第4話 かくれんぼ
昼下がりの光が、薄いカーテンの隙間から差し込んでいた。
部屋の空気は、少しぬるく湿っている。窓を開けると、遠くの庭で風鈴が鳴った。
「ねえ、春。かくれんぼ、しようよ」
湿気が、机の上から顔をのぞかせた。
その声は、まるで昔からこの家にいたように自然で、春は思わず笑ってしまう。
「かくれんぼ?」
「うん。ルールは簡単。わたしがどこかに隠れるから、春が探すの」
春は少し考えてから頷いた。
湿気が隠れる姿を想像すると、なんだか少しだけ心が軽くなる気がした。
「いいよ。でも隠れる場所なんて、ここにはあまりないけど」
「ふふ、妖精をなめないで。見つけられるかな」
湿気はふわりと宙に浮かび、光の粒のように弾けた。
次の瞬間には、もう姿が見えなかった。
春は椅子を立ち上がり、部屋の隅々を見回した。
カーテンの裏、ベッドの下、クローゼットの扉の影。どこにもいない。
窓辺に視線を向けると、陽射しの中で埃が舞っている。
その光の粒が、まるで湿気の笑い声のように見えた。
「……降参」
そう呟いた瞬間、どこからともなく柔らかな声が返ってきた。
「もう、あきらめるの? 昔の春なら、最後まで探したのに」
春は目を見開いた。
その言葉に、胸の奥で何かがはじけるような感覚があった。
――昔の春。
その響きに導かれるように、彼は無意識に廊下へと出た。
母の部屋の前で立ち止まり、そっとドアノブに手をかける。
きしむ音を立てて扉を開けると、空気がひやりと変わった。
部屋の中は、今も母が寝ていた頃のままだった。
ベッドの上には、たたまれた毛布と、壁際の本棚。
その一角に、ひときわ色あせた写真立てが置かれていた。
春と、若い頃の母が笑って写っている。
背景には小さな公園の滑り台。
その瞬間、記憶が静かに蘇る。
――あれは、春が五歳のとき。
かくれんぼをしていた。
春は何度も「もういいかい」と呼び、母は「まだだよ」と笑っていた。
どれだけ探しても見つからなくて、泣きそうになったとき。
ふと風が吹いて、木の影の奥から、母の笑い声がした。
「ここだよ、春」
あの声。あの笑顔。
春は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
「ねえ、湿気。どうして、あのこと知ってるの?」
振り向くと、窓の外に光の粒が揺れていた。
湿気がそこに立っていた。白いワンピースを風になびかせ、穏やかな瞳で春を見つめている。
「わたし……昔、この家にいた気がするの」
「え?」
「その時、あなたが“おかあさん”って呼んだ声を、聞いたことがある気がして」
春は言葉を失った。
湿気は静かに続ける。
「あなたは、泣きながら探してた。わたしは、路地のかたすみで、あなたを見てた」
「……それ、母さんの言葉だ」
湿気は目を伏せて微笑んだ。
その表情は、どこか母の面影に似ていた。
「ねえ、春。人はね、探すことで優しくなれるんだよ」
「探すことで……?」
「うん。大切なものを見つけたいって願う心が、人をあたたかくするの」
春はうつむいた。
目頭が熱くなり、胸の奥で小さな音が鳴る。
「俺、もう誰も見つけられないと思ってた」
「でも、もう見つけたじゃない」
湿気はそっと手を差し出した。
その手は透けていて、触れようとしても空気のようにすり抜ける。
それでも、春はその温度を確かに感じた。
「春、いつかまた“かくれんぼ”をしよう」
「また?」
「うん。そのときは、あなたが“見つける側”じゃなくて、“見つけられる側”になるの」
その言葉の意味を、春はすぐには理解できなかった。
けれど、湿気の微笑みの奥に、どこか切なさが混じっているのを感じた。
夕暮れの光が差し込み、湿気の姿がゆっくりと薄れていく。
「もう行くの?」と問うと、彼女は小さく頷いた。
「またね、春。わたしのこと、忘れないでね」
その声が風に溶け、部屋には静けさだけが残った。
春は机に戻り、母の遺した絵本を開いた。
そこには、“お母さんと妖精の子”の物語が描かれていた。
最後のページに、鉛筆で書かれた小さな文字がある。
――「見つけてくれて、ありがとう」
春は本をそっと閉じ、窓の外を見上げた。
空には、淡い雲が浮かんでいる。
風が頬を撫で、どこかで湿気の笑い声がした気がした。




