9話 手紙
朝の光が、やけに白かった。
まるで世界ごと乾ききってしまったように、部屋の隅の影さえ色を失っている。
春は机の上に置かれた箱を見つめていた。
それは、母が亡くなる前に大切にしていた小さな木箱。
鍵はとうに壊れていて、開けることをためらっていたものだった。
湿気がいなくなってから、何日が過ぎただろう。
窓を開けても、あの柔らかい風はもう吹かない。
どんなに空を見上げても、彼女の笑い声は聞こえない。
――行かないで、と言ったのに。
春は、そっと蓋を開けた。
中には、折り紙の鳥と、一通の手紙が入っていた。
白い便箋の端は、少しだけ湿っていた。
母の字だった。
震える手で、春は封を切った。
――「春へ」
あなたが生まれたとき、
私はたくさん泣きました。
その理由はね、
男の子のあなたには きっとわからないと思う。
でも――これだけは覚えていてください。
どうか、自分を否定しないで。
強く、生きて。
でないと、私はとても悲しいの。
あのね、春。
あなたが五歳くらいのとき、
私たち、かくれんぼをしたのを覚えている?
あなたがキョロキョロと私を探し回る姿が、
おかしくて、かわいくて。
私は路地のかたすみで、
くすくす笑いながらあなたを見ていました。
あの頃のあなたは、私を見つけることができなかった。
でも――今のあなたなら、きっと見つけられるはずです。
その子は、あなたの運命の相手。
私の分身。
どうか早く、その子を見つけてあげて。
そうしたら、私の役目はもう終わるから。
本当はね、
ずっとかくれんぼしていたかった。
ずっと一緒に、滑り台で遊びたかった。
でもね――もう、私は眠たいの。
ごめんね、春。
ずっと一緒に遊ぶことはできないの。
だから、もう私を愛さないで。
あなたの重荷になるのは嫌だから。
でもね……
愛しています、春。
ずっと、ずっと。
さあ
空を飛んで。湿気と一緒に。私が作った世界を抜けて、自由になって
お母さんより
春は、手紙を握りしめたまま動けなかった。
文字の一つひとつが、あの優しい声に変わって胸の奥で響く。
“運命の子”“分身”――その言葉が、
ずっと一緒にいた“湿気”の姿と重なる。
彼女の笑顔。
雨上がりの匂い。
指先で触れた、ひんやりとしたぬくもり。
――あれは、母の想いだったんだ。
春は気づいてしまった。
湿気は、母が最後に残した“願い”そのもの。
自分をひとりにしないために、この世界に留めた心の形。
涙が一粒、便箋に落ちた。
その雫が染みて、文字が少し滲んだ。
でもその滲みが、まるで母の笑顔のように優しく見えた。
風が、カーテンを揺らした。
その隙間から、淡い光が差し込む。
光の粒の中に、一瞬だけ――湿気の姿が見えた気がした。
「春」
確かに、そう呼ぶ声がした。
春は顔を上げ、涙の向こうの光を見つめた。
手紙の最後の一文が、胸の中で静かに響く。
――「空を飛んで。湿気と一緒に。私が作った世界を抜けて、自由になって。」
春は、涙を拭いて微笑んだ。
窓の外、青く澄んだ空が広がっていた。
そこには、母の言葉と、湿気の笑顔が溶けていた。
次の日、春は屋上に立った。
風が頬を撫で、どこか遠くから「行こう」という声が聞こえた気がした。
――それが、“終わり”ではなく、“始まり”なのだと、
春はようやく知った。




