霊気ではなく、直接放たれる霊気は辺りの霊気圧の均衡を崩してしまうことがある。さらに、生の霊気というものは、悪霊の好物でもある。それも神仏が放つような純粋な霊気は。貧弱な悪霊が神仏の霊気を喰って鬼化することもあるのだ。
おそらくこの辺りはばら撒かれた霊気が大人しくなるまでしばらく面倒なことが起こりそうだ。あえて何が起きるとは言わないが。
「おい、あまりここに居ない方がええんじゃないか?祟られっぞ」
「おう、そうだな。逃げよう逃げよう」
そう言った野次馬がきっかけとなり、他の野次馬達もどんどん破壊された祠から蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。結局残されたのは深左衛門と次郎丸、シズの三人だけとなった。時機よく風が駆け抜ける。
まず、哀しげな瞳で祠を見つめている次郎丸が口を開いた。
「誰だろう、こんな酷いこと」
そう言いながら次郎丸は無残な祠に両手を合わせた。
「これは何を奉っているところなんだ?」
深左衛門の問いにシズが答える。
「ヅヅの守。この辺りに伝わる古い山神様よ。しかしまぁ派手に壊されてるわね。思わず気の毒になっちゃうわ」
言いつつ次郎丸の隣に座り、手を合わせるシズ。二人仲良く並んで手を合わせる姿はどこか微笑ましい。
それにしてもこの二人には先ほどの野次馬達のような恐怖心というものが無いらしい。祟りとか怖くないのだろうか。まぁヌイを見てもすぐに免疫ができるような二人だ。この強烈な霊気にも怖気ないところを見ると相当太い神経をしているに違いない。
深左衛門は二人を見つめながら言った。
「だが問題だな。ヅヅの守がどんな神なのか知らないが、自分の祠がこんな扱いをされたら普通激怒するぞ。悪天候や疫病とかが流行らなければ良いな」
深左衛門の言葉に振り返った二人は、青い顔をして俯く。お前達、変なところで感性が合っているのだな。
「そうですね。何も起きなければいいんですが。一体誰がこんなことを……」
「壊され具合を見る限り、故意にやられた跡だな。酒でも飲んで気が振れていたのか、よほどここの祠が気に入らなかったのか、はたまたヅヅの守と敵対している神の信者が思わずやったのか。これだけじゃ理由を考えることはできるが決断はできない。いや、そもそもだ」
深左衛門は一度言葉を切り、腰に手を当てるとシズと次郎丸を厳しく見つめた。
「俺みたいな赤の他人が言うのは何だがな、お前達、つまらんことには首を突っ込むな。旅を始めて気が昂っているのかもしれないが、軽率な行動は後悔に繋がる。今回はただ祠が破壊されているだけだったが、野次馬の中心が惨殺死体だったらどうする。お前達そんなものを見たくないだろ」
無言で首を縦に振る二人。大変よろしい。深左衛門は続ける。
「いいか、もう少し注意して行動しろ。命がいくつあっても足らんぞ。自分の身は自分で守るんだ」
深左衛門に説教された二人は、大人しく静かになる。あのシズさえも黙るところからして、しっかりと反省したようである。
「行くぞ。休憩ももう良いだろう。妙生寺って言ったか?とりあえず今日はそこまでを目途に歩こう。次郎丸、先導してくれ」
深左衛門の言葉に我に返ったのか、次郎丸は返事をすると先頭を歩き始めた。つられてシズも動き出し、次郎丸の隣を歩き始める。
深左衛門は二人の小さな背中を見つめながら、かつての自分を見つめているような錯覚にとらわれていた。
夕暮れ時。西の空は朱色を大きく引き伸ばしたような輝きを放っている。一日の終わりと始まりを彩る、不思議で暖かな色。一体誰がこの色に決めたのだろう。なぜ緑ではないのだろう。黄色ではないのだろう。小さい頃はよくそんなことを考えていた。過酷な修行と生活に追われた毎日にこの景色は自分の心とよく重なっていた。しっとりと、肌に纏わりつくように。
そんなとき、彼女が現れたのだった。思いもよらぬ、土色にあせてくたびれた生活に全く違う鮮やかさが混ぜ込まれた瞬間だった。
「俺には眩しすぎたか」
「え?何か言いました?」
無意識に言った深左衛門に次郎丸が返事をする。何でも無い、と返しながら深左衛門は寺の近くの小高い丘から見つめていた夕陽から目を逸らした。
「深左衛門さんが僕らくらいの年だった頃ってどんな風だったんですか?」
唐突に次郎丸が訊いてきた。深左衛門は「ちょうど昔を思い出していたときにそんなことを尋ねるんじゃない」という言葉を飲み込むと、
「少なくともお前よりませていたよ。俺も昔は色々苦労したものさ。話す気はさらさら無いがな」
「確か医者の家系でしたよね。小さい頃から学んでいたんですか?」
「ああ。祖母から教わった。医術を身に付けれは自分の身を効果的に守ることもできるからな。幼心にもその辺を理解していたから、医術はしっかり学んだ記憶がある」
「僕にも医術を持っていれば、母を死なせずに済んだんでしょうね」
その無差別な言葉に、深左衛門は思わず次郎丸を見つめた。
次郎丸の瞳は極めて優しげで穏やか。しかし、その瞳の奥には真っ黒に染まった湖に浮かぶ次郎丸の姿が見えるような気がした。
深左衛門は小さくごほん、と咳払いをする。そして次郎丸に背を向けると見たくも無い夕陽をまた見つめた。夕陽は淡々と温もりを放ち続ける。ただ、淡々と。
深左衛門は言った。
「どんな病も治せる医術は今の世の中には存在しない。お前のおふくろさんは、例えお前が医術を心得ていても治せなかっただろう」
「ええ、分かってます。母さんはもう心身ともにぼろぼろでしたから。もう何をしても治らないということは薄々気づいてました。でもやっぱり悔しいんです。深左衛門さんとヌイさんのおかげで母さんは無事に逝けました。死んでしまった者としてはそれが一番良いことは自分でも理解してるつもりです」
次郎丸は一度言葉を切る。そして、
「でも!悔しいんです!僕は母さんに何もしてやれなかった。なのにどうして……っ!」
深左衛門は俯いて目を閉じた。次郎丸の悲鳴と嗚咽が、痛いほど背中にぶつかってくる。
死んでしまった者と生き残ってしまった者。同じ存在だったのに急に触れ合えない水と油のような存在になってしまう定め。生きることと死ぬことは、生物全てに課せられた宿命である。
深左衛門は顔を起こし、目を開いた。いい加減見飽きた黄金の丸い何かが網膜を焼く。
夕陽の向こう側、黄昏の彼岸に幽世の入り口があると聞く。だが、そんなところ行ける訳が無い。人の身である以上、様々な限界が存在する。中には越えることもできるものがあるかもしれないが、生きているものが死んだ者の世界に足を踏み入れることはできない。それは何が起きようと許されないことだ。何人にも、生きている限りその法則を破ることは許されない。
「次郎丸」
深左衛門は静かに言った。
「冷たいと思うかもしれんが、お前のその考え方は身を滅ぼすぞ。もういない人間に囚われることは、文字通り死を招く」
深左衛門の言葉は一体誰に対してのものか、一瞬自分自身分からなくなった。
――風が吹いた。とても心地良い風だ。暑くも冷たくも無く、かといってしつこくもない。気まぐれな風は二人を優しく撫でて過ぎていく。
