最終話 空を飛ぶ日
朝の光が、白いカーテンを透かして差し込んでいた。
窓を開けると、風がやさしく頬を撫でた。
空はどこまでも澄み渡っていて、まるで世界のすべてが洗い流されたようだった。
春は机の上の手紙を見つめていた。
それは、母の字で書かれた最後の手紙。
湿気が残していった“見つけて”という言葉の意味は、あの手紙の中にすべて詰まっていた。
――あなたが生まれたとき、私はたくさん泣きました。
――どうか、自分を否定しないで。強く、生きて。
――その子は、あなたの運命の相手。私の分身。
読み返すたび、胸の奥がじんわりと温かくなっていく。
それはもう、悲しみではなかった。
春はゆっくり立ち上がり、窓の外を見た。
遠くに、あの丘の上の学校が見える。
誰かの笑い声が風に乗って流れてきた。
「……湿気」
小さく名前を呼ぶと、部屋の空気がかすかに震えた。
風の中に、あの柔らかな声が混じる。
――行こう、春。
胸の奥がふっと軽くなる。
春は手紙を胸ポケットに入れ、屋上へ向かった。
*
階段を登るたび、記憶がひとつずつよみがえってくる。
湿気と過ごした日々、母の笑い声、雨の日の涙。
すべてが今、ひとつに溶けていくようだった。
屋上の扉を押し開けると、強い風が顔を打った。
青い空の下、雲がゆっくりと流れていく。
その中心に――光があった。
「……来てくれたんだね」
光の粒が集まり、少女の姿が形づくられる。
湿気だった。
いつもと同じ笑顔。けれど、その輪郭はもう透けている。
「お別れを言いに来たの?」
春の問いに、湿気は首を振った。
「違うよ。あなたが“行く”ために、わたしはここにいる」
「行く……?」
「うん。あなたの世界へ。お母さんの願った“空の向こう”へ」
風が吹く。
湿気の髪が光をまとって揺れた。
春は一歩、前へ出た。
「怖い?」と湿気。
春は少し笑って答えた。
「ううん。もう怖くない。ひとりじゃないから」
その瞬間、湿気はふわりと春の肩に手を置いた。
まるで風そのものが包み込むように、あたたかい感触が広がる。
「お母さんは、あなたに空を見せたかったんだよ」
「……うん」
「だから、今度はあなたが見せてあげて。あなたが見つけた“空”を」
光が強くなる。
風が旋回し、屋上の砂ぼこりが舞い上がる。
春の足元から、淡い光の羽が伸びていく。
「湿気……」
「行こう」
その声とともに、春は駆け出した。
足が宙に浮き、風が身体を持ち上げる。
重力の感覚が遠のいていく。
目を閉じると、すべての音が消えた。
ただ、胸の中で母の声が響く。
――空を飛んで。湿気と一緒に。私が作った世界を抜けて、自由になって。
春は目を開けた。
目の前に広がるのは、果てしない青。
白い鳥が群れをなして飛び、その中に湿気の光が溶けていく。
「ありがとう」
その言葉を、風が運んでいった。
湿気の姿はゆっくりとほどけ、光の粒になって空に散っていく。
春の頬を、涙が伝う。
けれど、それは悲しみの涙ではなかった。
「――愛しています、春」
最後の声が、耳の奥で優しく響いた。
春は微笑み、空を見上げた。
母の手紙が胸の中で揺れる。
風が吹き、世界がまぶしく光る。
そして――春は、空へと飛んだ。
彼の背中から、光の羽が大きく広がり、
青い空の中で、ひとつの影とひとつの想いが重なっていった。
――誰もいない部屋の机の上。
そこには、一枚の紙の鳥が残されていた。
羽の裏には、滲んだ文字でこう書かれている。
「ありがとう、春」
それから彼の存在は見たものはいない。次の日にニュースに登場した春の意識はどこにあるのだろうか?




