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第一話

 朝から降り続ける雨と雲によって一本道の大きな街道は陰鬱な影を落とされていた。

 左右に茂る木々の不気味さからか、元々利用価値があまり無い道なのか知らないが、人気は全く無い。

 しかしその街道には今、大の大人が妙な形で佇んでいる。真ん中に海老茶色の衣服を纏った男、その周りに似たような黒っぽい麻の服を着た男達がいる。決して井戸端会議をしているわけではない。

そんな簡単な状況把握をしつつ、真ん中の男――山田深左衛門は雨で集中力を乱され、そろそろ苛立ちを覚え始めていた。脂肪の少ない引き締まった体に纏わりつく冬の雨は、瞬く間に熱を奪い容易く思考を鈍らせる。

村に戻ったらまず火に当たらなければならない。このまま液体のくせに刺すような冷たさを持つ雨に打たれていては風邪をひいてしまう。そんなことになればおちおち旅を続けられない。

産まれ故郷の長門国から都へ向かう旅を続け、あちこち寄り道をし、同時に迷いながらようやく出雲国に到着したのだ。寄り道をしたということも含めその間ざっと八年ほど。まだまだ先は長い。こんなところで旅を終えるつもりは毛頭ないのだ。

 そういう色々な意味で張り詰めた空気の中、幾人もの血を吸ってきたであろう裂け荒れた麻の衣服を纏った男達が、深左衛門を取り囲んでいる。

 数は三人。各々刀を構えて。

 男達はどろどろと汚れきった目を深左衛門に向け、いつ飛び掛ろうかと機会を伺っている。深左衛門からすれば、さっさと飛び掛って来てくれた方が時間の無駄にならないので、この微妙な待ち時間は実に勿体無いと感じていた。

「見ず知らずの小僧から俺達の喧嘩を買うたぁ、お前さんも馬鹿な奴だなぁ」

 深左衛門の真後ろ、三歩半ほどの距離に居る男が、深左衛門を嘲笑った。

悔しいが、それに関しては深左衛門も同意見だった。あの子供を狙うべきではなかった。もう少し村を歩き、助ける人間を吟味して本日の金づるを決めるべきだった。

「鬼島一派に手を出すとは、阿呆としか言いようがねぇ」

 今度は右側の男が笑いながら言った。この村には今日来たのだ。この近辺の事情にはまだ疎い深左衛門は、またつまらない輩に手を出してしまったか、と臍を噛んだ。今度から次の村へ行くときは、ある程度その村について情報を集めるようにしよう。

 それにしても、一派と名乗るからにはそれなりに大きな集まりなのだろうか。それの下っ端にちょっかいを出したとなれば、場合によっては、蜂の巣を突いてしまったように刺客が送られてくるかもしれない。そうなると本当に後々めんどうだが、後悔先に立たずというものである。

 深左衛門はふと、先ほど助けた村の少年の顔を思い出した。おそらく年は十から十二の間くらい。目尻に隈を作った黒目がちの瞳、砂っぽい肌にこけた頬。まともな飯を食べず、厳しい労働を強いられているに違いない。税金はいつの時代も農民の足枷となり首をはねる兇刃となる。少年がろくな生活をしていないことは、匂いで分かるくらいはっきりとしていた。

そんな少年がこんなあからさまに碌でもない奴らに絡まれていたら、思わず助けたくなるのは人として道理だろう。深左衛門もその例外ではなく、いつもの癖でその厄介ごとに首を突っ込んだのである。無意識に少年と自分の過去を重ねてしまったこともあるかもしれないが。

 だが、深左衛門は決して善良な心で首を突っ込んだわけではなかった。あくまで仕事のためだ。

 そんなことを考えていると、思わず口からため息が漏れてしまった。当然と言えば当然である。

 ――そして男達は、その時を待っていた。

 どうやら深左衛門が気を緩める瞬間を、獣のようにじっと待っていたらしい。男達は雄たけびを上げて迫ってきた。

 前方の二人は双子のようにそっくりな動きで刀を上段に振り上げ、深左衛門の体を掻っ捌こうと振り下ろす。おそらく、後ろの男も同じ動きだろう。読みがもし間違っていたらお陀仏になるが、経験上絶対にそれは無いと深左衛門は確信していた。

 深左衛門は、まず一番近い距離に居た真後ろの男を最初に仕留めようと思っていた。

 とうに抜き放っていた白木作りの仕込み刀を逆手に持ち、姿勢を低くして思い切り後ろへ跳んだ。

 ずぶり、という柔らかい肉を貫く感触が手に伝わってきた。そして抉るようにぐりっ、と刀をねじると、豚のような悲鳴が耳元から聞こえた。位置的には背後の男の心臓辺りを狙ったつもりだ。心臓を外していても致命傷には変わらないはず。まず一人目。

 前方から迫ってくる男達は仲間の一人がやられたことに気をとられつつも、動きを止めずそのまま斬りかかってきた。

 深左衛門はびくびくと痙攣している後ろの男との位置を交換するように、突き刺した刀を軸にして、海老茶色の服を翻しながら踊るように回転した。

「あ!」

 間抜けな声と共に、ざびゅ、という布を裂く音が雨の中聞こえた。男達は、攻撃を寸止めできず、そのまま勢いに任せて仲間を切り裂いたのだ。それにしてもいつ聴いてもこの音は心地よい。快刀乱麻を断つというが、まさにそれである。

 深左衛門は振り向くと、白目を剥いたいかつい顔の男の腹を蹴り飛ばし、その反動で刀を抜いた。ぶしゅう、という血が吹き出る音も深左衛門は好きだった。我ながら残酷な趣味だと思いつつ、つい苦笑いをしてしまう。

 唇を吊り上げながらもだんだんと体は熱くなっていた。冷たい雨を意識しないほど、殺し合いに集中し始める。

「てめぇ!」

 喰いかすが付いた髭をたっぷりと蓄えた男が、目を血走らせて猪さながらに突進してきた。もう片方の男は腰砕けになり、がちがちと歯を震わせて事切れた仲間を見つめていた。

 人が死ぬ姿を見たことが無いのだろうか。それとも仲間が殺されたことがあまりに衝撃的過ぎたのか。年上の癖に情けない。

 そんなことを考えつつも、深左衛門は右肩に振り下ろされてきた刀を冷静にいなし、迫ってきた男に当て身を食らわせる。反撃を受けた男は絶命した仲間につまずくとそのまま倒れこみ、刀は地面を転がっていった。

「大人しく引き下がるなら、もう手は出さない」

 深左衛門は重い口を開き、二人を見下してそう言うと、追い討ちをかけるように灰色の雨が強くなった。じわり、と死んだ男から広がる鮮やかな赤が美しい。

 二人の男は、獣のように低く唸りながら瞬きの間に形勢が逆転されたことに動揺を隠せないようだった。そして態度だけでも威勢を張らなければ舐められる、と言いたげな顔で、髭の男が唾を飛ばしながら喚いた。

「お前、何者だ!」

 こういった連中の語彙の少なさには心底うんざりしながらも、深左衛門は努めて明るく、笑顔を浮かべて答えた。

「山田深左衛門。旅の薬師ですよ」

 男二人は、仲良くあんぐりと口を開けていた。

 こいつらもしかして本当に兄弟なのではないか、と深左衛門は思った。


 二人が去っていくのを見届けると、袖で刀の血を拭いようやく鞘に収めた。

 つまらない男達だったが、これから忙しくなりそうである。おそらく二人は今回の件を上の者に報告するだろう。そして仲間の仇を取るために深左衛門へ刺客を送り込む。しかしその程度なら問題は無い。一番の問題は、他の一派と連携を取って仕掛けてきた場合だ。下の仲間一人を殺されたくらいでそこまで大仰な事態になることは少ないだろうが、このご時勢、常に最悪の事態を考えなければ暮らしていけない。ましてや国から国へ行脚する旅人なら尚更である。

 やはり逃すのではなく全員始末しておくべきだったか、と深左衛門は唇を噛んだ。妙に今日は後悔することが多い。厄日なのか。

 深左衛門は一人取り残された哀れな男の成れの果てを見て、明日は我が身か、と自重するように呟いた。そして彼の瞼をそっと閉じた。

 三人目の戦馬鹿が天下を引き継いでからまだ間もない。二、三年は安定するまで国は荒れるだろう。  

 いつの時代も賊は存在するが、時代の分かれ目ほど何が起こるか分からない時はない。ましてや鉄砲なんて代物が最近は存在するのだ。あんなものを賊が持っていたら恐ろしいことこの上ない。

 おお、怖い怖い、と一人さしてそんな気も無く言いながら、深左衛門は地面に転がっている持ち主を失った刀に目をやった。尻尾を巻いて逃げ帰った奴の一人が振るっていたものだ。

 刀身が静かに雨を弾く姿は、傍らの仏とどこか雰囲気が似ていた。深左衛門はその刀を持つと、道の端に転がっている大きな石の上に腰を下ろした。そしてどれどれと品定めを始める。

「ほう、これは」と、思わず口から感嘆の息が漏れた。

 血と雨でぬらぬらになってはいるが、刃こぼれは無く、刀身は薄暗い光に照らされてくすぶるように輝いている。今回始めて人を斬ったような刀だ。しかも波紋が規則正しく美しい。

 もしかすると業物かもしれない、と思ったが、あんな雑魚が貴重な業物を使って切りかかってくるわけが無いか、と自己完結した。

 深左衛門は上着の袖で刃の汚れを拭うと、立ち上がって刀を上段に構えた。そしていまや完全に冷めきった身体の熱を、瞬間的にもう一度燃え上がらせ、一寸もぶれることなく正確に真っ直ぐ振り下ろす。

 ――予想通りだった。

 銀色の刃が風を切る音は、信じられないほど繊細だった。かなり上物の刀だ。介錯にぴったりな刀である。これは鍛冶屋に出すか質屋に出すか迷うが、どちらにせよ高く売れるはずだ。思わず心が高鳴る。

 さて、もう一つの方はどうだろう。

 深左衛門は見事な刀をさきほどの石の上に置くと、雨風に曝され仰向けで寝ている死体に近寄った。そしてしゃがみ込むと、硬直し始めた死体の右手を一本一本丁寧に広げてやった。そして死体から刀を奪い取る。

 つい、深左衛門は眉をひそめ、呟く。

「錆がひどいな」

 おまけに鍔止めや柄紐には傷やほころびがたくさんある。これは二束三文くらいにしかなりそうにない。

 しかし金になるだけましである。懐は今、この降り続く氷のような雨のように冷たく寒いのである。いちいち贅沢は言っていられない。

 深左衛門は死体の腰に差してある鞘を抜き取り、この歴戦の刀を納めた。岩に立てかけてある綺麗な刀は、死体から剥ぎ取った上着で包んだ。ぼろ着だが、抜き身よりかはいい。ちなみに上着を取る際、男のなけなしの十八文はいただいた。敗者が勝者の糧となるのは自然の摂理である。

 ――さて、最後の仕上げだ。

「待たせたな、ヌイよ」

 深左衛門が死体を見下ろしながら言うと、答えるように周りの木々が騒ぎ始めた。雨も若干粒が大きくなった気がする。そしてくすぶっていた炎が息を吹き返し、再び身体が熱くなる。

 どくん。

 心臓が、太鼓を叩くように一度だけ激しく動いた。

 びゅおおおおおおお!