次に木々がさわりと鳴いた。鬱陶しい音ではなく、心を洗い流すような音。それは清流のせせらぎの様な、どこにでもあるようなもので、意識して探すとどこにも見つからないようなもの。そんな繊細な沈黙が、しばらく続いた。
「――ありがとうございます。深左衛門さん。あなたがいなければ、僕は駄目になっていたかもしれません」
次郎丸の雫のような声が空に霧散していった。深左衛門はそんなあやふやで危なっかしい声を噛みしめつつ、次郎丸に答える。
「俺はただ、道を提供するだけだ。お前は聡明だからきっと分かっているだろう。それは言葉じゃなくて感覚かもしれない。だから無理強いはしない。ただ忘れるな。お前はまだ一人じゃない。自分勝手に生きるのは、本当に一人になってからにしろ。後悔したらもう遅いということは、死ぬほど分かっただろう」
頭が回るがゆえに、次郎丸が苦しんでいるのは明白だった。次郎丸なら物事をしっかり整理できるだろうし、下手に慰めるよりも現実を突きつけた方が効果があると深左衛門は判断したのだった。
「兄さぁん」寺の方からシズの声が小さく聞こえた。「間管さんが呼んでるよぉ」どうやら妙生寺の和尚が次郎丸を呼んでいるらしい。大方説教でも垂れるつもりだろう。深左衛門も人のことを言える立場ではないが。
「分かった。今行くよ」
後ろの方で次郎丸の足音が聞こえ、途中で止まった。
「ありがとうございます。深左衛門さん」
深左衛門は振り返ると、「さっさと行け」と顎で示した。次郎丸は薄ら赤くなった瞳をこすりながら、向こうの妙生寺へ走っていった。
次郎丸の姿が消え、一人になった深左衛門は呟く。
「なぁヌイ。なんで生き物は死ぬんだろうな」
返事は頭の中から響いてきた。獣の唸り声のように低い声が直接頭に届く。
『愚問だ。生きているから死ぬ。それだけだ。人間は死を深く考える必要は無い。生きている間、どう過ごすかを考えろ。その方が有意義だ』
「分かってるさ。ただ、やっぱり死というものは嫌だな。自分も、他人も」
『……そうだな』
深左衛門は死が怖くない。ただ、死ぬほど嫌だった。
これまで色んな人間を殺し、見取り、老若男女問わず様々な死を見つめてきた。これからもずっとそうなるのだろう。深左衛門はあまりにも死に慣れ過ぎている。
次郎丸のように死という概念に免疫が少なく、生と死の狭間にある途方も無い境界線に戸惑う姿を見ると、自分も昔はああだったのかと不思議な気持ちになる。
「さて、俺も下りるか」
いつまでも感傷に耽っていてもしょうがない。この世はどうせなるようにしかならないのだ。例外は無く、ただ決められた輪の中で試行錯誤をして時間の流れに身を任せるしかない。
あの夕陽のように。運命とは、いついかなる時もまったく変わらないものなのだ。基、変えられないのだ。
――やり直しの無い人生。死を超越することができたら、もしかしたらやり直せるのかもしれないが。
そんなことを考えながら、深左衛門は妙生寺へ向かった。
突然だが妙生寺は歴史のある建物だ。
日蓮を尊び、人の世に降り立って約三世紀。読経と悟りの日々を繋ぎ、閑静な場所に腰を下ろしている。
この近辺では比較的大きな寺らしいが、深左衛門が旅の道程で通り過ぎていた寺と比べると小さい部類に入る。寺の人間も住職と弟子が三人いるだけで、ひっそりとその日暮らしをしているように見える。
しかし場所が場所だからか、駆け込み寺としてその筋では有名らしい。深左衛門が来たときにも先客がおり、境内で女性二人が和尚と話をしているところだった。
次郎丸の家族はこの寺とは懇意な関係らしい。何でも、死んだ父の友人の父がここの住職だそうだ。次郎丸の父が死んだ後、度々世話になっているそうな。住職である間管依巖は、次郎丸とシズのことを小さい頃から知っているそうだ。やはり人との繋がりは大切である。深左衛門にもこんな風に人との繋がりがあればもう少し旅が楽になるのだが、いかんせん性格的に難しい。
かくして深左衛門たちも例に漏れずこの妙生寺でやっかいになったのだった。僅かながらの飯をいただいた後、仏の前に座って全員でつまらない世間話をした。次郎丸とシズの事情、女性二人の人間関係の悩み、そして深左衛門のこと。当たり障りの無いことを適当に話をした。もちろんヌイのことは秘密である。事前に次郎丸とシズにもそのことは伝えてあるので、ばれることは無かった。
仏と神は昔からあまり仲が良くない。仏教の伝来によって土着の神が排他されることもあったからだ。日本古来より存在する八百万の神々と大陸伝来の仏教。今ではだいぶ落ち着いてきたらしいが、ヌイ曰く、根本では敵対心のようなものがまだ存在するらしい。深左衛門個人としては、仏だろうが神だろうが似たようなものなので、何がどうなろうとどうでも良いのだが。
雑談を終えた後、それぞれ割り当てられた部屋で休むことになった。寺の就寝時間は相変わらず早い。深左衛門は自分が寝たいときに寝る派なので、いちいち時間を決められて眠らされるのは嫌だった。故にとりあえず深左衛門は目だけを閉じて眠るふりをしていた。全員が寝静まる頃を見計らって。
深左衛門はまだ眠るわけにはいかない。何せ、食事がまだなのだ。定期的にモノを食べなければならないのは生物だけではない。
「――さて、そろそろ良い時間だ」
夜の帳が完全に下りた頃、深左衛門は目を開いた。辺りは風と木々のざわめき以外無音。邪なものが動き出す時間帯である。
深左衛門はいつもの仕込み刀を持つと、忍び足で床を抜け、境内へと出た。
大空には落ちてきそうな白い満月が一つ。そして満月が見下ろす下界には深左衛門が一人。なかなか風情のある空間だ。
しかし、これからこの空間は血で濡れた――いや、単純に血というのは語弊がある。言うなれば透明な血――穢れた魂から吐き出される肉眼では捉えられないモノで満ち溢れることになるだろう。
そしてそれもひと時の間に過ぎない。食事が終わればこの境内は綺麗になる。
今宵の観客は麗しき玉肌の月の姫。刺激的な夜を提供しようではないか。
「またせたな、ヌイ」
言うと同時顕れる背後にそびえ立つ巨大な霊気。かつてはこの霊気に恐れを感じていたが、今はこの気配が頼もしいことこの上ない。「力を借りるぞ」と深左衛門は霊視用の瞳に意識を切り替えた。瞬間、暗く静謐で夜の冷たさが染み渡るような景色に異形のものが無数に現れた。そして音の無い境内に地鳴りのような声があちらこちらから聞こえ始める。
首の無いモノ、手足の無いモノ、不気味な音を立てながら這いまわるモノ。ただただ、異形の存在が辺りにひしめいていた。
中には普通の人間の姿をしたモノもいる。しかし、そういった普通の霊は、悪霊に食われてしまうことがある。現に今、まさに首を食いちぎられた瞬間を深左衛門は目撃した。
どれもこれも、いつもの光景だ。見慣れた、習慣づけられた世界。
「やはりこういう場所には多いな。料理のし甲斐があるというものだ」
呟きながら深左衛門は刀を抜き払い、逆手に持つ。この流れもいつもと一緒。そして腰を沈め、目の前をよぎった眼球が無く、藁のように汚らわしい髪の毛を伸ばし放題の、下半身の無い、上半身だけが異常に発達した霊に向かって突進した。
――ッ!
