おやすみ、夢見人
リビングの床に転がっていたのは、いつもの「死体」だ。
イタリア製の高級なスーツは皺だらけになり、締め上げられたネクタイは喉を絞める縄のように緩んでいる。
昇進のたびに重くなった鞄を放り出し、彼はただ、重力の一部になろうとしていた。
外では部下を論理の刃で切り刻む冷徹なマネージャー。
だが家に戻れば、彼はただの「重力に負けた肉塊」と化す。
アルコールに溺れ、脱ぎ散らかした靴下の一片すら自分で片付けられない。
私はその光景を、結婚三年目の冷めた視線で見下ろすことに慣れきっていた。
(ほら、靴下が裏返し)
私は、その機能不全な肉体を避け、一歩踏み出すたびに、彼が脱ぎ捨てた「社会的地位」という名の汚れた布切れを拾った。
悪戯好きの彼は、時折こうして死んだふりをして私を困らせようとする。
彼が、家庭内でだけ見せる幼稚な示威行為。
その手には、いつもコンビニのレシートが握られていた。
発泡酒、おつまみの乾き物、深夜の虚無。
その「生活」の裏側に、彼はゴールへ至る計算式を書き殴っていた。
「俺たちの、成功の道しるべだ」
安い焼酎の匂いのする息で、彼は私の鼓動を盗んでいった。
けれど、その日の床は、いつもよりずっと冷たかった。
救急車のサイレン、無機質な病院の廊下、そして「心筋梗塞です」という医師の乾いた声。
ドラマのような絶叫も、劇的な崩壊もなかった。
ただ、一週間という時間が、濁流のように、あるいは事務作業のように流れていった。
葬儀が終わると、そこには驚くほど静かな日常が取り残されていた。
四十九日を待たずして、部屋は広くなった。
物理的なスペース以上に、空気が薄くなったような錯覚に陥る。
私は、リビングで酔いつぶれる彼が嫌いだった。
高級なウイスキーの香りと、安っぽい泥酔者の溜息。
彼は毎晩のように、まだ見ぬビジネスの展望や、世界を変えるような壮大な夢を語り続けた。
けれど翌朝、目が覚めたときの彼は、自分が何を話したかの一片も覚えていない。
その無責任さが、その「明日には消える熱量」が、現実を堅実に生きる私にはひどく滑稽で、同時に苛立たしかった。
なのに。
彼は、酔うたびに「同じ夢」を語ることだけは、一度もブレなかった。
何度も、何度も、初めて語るかのような熱を込めて、彼は私を自分の世界へと引きずり込んだ。
「お前を、誰も見たことがない場所に連れて行く」
その言葉が、アルコールの匂いと共に私の鼓膜を震わせる。
私は呆れながら、けれど心のどこかで、その嘘に、そのわくわくするような虚像に、共に酔わされていた。
彼がいなくなってから初めて気づく。
彼は、仕事の弱音を一度も見せなかった。
彼がどれだけの血を吐くようなストレスを裏側に隠していたのか。
料理も掃除も、生きるための基本的な技術をすべて拒絶して、彼はただ、戦場で倒れるまで走り続けることしか知らなかった。
寝転んで天井を見つめる彼の、死人のような横顔が嫌いだった。
けれど、その横顔こそが、彼が私にだけ許した唯一の「敗北の証」だったのかもしれない。
生命保険の手続きは、驚くほど単純だった。
銀行印と、端然と並んだファイリング。
彼が死ぬ気で守った「明日」が、私の手首を重く縛る。
彼が破り捨てたかった見積書より、
振り込まれた保険金の方が、ずっと残酷な数字だった。
結婚式の時、彼が最後まで納得しなかったあの法外な見積書。
『この演出に、これだけ払う価値が分からない』
そう言って眉をひそめ、プランナーを論破していた彼の、あの傲慢で、得意げで、私を少しだけ馬鹿にしたような顔。
「ねえ、あなたが嫌がっていた見積書、今なら笑って見せられるのに」
声に出しても、リビングの壁が冷たく跳ね返すだけだ。
もう、私を論破してくれる人はいない。
私の不手際を笑い、傲慢な優しさで導いてくれる男は、もう、どこにもいない。
私は、導かれるように彼のデスクへ向かう。
そこは、彼が「俺の帝国」と自慢げに語っていた場所だ。
高性能なPC、重厚な革の椅子、そして彼が愛した硬い木目のデスク。
ここにはまだ、彼の指先が触れた感触や、彼が思考の海で格闘していた時の熱が、微かに残っているような気がした。
私は、彼の椅子に深く腰を下ろす。
非情なリーダーシップも、冷徹なマネジメントも、今の私には必要ない。
ただ、この場所で、彼が見ていた景色を共有したい。
デスクに顔を伏せると、微かに彼の匂いと、そして、あの日々を象徴するわずかな酒の匂いがした。
年収も、上場企業の肩書きも、何の意味も持たなくなったこの場所で、私はようやく、彼と本当の会話ができているような気がする。
ただもう一度だけ見たかった。
呂律の回らない口で、毎晩、同じ「欠陥品のような夢」を語る姿を、もう一度だけ。
「おやすみ、嘘つきな夢想家」
私は、彼のデスクで眠りに落ちる。
明日になれば、また「安定した生活」という名の現実が始まる。
けれど今夜だけは、彼が語り、そして忘れてしまったあの夢の続きを、私が代わりに引き受けることにした。
この静かすぎる、広すぎる部屋の中で。
「会いたいな」
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