 瞬間、深左衛門を中心に小規模の竜巻が起こった。とぐろを巻くように激しくうねる風は、雨を弾き木々を揺らし、足元の水溜りをあちらこちらに飛散させ、激怒するように轟音を響かせる。

 その怒りも次第に収まり、先ほどまでの雨天時独特の静けさが戻り始めた頃、深左衛門の目の前には一人の少女が立っていた。

 身の丈は深左衛門の半分ほど。年の頃は十を超えたくらい。かすれた薄桃色の着物越しにも軽く抱けば折れそうな華奢な体であることがはっきりと分かる。一本に結んだ黒い絹糸のような髪を右肩に下ろし、年に似合わない妖艶なうなじを無防備に曝している。さながら深左衛門を誘惑しているようでもある。

 そんな彼女の前には先ほど深左衛門が殺したはずの男が、目をあらん限りに開き、驚愕の顔で少女と深左衛門を交互に見比べていた。

 ただし、自分自身の死体の上で。そして海月のように体を半透明にして。

「え、お、あ、お?」

 死んだはず男は、目が覚めたら違う場所で目覚めてしまったかのようにきょろきょろと辺りを見回し、深左衛門や少女、最後に自分の死体を経てついに人が理解のできる言葉を発した。

「なんだこれはあああ!」

 金切り声のような絶叫が街道にこだますることは無い。霊体が発する声は、特定の能力を持った者以外現世で聞くことはもはや不可能だから。

 深左衛門はその光景を見飽きた絵巻のようだと感じながら、興味が無さそうに言った。

「予想通り、成仏しなかったか」

 男は深左衛門の声に反応してそちらを向くと、憔悴しきった目からこれまでさんざん人を脅してきたであろう不吉な瞳で深左衛門を睨みつけてきた。

「お前!俺を殺した男!ただじゃおか――」

 しかし残念ながら、男は最後まで綺麗に喋ることはできなかった。

 それは、自分が死んでいるのに喋っていると言う事実に気づき言葉を止めたという理由もあるだろうが、それだけではないだろう。

 深左衛門を見ていたはずの男は、言葉を失くして立ち尽くしている。そして自分の倍以上も年の離れた少女に視線を奪われていた。

 ――いや、正確には先程まで少女だったものに対して、が正しい。

 男の目の前に居たはずの年端も行かない少女は、今や煌く蒼い鱗をその身に纏った身の丈数十間はあろうかという巨大な獣に変貌していた。基礎的な形は犬や狼のそれだが、洞窟のような巨大な口から鍾乳石の如くはみ出す一対の牙、その巨体を支えるにふさわしい大木のような六つ足、その先から生えている目の醒めるような真紅の巨爪、あらゆる存在を穿つ爛々と輝く黄金の三つ目、苛立つように地面を激しく叩く二股の鞭尾が、あまりにもこの場に不釣合いだった。大人が十人横に並んでも歩ける街道は、この異形の野獣に容易く道を塞がれていた。    

 ちなみに深左衛門はというと、とっくの昔に彼女の邪魔にならないよう、背の高い木の下で雨宿りをしながら、道の隅っこに座り込んでいる。

 男は、神々しくも畏怖の念を呼び起こす野獣の姿をただ見上げていた。いかつい顔をげっそりと細長くし、阿呆のように口を開けている。

 怖い。理解できない。助けて。耳を凝らすと男がそんな言葉を消え入りそうな声で呟いているのが分かった。深左衛門は男のさえずりを聞きながら、ふと予兆を感じ、両手で耳を思いっきり塞いだ。

 そして、男のか細い声を圧倒的な力でねじ伏せる轟音が、今度こそ間違いなく街道を疾り抜けた。

 ごおおおおおおおおおおおっ!

 仄暗い雲の群れを一掃する一筋の雷鳴。それ以外に例えようが無い。

 辺りの木々をなぎ倒し、耳を塞いでいても鼓膜が張り裂けそうなほどの咆哮が響き、男は完全に沈黙した。続いて地鳴りのように低く、脳に直接響くような声が空気を震わせた。

『この世に言い残したいことはあるか。一言だけ聞いてやろう』

 少女であった野獣が男に話しかけると、男は思い出したように体をびくつかせ、数歩後ずさる。弱肉強食。そんな言葉が深左衛門の頭の中に浮かび上がった。きっと男も本能的に何かを感じ取っているはずだ。これほどの化け物に対峙されたら、まともな思考ができるはずがない。

「な、なんだよこれは」

 そしてそれは、あまりにも当然過ぎる返事だった。

 しかし野獣はそんな男の素振りを何とも思っていないように微動だにせず、男の問いに答えるため、その馬鹿みたいな巨大な口を開いた。

『我が名はヌイ。誇り高き神獣である。貴様は今からこの私に断罪される。その身に刻み込んだ罪の重さはもはや計り知れぬ。滅びを持って償うがよい』

 男がヌイの返事を聞き届け、まったく理解できない、というような顔をした時だった。

 がちり。

 上下の歯がぶつかり合う音が響いた。深左衛門はこの音が嫌いだ。思い出したくも無い記憶が一瞬ちらりと顔をのぞかせたが、蹴飛ばしながら無理やり心の奥へ押し込んだ。

 しばらくその不快な音と地面を這うような音が聞こえていたが、やがて静かになった。

『やはり、油がのっておらぬと不味いな』

 ヌイが心底嫌そうな声で、感想を呟いた。先ほどからずっと目を閉じ記憶と格闘していた深左衛門は、ふと男が居た方を向いてみる。

 男の姿は、死体諸共消失していた。

 深左衛門は欠伸をしながら立ち上がると、雨で藻のようにへばり付く前髪を掻き揚げて、自称神獣のヌイを見上げた。一枚手のひらくらいの大きさがある蒼い鱗は、雨に濡れて玉のような輝きを放っている。一枚剥ぎ取って質屋に売れば、当分遊んで暮らせるくらいの金が入るに違いない。

 そんな神々しい姿を見つめ、深左衛門は背を向けている往年の友人に話しかけた。

「嫌いなものでも残さず食べるお前は間違いなくいい子だよ」

 ヌイは不機嫌そうに、ふん、と荒々しく鼻を鳴らすと、周囲の景色に身を溶かしていく。

 鬱陶しかった雨は、いつの間にか止んでいた。


 村へ戻った深左衛門は、真っ先に少年の家に向かった。元々この村には畠が多く家が少ないことと、賊と争う前に場所を聞いていたのですぐに分かった。

 くたびれた畠の間を抜け、水溜りだらけのあぜ道を抜けながら、少年の家へ向かう。辺りには雨に濡れた作物の処理をしている村人がちらほらいた。彼らは深左衛門の姿を視線だけで見てくるが、とくに興味は無さそうに目下仕事に精を出している。あるいは賊に手を出した面倒な奴だから関わらない方がよいだろう、と思われているのかもしれない。

 少年の家はそこいらの家よりも少し小さく、年季の入った黒ずんだ木が少年の生活を象徴しているようだ。点在している他の家々もあまりいい生活をしていないようだが、その中でも少年の家は低い部類に入る。助けてやらなければ数少ない金目のものを根こそぎ奪われていただろう。

 深左衛門は玄関らしき戸の前に立つと、家の中へ声をかけた。

「先ほど賊に吹っかけられた喧嘩を買った者だが」

「はい!ただいま!」

 元気のいい声がすぐに奥から返ってくる。どこか反射的な感じがしたので、外から声が聞こえたらとにかく返事をする、というのが癖になっているのかもしれない。一呼吸置いてどたどたと裸足で床を蹴る音が聞こえてきた。

 がら、と目の前の戸が開くと先ほどの少年が現れた。相変わらずなんだか可哀想な顔である。 

 両手は水に濡れており、よく見ると野菜の欠片が付着している。そういえばそろそろ日も暮れる。夕餉の支度でもしていたのかもしれない。鼻を利かせてみると、確かに柔らかい香りが漂っていた。

 深左衛門のところへやってきた少年は、ちらちらと遠慮がちに深左衛門を上目遣いで見つつ、困ったように顔を歪ませてその小さな体を思い切り折り曲げた。

「ご迷惑をおかけして申し訳ございません!」

 声変わりしきっていない幼い声で、非常にまともな挨拶をしてきた。

 貧困な村に住む少年にしては、よくできていると深左衛門は思った。貧しい村の人間と言うのは大概気難しい奴らばかりだ。自分の故郷もそう裕福なところではなく、この村より枯れていないが、少年のようにしっかりとした受け答えができる人間は数えるほどしか居なかった。  

 そして少年のような年で大人の対応ができる連中は、大抵難儀な事情を抱えていることが多い。

 例えば、家の中でまともに働けるのが自分ひとりで、家族が全員臥せっているとか。

 深左衛門は少年の言葉を無言で受け取ると、家の奥のほうに目を向けた。ぼんやりと明かりが見える。この寒さだ。火を焚いているのだろう。

「お礼をお返ししたいのですが、今はなにぶんお返しできるものが無くて……」

 少年は言葉を切ると、悔しそうに拳を握った。真面目で、正義感が強いことが伺える。

 深左衛門は少年の様子を見ながら、ゆっくりと腕を組んだ。そして、冷静な声で話しかけた。

「確かに、お前さんをどんな形であれ、助けた俺に礼をするのは当然だと言えよう。しかしこうは考えられないか?助けろと頼んでもいないのに、勝手に首を突っ込んできたくせに礼をしなければならないのか、と。もしくは賊と俺は手を組んでいて、礼を騙し取るための演技をしているのではないか、と」

