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湿気の子  作者: たかし
8/10

8話 再会

 夜明け前の雨は、静かに止んでいた。

 濡れた窓ガラスに映る朝の光が、ゆっくりと部屋の中へ広がっていく。

 春は机に伏せたまま、夢と現実の境を彷徨っていた。

 母の部屋から見つけた古い日記の文字が、脳裏に焼きついて離れない。


 ――湿気。

 ――彼を守るために、私はこの子を生んだ。


 信じたくない思いと、どこかで“そうかもしれない”と納得してしまう心が、胸の奥でせめぎ合う。

 彼女の笑顔、声、あの透明な指先。すべてが幻だったのだろうか。


 そのとき、風が部屋のカーテンを揺らした。

 白い布の向こうで、光がひとすじ、淡く瞬く。


 ――春。


 声がした。

 懐かしい、雨上がりの風のような声。

 春はゆっくりと顔を上げる。


 そこに、湿気がいた。


 薄い朝の光の中で、彼女はほとんど透けて見えた。

 髪が光を吸い込み、肌は霞のように淡く揺れている。

 それでも、微笑みは以前と変わらなかった。


「……どうして、今になって」

「あなたが呼んだからだよ」

「呼んでない」

「心が呼んだの。――寂しいって」


 春は唇を噛んだ。

 その言葉に、何も言い返せなかった。

 湿気は静かに近づき、春の頬に手を伸ばす。

 その指は、触れた瞬間、霧のように消える。


「ねぇ、春。わたし、もうすぐ消えるの」

「そんなの、やめろよ」

「やめられないの。あなたが強くなったから」


 湿気は微笑んだ。

 その目の奥に、深い優しさと、悲しみが揺れている。


「あなたは、もう一人で歩ける。だから――」

「違う。俺はまだ……」

「いいの。人は、一人で生きていくために、誰かを愛するんだよ」


 言葉の意味が胸に沈む。

 春はふと、昔の記憶を思い出した。

 母の膝の上で聞いた童話。

 “人の心から生まれる妖精”の話。


「君は、母さんの……想い、なの?」

 湿気はゆっくりと頷いた。


「お母さんはね、ずっとあなたを守っていた。

 でも、それだけじゃ、あなたは外の世界に行けなかった。

 だから、わたしを生んだの。

 あなたが“見つける”ために」


「見つける……?」

「そう。お母さんがかくれんぼしていた“想い”を」


 春は拳を握った。

 涙がこみあげる。


「ずっと隠れてたのに、やっと見つけてくれたね」

 湿気は微笑みながら、そっと春の頭に触れた。

 手のひらはあたたかく、懐かしい匂いがした。

 雨のあとに母が干したシーツの匂い――。


「行かないでくれ。まだ話したいこと、たくさんあるんだ」

「春。わたしがいなくなっても、愛は消えないよ」

「嘘だ……!」

「本当。

 だって、あなたの心の中にいる限り、わたしは乾かない」


 湿気の身体が、淡い光に包まれていく。

 まるで朝日が霧を溶かすように、輪郭が少しずつ薄れていく。


「春、ありがとう」

「やめろよ、そんな顔で笑うなよ……!」

「――愛してるよ」


 その声は、光とともに消えた。


 部屋の中には、ただ静かな風の音だけが残る。

 春はその場に立ち尽くし、両手で顔を覆った。

 涙は止めどなくあふれ、床を濡らしていく。


 けれど、ふと気づく。

 頬を伝うその雫は、いつか湿気が言っていた“乾くための涙”だった。


 涙が尽きるころ、机の上に一枚の紙が落ちていた。

 白い紙に、見覚えのある筆跡。


 ――春へ。


 そこには、母の名前が記されていた。

 手紙の封が、静かに開いていく。

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