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湿気の子  作者: たかし
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最終話 空を飛ぶ日

 朝の光が、白いカーテンを透かして差し込んでいた。

 窓を開けると、風がやさしく頬を撫でた。

 空はどこまでも澄み渡っていて、まるで世界のすべてが洗い流されたようだった。


 春は机の上の手紙を見つめていた。

 それは、母の字で書かれた最後の手紙。

 湿気が残していった“見つけて”という言葉の意味は、あの手紙の中にすべて詰まっていた。


 ――あなたが生まれたとき、私はたくさん泣きました。

 ――どうか、自分を否定しないで。強く、生きて。

 ――その子は、あなたの運命の相手。私の分身。


 読み返すたび、胸の奥がじんわりと温かくなっていく。

 それはもう、悲しみではなかった。


 春はゆっくり立ち上がり、窓の外を見た。

 遠くに、あの丘の上の学校が見える。

 誰かの笑い声が風に乗って流れてきた。


 「……湿気」


 小さく名前を呼ぶと、部屋の空気がかすかに震えた。

 風の中に、あの柔らかな声が混じる。


 ――行こう、春。


 胸の奥がふっと軽くなる。

 春は手紙を胸ポケットに入れ、屋上へ向かった。



 階段を登るたび、記憶がひとつずつよみがえってくる。

 湿気と過ごした日々、母の笑い声、雨の日の涙。

 すべてが今、ひとつに溶けていくようだった。


 屋上の扉を押し開けると、強い風が顔を打った。

 青い空の下、雲がゆっくりと流れていく。

 その中心に――光があった。


 「……来てくれたんだね」


 光の粒が集まり、少女の姿が形づくられる。

 湿気だった。

 いつもと同じ笑顔。けれど、その輪郭はもう透けている。


 「お別れを言いに来たの?」


 春の問いに、湿気は首を振った。

 「違うよ。あなたが“行く”ために、わたしはここにいる」


 「行く……?」


 「うん。あなたの世界へ。お母さんの願った“空の向こう”へ」


 風が吹く。

 湿気の髪が光をまとって揺れた。

 春は一歩、前へ出た。


 「怖い?」と湿気。


 春は少し笑って答えた。

 「ううん。もう怖くない。ひとりじゃないから」


 その瞬間、湿気はふわりと春の肩に手を置いた。

 まるで風そのものが包み込むように、あたたかい感触が広がる。


 「お母さんは、あなたに空を見せたかったんだよ」

 「……うん」

 「だから、今度はあなたが見せてあげて。あなたが見つけた“空”を」


 光が強くなる。

 風が旋回し、屋上の砂ぼこりが舞い上がる。

 春の足元から、淡い光の羽が伸びていく。


 「湿気……」

 「行こう」


 その声とともに、春は駆け出した。

 足が宙に浮き、風が身体を持ち上げる。

 重力の感覚が遠のいていく。


 目を閉じると、すべての音が消えた。

 ただ、胸の中で母の声が響く。


 ――空を飛んで。湿気と一緒に。私が作った世界を抜けて、自由になって。


 春は目を開けた。

 目の前に広がるのは、果てしない青。

 白い鳥が群れをなして飛び、その中に湿気の光が溶けていく。


 「ありがとう」


 その言葉を、風が運んでいった。

 湿気の姿はゆっくりとほどけ、光の粒になって空に散っていく。

 春の頬を、涙が伝う。

 けれど、それは悲しみの涙ではなかった。


 「――愛しています、春」


 最後の声が、耳の奥で優しく響いた。


 春は微笑み、空を見上げた。

 母の手紙が胸の中で揺れる。

 風が吹き、世界がまぶしく光る。


 そして――春は、空へと飛んだ。


 彼の背中から、光の羽が大きく広がり、

 青い空の中で、ひとつの影とひとつの想いが重なっていった。


 ――誰もいない部屋の机の上。

 そこには、一枚の紙の鳥が残されていた。

 羽の裏には、滲んだ文字でこう書かれている。


 「ありがとう、春」 


それから彼の存在は見たものはいない。次の日にニュースに登場した春の意識はどこにあるのだろうか?

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