 深左衛門の言葉はまったく予想していなかったのだろう。少年は鳩が豆鉄砲を受けたような顔をして無言で立ち尽くしている。そして考え込むように視線を足元へ移した。

 深左衛門はというと、にやりと笑みを浮かべてその光景を見ていた。自分がこの少年くらいの年のときは、これほど純粋じゃなかったなぁ、とつい思い出を振り返ってしまう。まったく自慢にならないが、同年代の誰よりもねじれた生活を送っていた自信がある。

 そんな昔の記憶と戯れていると、少年が再び口を開いた。

「……ですが、僕はお礼がしたい。それにお侍様はあいつらとは手を組んでいないからです」

 そんな言葉を、少年は言った。

「なぜ言い切れる」と、深左衛門は反射的に答えていた。

 顔を再び深左衛門に向けると、少年は年に似合わず精悍な眼差しで答えた。

「お侍さんの腰には先ほどの侍の一人が持っていた刀を腰に差しています。さらに、お侍さんの上着には赤黒いしみが点々としています。もし手を組んでいたらこんなものは存在しないはずです。何よりお侍様と奴らとでは服装も雰囲気をあまりに違いすぎます」

 どうやらこの少年はかなり頭が回るらしい。正直深左衛門自身驚いていた。

「それに」

 少年はさらに話し続ける。さきほどよりも力を込めて。

「確かに、お侍様の言うことはもっともです。しかし、受けたご恩は必ずお返ししなければならないと教えられてきました。ですので、万が一お侍様が奴らと手を組んでいてもお礼をします」

 上出来だ。深左衛門は少年のこの言葉を聞きたかったのだ。これでもう言い逃れはできない。どんな形であれ必ず礼をさせることができる。

 深左衛門はふむ、とわざとらしくうなずくと、

「そうか。確かあの時、賊がお前さんにかけた喧嘩を代わりに俺が買う、と言ったのだが、覚えているか?」

 少年はもちろんだ、と言う風に首を縦に振る。

「ならば当然礼は金銭になるのだが、お前さんはそれを支払えるのか?しかも命を懸けた売買だ。当然その価値も跳ね上がる」

 ざざぁ、と少年の血が引いていくのが面白いくらいに分かった。正直そこいらの人の命など二束三文の世界だが、こういう真面目な少年にとって人命はかなり尊いもののはずである。

 深左衛門は真面目な顔でさらに少年の心を揺さぶった。

「まぁ現金が無理なら物でもいいだろう。額に見合うものなら何でも構わない。金目のものはもちろん。家でも、畠でも、人でも、な」

 人、という言葉に少年は体を強張らせた。真面目で正義感が強いだけじゃ無さそうだ。彼は実に正直者である。

「う、そ、その」

 少年は、ようやく年相応の姿を見せ始めた。

 あからさまに動揺している少年は、小動物のように体を震わせながら目を左右に動かす。何か自分を助けてくれるものはないのか、もしくはどうやって自分の力のみで正しい道へ導けるか。少年の姿はそんな風に見えた。与えられた問題が難しすぎて、放り出す寸前の子供のようでもある。

 その追い詰められた姿に満足した深左衛門は、少年の細い肩を叩いた。

 驚いた少年は、一瞬目線を合わせるが、思わず深左衛門の視線から目を外す。深左衛門は笑いながら少年の肩をもう一度叩いた。

「中途半端に正義を振りかざし、子供の癖に大人びた態度をしていると、こんな風に逃げ場の無い袋小路へ追い込まれるんだよ。勉強になっただろう?」

 何がなんだか分からない、といった瞳で少年は深左衛門を見上げた。少しからかい過ぎたか。

「あ、あのう」

「まだ分からないのか?俺はお前さんから謝礼金なんぞ受け取らない、と言ってるんだ」

「あ、あの、ですが」

 少年は食い下がる。正義感が強いからだ。自分が言った言葉に責任を感じているのだろう。

 深左衛門は少年のその一生懸命な姿に微笑みを浮かべた。そしてこう言った。

「実はこの村には宿がないようなのだ。一晩泊めてくれないか?」

 深左衛門の言葉に少年は嬉々とした表情ですぐに答えた。

「もちろんです!どうぞ泊まって行ってください」

 そんな嬉しそうな顔をされると、またいじめてみたくなる。

「――俺は大食いなのだが、構わないな?」

 深左衛門が言った言葉で、手の平を返すように少年はげんなりとした。

 冗談だ、と笑いながら少年の肩を抱き、深左衛門は家に上がった。


 囲炉裏の火に当たりながら、少年と深左衛門は話しをしていた。

 少年の名は次郎丸という。次郎丸は双子の兄で、妹と母の三人で静かに暮らしているらしい。

 だが気の毒なことに、母は一昨年から病に臥せっており、今も寝たきりの状態が続いている。医者が言うにはまだ死にはしないらしいが、治療するための薬を買う金も無く、なかなか良くならないらしい。ちなみに父は物心つく前に戦で世を去ったという。

 元々体力のある女ではないという母が、長年の疲労と気苦労で病にかかったのは一目瞭然だった。結局、母は病で臥せているので、兄弟二人でなんとか日々の生活を繋いでいるそうだ。

 深左衛門はその話を聞いて、大きなため息をついた。いや、つかざるを得なかった。

 なにしろ、予想通りである。この村に来て賊に絡まれているところを一目見た瞬間、薄幸の血筋だと感じていたが、あまりに予想が的中しすぎて変な笑いが出そうだ。

 そんな薄幸の少年・次郎丸を見ると、なぜかきらきらした瞳でまな板の上の野菜を手際よく切っていた。

「なぜそんなにうれしそうなんだ?」

 深左衛門はつい尋ねてしまった。何となく理由はわかる気がするが、それを確信するほど愚かではない。

 次郎丸は深左衛門に顔を向けると、野菜を切る手を止めて答えた。

「さきほど深左衛門さんに指摘してくださったことがうれしかったんです。今まで母以外の他人から何かを教えてくださったことは一度も無かったので。ありがとうございました」

 そういって微笑む次郎丸を見て、深左衛門はまたため息をついた。

 世の中には、次郎丸のように純粋な子供が何人も居るのだろう。そして、正直者は馬鹿を見てどんどん不幸になっていくのだ。涙が出そうな話である。

 そういった連中の中でも次郎丸はかなり賢い部類に入るだろう。たかだか二十六年しか生きていない深左衛門だが、世の中のからくりはそれなりに見てきた。当然次郎丸のような人間も何度も見てきた。だが次郎丸ほど優れた人間は始めてである。なにせ下手な大人よりもよっぽど人ができている。金の亡者である貴族とはもはや比べ物になるまい。次郎丸にはぜひとも立派な人間になってもらいたいものである。

 そして当の本人はそんなことなど露知らず、切り終えた野菜をぐつぐつと煮えている鍋の中に放り込んでいた。野菜と味噌の煮込み鍋である。芳しい香りが辺りに漂い、犬のように鼻をひくひくと動かしてしまいそうだ。

「深左衛門さんは、どうして旅をしているんですか?」

 次郎丸は囲炉裏で煮ている鍋の中身をゆっくりかき混ぜながら深左衛門に再び顔を向ける。その顔は非常に冷静で、年に似合わない貫禄を持っていた。

 深左衛門は一瞬考えてから答えた。

「このご時勢にもかかわらず、都で花を咲かせようとしているおかしな旅人だよ。故郷の実家では薬師をやっていてな。都では町医者になろうかと思っている」

 次郎丸は、深左衛門の言葉に鈍器で殴られたような衝撃を受けたに違いない。深左衛門自身はこれほど露骨に医術を心得ていることを教える気は無かったのだが、うまい言葉が見つからなかった。ならばあえて馬鹿正直に教えてやろうと思ったのである。目には目を、馬鹿正直には馬鹿正直を、だ。

 おそらく次郎丸はこんなみすぼらしい旅人が本当に医者なのか否か、そしてどうすれば力を貸してくれるか、その辺りを考えているに違いない。

 それにしても何でも正直に反応する次郎丸の仕草が面白くて仕方が無い。今はどうしているかというと、鍋を混ぜている杓を持ち、中腰のまま固まって深左衛門を見つめているのだ。おまけに次郎丸の瞳に深左衛門の姿が見えるほど目を見開いて。滑稽といったらありゃしない。

 次郎丸は一時その状態を保っていたが、深左衛門の笑みに我に返ったのか、慌てて目線をそらし、紛らわすように鍋をがちゃがちゃとかき混ぜ始めた。素直な奴である。

「そ、その、深左衛門さん」

「なんだ、次郎丸」

 にやにやしながら深左衛門は次郎丸を見つめる。さぁ、はっきり言いたまえ。

 次郎丸は棚に目をやったり足元に落ちている野菜の切りかすを囲炉裏に投げたり深呼吸したりさんざん悩んだ挙句、ようやく白旗を揚げた。

「助けてもらった身の上を承知でお願いします。は、母を診てやってくれませんか?」

 お願いします、と綺麗な形の土下座までするあたり、次郎丸の性根がいかなものかを象徴している。このまま頭を床にこすり付けて穴を開けそうな勢いである。

 ここまで健気だと、さすがの深左衛門も笑いながら思わず抱きしめてやりたくなる。自分に弟や妹がいれば、こんな気持ちをいつも感じていたのかもしれない。

 ろくな礼もできない上に赤の他人に頼み事をするのは次郎丸の性格からしてかなり勇気と根性がいる作業だっただろう。ましてや病を診てもらうのだ。本来ならば金を払わなければならないのだから、尚更である。

「無理……でしょうか」

 頭を下げたまま、捨て猫のような声で次郎丸が尋ねてきた。これ以上からかうのもいい加減可哀想だ。さすがの深左衛門も罪の意識を感じてきた。

 深左衛門は一向に上げない次郎丸の小さな頭をがしっ、と掴むと、ぐいっ、と無理やり上げさせた。

「わかったよ。男がいつまでも頭を下げるな。女にもてんぞ」

 深左衛門の言葉に次郎丸は花開くひまわりのように顔を輝かせた。

「で、では診てくださるんですね!」

「もちろん礼はいらない。俺が判る範囲で診断してやろう」

 次郎丸は産まれて初めて玩具与えられた子供のように喜んでいた。普段は生活に必要な最低限の慈善事業をして今日と明日を繋いでいる深左衛門であったが、たまには純粋な人助けも悪くないと感じた。しかし同時に、深左衛門は決して思ってはならないことを無意識に頭に浮かべてしまった。