霊は声にならない声を上げた、気がした。何せすれ違う瞬間に霊は真っ二つになっていたから。ちなみに切り裂いた霊は、小さな男の子の霊を頭から喰おうとしていた。
霊には大別して二種類ある。悪い霊と、そうではない霊だ。もちろん深左衛門は、悪い霊だけを殺す。それ以外は、どうでもいい。救って欲しければ手を貸すし、そうでなければ知ったことではない。
先ほどの霊が殺されたことで、周囲の奴らがこちらに顔を向け始めた。仲間が殺されるという事態に、驚いた様子である。弱肉強食。この言葉は、きっとあの世でもこの世でも通用する言葉に違いない。
「――後ろか」
深左衛門は思い切り後ろ宙返りをした。虚空で回転する際、つい今しがた自分が立っていた所にクワガタムシの頭と馬のような体をした霊が通り過ぎていくのが見えた。本当、悪霊の奇奇怪怪な姿は見て飽きることが無い。
深左衛門は音も無く地面に着地した後、ちょうど目の前に並んでいた異形三体をまとめて横一にかっさばいた。同時に、霧散していく霊が刀身に吸い込まれていく。
この刀は今ヌイが同調している。分かりやすく言えば、この刀で霊を切るとヌイが霊に噛み付くのと同義なのである。故にヌイがその気にならなければ、いくらこの刀で霊を切っても相手には傷一つ負わせることができない。まぁ深左衛門自身の霊気を刀身に纏えば切れないことも無いが。
るぉぉぉぉぉん。
水底から響き渡るような声が聞こえたかと思うと、色んなところから異形たちが突進してきた。三体、七体、十三体と、数はどんどん増えていくが、深左衛門はそれを見てとくに恐ろしさを感じることは無かった。大抵は貧弱な霊圧しかない雑魚どもだ。攻撃を受けても、少し腕が痛むとか、うっすら血が滲む程度である。霊格の低い奴等では、物理的に干渉する力も弱い。
ただ、塵も積もれば山と成るという言葉のように、攻撃を受け過ぎて再生できないほど魂がずたずたにされれば、物理的にも霊的にも深左衛門は死ぬ。
故に深左衛門は臆せず異形の軍隊に突撃する。もちろん攻撃を受けるつもりはさらさら無い。戦闘なんて「攻撃をかわして切る」それだけだ。
――そしてぶつかり合う一対多数。四方から嗚咽とも叫びとも言えない声が嵐のように逆巻き、そして明確な断末魔が響き渡る。刀を振るたびに断末魔が一つ二つ三つ。攻撃をすり抜け懐にもぐりこみ、また一撃。同じように一撃。そしてまた同じよう一撃。一撃。一撃。一撃――。
深左衛門の剣術は一撃必殺。相手の急所のみを狙う技。剣の師匠だった祖母曰く、黒淵杓鳥とかいう居合いの達人から教わったものだそうな。
深左衛門は結んだ髪の毛を振り乱し、着物の袖で相手をかく乱し、高い跳躍からの一撃を繰り出し、そして止まることなく疾駆し、すれ違い様遠慮会釈も無く霊を切り払う。さらにその向こうに居た霊も切り裂く。もう何度剣を振るったか分からない。三十は斬った気がするが。
そうしてはっは、と少し呼吸を乱しながら、最後の一体、六尺ほどの背丈を持ち骨と皮だけの体にも拘らず、その顔にはあまりにも大きすぎる両眼をむき出しにしている霊の所まで走る。
るぉぉぉっ!
巨眼の霊は無造作に腕を振るってきた。常人からすれば速い部類の攻撃だが、深左衛門にとってはまるで赤子のあんよのように鈍重でうすのろな攻撃。
深左衛門は迫り来る腕の二の腕を切断した。そしてすぐさま体を回転させ遠心力を加えながら裂帛の気合と共に霊の腹を真っ二つにした。苦痛に顔を歪める霊の顔を流し見ながら素早く地面を踏みしめ跳躍し、逆手から順手に持ち替えた刀を握りしめ、奴の肉体が崩れ去る前に脳天から股まで真っ直ぐに切り下ろす。十字に体を割かれた巨眼の霊は、為す術も無く、霧散し、ヌイに喰われていった。
周囲に漂うのは喰い残しの霊の残滓と、唯一生き残った幼い男の霊のみだ。深左衛門に傷は無く、呼吸は少し荒いくらい。
以上、本日の殺戮舞踏。月の姫よ、ご満足いただけましたか――。
「いや、見事」
再び訪れた沈黙を突然破り捨てた男の声は、林の影から聞こえた。
深左衛門はすぐさま刀を構えなおすと、声がしてきた林の方をじっと見つめた。
月明かりしかない暗闇の中、林の奥は正に漆黒だった。巨大な黒が深左衛門を冷たく見つめているようで不気味ではある。
「素晴らしい剣技と身のこなしだった。いや、実に素晴らしい」
再び男が言った。相変わらず姿は見えない。深左衛門は睨みつけたまま、ヌイの耳と目を借りる。
耳の上に耳が増えた感覚。風の音、木々の音、風によってほんの少し流れる砂粒の音、温度差で建物が伸縮する音。そんな普段聞こえるはずの無い音が聞こえてくる。
そして視界がぼんやりと明るくなり、動きのあるものだけが鮮やかさを持つ。暗闇にも拘らず、どこに何があるかが把握できるようになった。
「おや?獣の耳?ただの人間ではないとは思っていたが、まさか人外だったとはな」
男のそんな台詞を深左衛門は無視し、「誰だ」と低く問いかける。男はわざとらしくあっ、と驚いた風を装い、
「これは申し遅れた。私の名はニキ。野暮用でこの寺に来たのだが、いやはや、君のお陰で台無しだよ」
「あの悪霊どもの親玉か。ならろくな奴じゃないな。出て来い。殺してやる」
怖い怖い、とニキという男が肩をすくめる様子が見えるようだった。ニキは「私は自ら戦うのは嫌いでね」と言うと、口笛を吹いた。そして再び話し始める。
「悪いがお暇させていただく。ところで君の名を聞いてなかったな」と、ニキは極めて落ち着いた声で言った。深左衛門は無言を貫く。じっと林の奥を見つめたまま。
「無言か。まぁ構わぬ。今から殺されるのだから」
ニキがそう言った瞬間、急に視界が暗くなった。この状態で視界が暗くなるということは、月が隠れたということ。つまり――。
「ではさらばだ、異形の剣客よ」
ニキのそんな言葉を聞く暇は深左衛門には無かった。なぜなら横に跳んで地面を転がっていたから。
がつぅ!
