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11.触れてはいけない距離

 崩落した床下空間を抜けた先は、想像以上に静かだった。


 音がない。

 風も、滴る水の音すらない。


 それなのに、空間は満ちている。


 ――何かで。


「……ここ」


 ティナが、声を潜めて呟く。


 ラオンも同意見だった。

 魔力密度は、これまでで最も高い。

 だが圧迫感はない。


 むしろ、柔らかい。


「幻夢蝶の反応源は、この先です」


 通路は緩やかに開け、円形の広間へと続いている。

 床には古代文字が円環状に刻まれ、中央には何もない。


 いや――


 何もないように、見えるだけだ。


「……見えない?」


 ティナが首を傾げる。


「可視化されていません。存在は、確かです」


 ラオンは一歩、前に出た。


 その瞬間。


 空間が、揺れた。


 視界が歪む。

 だが、それは幻視とは違う。


 空間そのものが、重なった。


 重なったのは、遺跡ではない。


 草原。

 青い空。

 遠くで、誰かが手を振っている。


「……!」


 ティナが息を呑む。


 ラオンは、即座に魔術障壁を展開しかけ――止めた。


(干渉……しかし、攻撃ではない)


 判断が、異様なほど速い。


 だが、今回は遮断しなかった。


 空間の中央に、淡い光が集まり始める。

 粒子が、羽の形をとる。


「……ちょうちょ……」


 幻夢蝶。


 初めて、明確な輪郭を持って姿を現した。


 白でも、青でもない。

 光そのものが羽ばたいているような存在。


 美しい、という評価が、

 ラオンの思考の端に浮かび――消えた。


 評価不能。


 だが、解析不能でもある。


 幻夢蝶は、ゆっくりと二人の周囲を回る。

 近づきすぎず、離れすぎず。


 その距離、一歩分。


 触れられる。

 だが、触れてはいけない。


 そんな感覚。


「ラオン……」


 ティナの声が、震えている。


「……これが……?」


「幻夢蝶、確定です」


 ラオンは、杖を構えなかった。


 理由は、明確だ。


 敵意がない。

 警戒反応もない。


 むしろ――


 観測しているのは、こちらではなく、向こうだ。


 幻夢蝶の羽が、一度だけ、大きく羽ばたいた。


 その瞬間。


 ティナの視界が、完全に切り替わった。


 ――夜の部屋。

 机に伏せる、小さな自分。

 開かれたノート。


「……っ」


 懐かしい。

 胸が、きゅっと締め付けられる。


 一方で、ラオンの視界に映ったのは――


 数式。

 魔術陣。

 論文の断片。


 感情ではない。

 過去の記憶ですらない。


 可能性の羅列。


 もし、別の判断をしていたら。

 もし、感情を封じなかったら。

 もし――


 「……遮断」


 ラオンは、半ば反射的に幻視を切った。


 幻夢蝶が、わずかに揺れる。


 拒絶ではない。

 だが、近づくこともない。


 不完全な接触。


 互いに、触れきれない距離。


「……ラオン、今の……」


「あなたは、何を見ましたか」


 即座の質問。

 だが、声はいつもより低い。


「……昔のこと。

 忘れてた……忘れたと思ってたこと」


 ラオンは、わずかに視線を伏せる。


 彼が見たものは、語れない。

 語るべき言葉を、持っていない。


「幻夢蝶は、感情を“与える”存在ではありません」


 そう、結論づける。


「……じゃあ、なに?」


「感情が生まれる“余地”を、照らす存在です」


 その言葉に、ティナは息を止めた。


「……やっぱり、すごい」


 ラオンは否定しなかった。


 幻夢蝶は、再び淡く光り、少し距離を取る。

 消えることはない。


 だが、これ以上近づくこともない。


 初接触は、失敗でも成功でもない。


 ただ、成立してしまった。


 ラオンは理解する。


 この存在は、捕まえるものではない。

 利用するものでもない。


 そして――


 安易に踏み込めば、戻れなくなる。


 数値には、まだ現れていない。

 だが、内部で確実に、何かが動いた。


 幻夢蝶は、広間の奥へと漂っていく。


 誘い。

 あるいは、猶予。


「……追いかける?」


 ティナが、小さく尋ねる。


