表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

おやすみ、夢見人

リビングの床に転がっていたのは、いつもの「死体」だ。

イタリア製の高級なスーツは皺だらけになり、締め上げられたネクタイは喉を絞める縄のように緩んでいる。


昇進のたびに重くなった鞄を放り出し、彼はただ、重力の一部になろうとしていた。


外では部下を論理の刃で切り刻む冷徹なマネージャー。

だが家に戻れば、彼はただの「重力に負けた肉塊」と化す。


アルコールに溺れ、脱ぎ散らかした靴下の一片すら自分で片付けられない。

私はその光景を、結婚三年目の冷めた視線で見下ろすことに慣れきっていた。


(ほら、靴下が裏返し)


私は、その機能不全な肉体を避け、一歩踏み出すたびに、彼が脱ぎ捨てた「社会的地位」という名の汚れた布切れを拾った。

悪戯好きの彼は、時折こうして死んだふりをして私を困らせようとする。

彼が、家庭内でだけ見せる幼稚な示威行為。


その手には、いつもコンビニのレシートが握られていた。

発泡酒、おつまみの乾き物、深夜の虚無。


その「生活」の裏側に、彼はゴールへ至る計算式を書き殴っていた。

「俺たちの、成功の道しるべだ」

安い焼酎の匂いのする息で、彼は私の鼓動を盗んでいった。


けれど、その日の床は、いつもよりずっと冷たかった。


救急車のサイレン、無機質な病院の廊下、そして「心筋梗塞です」という医師の乾いた声。

ドラマのような絶叫も、劇的な崩壊もなかった。

ただ、一週間という時間が、濁流のように、あるいは事務作業のように流れていった。

葬儀が終わると、そこには驚くほど静かな日常が取り残されていた。


四十九日を待たずして、部屋は広くなった。

物理的なスペース以上に、空気が薄くなったような錯覚に陥る。


私は、リビングで酔いつぶれる彼が嫌いだった。

高級なウイスキーの香りと、安っぽい泥酔者の溜息。

彼は毎晩のように、まだ見ぬビジネスの展望や、世界を変えるような壮大な夢を語り続けた。

けれど翌朝、目が覚めたときの彼は、自分が何を話したかの一片も覚えていない。

その無責任さが、その「明日には消える熱量」が、現実を堅実に生きる私にはひどく滑稽で、同時に苛立たしかった。


なのに。


彼は、酔うたびに「同じ夢」を語ることだけは、一度もブレなかった。

何度も、何度も、初めて語るかのような熱を込めて、彼は私を自分の世界へと引きずり込んだ。


「お前を、誰も見たことがない場所に連れて行く」


その言葉が、アルコールの匂いと共に私の鼓膜を震わせる。

私は呆れながら、けれど心のどこかで、その嘘に、そのわくわくするような虚像に、共に酔わされていた。

彼がいなくなってから初めて気づく。


彼は、仕事の弱音を一度も見せなかった。

彼がどれだけの血を吐くようなストレスを裏側に隠していたのか。

料理も掃除も、生きるための基本的な技術をすべて拒絶して、彼はただ、戦場で倒れるまで走り続けることしか知らなかった。


寝転んで天井を見つめる彼の、死人のような横顔が嫌いだった。

けれど、その横顔こそが、彼が私にだけ許した唯一の「敗北の証」だったのかもしれない。


生命保険の手続きは、驚くほど単純だった。

銀行印と、端然と並んだファイリング。

彼が死ぬ気で守った「明日」が、私の手首を重く縛る。


彼が破り捨てたかった見積書より、

振り込まれた保険金の方が、ずっと残酷な数字だった。

結婚式の時、彼が最後まで納得しなかったあの法外な見積書。


『この演出に、これだけ払う価値が分からない』


そう言って眉をひそめ、プランナーを論破していた彼の、あの傲慢で、得意げで、私を少しだけ馬鹿にしたような顔。


「ねえ、あなたが嫌がっていた見積書、今なら笑って見せられるのに」


声に出しても、リビングの壁が冷たく跳ね返すだけだ。

もう、私を論破してくれる人はいない。

私の不手際を笑い、傲慢な優しさで導いてくれる男は、もう、どこにもいない。


私は、導かれるように彼のデスクへ向かう。


そこは、彼が「俺の帝国」と自慢げに語っていた場所だ。

高性能なPC、重厚な革の椅子、そして彼が愛した硬い木目のデスク。

ここにはまだ、彼の指先が触れた感触や、彼が思考の海で格闘していた時の熱が、微かに残っているような気がした。


私は、彼の椅子に深く腰を下ろす。


非情なリーダーシップも、冷徹なマネジメントも、今の私には必要ない。

ただ、この場所で、彼が見ていた景色を共有したい。


デスクに顔を伏せると、微かに彼の匂いと、そして、あの日々を象徴するわずかな酒の匂いがした。

年収も、上場企業の肩書きも、何の意味も持たなくなったこの場所で、私はようやく、彼と本当の会話ができているような気がする。

ただもう一度だけ見たかった。

呂律の回らない口で、毎晩、同じ「欠陥品のような夢」を語る姿を、もう一度だけ。


「おやすみ、嘘つきな夢想家」


私は、彼のデスクで眠りに落ちる。

明日になれば、また「安定した生活」という名の現実が始まる。

けれど今夜だけは、彼が語り、そして忘れてしまったあの夢の続きを、私が代わりに引き受けることにした。

この静かすぎる、広すぎる部屋の中で。


「会いたいな」


読んでいただき、ありがとうございます。

もし、あなたの心の中に少しでも「冷えたリビングの空気」が届いたなら、下のボタンから読後感を残していただけると幸いです。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