 ――もし、この笑顔が偽りだったとしたら。

 そんな言葉が頭の片隅をよぎり、八年間の旅で得た現実という苦い記憶が鋭利な刃物のようにぎらりと輝いた。

 旅を始めた頃の深左衛門は村や町で起こっている色々な事件に次々と首を突っ込み、それこそ報酬はなく自己満足しか得られない正義の使者を気取っていた。

 盗賊を掃討すること、神隠しにあった子供を助けること、薬師の能力を活用して医者の真似事をしたこと、小さな戦に出向いたことなど様々である。

 しかし、現実は限りなく非情で、助けた連中の大半はその場限りの感謝をするだけで、心の底からの感謝を深左衛門に返すことは少なかった。

 戦場では鬼神の如く働き、街や村では医療で助け、常人には解決できない心霊現象をも解決する深左衛門をどこの村や町でも最初は生き仏のように敬ってくれる。そのときは本当に助けてよかったと思う。しかし世の中は相対的な作りになっている。深左衛門の力を良い方向で捉えるものもいれば、その逆もありうる。つまり、深左衛門の力を妬むものはどこにでも必ずいるということだ。

 深左衛門を妬む者はありもしない噂を流し、深左衛門の立場を一気に底辺まで落としいれようとした。あちらこちらへ歩いていく旅人という身のせいか、根拠の無い噂は思いのほか広がりやすい。そしてあらぬ噂を信じた人たちに押し出されるように、結局村や町から追放され、逃げるように次の土地へ行くこととなる。既にその次の土地で深左衛門の噂が広がっていることもあった。

 そして最も多く心身ともに堪えたのは、畏怖の存在として恐れられることだった。どこぞの村では妖怪呼ばわりされたこともある。若気の至りで、血の気が多かった頃はもてあました怒りで村を滅ぼそうと思ったこともあった。

 深左衛門は、そうした事件解決後の手の平を返すように変わる人たちの態度に、激しく憤りを感じ、そして傷心した。

 しかし人々を助けたり日雇いの仕事をしたりしなければ深左衛門自身も生きていけないため、とにかく我慢して生活していた。心についた傷を無理やり埋めるまでは体を捕縛され歯を一本一本抜かれていくような、ただただ地獄のような苦悶する日々が続いた。

 今でこそ慣れたものだが、少し常人とは離れた能力を持つだけで化け物扱いされ、そしてその力を必要なときだけ利用され、その後は用無しとして捨てられる身分だと知った当時、深左衛門は世の中を呪ったものである。いや、正確には自分の力を呪った。

 ――なぜ、自分は犬神憑きの筋なのだ、と。

「あの、大丈夫ですか?」

 そこまで思い出して、ようやく深左衛門は我に返った。傍らの次郎丸が心底困ったように眉をひそめ深左衛門を見つめている。どうやら一瞬意識が別のところへ飛んでいたようである。 

 そして悪夢を裏付けるように背中には冷や汗をびっしりとかいていた。全身は筋張って強張り、握りこぶしにしている両手からはうっすら血が滲んでいた。次郎丸が困るのも無理は無い。

 深左衛門は血で汚れた両手を袖でふき取ると、なんでもない、と答えた。嘘でもそう言っておかないと体がもたない。次郎丸は深左衛門の姿に驚いていたが、すぐに手元の仕事に戻った。

「そういえば、妹が帰ってこないなぁ。何をしてるんだろ」

 触れてはならないものに触れてしまったような顔をしていた次郎丸は、露骨に話を変えようとした。魂胆が見え見えだがその心遣いには感謝した深左衛門である。

「どこへ行ったのだ?」

「雨が降ったので、裏の畠の様子を見に行っているのです」

 どうやら畠の雨後処理へ出ているらしい。こんな季節にまともに育つ作物はほとんど無いはずだ。おそらく畠そのものを死なせないようにしているのだろう。

 ――ふと、裏口辺りに人の気配を感知した。がさごそと土を踏む音が聞こえてくる。

「ただいま」

 がらがらっ、と裏の戸が開き、若い娘の声がした。噂をすれば何とやら、である。

 深左衛門は声の方へ目を向けた。そこには次郎丸同様、体はとても細く肌は白い、土色の木綿の服を着た娘が後ろ向きで立っていた。両手を土まみれにして開けた拍子に敷居から外れた戸を元に戻しているようだ。随分と手馴れた様子である。外れたのは一度や二度ではあるまい。

「畠の手入れと釜焚きは終わったよ、兄さん」

 娘は裏戸を閉めるとそのまま横の方へ姿を消し、深左衛門と次郎丸がいる居間には目を向けずに仕事を終えた旨を告げる。がちゃがちゃと何かを仕舞っているようだった。

「それからさっきムネさんに会って漬物を貰っ――」

 右手に包みを持った娘は居間で胡坐をかいている深左衛門に気づくと、背後から闇討ちを食らったように言葉を失った。そして予想外に端正で綺麗な顔を、怒気を孕んだものに変えていく。

「侍が何の用だよ。税はきちんと払ってるはずだが」

 娘は深左衛門を見るなり予想外の言葉をぶつけてきた。なぜか税の取立て人と勘違いしたようである。深左衛門はそれほど身なりが良いわけではないのだが、一目見るだけでそう判断するとは、役所の人間とはかなりぎすぎすした関係らしい。

 しかし深左衛門の興味を引いたのはそんなことではなく、次郎丸とは正反対の性格をしているところに意識を持っていかれた。顔立ちの端正さは兄弟揃って一緒だが双子の割には性格が真反対である。環境がそうさせたのだろうか。

 次郎丸は鍋を混ぜるのをやめると蓋を閉め、妹の方を向いた。しかし次郎丸には珍しく、若干の怒りをこめた表情で。

「馬鹿者。シズ、見ず知らずの人に対していきなり失礼なことを言うなっていつも言ってるだろ。それにこの方は昼間危なそうなところを助けてくださった、旅人の深左衛門さんだ。ちゃんと謝れ」

 シズという妹は深左衛門に顔を向けると、やりきれないような顔で一言「すみません」と頭を下げた。深左衛門は軽く微笑むと「気にするな」と返した。強情そうだが根は素直そうだ。根本的なところは次郎丸と同じような性格をしている。

「あたしは母さんのところへ行くから、用事があったら呼んで」

 シズは次郎丸にそう言い残して、返事も聞かずに狭い廊下を歩いて行く。次郎丸もいつものことだと言う風に、そのそっけない態度には目も向けず囲炉裏の具合を確かめている。

「いつもあんな風なのか?」

「はい。なぜか昔からあんな感じで。あ、ご飯が炊き終わるまで時間がありますのでそれまで休んでいてください。長旅で疲れていると思いますし」

 妹があんな風なら、次郎丸がこんな風になるのも無理は無いな、と思いつつ、深左衛門はゆっくりと瞼を閉じた。次郎丸は、さきほど深左衛門の意識が跳んだのは旅の疲れが出たせいだと勘違いしているようだった。しかしせっかくの好意を無駄にするほど深左衛門には余裕はない。

「ではお言葉に甘えるとしよう」

「はい。ごゆっくり」

 しかし、次郎丸の読みは残念ながら外れだ。一つ前の村からここに来るまではたったの半日程で着いた。もう一つ山を越えるくらいの体力は残っている。それに旅の疲れで拳から血が出るほど力む人間が果たしているのか。次郎丸ほど聡明ならそれくらい見極める目を持っていそうだが、知らない風を装うということは何かしらの理由があるのだろう。そこまで詮索するほど今の深左衛門は人好きではないし、それこそ野暮なことだ。人には人の生活というものがある。

 そういうわけで、眠くは無いが深左衛門は傷だらけの荷物袋を枕代わりにして次郎丸の視線から外れるように横になった。雨曝しになったこともあるし、体は休めるときに休ませる方が良い。楽な姿勢になった瞬間、一気に体の上に重石を置くように疲労がのしかかってきた。

 いつものことだ。国から国へと歩く旅人にとって疲労は背中に担ぐ荷物の一つである。蓄積した疲れが完全に回復することなどありえない。唯一あるとすれば、それは旅を終えたときだろう。それに意識はしっかりと覚醒している。今はあくまで目を閉じて体を休めるだけである。

 それから、万が一鬼島一派が攻めてくることも考え、すぐに刀を取れる状態にしている。

 深左衛門が逃がした奴らはとっくに屋敷に戻り、報告も済ませているはずだ。ならば一派の首領格は復讐に行くか否かの決断はもう下していると考えた方が良い。そして復讐に来るならば、早ければこれからの時間帯が適当だ。今夜は熟睡なんてできるはずもない。狙われるのが深左衛門のみなら少々眠りが深くても対処できるのだが、とてもじゃないが今はそんな状況ではないのだ。襲撃を受けた場合、いち早く次郎丸やその家族の身の安全を確保する必要があるだろう。一度助けた者たちを死なせてしまっては、あまりにも寝覚めが悪すぎる。

 だが、それらの心配も杞憂に終わることもある。あくまで可能性の話だからだ。実際は何が起こるか分からない。

「ふぅ、今日も疲れた」

 シズがやってきた。衣擦れの音から首や腕をぐるぐると動かしているのが分かる。小気味良く体を鳴らしながら次郎丸の隣まで歩くと、どすっ、と乱暴に腰を下ろした。この様子だと胡坐をかいてその膝の上に頬杖をついてもおかしくはない。豪快な娘である。

 そして、彼女はどうやら深左衛門を見つめているようだ。じっとりと舐めるような目で。

 彼女のその態度から導かれることは一つだけである。深左衛門のことをまだ信用していないのだ。次郎丸と違い、ろくすっぽ会話を交わしていないし、深左衛門の存在がこの家に危害を加えない確たる証拠も無いのだから警戒されるのも仕方が無い。深左衛門がシズの立場ならまったく同じような態度を取るだろう。

 しかし、シズが深左衛門を危険視しているのはこの家の安全のためなのだ。決して保身のためではない。そう考えると、家族思いの良い娘だと言わざるを得ない。ただ、次郎丸ではないがもう少し言葉を選ぶ頭を持ってほしいところだが。

