3.――蝶は、まだ現れない
森を抜けて半日ほど歩いた頃、街道は次第に細くなり、人の気配も薄れていった。
舗装された道はいつの間にか途切れ、踏み固められた土と草が進路を示すだけになる。
「この辺りから、遺跡の影響圏に入るはずです」
ラオンは地図を見下ろしながら淡々と言った。
「影響圏?」
ティナは一歩遅れてついてきながら、きょろきょろと周囲を見回す。
「幻夢蝶が出現したという記録は、遺跡を中心に半径数日分の範囲に集中しています。因果関係は不明ですが、相関はあります」
「ふむふむ……よくわからないけど、すごそう!」
「わからないまま納得するのは、非推奨です」
「だってラオンが真面目に説明してる時点で、信頼度高いもん」
「信頼は感情的評価です」
「はいはい」
ティナは軽く受け流しながら、足元の草を蹴った。
小さな虫が飛び立つ。
「でもさ、ここまで来て何も起きないと、ちょっとドキドキするよね」
「不測の事態は、起きないに越したことはありません」
「えー。でも冒険って、ちょっとくらいハプニングがあった方が――」
その瞬間だった。
ざわり、と空気が揺れた。
風ではない。
音でもない。
ラオンは即座に足を止め、杖を構える。
「……来ます」
「え?」
次の瞬間、地面から黒い影が這い出した。
人の形に似ているが、輪郭が曖昧で、実体がない。
まるで影そのものが立ち上がったような存在。
「うわっ!? なにあれ!?」
「残留瘴気の凝集体です。災厄の名残ですね」
「えっ、災厄ってもう終わったんじゃ……」
「完全消滅とは、記録上存在しません」
影は二体、三体と増え、じわじわと距離を詰めてくる。
ラオンは即座に結界を展開した。
淡い光が地面に広がり、影の進行を阻む。
「ティナ、後ろへ」
「う、うん!」
ティナは素直に下がったが、完全には離れなかった。
ラオンの背後、半歩の位置に留まる。
「……近いです」
「だって! 一人にするの嫌だし!」
「合理的理由ではありません」
「感情的理由です!」
ラオンは一瞬、言葉に詰まった。
だが次の瞬間、影が結界に触れ、軋むような音を立てる。
「解析完了。単体戦闘力は低い。数で押すタイプですね」
「つまり?」
「時間をかければ危険です。速やかに排除します」
ラオンは杖を振る。
空気が震え、圧縮された魔力が放たれた。
影は霧のように散り、地面に溶けて消える。
一体、二体――残りは、逃げるように後退し消滅した。
「……終わりです」
結界が解かれ、静寂が戻る。
「す、すご……」
ティナは目を丸くした。
「一瞬だったね……」
「脅威度が低かっただけです」
ラオンは杖を下ろし、周囲を確認する。
「怪我は?」
「ない! ……あ、でも」
ティナは自分の胸元を見て、首を傾げた。
「なんか、さっき一瞬だけ、胸がきゅっとした」
「恐怖反応でしょう」
「うーん……怖いっていうより……」
ティナは言葉を探すように視線を泳がせた。
「……ラオンが前に立った瞬間、変な感じがした」
「変な、とは」
「えっと……頼もしい、みたいな……」
ラオンは沈黙した。
頼もしい、という評価は、明確な感情語だ。
彼の理解範囲にはあるが、実感は伴わない。
「それは主観的印象です」
「うん。でもさ」
ティナは少しだけ声を落とした。
「ラオンが無事でよかった、って思ったの」
その言葉に、ラオンは一瞬だけ視線を逸らした。
理解はできる。
だが、なぜそれを“言葉にする必要があるのか”は、わからない。
「私は、損傷していません」
「そうじゃなくて!」
ティナは少し焦ったように言いかけて、止まった。
「……ううん。なんでもない」
まただ、とラオンは思う。
彼女は、言葉を途中で引っ込めることが多い。
それがなぜなのか、理由は不明だ。
「進みましょう」
「……うん」
二人は再び歩き出す。
しばらくして、ラオンはふと口を開いた。
「先ほど、後ろに下がらなかった理由ですが」
「え?」
「危険でした。次からは、もっと距離を取ってください」
ティナは一瞬きょとんとし、それから笑った。
「それ、心配してる?」
「安全管理です」
「ふふ」
「何かおかしいですか?」
「ううん。ただ――」
ティナは前を向いたまま言った。
「ラオンって、優しいよね」
ラオンは返答しなかった。
優しい、という概念は、いまだ定義できない。
だが――
胸の奥に、先ほどと同じ“判別不能な違和感”が、わずかに残っていた。
それが何かを理解するには、
まだ、時間が必要らしい。
そしてその夜。
焚き火の傍で、ラオンは気づかなかった。
彼の影の端で、
淡い光を宿した蝶の幼体が、静かに羽を震わせていたことに。
まだ小さく、まだ不完全な――
感情の、前兆だった。