先ほど深左衛門が居た場所には、巨大な鳥がいた。両の羽を広げた長さはおそらく十尺ほど、身の丈は六尺もある巨鳥が空から襲い掛かってきたのだ。石の地面を刃のように鋭い鉤爪で破壊している辺り、かなり強力な力を持っていることだろう。迸る霊気もそん所そこ等の悪霊とは桁が違う。先ほどの雑魚と違って油断はできない。
しゅぅぅ。
黒光りしている口ばしから息を吐きつつ、巨鳥はこちらを見つめてきた。ヌイのように額に目があり、見たものを竦ませるような狂気と殺気の色に染まっている。
しかしこの程度の眼力で怯む深左衛門ではない。お返しとばかりに深左衛門も睨み返す。
――訪れる僅かな沈黙。最初に動いたのは巨鳥の方だった。
逞しい前足で地面を蹴るや否や、刹那の間に深左衛門との間合いを詰めてきた。
疾い。
先ほどのように深左衛門は地面を転がって突進をかわした。予想以上に疾い。ヌイの魔眼が無ければ対応しきれず突撃を受けていたかもしれない。
あの巨鳥の攻撃をまともに受けるのは無理だ。あの速さと体格に対応できることは簡単なことではない。
故に、かわしながら攻撃をするしかない。
狙うは急所。一撃必殺。
巨鳥の霊気を辿り空を見上げると、旋回して勢いを増そうとしているようだった。月の照り返しを受け、闇夜を舞う巨鳥の姿は禍々しいことこの上ない。
そして夜空を旋回し、勢いをつけた巨鳥は、今度こそ確実に捉えるとばかりに急降下してきた。まるで黒い岩が落下してくるよう。唸りながら滑空して加速して、巨鳥はあっという間に迫ってくる。ぎらぎらと血を求める凶刃のように輝く爪をこちらに向けて。
そして巨鳥が視界いっぱいに迫った瞬間、深左衛門を捕らえたと確信し、不気味に微笑んでいるような三つ目の小さな毛細血管が見えた瞬間、
――深左衛門は飛んでいた。そして傍らにも宙を彷徨うモノがある。それは大の大人ほどの大きさもあるあの巨鳥の頭部だった。
ずしゅぅあぁぁぁ。
首を亡くした巨大な体は、司令塔を失い力なく地面を滑っていく。首からは真っ赤な鮮血が馬鹿になったように次から次へとあふれ出し、真っ赤な水溜りがどんどんその勢力を広げていく。
深左衛門が地面に着地し、一息ついて刀を納めた後、少し遅れて巨鳥の頭部が鈍い音を立てて着陸した。そして力なく横たわっている巨鳥の体の方を見て深左衛門は顔をしかめた。
「はた迷惑な鳥だ。地面をこんなに汚しやがって」
一体この鮮血の言い訳をどう繕えばよいのだ。鼻血が止まらなかったとでも言えばいいのか。
それはさておき、どうやら本当にニキは帰ったようである。巨鳥が斃された上に、まったく身構えていない深左衛門に対して何もしてこない。今回はこれでお開きのようだ。
「出ていいぞ、ヌイ」
深左衛門が言うと同時に、少女姿のヌイが出現した。ヌイはふむ、と唸りながら巨鳥の頭部に近づくと「魔鳥を扱うものか。厄介なものに絡まれたな」とはき捨てるように言った。
「どういうことだ?」
「あのニキとかいうやつ、きっと鬼の類だろう。今はそれほど目をつけられていないからいいが、魔鳥を斃したということが伝わったら面倒なことになるかもしれん」
そう言って幼い顔を苦虫を噛みつぶしたようにヌイは顔を歪める。深左衛門はげんなりした声でため息を吐き、「またどこの馬の骨とも分からない奴に目をつけられるのか。昨日の今日だぞ」と呟いた。
しかしヌイは深左衛門の言葉など軽く突っぱね、
「そんなこと知らん。お前の行動が原因だ」
言いつつ少女の姿から獣の姿へ変化した。三つ目、六つ足の狼。相変わらずの圧倒的存在感である。
「まぁ安心せい」とヌイはこちらに振り返る。そして薄っすらと口を吊り上げて笑うと、「鳥と血の始末はわしがする。愚かな言い訳など考えんで良いぞ」と言ったのだった。
「そっちの意味の安心なのかよ」
深左衛門はつまらんとばかりにそっぽを向くと、月を見上げた。
何事も無かったかのように、その美しさを下界に知らしめている月。何人にも穢れることの無い月も、いつか穢されるときが来るのだろうか。
二日目の朝。空は青々と澄み渡り、涼しげな空気が寝ぼけた体によく染み渡る。木々は健康的な、透き通るような緑色をしており、波打つ葉脈が目に見えるようだ。そして時折吹く風に枝が踊らされては微笑むように揺れている。
昨夜のことなど嘘のように、憑き物でも落ちたように妙生寺は晴れ晴れとした姿で佇んでいた。
そんな妙生寺の境内には深左衛門、その傍らでは次郎丸とシズが間管和尚と別れの挨拶をしている。できるだけ世話をかけないようにしよう、というのが次郎丸の方針だった。
「くれぐれも気をつけなされ。困ったことがあれば、また来なさい」
そう言って間管和尚は皺でいっぱいの顔をさらにしわくちゃにして微笑んだ。穏やかな人柄が溢れている顔だ。まぁ寺の人間なんてこんなものだろう。どこも似通っているというか、同じような性格の人間ばかり。仕事柄必然的にそうなるのだろうが、どことなく不気味さを肌で感じた深左衛門である。
「ありがとうございます、和尚。新しい生活に慣れてきたらまた挨拶に伺います」
和尚に深く頭を下げる次郎丸とシズ。一晩とはいえ、世話になったので深左衛門も軽く会釈した。その様子を満足げに見つめた和尚は頷き、「悩めることもあるだろうが、それを乗り越えることで成長できる。頑張るのだぞ」と言った。和尚の心中を汲んだ次郎丸とシズは頼もしく頷くと、「それでは!」と新たな未来へと続く旅路を再び歩き始めたのだった。
一行は町へと続く街道を再び歩き始める。ヒサイという二人の兄妹の叔父が住む町まで一本道の街道は、時間帯のせいか人通りは少なかった。次郎丸とシズは昨日の疲れはすべて吹き飛んでしまったのか、笑顔が途絶えることを知らない。
道端に咲いている名前も知らない花に目を奪われたシズを咎めたり、
突如出くわした旅芸人のくだらない口上に耳を傾けたり、
茶屋で喉を潤して一服したり、
山に入れば様々な植物に誘われ、静かに流れる川をで一休みをしたり、
共に山越えをしている旅人と話しをしたりと、その姿はまるで三人で気まぐれな旅行をしているようだった。
深左衛門は最初、二人の暢気さに頭を抱えたくなっていた。しかし、その奔放さに次第に心が解れたのかいつの間にか深左衛門にも笑顔が現れるようになっていた。
兄弟が話していることは旅に慣れすぎた深左衛門にとって極めてくだらない、つまらない、ありきたりな話ではある。だが、二人を見つめているとなぜか笑顔になる。それは穏やかな微笑みに近い。遠い昔の深左衛門にも他人の温もりがあった頃の記憶を振り返ったときのように。
思い出はすぐに隣を通り過ぎ、そして遠くに行けば行くほど美しさを増していく。人はそうした記憶を蘇らせることによって生きていくことができる。振り返ることで、その時の充実していた自分を一時的にでも取り戻すのだ。生きる活力――それは忘れていた笑顔に他ならない。人が知恵を持つ獣として得た大切な感情の一つだ。
そうこうしている内に気がつけば太陽は中天を深左衛門たちに悟られぬようにひっそり通り過ぎ、西の空に浮かぶ波のような雲に体を横にし始めていた。