 しばらくシズは深左衛門を見つめていたようだったが、何か気に喰わないことでもあったのか、ふん、と鼻を鳴らすと顔を背けたようだ。

「人様の家でぬくぬくと横になりやがって」

 シズは深左衛門に悟られないよう虫の音のように小さく呟いた。しかし、長年山奥で動物を狩っていたせいで非情に小さな物音でも聞きとれる深左衛門には聞こえないはずが無かった。

 すぐさま次郎丸は、シズの言葉を窘めたが、当人はそんなものどこ吹く風といったところか。

「母さんの具合はどう?」

「いつもより落ち着いている。ご飯まで寝てるって」

「そうか」

「それより後で裁縫教えてよ。ここ穴開いちゃって――」

 深左衛門はしばらく他愛無い二人の会話に耳を傾けていた。そして予想以上に疲れていたのか、その内うつらうつらとしていた。

 ――だんだんっ、と戸を叩く音がするまでは。

 戸を叩く音が鼓膜を震わせた瞬間、深左衛門は誰よりも早く反応した。起き上がりながら傍らの仕込み刀を乱暴に掴み、薄汚れた戸を睨む。そして無意識に真言を小さく呟いていた。

「我血流犬命。犬呪耳切我借。犬穢鼻我借」

『心得た』

 頭の中にくぐもったヌイの声が響き渡る。すると両耳の上辺りに新たな感覚が産まれた。頭の上に耳がもう一対増えたような、神経が突然新しく繋がったような。その次は急激に悪臭が鼻をつき始めた。どぶが腐ったような臭いだ。雨による湿気で余計に臭いがきつくなっている。

 もしこの場に霊視ができる者がいるなら今の深左衛門の姿を見て度肝を抜くだろう。なにせ頭の上に犬の耳が生えているのだから。

 深左衛門は代々家に憑いている犬神の力を借りることによって超人的な能力を得ることができる。犬神の力全てを借りれば人の形をした妖怪と呼ばれてもなんら遜色は無い。実際呼ばれるのは心外甚だしいが。

「義兵衛じゃが、シズはおるか?」

 外から聞こえたのは、義兵衛と名乗る男の声だった。声を聞く限り若そうである。

 どこか隠れるように呼んでいるところが少々妙だが、シズを知っているのだから村人の一人だろう。だが、鬼島に金で買われた可能性もある。

 深左衛門は万が一を考え、ヌイの霊耳と霊鼻を使って義兵衛以外に家の周辺に人がいないか探ってみる。

 ぴくぴくと新しく生えた耳を動かし、獣のように鼻をひくひくとさせる。隣の別室のほうに、女の臭いがする。これはおそらく臥せっている母親だろう。そして玄関の方にはこの家以外の人間の臭いがする。これが義兵衛だろう。

 玄関以外にも耳や鼻を向けて調べてみたが、今のところ異質な臭いは他にない。家を取り囲んでいるような物音も無い。

「義兵衛?またあの男が来たの?」

 心底面倒そうにシズは立ち上がった。シズは胡坐をかいて玄関を睨みつけている深左衛門を無視して玄関へ向かう。そして戸の前に立つと、腰に手を当ててシズが口を開いた。

「こんな時間に何の用?今から家族で夕飯を食べるのだけど」

「おいおい、今日は年に数回の祭りの日やぞ?せっかくなんじゃんから遊ぼうや」

 義兵衛の必死の言葉に「今日は神事返村の日か」とシズは嫌なことでも思い出すように呟いた。あの様子からして事実嫌なことのようだが。

 どうやら義兵衛はシズを誘いに来たらしい。しかし残念ながらこの恋路は一方通行のようである。おそらく義兵衛はこれまで何回もシズに挑戦してきたと見られる。だがその多くはこの有様なのだ。強情なシズにここまで果敢に立ち向かう義兵衛がどんな面構えなのか気になってきたが、人の恋路を邪魔して楽しむほど酔狂ではない。

 それよりも深左衛門としては、その意味深な名前の祭りについて興味を持った。耳や鼻を利かせたまま、祭りのことを次郎丸に尋ねてみる。

「神事返村の回、と村では呼んでいて、この村が祀っている土着神であるヅヅの守が都会の方にある大きな社での集会を終えて再び帰ってくることを祝う祭りです。用はお出迎えをするわけですね。今日は雨が降ったので延期か中止になると思ったのですが、義兵衛さんのあの様子からして、どうやらやるみたいですね」

 ヅヅの守なんて聞いたことが無いが、日の本には八百万の神が住んでいると云われている。おそらくヅヅの守もそのうちの一つなのだろう。紆余曲折あって深左衛門の犬神になっているヌイも、かつては北方の荒神として祀られていた。あまり有名ではない地方の土着神なんてそれこそ星の数ほどいるのかもしれない。全国で名の知れている神というのは、大小関係なく歴史に何かを残しているものだけだ。有名な武将と争ったとか、知恵を貸したとか。大したことではないだろうに、それだけで多くの民から崇められるのだから不思議といえば不思議な話である。

「深左衛門さんは祭りに行かないのですか?」

 次郎丸が何の突拍子もなく訊いてきたので、深左衛門は少々驚いた。逆にお前は行かないのかと思ったが、次郎丸の性格を考えればおのずと分かってしまった。

「祭りは好きだが、馬鹿騒ぎするのは嫌いだ。むしろその阿呆どもの姿を肴にして酒を飲むほうが楽しめる」

 深左衛門の答えに次郎丸は小さく笑った。そして釜と畠の具合をもう一度確かめてきます、と立ち上がると奥の方へ行った。

 玄関の二人はというと、まだ言い争っているようである。そんな二人の会話を聞きつつ、深左衛門は外の方に耳を向けた。

 どん、どん、どん……。遠くから、体に響く太鼓の音が聞こえてくる。

 そういえば、と深左衛門は思った。今更だが、村に到着した際周辺を散歩していたのだが、中心部の広場にはなにやら物々しい雰囲気がでていたことを思い出した。木組みの櫓のようなものが立っていたり、火の無い篝火が並べられていたりして深左衛門は物騒な村だと感じていた。今更であるが、どうやらそれらは祭りに使う道具だったようである。祭りも本格的に始まってきたのか、だんだんと人の歓声も聞こえてきた。小さな村はこういう催し物が唯一の娯楽という場合もある。この村がそうだとすると、義兵衛がシズを必死に誘うのもなんとなく分かる気がする。

 それから、自分も犬神筋の人間でなければ、あんな風に過ごしていたのかと思うと、つい胸が息苦しくなる。深左衛門があれぐらいの年だった頃は、山に篭って婆さんと山を登ったり、虫を食ったり、荒れ狂う川を泳いだりとひたすら修行の毎日だった。それらはヌイの守という犬神としては破格の能力を持った存在を自由に扱うための修行だ。何度挫折しかけたか分からないが、今ではその修行に感謝している。霊耳や霊鼻のような特殊な力を使えるようになったのもこの修行があればこそだからだ。

「分かったわよ。来年の正月は一緒に神社を参詣してあげるから。覚えてたらだけど」

「約束だぞ。必ずやからな!」

 義兵衛が玄関から離れていく音がする。その足音はどこか誇らしげですらある。二人の会話にようやく決着がついたようだ。危険が影を潜めたところで、一息つきながら深左衛門は霊耳と霊鼻を解除する。能力を遣っている間霊力は消費し続けるため、それなりに疲れがたまるのだ。

 玄関からとぼとぼと、ため息をつきながらシズが帰ってきた。うつむいたその顔は完全に敗者の顔だった。

「なんであんなのに好かれるのやら」

 二人の様子が面白かったので、深左衛門がつい答えてしまう。

「お前さんがそれだけ魅力的だからだろう」

 深左衛門の言葉にシズは「そうですかねぇ」と暗い言葉を残し、深左衛門の隣にすとん、と腰を下ろした。

「私はもっと二枚目な人がいいな」

 同年代の女の子の中では、シズは間違いなく美人だろう。生意気そうな眉毛や言葉が玉に瑕だが、綺麗な形の丸い両目や、顎から首にかけての艶かしい線は確かに美しい。それなりに色っぽく振舞えば、年頃の男共を容易く骨抜きにすることができるだろう。よって、シズとまともに釣り合う男がいれば、それはかなりいい男のはずだ。そしてシズの性格から判断して面食いの可能性はかなり高い。そんな大層な娘と仲良くなるために頑張る義兵衛は根性があるというか、なかなか見所がありそうな男である。ますます会って話してみたくなった。

「お侍さ……あー、深左衛門さん?は旅人らしいですけど、いずれどこかで腰を据えて暮らすんですか?」

 相変わらず深左衛門とは目を合わさず、囲炉裏の灰を引っ掻き棒でいじくりながらシズが尋ねてきた。遠まわしに、風来坊なのに結婚はするのか、と訊いているようだ。

 確かに結婚願望はあるが、今は犬神筋という特殊な家系のおかげで叶わぬ夢だと結論づけている。犬神筋と結婚できるのは同じ犬神筋なのだ。それに深左衛門の家に憑いている犬神は普通のものとは一線を画しており、共存方法も他の犬神と違う。深左衛門が旅を続ける理由は、犬神も深く関わっている。

 結局あれこれ問題が山積みの状況で結婚なんて悠長なことを考える暇など無い、と素直に答えたかったが、そんなこと言えるわけがないので適当に答えた。

「俺は都で一花咲かせようと企んでいる夢追い者だ。このご時勢、そんな酔狂と共に生きる女子などいまい?」

 我ながら曲解した答えだと思ったが、正直この手の話はあまり得意ではない。いや、正確には女が苦手なのだ。小さい頃忘れられない悪夢を植えつけられてから、ある種の女性に対して拒否反応を起こすようになった。そしてそのある種というのが、シズのように男勝りな気の強い女の類だ。

 当のシズはというと、深左衛門の言葉が気に入ったのか、顔をほころばせている。そしてようやく深左衛門と目を合わせた。

「そういうのも洒落ていて良いと思うけどなぁ。傾いているようであたしは好きですよ。兄さんのようにちまちまとみみっちいことやってるような男は願い下げだけど」

 そう言うと、次郎丸の姿を想像したのか中空をぼんやりと見つめ、ため息を一つついた。次郎丸のことを貶めるように言っているが、逆に心配をしているようだ。真面目なのはいいが、もう少し力強い男になってくれ、と。

 確かに深左衛門もそう思うが、次郎丸が言うようにシズももう少し淑やかになるべきだと思う。まったく、兄弟揃って似ていないようでよく似ている。双子というのは実に不思議な存在だと感じた。

