プロローグ
世界には、魔術という力が存在する。
人々は火を灯し、風を操り、星々の声すら読み取る。だがそれらは、決して“無料の奇跡”ではなかった。魔術は必ず代償を求める。わずかでも使えば疲労し、大魔術を扱えば肉体のどこかが欠ける。指一本、視力、声――そして稀に、“心”。
その伝承を誰より理解していたのが、一人の青年魔術師、ラオン・メルヴァンだった。
数ヶ月前、王都に迫っていた災厄があった。瘴気をまき散らし、城壁を越えれば人が一息で心を蝕まれてしまう。王国の魔術師団は防壁を張り続けていたが、災厄は日ごとに膨張し、もはや遅延にしかならなかった。
そこで、ラオンは一人で禁術を使った。
数百年前、禁じられた古代魔術――《心代封印式》。己の感情と引き換えに、災厄の核を封じる術。
ラオンは迷わなかった。必要ならば、命さえ差し出す覚悟が、静かにそこにあった。
禁術は成功し、災厄は消えた。王国は救われ、城下町には祝宴が広がった。
そして、ラオンは英雄になった。
……感情のない英雄に。
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封印翌日、目を覚ましたラオンは、泣き叫ぶ幼子を見ても、まったく胸が動かなかった。
城壁上から見る、朝焼けの空にも感慨はない。
「……感情が、ない」
あまりに淡々とした自己報告に、医師も側仕えも困惑した。
「本当に、何も?」
「ええ。喜び、怒り、悲しみ、驚き……自覚できません。胸の鼓動も平常。脳内の刺激反応も薄い。観測可能な心的変化はゼロです」
「ゼロって!」
医師は泣きそうに叫ぶ。が、本人は特に困っていない表情だった。というより、表情すらほとんど無い。
ただ、唯一の問題がある。
人が褒めようが罵ろうが、胸が動かない。
そのせいで、対人関係が不自然だ。
「英雄ラオン様! どうかお礼をさせてください!」
「不要です。仕事ですので」
「お、お仕事……!」
涙しながら握手を求める人々の手を、淡々と受け流す姿は、むしろ“超クール”と誤解された。
ラオンとしては、本人なりに理屈はある。
助けられる命があったから助けただけ。そこに高揚も達成感もない。
ただ、それが人には伝わらない。
城下町では「無感情の天才魔術師」や「表情筋絶滅危惧種」と呼ばれる始末だった。
ラオン自身は「呼称はどうでもいい」と思っている。
⸻
だが数ヶ月が経ち、ラオンは一つの問題に気づく。
――自分が何を求めて生きているのか、わからない。
食欲はある。睡眠も取れる。日常生活に支障はない。
魔術も使える。計算もできる。頭脳は問題ない。
ただ、生きる“意味”がわからない。
一般人が抱く幸福、感動、愛、夢――それらの概念は理解している。
だが、それは“辞書的な理解”だ。
感情を失ったラオンには、幸福を目指す理由が存在しない。
仕事をこなしても、褒められても、何も感じない。
達成しても、喪失しても、同じ。そこに波がない。
——世界が全部、無音になったようだった。
それでも、ラオンは淡々と生きていた。生活に困ることはなかったし、国も守れた。自分の役割は終わった。
だから本来、悩む必要はどこにもない。
ただ――
「……幸福とは、なんだ?」
ふと、王都の喧騒を眺めながら、そう呟いた。
人々は笑い、酒を飲み、歌い、抱き合う。
災厄が去った日々は、色彩にあふれている。
夜空には花火が打ち上がり、恋人たちは手を繋いで踊る。
その楽しげな光景を、ラオンは“理解はできる”。だが“共鳴はできない”。
心が動かないのだ。
「幸福というものは、どのように測定するのだろう」
真顔でそんなことを考え始めてしまう。
城下の酒場でそんな話をしたら、店主に真顔で言われた。
「あんた、いちど誰かに恋でもしたほうがいい」
「恋愛感情もありませんが」
「そんな人生はもったいない!」
もったいないと言われても、本人としては困る。
「感情を失っていても、生活は可能です。問題ありません」
「いや、問題しかないわ!」
なぜ怒るのかラオンにはわからなかった。
⸻
そんなラオンの前に、旧友の占術師、アゼルが現れた。
アゼルは古い知識や禁術に詳しい学者で、ラオンが封印術を扱う前に、唯一相談した人物でもある。
「ラオン、少し話がある」
王立図書館の奥、閉架の書物室。
アゼルは重厚な巻物を広げ、そこに描かれた一匹の蝶を指さした。
淡い青色、半透明の羽。星屑が散るような模様。
《幻夢蝶》
「……蝶ですか?」
「ただの蝶じゃない。失われた“心”から生まれる、奇跡の生命体だ」
「心が、生命になるのですか」
「正確には、“心の残滓が世界に流れ、形を持ったもの”と伝承にはある。古い時代、感情を奪われた者が蝶を捕らえ、その胸に宿したとき――感情が戻ったという」
「伝承ですか」
「伝承だが、試す価値はあるだろう?」
ラオンは巻物を淡々と読んだ。
そこには、蝶を探すための手記や、儀式の断片、古い地図が描かれていた。
「……ただ、蝶は基本的に人に見つからない。幻の存在だ。旅は困難になる」
「困難に意味を感じませんが、取り戻せる可能性があるなら、検証はすべきです」
「おお……おまえ、ちょっとだけ情緒戻った?」
「戻っていません。単なる論理的判断です」
「ちがう、こういう冷静なツッコミが戻ってるというか……」
「最初からこういう性格です」
アゼルは頭を抱えた。
だが、ラオンの内側には確かに、わずかな変化があるのかもしれない。本人は自覚していないが、禁術以来、初めて“自分以外の可能性”を考えている。
もし、失った感情を取り戻せるなら――生きる意味が変わるかもしれない。
それは論理だけでは説明できなかった。
「わかったよ、ラオン。これはおまえへの旅の招待状だ。蝶を探しに行け」
「行き先は?」
「地図にある遺跡を順に巡れば、蝶の痕跡が集まっているらしい」
ラオンは立ち上がる。
「では、旅に出ます」
「……本当に即決か」
「理屈は通っています。検証する価値がある」
アゼルは微笑んだ。
「もし感情が戻ったら、まず私を殴れ」
「なぜですか」
「禁術に手を貸したせいで、おまえの人生がこんなにややこしくなったからな」
ラオンは淡々と答えた。
「殴るのは非効率です。感謝はしています」
「泣かせるな」
アゼルは目頭を押さえたが、ラオンは首を傾げた。
⸻
その夜、王都を出るラオンの荷物は少なかった。
杖、魔術記録帳、簡易テント、乾燥パン、そして巻物。
旅に“期待”はない。胸も騒がない。
ただ、可能性が存在する。
もし感情が戻れば、幸福が何かわかるかもしれない。
もし戻らなくても、検証結果が残る。
旅立つ理由は、それで十分だった。
ラオンは月明かりの下、静かに歩き始めた。
心は無音。夜風は無味。世界は無彩色。
だが、たった一羽の蝶がどこかで舞っている――
そんな伝承を、論理では説明しづらい執着で追いかけていた。
それが、この旅の始まりだった。