充実した時間というものはあっという間に過ぎる。まるで逃げるように、脳裏にしっかりと焼き付ける前に目の前を通り過ぎていく。
人の世は、切ない――哀しいものである。辛いことばかりがじゅくじゅくと長く、忘れさせはしないといわんばかりその出来事は体中に刻まれる。逆に春の陽光にも似ている満ち足りた穏やかな日々は、気がつけば積み重なった記憶の奥底に、掘り返せないほど深いところに沈んでいるのである。
人の世は、よくできていると思う。世界は古ぼけた精巧なからくり人形と一緒で、一人ひとりがそれを作り上げている部品の一つなのではないか。深左衛門は好きでもないのに犬神に憑かれている。そのせいで多くの苦しみを味わった。次郎丸とシズは両親を失ってしまった。長年抱いていた想いを叶えることもできず、ただ恩返しをしたいだけという簡単な望みすら達成できなかったのだ。きっと二人にはその無念が死ぬまで付きまとうことだろう。とくに次郎丸は真面目だからその思いが強いはずだ。この二人にも、深左衛門のように決して癒えないであろう苦しみを抱えている。
本当の幸せはいつも近くにある。だが一度幸せをつかんでしまうと、変わり身のように幸せは色を失い、その辺の石ころ同然となる。そしてまた新たな幸せを探しに行くのだ。人はこの世に生殺しされるために生きているようなものだ。『永遠』という言葉だけが存在するこの矛盾した世界。一体誰のための世界なのだろうか。深左衛門は考えたが、当然のように答えなんて思い浮かばなかった。出家でもすれば光の筋ぐらいは見えそうなものだが、いかんせんそんな野暮なことはするつもりはないし、きっとする必要も無いだろう。深左衛門にはそういう人生を与えられていない。死ぬまで霊能者として、できることをただ淡々とこなしていくだけだ。
「今夜はどうしよう。今日はもうムタイの村まで着きそうも無いぞ」
山道も下り坂に入って、山越えも後半分と言ったところで唐突に次郎丸が言った。同様にシズも困ったような声で言う。
「ちょっと今日は寄り道をしすぎたわね。つい夢中になっちゃったわ。こんなところに宿なんてあるわけ無いし、どこか適当な場所で野宿するしかないんじゃない」
女にしてはなかなか肝の据わった発言をする、と深左衛門は思った。こんな山奥で野宿をしようなんて、年頃の女が言う言葉ではない。案外シズは大物なのかもしれない。
「今の歩く速さだと、山を越える前に確実に真っ暗になっちゃうよね。野宿するなら、早めに落ち着く場所を決めた方が良さそうだね」
そしてなかなか的確な発言をする次郎丸。その冷静な頭をもっと速く働かせたならばこんな事態にならなかっただろうに。
「どこか雨風を凌げるところは無いかな」
周囲を見回しながら次郎丸は言った。残念ながら今居るところは岩肌が少なく、人が入れるような都合のいい場所はまったく見当たらない。
「でも雨は降りそうな空じゃないし、別にその辺で一晩過ごせば良いんじゃない?」
大胆な発言をするシズ。しかし的を射た発言ではある。木々の隙間から見える紅い空には雲は無い。少なくとも今夜は雨を心配する必要は無いだろう。風も穏やかだし、贅沢を言わないのならシズの言ったとおり、適当に開けた場所で腰を下ろせばいい。一晩くらいならそれほど疲れもたまらないだろう。
シズの言葉を受けて、次郎丸は腕を組んで考える。少しの間沈黙が辺りに広がった。
「……もう少し歩いてみて、何も無ければシズの言ったとおりにしようか。深左衛門さん、何か良い案あります?」
「いや、俺はお前達に着いていくだけだ」
次郎丸の問いに即答する深左衛門。次郎丸は分かりました、と言うと、「じゃあもう少しだけ歩きましょう」と言って再び山道を歩き出した。
* * *
そうして山道を歩くこと小半時。そろそろ空が明るさを失い始めた。
結局、洞窟とか深く木々に囲まれた空間とか野宿するのに適した良い場所は見つけられなかった。
どうしようか、と再び討論が始まろうとしたとき、次郎丸がある方向を指差した。
次郎丸が指した先には、山の奥にしては妙に開けている部分があった。四方三間ほどだろうか。草もあまり生い茂っておらず、人に慣らされた感じがする空間だ。地に覚えのある旅人や狩人の休憩所なのかもしれない。
深左衛門たちは山道をはずれると、誘われるようにその広場に足を踏み入れる。広場の中心から空を見上げると、丁度木々の遮りが無くなっており、藍色に変わりかけた移ろう空が見える。
次郎丸とシズは落ち着ける場所に入って疲れがどっと押し寄せてきたのか地面にへたり込んだ。
「今日はここで休んじゃおうよ。これ以上歩いてもこんな場所見つからないかもよ」
シズがあくびをしながら言った。次郎丸もそれに頷く。泣き言のようにも聞こえるが、判断としては悪くない。これ以上歩いたら間違いなく夜になる。山の夜は暗い。下手に歩けば事故にも繋がる。夜を越すための安全な場所を早めに確保するのは基本中の基本である。
「深左衛門さん、今日はここで野宿したいんですけど大丈夫ですか?」
「構わん」と深左衛門は次郎丸に即答した。続けて喋り続ける。「だが、水や食い物はどうする?」
「あ、そうですね。飲み物が無いや。食べ物は間管和尚に漬物を少し貰ったのであるんですが」
「この辺り、川が流れていそうな気配は無いな」
ヌイの耳を使って、より精密に周囲を調べれば水源の場所くらい発見できそうだが、少なくとも今現在は分からない。
「漬物食べたら喉渇くだろうし、なんか嫌ね。体も拭きたいしなぁ」
「空腹と渇きか……。疲れた体に堪えるなぁ」
はぁ、と一緒にため息をつく二人。その姿を深左衛門は静かに見つめていた。
「水、探しに行く?」
シズがぽつりと言った。次郎丸は冷静に返す。
「今から水を探しに行ったら間違いなく真っ暗になるだろうし、見つからない可能性もある。ちょっと危険すぎるよ。一晩だけだし、今夜は我慢しようよ」
「んー。やっぱりそうよねぇ……」
つたない会話はすぐに途絶えた。二人は野宿の不自由さに翻弄されているようだった。深左衛門はくたびれた様子の二人に声をかける。
「どうだ、旅は辛いだろう。食い物も無ければ飲み物も無い。一晩だけならまだいい。だが、これが何日も続いたらどうする?一つの可能性ではあるが、最悪、叔父に見放されたら毎日こんな生活を続けないとならないぞ。それでもお前達は生きていけるか?」
深左衛門の問いに、次郎丸は急に瞳に光を灯らせた。シズも同様である。二人とも疲労でどんよりしていた瞳に渇を入れたようだった。
「そうですね……。正直思っていた以上に大変だと感じました。僕達は、旅に対する考えが少し甘かったようです」
反省するかのように俯く二人。色々と堪えているようである。
――旅の辛さ。自然の辛さ。帰る家が無いという空虚感。次郎丸とシズはこの世で生きる厳しさというものを改めて実感しているようだった。深左衛門としてはそうしてもらって満足していた。叔父の家で住むことになったとしても、決して楽な生活になるとはいえないからだ。むしろ食い扶持が増えるせいで生活が苦しくなる可能性の方が高いはず。辛い現実が目に見えるようだった。