「それで、都に着いたら何をするの?」

 いつの間にか敬語をやめたシズが深左衛門に尋ねてきた。この怖いもの知らずなところも次郎丸は心配しているに違いない。

「俺は故郷では薬師をやっていたから、都に着いたら町医者にでもなるつもりだ。そして名を挙げて領主お抱えの医師になり、裕福に暮らすのが夢だ」

 これは、決してその場限りの夢ではない。小さい頃からろくなものを食べず、子供らしく遊ばず、犬神筋として迫害されて生きてきた深左衛門にとって、下界を見下ろす身分にまでのし上がり、贅沢三昧暮らすのは本当に夢なのだ。それに都会へ行けば人がたくさん居る。人がたくさん居ればそれだけ不浄霊もたくさんいるはずだ。そうすれば犬神とも共存しやすくなる。深左衛門にとって都とは桃源郷そのものなのだ。そこで裕福に暮らせるようになれば、もはやこの世に未練など――ない。

「深左衛門さんって医者なの?」

 この点だけは、次郎丸とそっくりな反応を見せた。シズは瞳を見開かせ、ぎょっとした態度を取る。とてもじゃないがそんな風には見えない、と顔が語っていた。

 シズの様子を見ながら、深左衛門は苦笑いを浮かべた。

「そんな風には見えないだろうが、こう見えてもそこらの医者よりも腕に自信はある。人は見かけによらないというだろう?」

「そうだけど、どっからどう見ても浪人にしか見えないけどねぇ。証拠でもあるの?」

 シズは本当に信じられない様子である。確かに、医者は名乗るだけなら誰にでもできる。お偉い方から正式に認められた医者は、特殊な羽織を着ることが許され、それが医者としての証拠であり誇りでもあるのだが、深左衛門はそんな大層なものは持っていない。

 ――論より証拠。ならばこういうのはどうだ。

「では、試しにお前さんの健康状態を診てやろう。失礼」

 深左衛門は右の手の甲をシズの額に当て、左の手の甲を自分の額に当てる。しばらくするとそれぞれの熱が両手に伝わってくる。その温度の差で体調を判断するというものだ。ただ、この方法は外気温や互いの身体状態の影響であまり正確に測ることはできない。だが人間の平常体温はほぼ一緒なので、露骨に体調が悪ければはっきりと差が出るはずだ。ちなみに判断元である自分の体温はもちろん平熱である。

 一分ほど計っていたが、深左衛門の方が温かかった。おそらくさきほどまで外で畠の手入れをしていたからだろう。ほぼ平熱と判断して良い。

「次は脈だ。左手を出しな」

 言われたとおりにシズは左手を差し出す。

 深左衛門は左手を優しく手に取る。そして手首の付け根辺りに人差し指と中指を軽く当て、目を閉じた。とくん、とくん、と規則正しい波が伝わってくる。安定した脈だが、少々間隔が短い。まさかと思うが、柄にもなく緊張でもしているのだろうか。脈伯は正確な体調を調べるために必要な資料の一つである。その資料がいつもと違うものだと正しい結論に至れない。

 深左衛門は片目を開き、シズを流し見た。

「脈が速いが、緊張しているのか?」

 深左衛門の言葉に反応するように、脈が強く波打った。図星のようである。顔を見る限りそんな風には見えないが、心の内ではそうらしい。

 ただの診察でなぜ緊張などするのか深左衛門には理解できなかったが、いつまでも脈を計っていても仕方が無いので次に移行することにした。

 診察個所を今度は少女らしい細い指が備わった手の平に移動させる。よく見ると所々治りかけたすり傷があった。きっと畑仕事でつけたものだろう。こんな細い手じゃかなりの重労働に違いない。

 そんなことを思いながら深左衛門は、微妙に強張っている手のひら全体を揉みつつ、点を突くように一定の個所を押していく。そして手首の付け根辺りの丘になっている部分を押さえた時、

「あ、痛い!」

 シズは小さく悲鳴を上げ一気に顔を歪めると、力任せに左手を引っ込めた。そして威嚇する猫のように低く唸りながら深左衛門を睨んできた。

「いきなり攻撃してくるのが医者なの?」

「今のも立派な診療方法だ。ほら、今度は舌を出しな。思いっきり、べぇっ、とな」

 シズは「今度は何をするのだ」と言いたげに目を鋭く細めた。だがあきらめたのか、若干恥ずかしそうに口を開いてぺろりと舌を出した。なまこのようなぬらぬらとした桃色の物体が現れる。色は問題なさそうだ。

 深左衛門は次郎丸が遣っていた箸を一本手に取ると、それを使ってシズの舌を調べる。上下左右、奥の方を丹念に調べるが、大きな異常はとくに見つからなかった。しかし右側の端のほうに炎症でも起こしたのか、それとも免疫性のものかよく分からないが、胡麻粒ほどの小さな腫れ物があった。

「次は胴体に圧痛があるかどうか調べたいのだが、服を脱ぐのは流石に無理だよな」

「当たり前だ!」

 今にも顔面を引っ叩かれそうな剣幕でシズは深左衛門を怒鳴りつけた。気持ちは分からんでもないが、診察とは気恥ずかしさを気にしていてはならない。なにせ命に関わるのだ。できるだけ症状を明確に判断するためには徹底的にやるべきだが……、

「まぁ、いいか。現時点でお前さんは基本的に健康だ。だが、心身ともに少々疲労がたまっている。それから風邪をひきかけているぞ。家に帰るまで少し無茶して作業をしていただろ。暖かくして色つき野菜をたくさん食え」

「確かに、今そんな感じだけどそのくらい誰でもわかるんじゃない?」

 シズの言うとおり、このぐらいの判断ならならやぶ医者や少し学のある人間なら判断できる。だが、深左衛門の話はまだ終わっていない。

「続きだ。免疫機能も著しく低下しているぞ。最近睡眠不足だろ。それから最近あまり力が出ないのじゃないか?眩暈もしていそうだ。つまり血が足りないな。動物の肝を食べるのが一番だ。猪でも狩って喰うのがいい」

 流石にシズは少々驚いているようだった。自分から説明していないのに睡眠不足や貧血を見抜かれるとは思わなかったようである。

「最後に。お前さん、どうやら不調のようだな」

 言ったと同時に頬を平手で張り飛ばされた。衝撃で後ろにのけぞり、なんとか手を支えにして転がらずに済んだ。

 不意打ちとはいえ、あまりに遠慮の無い一撃である。平手特有の小気味良い音ではなく、殴打に近い音がしたほどだ。

「うるさい!黙ってろ!馬鹿医者!」

 傍らにある囲炉裏の炎のごとく顔を真っ赤にしてシズは深左衛門を罵りまくる。心外である。

 深左衛門は、今までこんな反応を取られたことは一度も無かった。確かに、月経は世の中で穢れとして見られているため、そのことを口にすると少々眉をひそめられたりするが、大抵みんな静かに話を聞いてくれていた。しかしなぜ、この娘は月経不順程度でこんなに過激になってしまうのだ。深左衛門は考えた。よく、考えた。

 そして理由を考えるうちに、思い当たる節が一つ見つかった。

 実は、シズくらいの年頃の女を診察したのは今回が初めてだった。確かに、シズくらいの年代は月経が始まってさして時が経っておらず、上手な付き合い方を心得ていない年頃かもしれない。さらに、悩み多き年ということも外してはならない。それらを加味してもう一度考えてみると、なるほど、確かに何ともいえぬ気恥ずかしさはある。だが殴るほどだろうか。ましてや診察している医者に対して。さすがの深左衛門も少々頭にきた。

「おい、シズよ。俺が気の短い男だったら刀を抜くか、殴り倒していたところだぞ」

「ぐっ……」

 いつもより声色を低くして、殺気をほんのりと漂わせている深左衛門にシズはたじろいだ。

「次郎丸が心配するはずだ。村人や心穏やかな人間ならいざ知らず、昼間絡まれたようなろくでなし相手にその口調だと、このご時勢命がいくつあっても足らんぞ」

 若干説教地味た口調だが、これでもかなり頭にきているのである。赤の他人にここまで世話を焼くのも久しぶりだが、なんというか乗りかかった船である。いつの間にか、できる範囲でこいつの性格を修正してやりたいと思っていた。

 そんな深左衛門の気持ちを知ってか知らずか、シズは毎度のように口を尖らせる。

「うるさいなぁ、他人には関係ないでしょ」

 ごもっともだ。こんな娘になぜこんなにも肩入れしてしまうのか。次郎丸のお人よしが移ったか。それとも誰かの遺伝だろうか。

「お前は、誰かから何かを学んだ経験は無いのか?」

 知らず、そんな言葉が出ていた。

「え?」

 深左衛門の言葉に、シズも不思議に思ったようである。

「いや、何でもない。俺がお節介だったな。しかし俺が医術を志していることは信じてくれるだろう?」

「あ、それは、うん」

 またも話を急転回させる深左衛門にシズは困っているようである。たまにあるのだ。基本的に気まぐれな性格をしているので、話しがあっちに行ったりこっちに行ったりすることがある。昔から直そうと思っているのだが、性格というのはなかなか修正できるものではないらしい。

「その……ごめん」

 シズは叱られた仔犬のようにしょんぼりとした顔で、深左衛門に頭を下げた。冷静になってきたらしい。基本的に素直で理髪な性格をしているのだから、無駄に興奮さえしなければいい子なのだ。その辺りが分かっているせいで、深左衛門も踏み込んだことを言ったのかもしれない。深左衛門は苦笑いを浮かべて無言で返事をした。

「ふぅ、寒い寒い。ただいまー」

 次郎丸が帰ってきた。ということはそろそろ飯時だろうか。両手に息を吹きかけながら次郎丸が居間へやってくる。

「お待たせしました。晩御飯にしましょう」

 棚に置いてある器を並べながら、次郎丸は楽しげに言った。

 予想は的中した。さて、久々のまともな飯をありがたくいただくとしよう。


 生と死。人はその極端な性質を持った運命という天秤に振られ、時を歩いていく。

 どれほど安定し安心した生活送っていても、生きて行くありとあらゆる場面に死の影は潜んでいる。なので、いちいち死を恐れることは、無駄極まりない行為だと思う。死は確かに怖いが、それを恐れ続けるのは愚かである。むしろ、それを肯定し、いつ死ぬか分からない人生をどう生きていくかが、人として生きる意味を見出せるのではないだろうか。そしてそれは自分自身を対象にするのではなく、他人に焦点を向けることが肝要だ。人が人のために生きるということは、どの時代でも同じであり、必要であり、根本的な存在意義に繋がるからだ。

