12.選ばなかったはずの一手
幻夢蝶が消えたあとも、広間の空気は変わらなかった。
いや、正確には――
変わっていないように見えただけだ。
ラオンは歩きながら、遺跡内部の構造図を頭の中で再構築していた。
古代文字の配列、床の摩耗、壁面の補修痕。
(進路は三つ。
安全度が高いのは左。
探索効率が高いのは正面。
そして――)
右。
最も危険で、最も情報密度が高い経路。
「……ラオン?」
ティナが、不安そうに声をかける。
ラオンは足を止めず、右手側の通路へと向かった。
「こちらです」
「え、でも……!
地図だと、こっちは崩落リスクが――」
「あります。七割」
即答。
「……七割って、高すぎない?」
「許容範囲です」
ティナは、言葉を失った。
以前のラオンなら、この確率は即却下だった。
最低でも三割以下。
それが、彼の一貫した判断基準だったはずだ。
「……どうして?」
問いは、責めるものではない。
確認だった。
だがラオンは、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。
(……なぜ、だ?)
理由は、ある。
だが、それは「計算結果」ではない。
「……この経路が、最短です」
最短。
その言葉を口にした瞬間、ティナの胸がざわついた。
「……最短、だけ?」
「はい」
それ以上の説明はなかった。
通路に入った直後、予想通り落石が起きた。
だがラオンは、落ちる前に動いた。
「伏せて」
ティナが理解するより早く、ラオンは彼女を引き寄せ、壁際へと押し込む。
同時に、最小限の防御魔術を展開。
崩落は、二人のすぐ背後で止まった。
完璧なタイミング。
――間に合っている。
それが、ティナにとっては不気味だった。
「……今の……」
「問題ありません」
ラオンは平然としている。
だが、ティナは見ていた。
彼が、落石が起きる前から避ける位置に動いていたことを。
「……聞いていい?」
「どうぞ」
「今の、予測……?」
「……いいえ」
ラオンは、首を振った。
「判断です」
その答えは、正しい。
だが、納得できない。
判断にしては、速すぎる。
正確すぎる。
進むにつれ、異常は積み重なった。
罠の作動前に、止まる。
魔力逆流が起きる直前で、経路を変える。
崩落が連鎖する場所を、なぜか避け続ける。
偶然ではない。
経験でもない。
そして――
ラオンは、迷わない。
(……前は……)
ティナは思い出す。
彼はいつも、判断前に一拍置いた。
考え、検証し、最悪を想定し、それでも決めていた。
今は違う。
最初から答えを知っているような動き。
「ラオン」
とうとう、ティナは足を止めた。
「……ちょっと、待って」
ラオンも立ち止まる。
「どうしました」
「……変だよ」
はっきり言った。
「最近のラオン、
正しいけど……正しすぎる」
ラオンは、眉をわずかに動かした。
「それは、問題ですか」
「……問題、かどうかは分からない。
でも――」
ティナは言葉を探す。
「前は、怖かった。
でも今は……」
言えなかった。
怖さの種類が違う、とは。
「……進めますか」
ラオンは、先を促す。
それ以上、この話題に触れない。
触れる必要がない、と判断したように。
ティナは、頷くしかなかった。
遺跡の奥で、微かな振動が走る。
幻夢蝶の気配が、再び近づいている。
ラオンは、それを「検知」ではなく、
当然の流れとして受け入れていた。
(……問題はない)
そう結論づける。
だがその判断には、
かつて必ず添えられていた言葉が、欠けていた。
――「慎重に」。
ラオンの異変は、まだ小さい。
だが、確実に行動に現れ始めていた。
そしてティナは、
それを止める言葉を――
まだ、持っていなかった。