深左衛門はふと立ち上がった。一歩大人に近づいた二人に免じて、水を汲みに行こうと考えたのだ。
「水を探してくる。お前達はここから絶対に動くなよ。すぐに戻る」
「え?でも水は無いんじゃないのですか?」
「ヌイの力を使えば見つかるだろう。いいから大人しく待ってろ」
わかりました、と静かに頷いた次郎丸を見て、深左衛門は荷物袋から水袋を取り出し、茂みの中へ飛び込んだ。そしてヌイの耳を使い、水源を探る。
――さぁ――ささ、さ――。
目を閉じて耳を澄ましていると、東の方から微かに水の流れる音がする。深左衛門は音のする方角へ歩き出す。
道無き道を歩き、斜面を下り、何度か茂みを潜った後、上から下に流れる小さな水の流れを見つけた。
透明な水を手にすくってみる。冷たい。そして口に運ぶ。気持ちのいいほど味がしない。どうやら飲める水のようだ。深左衛門は幼い川に袋を浸して水を貯めた。
――っがさ――。
そしてその不用意な音は、深左衛門が隙だらけな状態のときに鳴った。
「――」
同時に近づいてくる声の無い殺気。しかし刃が風を切る独特の音は、背後からはっきりと聞こえる。
ヌイの耳を使っていてよかった、深左衛門はそう思った。あまりに隙だらけだったせいで、あの茂みを震わせる音を聞いていなかったらやられていたかもしれない。
それほど相手は手練れだった。この不安定な足場である山の肌の上で、ほとんど音を立てず近づき、鋭い攻撃を仕掛けてきたのだから。
しかし、相手がどれほど手練だろうと深左衛門よりかはいくらか格下だった。故に容易くその斬撃はかわされることとなる。
深左衛門は清水でいっぱいになった皮袋を真後ろに放り投げつつ横へ跳んだ。「ぐっぅふぅ」と予想外の出来事に驚き、そして顔面を水浸しにされた男は声をあげる。深左衛門は刀を抜き、後ろを振り返る遠心力を加えながら、刀を振り切る。
しかし、その攻撃はすんでのところでかわされた。闇に融ける全身黒づくめの男は、小さい子供が見れば間違いなく泣き喚くであろう、紅く血走った不吉な目つきで、二歩半ほどの距離を開けて深左衛門を見据える。
「……」
無言の睨み合いが続く。辺りには小さな水の流れだけが空気を震わせている。
この男は何者だ。深左衛門は考える。そしてすぐに思い至った。
「鬼島の刺客か」と、深左衛門が言った瞬間、男は地面を走る獣のように腰を低くして一気に踏み込んで来た。そして間合いを詰めるや否や深左衛門の股から頭のてっぺんめがけて斬り裂かんとばかりに刀を振り上げる。その一連の動きはまさに死をもたらす闇の芸術。あの小さなせせらぎの様に、無駄なく研ぎ澄まされた動作だった。
――しかし、あらゆる面で深左衛門の方が速かった。深左衛門は男の流れる攻撃を冷静に見つめ、軌道を読み、刀を振る。刀はそのぎらりと輝く刀を操る末端――男の右手を躊躇無く切断した。切断された右手は、これだけは絶対に離さないといわんばかりに刀を握りしめたまま、周囲の草木に穢れた血を擦り付けながら斜面を転がり落ちていった。
「ふぅぉごおっ!」
濁った悲鳴と鮮血が辺りに撒き散らかされる。男は左手で右手首を握りしめたまま、がっくりと膝をついた。そしてかつては頼もしく存在していた――文字通り自分自身の右腕として活躍していた、今は亡き右手が居た部分から溢れ出る鮮血を凝視しながら悶絶する。
深左衛門は刀の切っ先で男の顎を持ち上げると、「鬼島の刺客だな」と再び問いただした。男ははるばる地獄から昇ってきた鬼のようにおどろおどろしい目つきで、深左衛門を見上げると「いかにも」と答える。
「そうか。なら死ね」
言うが早いか、深左衛門はそのまま顎から刀を斬り上げて、男の顔面を捌いた。まるで手品のように男の顔面は見開いた書物のようになり、汚らわしい内部が露になる。しかし幸い辺りは割と暗かったので、その見たくも無い粗末な部分を拝むことは無かった。そうして男は断末魔の声を上げることさえ許されず、生命活動を指示する司令塔を強制的に停止させられ、力なく横に倒れた。男の倒れた場所は秘めたる桃源郷のように穏やかな流れを生み出していたあの小さなせせらぎの場所だった。しかし残念ながら、その女神の涙のように無色透明の水が流れるせせらぎは、男の汚物で犯されてしまうこととなった。
そんな光景を深左衛門は見向きもせず、地面に横たわり、口からゆるゆると水を流す皮袋もそのままに、血で濡れた刀を納めもせず、ヌイの足を借り、全速力で次郎丸とシズがいる広場へ疾った。
深左衛門は文字通り山犬のように、斜面を横に駆け抜ける。葉が顔にぶつかろうとも目を開け続け、邪魔な木の枝は切り裂き、茂みを蹴散らし、木々の間を器用に抜け、ただ走る。頭の中にある言葉は一言、
――間に合え――。
その一言がぐるぐると今の深左衛門のように頭の中を駆け巡り、生み出された汗が額から飛び散っていった。
そして遠くの方に開けた場所が見えてくる。あの広場だ。よく見ると次郎丸とシズの姿が見える。だが、広場の外周の三分の一ほどを黒い男が並んでいる。そして一際背の高く、片方の肩をむき出しにして、自分の隆々とした肉体を見せびらかしている肌の黒い大男がシズを無造作に抱えていた。離せ、というシズの悲鳴が小さく深左衛門の耳に入る。次郎丸はシズを助けようと男に殴りかかるが、簡単に蹴り飛ばされて地面を転がり、そのまま腹を押さえてうずくまる。そしてシズを抱えている大男に襟首を捕まれ、小賢しいとばかりに顔に唾を吐きかけられ、投げ飛ばされる。そんな光景を遠くから見つつ、深左衛門は減速なんて生ぬるいことをせずそのまま広場へ突入した。そして駆け抜けながらシズを抱えた大男の首を、雲すら貫き瞼を閉じかけた生意気な夕陽にぶち当てるほど強く刎ね飛ばし、大男の隣に控える偉そうな、随分と派手な着物を羽織った男の体を真っ二つに切断する。
――はずだった。
深左衛門は広場に足を踏み入れたその瞬間、韋駄天のような怒涛の疾りが、両の足が動かなくなった。いや、正確には全身の動きが急停止した。まるで時が止まったかのように。
しかし実際は時間が止まったわけではない。なぜなら意識や思考は嫌というほど働いているし、今も目の前を気まぐれな葉っぱが通り過ぎていった。そしてなにより確かなのが、男に襟首をつかまれているシズが深左衛門の名を叫び、陸に打ち上げられた魚のようにじたばたと暴れているのだ。時が止まっている可能性は限りなく零に近い。
おそらくこれは金縛りだ。物理的に肉体を縛るのではなく、霊体を縛る術。故に深左衛門の大地を引き裂くような走りも、冗談のように止まったのだ。これを解くには、術を跳ね除ける強力な精神力と霊気が必要だ。原因が分かれば、この程度の術など今の深左衛門にとって取るに足らない。
しかし深左衛門はそんな子供の玩具のように他愛の無い金縛りを解く前に、とにかく腹にたまったどす黒いものを喉の奥からすべて吐き出したかった。
「貴様らァっ!」