 だが、人の生とは得てして酷なものだ。生きること事態が地獄である、という言葉もある。

 それは多くの場合、自分の望む結果が得られないからだ。理想というものは遠く儚く、手を伸ばせばどんどんと離れていくもの。そして人が持つ業は、無駄だと分かっていながらもその手に入らない究極の理想を追い求め続けてしまうものだ。だから、本当に賢い者は、あえて理想を遠くに置き、日々を過ごすことのみに幸せを見出すように生きる。できるだけ傷つかないように、控えめに、寿命が来るまで幸せを感じ続けられるように、質素に生きるのだ。

 しかし、その生活にも苦しみは存在する。もちろん、死だ。

 賢きものが死を受け入れることは容易い。人というのはそういう存在だと、とうに理解しているからである。

 だが、そうでないものが死を目の当たりにしたらどうだろう。

 突然、大切な人が死んだら。まだまだその人のために尽くす必要があるのにその人が死んだら。何の前触れもなく、最後に見た顔は微笑であったにもかかわらず、いつの間にか死んでいたら。

 ――そして当然、逆も考えられる。

 突然、大切な人を残して死んでしまったら。まだまだその人のために尽くす必要があるのに自分が死んだら。いつもの様に微笑みながら眠り、目覚めてその人たちとささやかな団欒を楽しむことができなくなってしまったら。

 なまじ知恵があるから人間はこういう難儀な存在になってしまったのだろうが、逆に知恵があるからこそ笑うことができる。そして笑うことができるから辛いことが余計に辛く感じてしまうのだ。人はこの相対する二つの感情に挟まれる生き物である。知恵がある、というのはそういう意味だ。

 人というのは、本当にどうしようもない生き物なのだと思う。野生動物のように死を受けいれることが難しいという、生き物としてあるまじき考えを持った動物である。

「ごめん。母さん」

 次郎丸はそんな言葉を言った。感情の起伏が少ない表情と、小さな声で。しかしその両の目尻からは、頬を伝う一筋の細い川ができていた。上から下へただ流れることしかできない、川が。

「……」

 妹のシズはひたすら無言で、まだ仄かに温もりがあるだろう死んだ者の胸にうずくまり、その熱をいつまでも引きずっているようだ。時折丸めた背中が痙攣したようにひくついている。

 ――母親の死。何人にも避けられない、ある一つの終焉である。

 飯が炊け、夕飯の準備が整って改めて母を起こしに行ったシズの悲鳴が事の発端である。

 単純に叩きつけられた現実に付いて来られないのかもしれないが、年の割には二人とも大人しく、静かに悲しみを噛みしめていた。

 深左衛門はすぐに母親を診た。顎裏と手の脈をとりながら口元に耳を持って行き呼吸の確認。その後胸元に耳を当て心拍の確認。そして体温の計測。体の強張り具合の確認。最後に穏やかに閉じられた目を開いて、瞳孔の確認。それで、診察を終えた。

 残された二人が送る期待の眼差し……とは美化しすぎか。限界まで飢えに苦しんだ乞食が、金持ちから僅かな食い物を恵んでもらえるように埃っぽい土にまみれて頼み込んでいる見苦しい姿、が妥当だろう。我ながら酷い喩えだが、それ以外に当てはまりそうな例が見当たらなかった。

〝助けてよ!あんた医者でしょうが!いくらでもお礼するから早く!″

 初めは深左衛門の態度に激昂していたシズだった。深左衛門の胸や肩を殴ったりゆすったりしながら悲鳴混じりの怒声を上げていた。とにかく現実を直視したくないという気持ち、そうでもしないと心が壊れそうだったのが丸分かりだったので、深左衛門がその行為に怒りを感じることは皆無だった。

 次郎丸は真面目な顔で、若干着崩れた母の服や、布団を綺麗に整えた後、正座して目を閉じていた。握られた両手は、異様なほど震えていた。

 泣き疲れたのか、しばらくして気持ちがだいぶ落ち着いたシズは、母の魂を逃さないように胸に顔をうずめた。次郎丸はようやく口を開き、堪えきれない涙を流しつつ、母親に謝罪をした。

 その光景を静かに深左衛門は見ていた。霊体化したヌイと共に。

 霊能力者は霊を撃退するためだけの存在ではない。正確には、霊を正しく導くための存在である。その道は、あるいは滅びであったり、昇天であったりさまざまだが、少なくとも今の深左衛門は決して私利私欲のみで霊能力を振りかざすことは無い。

 そして、本来相容れぬ霊と人とを繋ぐことのできる唯一の存在でもある。

 本来死んだものの霊を導くためには、その周りの人間との繋がりを完全に断ち切らせる必要がある。いわゆる未練が無いように、だ。中には大往生を遂げて、死んだ瞬間に幽世へ旅立っていくこともあるが、それは非常に稀である。大抵の場合、数日の長いときをかけて死んだものを弔い、死人に死の意識を明確にさせて成仏するよう願う。それが葬式である。

 だが強い未練に縛られたものは、成仏せず現世に残り、残った人たちに影響を与えることがある。

 そういうときが霊能者の出番だ。多くの霊能力者は霊の意見を代弁して、残された人との対話をしていき成仏という最終地点まで誘導していく。しかしそれには色々と問題があり手間もかかる。

 だが深左衛門の場合は違う。犬神としての能力ではなく、ヌイ自身が持つ能力を応用し、霊体を具現化させ現世の人間と対話を行うことができるのだ。

 そしてそれには対話をさせる霊が必須なわけだが、果たしてまだこの場に居るのか。

 深左衛門は普段は使っていない霊視用の意識を呼び起こす。次第に辺りには薄い靄のようなものが漂い始めてきた。これは長い年月をかけて粉々に風化した霊体で、深左衛門は霊気と呼ぶ。

 目が慣れるにつれて、絶望に打ちひしがれている二人の子供の真正面に正座している霊が見えてきた。間違いなく、母親の霊である。

『とりあえず、私が母親に対話をする気があるかどうか確かめよう』

 霊体化したヌイが話しかけてきた。深左衛門は無言で頷く。こちらは今にも一緒に死んでしまいそうな二人に話をしよう。

「お前達、母親と話しをしようとは思わないか?」

 二人は同時に肩をびくっ、と反応させると錆びついた機械のようにゆっくりと深左衛門の方へむいた。この期に及んで何をとぼけたことを言っているのか、と二人の瞳が語っていた。

「俺は薬師であり旅人であり霊能力者でもある。お前達が望むなら、母親の霊を具現化させ、話をさせることもできる。母親がそれに了承するかはまた別として、だ」

 呆れているような、話がまだ飲み込みきれていないような顔をしている二人は、しばらくその状態を保っていた。そして薄っすらと目に光が戻った瞬間、

「お願いします!」「お願い!」

 これなのである。双子は実に面白い。この際話が信じられなくても、可能性があるのならどんな話でも信じる、そういった顔をしていた。そういった節操の無さそうなところがシズはともかく次郎丸にもあったのか、と思いながら深左衛門は頷いた。

『母親は快く了承してくれたぞ』

 時機良くヌイが返事をする。

「母親も準備ができたようだ。では、始めよう」

 深左衛門の言葉を聞くや否や、ヌイが姿を現した。昼間のような少女の姿である。見た目はシズと次郎丸よりも年下に見えるが、風もないのに揺れる艶やかな黒髪と、年に似合わない心を見透かすような、鋭い金の目が異様な気配を生み出している。二人の子供を見下ろすその佇まいは、この場の誰よりも明らかに達観していた。

 シズと次郎丸は、突然深左衛門の傍らに現れたヌイの姿をみるなり腰を抜かしていたが、その神々しい姿に対して驚いては失礼だと感じたのか、すぐに姿勢を正した。

「私はヌイ。これから私の力を使ってお前達の母親を今の私のように具現化させる。実体化するわけだから、当然触れ合うこともできる」

 そう言いながら確認するように深左衛門の頭をぽんぽんと叩く。

「しかし、あまり長い時間実体化することはできない。募る話はあるだろうが、できるだけ早く済ませよ」

 ヌイの厳かな声にシズと次郎丸は一も二も無く頷いた。

 ヌイは二人の姿を満足げに見ると、霊体化している母親の後ろへ移動し、その両肩に小さな手を置いた。霊視できない次郎丸とシズからすれば、随分不思議な光景に見えたに違いない。

 母親の両肩に置いた手に、次第に霊力が集まっていく。おそらくヌイが持っている霊力を分けているのだ。つまり実体化しているヌイと母親が繋がることで、ヌイの恩恵を母親が受け取るというわけである。

 この術の欠点は、先ほどもヌイが言ったように長時間できないところにある。ヌイと霊体が長時間繋がっていると、意識が強く霊格も高いヌイに、霊体が喰われてしまうのだ。一体化する故の仕方の無い欠点だといえる。

 半透明だった母親の霊体が、段々と実体を得てくる。次郎丸とシズの目には、だんだんと母親の姿が現れるように見えただろう。最終的には母親が二人現れるという奇妙極まりない事態になるが、あの二人ならいらぬ騒ぎは起きないだろう。

 深左衛門はこの場に残って事の成り行きを見守ろうかと思ったが、家族水入らずで募る話もあるだろうと考え直して席を外すことにした。

「俺は居間で火の番をしている。後は頼んだぞヌイ」

 ヌイは深左衛門の言葉に目で答えると実体化の作業に戻った。深左衛門は寝室から隣の居間へと移動する。

 深左衛門は先ほど座っていた囲炉裏の傍らに再び腰を下ろし、暇つぶしに野菜鍋の中身を混ぜた。にんじんとほうれん草が深左衛門の作った渦に身を任せてぐるぐると流される。 

 人の人生もこれと一緒か。誰にも運命は変えられない。ただ流されるだけ。どれだけ抗っても時間と運命が織り成す渦に逆らうことはできない。シズと次郎丸もなぜ自分の家がこれほどまでに貧しいのか、と嘆いたことは何度もあっただろう。田畑を耕し、体を泥と汗でべたべたにし、年貢を納め、上の連中にへこへこと頭をさげるこの人生をどう思っているのだろう。

