8話 再会
夜明け前の雨は、静かに止んでいた。
濡れた窓ガラスに映る朝の光が、ゆっくりと部屋の中へ広がっていく。
春は机に伏せたまま、夢と現実の境を彷徨っていた。
母の部屋から見つけた古い日記の文字が、脳裏に焼きついて離れない。
――湿気。
――彼を守るために、私はこの子を生んだ。
信じたくない思いと、どこかで“そうかもしれない”と納得してしまう心が、胸の奥でせめぎ合う。
彼女の笑顔、声、あの透明な指先。すべてが幻だったのだろうか。
そのとき、風が部屋のカーテンを揺らした。
白い布の向こうで、光がひとすじ、淡く瞬く。
――春。
声がした。
懐かしい、雨上がりの風のような声。
春はゆっくりと顔を上げる。
そこに、湿気がいた。
薄い朝の光の中で、彼女はほとんど透けて見えた。
髪が光を吸い込み、肌は霞のように淡く揺れている。
それでも、微笑みは以前と変わらなかった。
「……どうして、今になって」
「あなたが呼んだからだよ」
「呼んでない」
「心が呼んだの。――寂しいって」
春は唇を噛んだ。
その言葉に、何も言い返せなかった。
湿気は静かに近づき、春の頬に手を伸ばす。
その指は、触れた瞬間、霧のように消える。
「ねぇ、春。わたし、もうすぐ消えるの」
「そんなの、やめろよ」
「やめられないの。あなたが強くなったから」
湿気は微笑んだ。
その目の奥に、深い優しさと、悲しみが揺れている。
「あなたは、もう一人で歩ける。だから――」
「違う。俺はまだ……」
「いいの。人は、一人で生きていくために、誰かを愛するんだよ」
言葉の意味が胸に沈む。
春はふと、昔の記憶を思い出した。
母の膝の上で聞いた童話。
“人の心から生まれる妖精”の話。
「君は、母さんの……想い、なの?」
湿気はゆっくりと頷いた。
「お母さんはね、ずっとあなたを守っていた。
でも、それだけじゃ、あなたは外の世界に行けなかった。
だから、わたしを生んだの。
あなたが“見つける”ために」
「見つける……?」
「そう。お母さんがかくれんぼしていた“想い”を」
春は拳を握った。
涙がこみあげる。
「ずっと隠れてたのに、やっと見つけてくれたね」
湿気は微笑みながら、そっと春の頭に触れた。
手のひらはあたたかく、懐かしい匂いがした。
雨のあとに母が干したシーツの匂い――。
「行かないでくれ。まだ話したいこと、たくさんあるんだ」
「春。わたしがいなくなっても、愛は消えないよ」
「嘘だ……!」
「本当。
だって、あなたの心の中にいる限り、わたしは乾かない」
湿気の身体が、淡い光に包まれていく。
まるで朝日が霧を溶かすように、輪郭が少しずつ薄れていく。
「春、ありがとう」
「やめろよ、そんな顔で笑うなよ……!」
「――愛してるよ」
その声は、光とともに消えた。
部屋の中には、ただ静かな風の音だけが残る。
春はその場に立ち尽くし、両手で顔を覆った。
涙は止めどなくあふれ、床を濡らしていく。
けれど、ふと気づく。
頬を伝うその雫は、いつか湿気が言っていた“乾くための涙”だった。
涙が尽きるころ、机の上に一枚の紙が落ちていた。
白い紙に、見覚えのある筆跡。
――春へ。
そこには、母の名前が記されていた。
手紙の封が、静かに開いていく。