深左衛門は咆哮を上げた。暗くなる広場に、山にその声は響いてこだまとなる。今まで聞いたことの無い声を放った深左衛門に、シズはびくっと体を震わせて暴れなくなる。うずくまる次郎丸ははっとして、深左衛門を見上げ「深左衛門さんっ」と声を上げた。しかし深左衛門はそんな二人の様子など眼中に無く、シズをつかんでいる男の傍らに佇んでいる男めがけて再び吼えた。
「俺の仲間に何をしやがる!覚悟はできているンだろうなぁッ!」
深左衛門の怒りは留まることを知らない。めらめらと燃え盛る赤黒い憎悪と殺気が、深左衛門の意志とは無関係にいつの間にか金縛りを破壊していた。
一歩、深左衛門は歩き出す。金縛りを無効化したことに驚いたのか、偉そうな男はほう、と呟いた。
そしてまた一歩歩く。額に血管を浮かび上がらせ、眉間と目の間を皺くちゃにさせ、逆立った髪を震わせながら。深左衛門の修羅のような形相に周囲の黒づくめ達はたじろいだ。大男と着物の男を除いて。
「お前が山田深左衛門か。話は聞いている。うちの人間が世話になったそうな」
着物の男のつまらない声など深左衛門の耳に入らなかった。今深左衛門の耳に入っているのは、次郎丸とシズの辛そうな荒い息遣いのみである。そしてまた一歩歩く。
しかし、次に着物の男の放つ言葉によって、深左衛門は再び歩みを止めることとなる。
「それ以上近づくと、娘を握りつぶすぞ」
ありきたりな脅し文句だ。しかし僅かでもその可能性がある限り深左衛門は歩みを止めざるを得なかった。そして歯切りしながら「用があるのは俺だけだろう。彼女を放してもらおうか」と言った。
「それは無理だ。娘を話した瞬間、きっと私の首が飛んでしまうだろうからな。話は聞いている。腕が立つそうじゃないか。薬師のくせに」
着物の男はふん、と鼻で深左衛門を一瞥すると右手を上げる。同時に周囲に控えていた黒尽くめたちは一斉に刀を抜き、じりじりと深左衛門に近づいてきた。
「先に言っておく。抵抗すると娘と小僧の命は無い」
予想通りの展開だと深左衛門は思った。周囲の雑魚供を蹴散らすのは訳ない。その代わり、シズは大男に握りつぶされ、膝を突いている次郎丸の小さな頭と体が離れ離れになってしまうだろう。逆に次郎丸とシズのために抵抗しなければ、深左衛門の命は無い。
絶体絶命。最悪の二択。激昂した頭を急冷させ、深左衛門は思考を激しくめぐらせた。
「……お前らの目的は何だ」
無意識に深左衛門は言い放っていた。ここは何とか話で場を繋いで時機を生み出すしかない、と理性が判断する前に行動をしていた。
「借りを返しに来ただけだ」着物の男は興味なさそうに答える。「あんな雑魚どものために?律儀な奴だな」と深左衛門は言った。そして着物の男は方をすくめて「上からの命令には逆らえん」と心底面倒そうに言った。
――まだ、動ける機会は巡り来ない。相手を揺さぶる何か決定的なことを言わなければ。
ふと、どうでもいいようなことが頭をよぎった。関係は無い様に思われるが、この際贅沢は言っていられない。深左衛門はすぐさま言い放つ。
「ヅヅの守を祀る祠を破壊したのは、貴様らだな」
無表情だった着物の男の顔が、一瞬動く。
「だとしたら?」
「ヅヅの守の霊気を貪って、何か呼び起こすつもりか」と、深左衛門はこれまた当てずっぽうに言ってみた。だが、僅かではあるが根拠はある。
そして勘に任せて言っていた言葉は、どうやら図星ばかりを当てていたようだ。次第に着物の男の顔が歪んでくる。着物の男は苛立った様子で「お前、どこまで知っている」と深左衛門に訊いてきた。深左衛門は食いついてきたな、とにやりと笑う。
「先ほどの金縛りを見る限り、お前、傀儡術が扱えるようだな。いわゆる悪霊を意のままに操る秘術。お前はこの世ならざる者と深く繋がりを持っている。つまり霊能力者だ。そしてヅヅの守の祠の件、その態度を見る限り犯人は貴様らのようだ。それらを総合的に判断すると、貴様らの目的はろくでもないものを復活させて、それを術で操って地上を制圧しようとでも考えているのじゃないか?ちなみに復活させようとしているのは――」
「渇ッ!」
突如、着物の男が短く叫んだ。朗々としたその声は、問答無用で辺りを静寂に包む。
「お前達は全員退け。命令だ。今すぐこの場から離れろ!」
着物の男は怒号にも似た声で黒尽くめたちに指示を出した。一歩半ほどの距離で深左衛門を囲むように並んでいた黒尽くめたちは、多少戸惑っているようだったが、すぐに向こうの茂みに消えていった。
どうやら深左衛門が先ほど言おうとしたことは、末端の兵士には教えてはならないことだったようである。我ながら自分の勘を褒めてやりたい気持ちになった。
黒尽くめたちが完全にこの場を去ったのを見計らって、着物の男は再び口を開いた。
「なぜそんなことを知っている」
「俺は何も知らない。ただ、今までの経験と勘で、そうではないかと予想を口にしただけだ」
「恐ろしい知恵だ。実に。だが常人ならば絶対そこまで考えを見据えられないだろう。なぜならあの世の連中のことを詳しく知っていないからだ。それにいわゆる世界の裏側に関わる知識も。それらを知っているということは、お前も私たちと同じような能力者というわけだな」
「俺は霊能力者だ」
否定する必要も無いので、深左衛門ははっきりと答えた。しかし、お前達と一緒の、という言葉を省いて。そのまま喋り続ける。
「神の霊気を使って召喚するということは、相当な大物を復活させるつもりだな。鬼か、はたまた龍か」
「やはり、お前はここで始末する必要性があるようだ」
着物の男は腰の太刀を抜いた。同時にその刃から吐き気をもよおすような瘴気が吐き出される。妖刀か。
「動くなよ、動けばガキ共の命は無い」
結局時機は来ず、堂々巡りか、と深左衛門が臍を噛んだその瞬間、
「ごぶっ」
汚物を吐き出すかのような、あまりに場違いな声が傍らから聞こえた。突然の出来事に、着物の男や大男さえそちらの方を向く。
「うごっ」
先ほどから苦悶の声を上げているのは次郎丸だ。大男に受けた一撃で悶えるにしては反応が遅すぎる。何か別の理由で苦しんでいるのは明確だった。
深左衛門が「おい、どうした次郎丸」と声をかけてみるも、依然口から胃液のようなものを吐き出しながら、地面に頬ずりをして、小さく丸めた体を震わせている。
突然起こったあまりに奇妙な事態に、立ち尽くしていた着物の男だったが、視線を再び深左衛門に合わせると、歩きながら向かってきた。次郎丸が心配だが、流石に今から自分を殺そうとする者を無視することはできず、深左衛門は背中に嫌な汗をかきながら着物の男に向き直った。
半歩ほどの距離のところで着物の男は足を止める。一瞬にらみ合った後、着物の男は刀を振り上げた。
――その瞬間、ありえないことが起こった。
突然現れた強力な霊気の塊に、驚愕の顔を見せる深左衛門と着物の男。謎の気配の方を見れば先ほどの姿とは打って変わって力強く仁王立ちする次郎丸の姿があった。
そして「させんぞぉ!」と、少年の姿には全く合わない、酒で喉が焼かれているような、男臭い声を上げるや否や、着物の男めがけて体当たりを仕掛けた。
――疾い!