 挙句の果てには両親を亡くし、これからどう生きていくかに悩む。唯一の肉親である母親を病から救うという目標を砕かれた今、二人は何を目標にして生きていくのか。

 ――ふと、自分だったらどうするか、と脳裏をよぎった。しかし残念ながら微塵も考えられなかった。 

 人の死には小さい頃から免疫があるし、両親も生きてはいたが、彼らは深左衛門にとってあってないようなものだ。 

 両親は若くして深左衛門を生んだ。その理由は実に単純で、犬神をさっさと継がせるためである。

 普通の犬神とは違い、我が家の犬神は一子相伝の犬神なのだ。普通犬神は一度憑くと祓わない限り後世代々全ての家族に憑き、どこまでも存続していく。だが、山田家初代の言葉によると、犬神ヌイはあまりにもその霊格が高く、普通の犬神の呪いとして成り立たせなかったらしい。さらに、祓うことも不可能だそうだ。元々が神の化身であった存在を神の力を借りて祓うことは同属で殺し合うようなもので無理なのである。ヌイ自身がこの家系に見切りをつけて出て行くことは可能らしい。しかしどんな因果か最終的にヌイは山田家の守り神となった。

 しかし深左衛門の父はこの犬神の存在がいたく気に入らなかったらしく、とにかく早く継がせて自分は普通に暮らしたかったらしい。何が気に入らなかったのかは知らないが、話に聞くと父は非常に聡明で、先見の明を持っていたそうだ。おそらく犬神を持っていてもろくな人生にならないということが早くから分かっていたのかも知れない。人ならざる強力な力をよりも日々の安定した生活を強く願ったのだろう。その点では平和主義者と呼べるが、息子が生まれて乳離れした瞬間祖母に預ける辺り、かなり身勝手な男でもあったのだろう。小さかった頃、両親は出稼ぎで会うことができないと教えられ信じていたから気にも留めていなかったが、元服して真実を聞かされたときはかなりの衝撃ものだった。

 しかし両親に対する意識が希薄なことと、性格的に冷めていたせいか立ち直りは早かった。そして深左衛門のところにヌイが現れ、めでたく憑依し、父は晴れて普通の村の医者となり、日々を安穏と生きているのだろう。

 ヌイを受け継いだ当時はそんな親に腹を立てることも多かったが、しばらくするとどうでもよくなっていた。彼らにとって深左衛門は愛しい子ではなく、ただの依り白、ヌイへの生贄なのだ。言うなれば年貢である。深左衛門はそういう風に解釈し、アレはあくまで他人なのだと割り切ることにした。ただ、もし自分が子を持つようなことがあれば、絶対にあんな腐れ外道のようなことはしないと反面教師にはしているが。

 そういった複雑な家族関係の中、ヌイとの共同生活が始まった。

 旅に出た当初、深左衛門はどちらかというとヌイのことを憎んでいた。すべての悲しみの根源はヌイであると思っていたからだ。事実その通りで、犬神憑きであるとまわりの人間が知らなければ深左衛門は間違いなく普通に生活できた。しかしそんなことは土台無理な話だった。 

 ――曰く、犬神憑きの家の人間は獣のような鋭い牙を持っているという。深左衛門の口にも、犬のような牙が一対生えている。そんな確たる証拠を持っているのに事実を隠蔽できるはずが無かった。

 いい加減村人から迫害されるのが鬱陶しく、憎悪しかたまっていかないので程なくして旅に出た。今でこそ違うが、旅に出た理由というのはどうにかしてヌイを祓うことができるものを探すためだった。

 だが、長い旅路の中いろいろな苦難を乗り越えるうちにそれなりに情が芽生えたと言うか、友愛を感じ始めたというか、本人が今いないからこういうことが考えられるのだが、二人旅も案外悪くは無いと思い始めたのだ。 

 自分自身が旅をすることと相性が良かったという事実もあり、気の置けない相棒もいることで旅は一層楽しく感じられるようになった。ヌイの加護のおかげで多少無茶なこともできるし、普通の人間がする旅よりもはるかに充実しているのは事実だった。

 しかし異様な能力の分、今まで以上に凡人からは避けられる存在になってしまったのも事実だ。その点に関してはもう慣れてしまったが。

「深左衛門さん」

 深左衛門の背中に廊下から次郎丸が声をかけた。母親が死ぬ前まで話していたときのような、透き通るように青い声である。何かが吹っ切れたようである。

「なんだ?」

 深左衛門は背中で答えた。そして次郎丸が居間へ入り、深左衛門の前に土下座をすると、

「――ありがとうございました」

 次郎丸はそう言って、深々と頭を下げた。

「母は無事逝きました。僕やシズも、母の死を受け止めることができました。深左衛門さんのおかげです」

 深左衛門は首だけ振り向き次郎丸を見る。顔を上げた次郎丸は目が兎のように真っ赤だった。

「俺のおかげじゃない。ヌイのおかげだ。礼を言う相手を間違えている」

 深左衛門はいつもの調子でひねくれた答えを返すと、次郎丸の傍らに感じなれた気配が生まれた。そしてそれはうっすらと色を帯びていく。

「相変わらず素直じゃないな。まったく可愛げのない」

 この年で可愛げもくそもあるものか、と言い返したかったが、不毛な争いになりそうなので深左衛門はやめた。

「用が済んだのなら霊体に戻れよ。誰の霊力で現界できていると思っている」

 実体化したヌイは肩をすくめると、ため息を一つ。

 ヌイは次郎丸の頭を軽く撫で、

「じゃあの、小童。私はあのトウヘンボクに還る」

 言うなりヌイは一瞬で霊体化し、深左衛門の中へ入ってきた。次郎丸は微笑みながらその様子を見つめていた。この奇妙な現象に、もう免疫ができてしまったようである。

「――で、これからどうするんだ」

 先に深左衛門が口を開いた。これ以上首を突っ込むのはつまらないことだとは思うが、乗りかかった船である。とりあえず落ち着くまでこやつらに付き合おうと深左衛門は思っていた。

「村を、出ようと思います」

 次郎丸は俯いたまま呟いた。声色は、極めて静かである。

 母親という目標を無くした今、わざわざ厳しい環境の中で生活をするのが嫌になったのだろうか。それとも今の生活より村を出てどこかの町で働いた方が良いと判断したのか。いずれにせよ二人にとって失うものはもう無い、そんな感じを深左衛門は受けた。

 深左衛門は尋ねる。

「当てはあるのか?」

 次郎丸は頷く。

「山を二つ越えたところにヒサイというこの辺りでは大きい町があります。そこには叔父が住んでいて、しばらくやっかいになろうと思います」

 あくまで次郎丸の言葉に迷いは無い。だがそれはきちんと考えた上での決断なのか。

 深左衛門は再び尋ねる。

「この村に未練はないのか?叔父のところへ行っても追い返される可能性もある。それに下手に村を出ると役人も追ってくるだろうし面倒が増えるぞ」

「いいんです。僕らには、何も無いから。もし叔父が引き取ってくれなかったら……そのときはそのときです」

「そんな浅はかな考えじゃ、世間に食い殺されるだけだ」

「ここにいても、役人に絞り殺されるようなものです」

 次郎丸の言葉はいつになく決意に満ちている。ちょっとやそっとじゃ崩せそうも無い。

 次に深左衛門はシズに目をやった。相変わらず澄ました顔をしている。深左衛門はその目を見ながら言う。

「シズよ。義兵衛と離れるのが苦しくないのか」

「あいつは女たらしだし、元々興味無いわ。むしろせいせいするくらい」

 どうやらその言葉は本心らしい。次郎丸と同様、まったく迷いのない返事だった。

 深左衛門はため息を一つ吐いてから言った。

「お前達、旅に出るのは辛いぞ。安定した食い物も無ければ水も無い。何しろ儲けがないのだからな。行商にでもなるのなら話は別だが」

「でも、この村にはもう居たくないんです。思い出したくないから」

 次郎丸の言葉に、深左衛門は沈黙せざるを得なかった。

 ……正直、こいつらがどこへ行って何をしようと自分にとって関係の無い話である。

 だが、こいつらはあまりにも無防備で世の中を知らない。こいつらの発言はあまりにも無知だ。数十年村の中で暮らしていただけだからこのようなことを言えるのだ。井の中の蛙大海を知らず、である。一歩間違えれば即首が飛んでしまう現実の厳しさをしっかりと理解していない。

 しかし、こいつらの態度を見る限り決意は揺らぎようが無さそうだ。頑ななところは兄弟揃って瓜二つである。

「はぁ。なら一緒に行くか」

「え?」

 故に深左衛門はこいつらに現実の厳しさを分からせるために、せめて叔父が住むという町まで付いて行こうと思った。短いだろうが町までの道程に世の中を理解させようと思った。

 次郎丸は手を振って深左衛門を拒絶した。

「いいですよ。深左衛門さんは都へ行かなきゃならないでしょ?僕達は大丈夫ですから」

「昼間ごろつきに絡まれた奴が何を言う。世の中は安全よりも危険の割合のほうが多いぞ。せっかく助けたのに万が一死なれでもしたら寝つきが悪い。好意を素直に受け入れるのも大切だ」

「良いって言ってるんだから付いて来てもらおうよ。何をそんなに戸惑ってるの?」

 話にシズも加わってくる。二人に板ばさみになった次郎丸は少し気まずそうだ。

「これ以上深左衛門さんに迷惑を掛けたくないんですけど。……でも、一緒に来てくれますか?」

 ようやく覚悟を決めたのか、恐る恐る次郎丸は深左衛門の瞳を見つめた。深左衛門はため息を一つ吐き、

「だから良いって言ってるだろ。それじゃあまた明日な。俺は寝る」

 そこまで一気に言うと、深左衛門は有無を言わさず横になった。これ以上次郎丸と話すと話がややこしくなりそうだったからである。

「――色々とありがとうございます、深左衛門さん」

 後ろで次郎丸が頭を下げているような気配。本当律儀な奴だ。今時珍しい。

 なぜ、この兄弟にここまで肩入れしてしまうのか。

 よく分からないが、おそらく次郎丸のこういうところに無意識に惹かれているからだと思う。こういう人間らしい人間に出会ったのは久しぶりな気がする。願わくは彼らの表情が偽りでないことを祈るばかりだ。

 その後、次郎丸とシズの話にぼんやりと耳を傾けつつ、深左衛門は眠りに就いた。


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