第5話 風の中の声
春は、いつの間にか外に出ることが増えていた。
以前は窓から空を眺めるだけだったのに、いまは玄関を開けるたび、胸の奥が少しだけ軽くなる。
湿気は、まるで風と同じように現れる。
ときには庭の花びらをくすぐるように、またある時は日差しの中で髪を揺らすように。
彼女は笑いながら言った。
「風の匂い、覚えてる? これは“記憶の香り”なんだよ」
春は首をかしげた。
「記憶の……香り?」
「うん。風ってね、いろんな場所を通ってくるの。人の想いも、過去の声も、みんな運んでくるの」
湿気は、空に手を伸ばして目を細めた。
「だから、時々懐かしくなるんだ。会ったこともない人のことを思い出したりして」
春は黙ってその横顔を見つめた。
どこか懐かしい。
初めて会ったはずなのに、彼女が笑うたび、胸の奥が温かくなる。
小学校の帰り道、母と手をつないで歩いた記憶がふとよみがえる。
あの日の風も、今日と同じ匂いだった気がする。
――春風のようにやわらかく、どこか切ない。
「ねえ、春」
湿気が振り向いた。
「あなたの中には、ちゃんと愛があるよ」
「……俺の中に?」
「うん。隠してるだけ。乾いたままだと見えないんだ」
春は笑った。
「そんなの、よくわかんない」
「じゃあ、試してみよう」
湿気は、手を差し出した。
その手は透明で、光を透かしてきらきらと揺れている。
春はおそるおそる指を伸ばした。
触れた瞬間、指先にやさしい温度が流れこんでくる。
風の音、土の匂い、母の笑い声――いくつもの感覚が、胸の中にいっせいにあふれた。
「これが……愛?」
「うん。あなたの“記憶”の中の愛」
湿気の声は、どこか遠くから響いてくるようだった。
春の目の前で、彼女の姿が淡く揺らぎはじめる。
「……湿気?」
「春、もし……わたしがいなくなっても、空を見てね」
「何、言ってるんだよ」
「大丈夫。風は、どこにでも行けるから」
風が吹き抜けた。
春の頬を撫で、彼の髪をなびかせ、淡い光の粒を散らしていく。
湿気の姿は、少しずつ透けて、空の向こうに溶けていった。
「湿気!」
春は手を伸ばす。
けれど、その手は何も掴めない。
光だけが、ゆっくりと空へ昇っていく。
やがて風がやみ、庭の片隅に紙の鳥が一枚、落ちていた。
湿気が折ったものだ。
羽の部分には、淡い文字でこう書かれていた。
――「空を見て」
春は、その紙の鳥を胸に抱いた。
そして初めて、空を見上げた。
雲が流れていく。
風の中に、かすかにあの声が混じっていた。
「泣いていいんだよ、春」
その声は、まるで母の声のようにやさしかった。