 ラオンは、ほんの一瞬だけ、沈黙した。


 判断は、すぐに出る。

 だが、その直前に――


 わずかな躊躇が生じた。


「……はい」


 それでも、進む。


 まだ、完全ではない。

 だが、もう引き返せない段階に入ったことを、

 ラオンは直感的に理解していた。


 幻夢蝶との距離は、縮まっていない。


 だが、確かに――

 互いを知ってしまった。

 遺跡の空気は、ひどく静かだった。


 音がないわけではない。

 風が通り、石が軋み、遠くで水が滴る。

 それでもラオンには、そのすべてが遠く感じられた。


 ――ここは、正しい。


 理由は説明できない。

 だが、そう判断してしまう自分がいた。


「ラオン……?」


 後ろから、ティナの声がした。

 小さく、確かめるような声。


 ラオンは足を止めないまま答える。


「問題はありません。遺跡の構造も、魔力の流れも安定しています」


「……そう、なんだ」


 ティナはそれ以上、何も言わなかった。

 けれど、ラオンは分かっている――彼女が、納得していないことを。


 それでも進む。

 判断に迷いはなかった。


 正確には、迷いが存在しているという自覚がなかった。



 遺跡の通路は、奥に進むほどに装飾が増えていく。

 壁に刻まれた文様は、蝶の羽にも、人の瞳にも見えた。


「これ……全部、幻夢蝶?」


 ティナが小さく呟く。


「象徴でしょう。崇拝、あるいは観測対象」


「観測……」


 ティナは言葉を反芻する。

 そして、ラオンを見る。


「ねえ、ラオンはさ。もしも他の幻夢蝶が見つかったら……どうするつもり?」


 ラオンは即答した。


「検証します。感情を取り戻す可能性があるなら、接触は必要です」


「……危なくても?」


「危険性は許容範囲です」


 ティナは、ぎゅっと指先を握った。


「それって……自分がどうなるか、考えてる?」


 ラオンは一瞬、思考を止めた。


 ――自分が、どうなるか。


 その問いは、奇妙だった。

 これまで、彼は常に「結果」だけを見てきた。

 国を救うため、災厄を封じるため、感情を捨てることを選んだ。


 自分がどうなるか、という視点は――


「考慮対象ではありません」


 そう答えた瞬間、

 ティナの表情が、ほんの一瞬だけ歪んだ。


 ラオンは気づかない。



 遺跡の最深部へ続く扉の前で、二人は立ち止まった。


 扉は半透明で、向こう側に淡い光が揺れている。

 まるで、呼吸しているように。


 ラオンは無意識に、一歩前へ出ていた。


 そのとき。


「待って!!」


 ティナが、初めて強い声を出した。


 ラオンは振り返る。


「どうしました?」


 ティナは息を整えながら、言葉を探しているようだった。

 視線が揺れ、唇が震える。


「……ごめん。

 理由、うまく言えない」


「理由がなければ、行動の制限は――」


「それでも!」


 ティナは、ラオンの袖を掴んだ。


 その指先は、はっきりと震えていた。


「行かないで……じゃなくて……一緒に、考えてほしい……また、さっきみたいになるかも……」


 ラオンは、その手を見る。


 震えている。

 体温がある。

 力は弱いが、離そうと思えば簡単に振りほどける。


 ――それでも。


 なぜか、その選択肢が浮かばなかった。


「……何を、考えるのですか?」


 ティナは、かすかに笑った。


「分かんない。

 でも、たぶん……今、決めちゃいけないこと」


 沈黙が落ちる。


 遺跡の奥で、蝶の羽音のようなものが、微かに響いた。


 ラオンは、その音に反応する。

 胸の奥が、僅かにざわつく。


 これは――

 危険信号か。

 それとも、ただの環境音か。


 判断が、できない。


 それが、初めてだった。


「……少しだけ、待ちましょう」


 自分の口から出た言葉に、

 ラオン自身が驚いた。


 ティナは、目を見開き、

 それから、泣きそうな笑顔を浮かべた。


「うん……ありがとう」


 ラオンは頷く。


 理由は説明できない。

 だが、今は――それでいい気がした。


 遺跡の奥で、幻夢蝶の光が、確かに強くなったことを、

 二人ともまだ知らない。


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