着物の男は「なんだこの小僧は」と怯えた声で叫びつつ、体当たりを何とかかわす。
一瞬で間合いを詰めるその速さは次郎丸の能力ではなかった。いや、この年の子供が出せる限界値を遥かに上回っている。今の次郎丸は次郎丸ではない、そんな考えが深左衛門の頭をよぎった。
「いい加減離さんか、でくの坊めがぁぁ!」
少年の姿で年を食った男の声で吼える次郎丸。不気味である。ありえないほどに。
次郎丸はシズを掴んでいる大男に頭にとび蹴りを放った。しかし大男の太い両腕で難なく防がれる。鋭い蹴りを腕に弾かれた次郎丸は、その反動を利用し空中で一回転することによって衝撃を殺し、音も無く着地する。歴史に名高い牛若丸のようなその身軽で的確な動きに、深左衛門は思わず見とれてしまった。
「離れろ!娘!」
だみ声が再び響く。いつもと違う次郎丸の声に驚きつつも、大男の腕から開放されたシズは事態をいち早く理解し、素早く戦闘の場から走り去る。
「小娘、逃がさん!」再びシズの着物の襟を掴もうとする大男に向かって、「お前の相手はわしじゃああ!」と叫びながら次郎丸は再び大男の懐に飛び込んでいく。次郎丸の攻撃に止むを得ず対応するしかない大男は、そのままシズを逃がしてしまう。
とりあえず謎の能力を得た次郎丸は一人でも大丈夫のようだが、いつその力が失われるとも分からない。一人でシズを逃がすわけにも行かないし、ここは次郎丸とシズの二人で安全なところまで逃げていってもらいたいものだ。
「少々予定が狂ったが、死んでもらうぞ!山田ァ!」
そんなことを考えていると、着物の男が妖刀を振るってきた。瘴気にまみれたその刀に切られると、一体どうなってしまうのか――。興味はあるが、絶対に食らいたくなかった。
深左衛門は飛び退ってかわすと、次郎丸ではない次郎丸に向かって叫んだ。
「次郎丸、シズを連れて逃げろ。この二人の相手は俺がする」
「小童風情が生意気を言う出ないわぁ!」
お前の方が子供じゃないか……と思いつつ、深左衛門は再び切りかかってきた着物の男の攻撃を刀で受ける。近づいてきた瘴気に当てられ、軽く眩暈がした。
深左衛門は次郎丸に声を投げる。
「こいつらの目的は俺だ。お前たちがいない方がむしろ立ち回りやすいってのが分からないのか。さっさと行け!」
次郎丸は一瞬考えるように黙ると、着物の男と切り結んでいる深左衛門を一瞥し、シズが消えて行った方へ走っていった。
「小僧!逃がすか!」
大男が舌打ちしながら次郎丸を追おうとすると、「豪慶、我々の目的を忘れるな!山田を殺すことが最優先だ!」と言って大男、豪慶を引き止める。
さて、ここから本当の勝負だ。次郎丸とシズの足かせがなくなった今、全力でこいつらと戦える。
深左衛門は短く真言を唱えると、ヌイの六肢、目、耳を借りた。
「むむ、こやつ、目が金色になりおった。しかも犬のような耳まである。何事だ」と、驚きの声を上げる着物の男。危険を察知したか、深左衛門から三歩ほどのところまで離れる。
「そしてこの霊気。お前、何か持っているな」
探るような目で深左衛門を睨む着物の男。深左衛門はゆらりと身構えながら、にやりと笑った。鋭く映えた牙が、いつの間にか暗くなり、空から落ちてきた月明かりに照らされ、白く輝いた。
「俺の中には犬神が住んでいる。ただ、普通の犬神と違って我がままで霊格が高くて巨大な犬神がな」
「泥と血にまみれて他人を呪うというあの汚らわしい犬神か。つまらないものに憑かれているんだな」
「つまらないかどうかは、その濁った瞳で確かめてみることだ」
言うが早いか、深左衛門は走った。そして息も吐かせぬような怒涛の斬撃を繰り出していく。首、顔面、心臓、股間、肝臓――急所ばかりを狙った深左衛門の攻撃を着物の男は何とか凌いでいる。並みの剣士ならば最初の一撃で死んでいるが、ここまで深左衛門の攻撃を防いでいるところを見ると、この男、相当な腕を持っていると思われる。
不思議なのが刀だ。ヌイの力を借りていることによって、深左衛門の攻撃は岩をも砕く破壊力を持っている。しかし、着物の男が持っている妖刀は傷一つ付かなかった。刀身を強力な霊力で編まれた結界によって守っているのか、深左衛門の攻撃でも傷がつかないような硬い素材なのかは分からないが、厄介である。
だが、力自体は深左衛門の方が圧倒的に上である。速く、重い深左衛門の攻撃を受けるだけで手一杯の着物の男は、じりじりと押され、額に青筋を浮かべ、汗を流し、歯を食いしばって命を食いちぎられないよう耐えていた。
「ちぃ!」
この男を殺すのは時間の問題だな、と、そう思った刹那、頭上から落ちてきた巨大な黒塗りの棍棒――まるで丸太のようなその物体に、深左衛門と着物の男の間を乱入されてしまった。
あと少しで着物の男の首を飛ばせる、と肉薄した深左衛門は舌打ちをしつつ、その棍棒の持ち主、豪慶を金色の目で睨みつけた。
「安貞様、大丈夫ですか」
言いつつ豪慶は、長さ七尺はある六角柱の形をした太い棍棒を軽々と振り回しながら、着物の男の前にそびえ立つ。
豪慶の武器もかなりの強度を保持しているに違いない。強力な武器を持った手練れが二人同時か。さすがに少々厳しいものがある。
「行くぞッ!」
豪慶の棍棒が風をなぎ倒しながらこちらに迫ってくる。こんな重そうなものを軽々振り回す豪慶の怪力には恐れ入る。
しかし、そんな攻撃も当たらなければ問題ない。深左衛門は身を低くしてかわすと、そのまま地面を這うようにして疾り、豪慶の心臓めがけて突きを放つ。
すると今度は豪慶の前に安貞が割って入り、深左衛門の突きを弾くと返す刀で切りかかってくる。
あわてて深左衛門は後ろに跳び退った。しかし距離を取るや否や豪慶の棍棒が迫り、それも身を逸らして何とかかわす。
そして生まれた深左衛門の隙に、安貞が容赦なく突撃してくる。先ほどの深左衛門の怒涛の攻撃のように、これでもかと斬撃の雨が降り注ぐ。
しかし一対一なら深左衛門の方が技量も能力も有利。数合切り結んだ後、深左衛門は上段から振り下ろしてきた安貞の斬りを身を翻して薄皮一枚でかわし、すかさず安貞の首めがけて刀を振るった。
――取った!
と、短く叫んだ瞬間、安貞の目が真っ赤に染まった。凶悪に輝くその鮮血のような眼に魅入られた深左衛門は、体が痺れたように止まる。そしてその一瞬の隙を逃さず安貞は渾身の攻撃を振り下ろす。
「こんなものっ!」
しかしこの程度の金縛りに束縛され続けるほど弱い深左衛門ではない。すぐに呪縛を解き、ぎりぎりのところで安貞の攻撃を防いだ。一瞬とはいえ、こちらの動きを強制的に無効化する安貞の邪眼は強力だ。一瞬の隙が命取りとなる。
深左衛門は安貞の斬撃を受け止めた際、止むを得ず不安定な体勢で受け止めていた。安貞はそのがら空きになった深左衛門の腹に容赦ない蹴りを「もらった!」と、言って打ち込んだ。
深左衛門は腹に力を入れていなかったため、安貞のつま先が食い込み、えぐるような傷みが全身に響いた。そしてそのまま衝撃で数尺ほど飛ばされ、深左衛門は腹を押さえながら膝を付いた。致命傷とは程遠いが、こちらの動きを鈍らせるには十分の攻撃だった。
「止めじゃい!」
最後に豪慶の全力の一撃が放たれる。遠心力を加えられた巨大な棍棒が視界いっぱいに迫る。とてもじゃないがかわせる体勢ではない。なんとか受け止めるしかなかった。
深左衛門は少しでも防御力を上げるため素早く刀を鞘に収めた。そして身を小さく固めて全身で棍棒を受け止める。
ばきぃっり!
世界がぶれ、気がつけば宙に浮いていた。巨大な岩石でもぶつけられたかのような衝撃だった。
最初に攻撃を受けた刀は鞘が粉々になり、あまりに強力な一撃ゆえに、衝撃を吸収しきれず全身の肉があちこち裂け、血がぱっ、と中空に散った。もちろん深左衛門もまるで冗談の様に吹っ飛ばされ、激痛と共に無重力を感じていた。攻撃を左半身で受け止めていたせいか、左腕は折れ、左足のふくらはぎの骨はひびが入った感じがした。よくもまぁぺしゃんこにならなかったものだ。ヌイの力を借りていなかったら間違いなく死んでいた。
ここは一先ず退却するべきか……そう考えつつ体勢を立て直すべく空中でもがいていたその時だった。
がつぅっ!
「!」
後頭部に何かがぶつかった。ざらざらした感じからして樹木か。いや、そんなことはどうでもいい。この感じ、
「意識が――」
そう呟いたときにはもうほとんど思考が停止していた。遠くに見える大と小の武士の姿が幻想のように体を揺らめかせている。その姿を眺めながら体は地面に落下し、思いのほか急斜面だったのか、そのまま石のように転がる。ときたまどこか出っ張っているところに全身を打ちながら、深左衛門はどんどんと下山していった。
何度目かの回転の後、一瞬次郎丸とシズの姿が脳裏を過ぎったのを最後に深左衛門の意識は完全に暗闇に飲み込まれた。