7.言葉にならない誤差
通路は、驚くほど静かだった。
足音が吸い込まれるように消えていく。
石の壁も床も、音を拒んでいるかのようだ。
ラオンは歩きながら、内部数値を確認していた。
判断速度:1.01
環境適応率:正常
精神負荷:低
――問題なし。
そう結論づけながらも、彼は歩幅をわずかに狭めていた。
無意識の調整。
理由は、はっきりしない。
「ラオン……」
後ろから、ティナの声がする。
いつもより、小さい。
「何ですか」
「……ううん。なんでもない」
それ以上、彼女は言わなかった。
ラオンは一瞬、立ち止まりかけた。
だが、必要性を見出せず、そのまま歩を進める。
――なぜ、今、立ち止まろうとしたのか。
問いは生じたが、すぐに処理から外した。
非効率な思考だ。
通路の奥で、幻夢蝶の淡い光が揺れている。
距離は一定。
追えば追うほど、逃げるように進む。
「誘導……?」
可能性としては成立する。
遺跡防衛機構、もしくは幻夢蝶自身の行動特性。
どちらにせよ、判断は一つ。
「このまま追跡します」
「……うん」
ティナの返事は、短い。
その声に、ほんのわずかな揺れが含まれていることに、
ラオンは気づかなかった。
――いや、正確には。
気づいたが、重要度を低く設定した。
その設定が、いつ、どの基準で行われたのか。
本人にも分からない。
通路は次第に傾斜を増し、下へと続いていく。
空気が冷え、魔力の密度がさらに上がった。
ラオンの視界に、数値が浮かぶ。
幻夢蝶反応:安定
環境歪度:上昇
判断補正値:+0.18
「……?」
数値を再確認する。
誤検知ではない。
判断補正値が、増えている。
これは、本来なら「迷い」や「不確定要素」が増えたときに発生する数値だ。
だが、今の自分には迷いがない。
むしろ、判断は明確だ。
「……整合しない」
呟きは、音になっていなかった。
ラオンは歩みを止め、壁に手を当てる。
冷たい石の感触。
感覚は、正常。
思考も、正常。
――それでも、どこかが合わない。
その「どこか」を、彼は定義できない。
感情がない以上、違和感を感情として捉えることはできない。
残るのは、数値と論理だけ。
だが、そのどちらにも、決定的な異常は出ていない。
「……進行に問題なし」
そう結論づけ、再び歩き出す。
判断としては、正しい。
正しいはずだ。
だが、幻夢蝶との距離が縮まった瞬間、
ラオンの視界が一瞬、白く弾けた。
ほんの、刹那。
草原。
風。
誰かが、自分の名を呼んでいる。
「――っ」
即座に遮断。
魔力障壁を内側に展開し、外部干渉を排除する。
視界は遺跡に戻った。
「今の……?」
幻視。
そう分類するのが、最も合理的だ。
ティナが、心配そうにこちらを見る。
「ラオン、大丈夫?」
「問題ありません」
即答。
それは嘘ではない。
少なくとも、定義上は。
「……本当に?」
「はい」
ラオンは断言した。
その声に、揺れはない。
だが、内部では、別の処理が進んでいた。
幻視の残滓。
消去されない微細な情報。
それは、感情ではない。
記憶とも、少し違う。
――可能性。
もし、あの景色が現実だったなら。
もし、あの声が実在したなら。
そうした仮定が、一瞬だけ浮かび、
すぐに切り捨てられる。
不要だ。
意味がない。
判断に寄与しない。
そう、判断したはずだった。
それなのに。
幻夢蝶が、再び振り返る。
淡い光が、こちらを見つめるように揺れた。
ラオンは、ほんの一拍、遅れて足を踏み出した。
自覚はない。
だが、その一拍は確かに存在した。
――遅延。
数値には、まだ現れない。
だが、内部では確実に、何かが積み重なっている。
ラオンは、それを「誤差」と呼ぶことすら、まだできなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
判断は、これまで以上に正確だ。
迷いもない。
選択は、最適解に近づいている。
それなのに。
なぜか、世界が一拍ずつ、遅れて追いついてくる。
その理由を言葉にできないまま、
ラオンは幻夢蝶を追い、さらに深部へと進んでいった。




