2.「二人分の足音」
翌朝、森の空気は澄みきっていて、昨日の騒がしさが嘘のようだった。
ラオンは歩きながら、周囲の魔力の流れを確認する。異常はない。幻夢蝶の反応も、まだ感じられなかった。
後ろから、軽い足音がついてくる。
「ねぇラオン、森ってさ、昼と朝で全然違う顔してるよね!」
「湿度と光量の差です」
「ロマンの話をしてるのに!!」
ティナはそう言いながらも、楽しそうに辺りを見回している。昨日の爆発事故が嘘のように元気だった。
「足取りが軽いですね」
「そりゃそうだよ! 一人旅と二人旅じゃ、楽しさが段違いだもん!」
「効率は下がります」
「えっ、そうなの?」
「移動速度、注意分散、休憩頻度。総合的に非効率です」
「……でもさ」
ティナは少しだけ歩調を落とした。
「一人より、迷子になりにくいよ?」
「迷子にはなりません」
「昨日、地図逆さに見てたよ」
ラオンは一瞬、黙った。
「……視認角度の問題です」
「はいはい」
ティナは笑った。
その笑い声が、森の中で不思議とよく響く。
ラオンは一瞬だけ足を止め、音の反響を確認する。
(反響率が高い。森の魔力密度が……)
次の瞬間。
ひゅ、と冷たい風が吹いた。
「……?」
ティナが立ち止まる。
「ねぇ、今の風、変じゃない?」
「体感温度が局所的に低下しています」
ラオンは杖を構えた。
「この辺り、感情残留の濃度が高い」
「かんじょう……ざんりゅう?」
「強い想いが、処理されずに土地に残る現象です」
ティナはごくりと息を呑む。
「それって……危ない?」
「人に直接害はありません。ただ――」
ラオンは前方を見据えた。
「何かが、留まっています」
森を抜けた先には、小さな集落があった。街道沿いに建てられた簡素な宿と、旅人向けの露店が数軒並んでいる。ラオンは迷うことなく足を向けた。水と食料の補給が必要だからだ。
「わぁ……人の気配がある……!」
ティナはきょろきょろと周囲を見回し、少しだけ声を弾ませる。
ラオンはその様子を横目に見て、淡々と告げた。
「必要な物資を購入したら、長居はしません」
「えー、もうちょっと休もうよ! ほら、パン屋さんもあるし!」
「空腹は行動効率を下げます。購入は合理的です」
「つまり……一緒にパン食べてくれるってこと?」
「結果的にはそうなります」
「やった!」
ティナは両手を上げて喜んだ。
ラオンはその反応の理由を分析しかけて、やめた。分析しても答えは出ないと、最近わかってきたからだ。
露店でパンと干し肉を購入し、二人は宿の裏手にある木陰に腰を下ろした。
ラオンは無言でパンを割り、半分をティナに差し出す。
「……いいの?」
「あなたの携行食は甘味に偏りすぎています。栄養配分が非効率です」
「そ、そういう理由!?」
「他に理由はありません」
ティナは少しだけ口を尖らせ、それからパンを受け取った。
「……ありがとう」
小さな声だった。
ラオンは聞こえていないふりをして、自分の分を口に運ぶ。
そのときだった。
「……あれ?」
ティナが自分の手元を見つめて、首を傾げる。
「どうしました」
「なんか、さっきから……」
ティナは指先を見つめる。
その周囲に、ごく淡い光が揺れていた。
「えっ……なにこれ……」
ラオンは即座に立ち上がり、周囲に魔力探知を展開する。
「幻覚ではありません。微弱ですが、感情由来の魔力反応です」
「え!? じゃ、じゃあ……!」
ティナの声が、期待で震えた。
「幻夢蝶!?」
ラオンは一拍だけ間を置いた。
「断定はできません。ただ――」
彼はティナの指先を、じっと見る。
「発生源は、あなたです」
「……え?」
ティナは言葉を失った。
「私?」
「はい。あなたの感情変動に反応して、魔力が揺らいでいます」
「え、え、え……!? じゃあ、私が何かした!?」
「先ほどから特異な感情上昇が確認されています」
「か、感情上昇!?」
ティナは顔を赤くし、慌てて否定する。
「ち、違うよ!? 別に変なこと考えてないし!? パンもらって嬉しかっただけだし!? べ、別に特別な意味とか――」
「十分に特異です」
「そこまで言う!?」
ティナは両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。
「やだ……恥ずかしい……」
ラオンは困惑した。
感情がない彼には、その反応が過剰に見える。
だが同時に、見逃せない事実があった。
「幻夢蝶が感情から生まれるという仮説は、あなたの存在によって補強されました」
淡々とした声だった。
評価でも、励ましでもない。
だが、ティナは顔を上げて、ラオンを見た。
「……それって」
彼女は小さく息を吸い、
「わたし、役に立ってる?」
ラオンは即答した。
「はい。非常に」
迷いのない声音だった。
ティナの胸が、きゅっと音を立てて締めつけられる。
(……だめだ)
(この人、絶対、何も考えてないのに)
(こういうこと、平気で言うんだから)
「そ、そっか……!」
ティナは立ち上がり、無理に明るく笑った。
「じゃあさ、私、頑張っていっぱい感情出すね!!」
「過剰な出力は不要です」
「でも出ちゃうかもしれないし!!」
「制御を推奨します」
「無理だよ!!」
ラオンは一瞬だけ黙った。
制御できない感情。
それは欠陥ではなく、特性なのかもしれない。
彼はそう結論づける。
「……では、観測を続けます」
「観測!?」
「あなたの感情は、幻夢蝶探索において重要です」
「……そ、そっか」
ティナは俯き、胸元を押さえた。
(観測対象)
(役に立つ)
(それだけ、なのに)
それでも、胸の奥が熱い。
ラオンが歩き出す。
ティナは一歩遅れて、その背中を追った。
――今日もまた、
彼は何も知らない。
そしてティナは、
知られないままでいい理由を、一つ増やしてしまった。




