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湿気の子  作者: たかし
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湿気の子

一日の始まり、空がやけに明るかった。

 窓の向こうで、雲がゆっくりと流れる。風は少し湿っていて、洗濯物の布地をやさしく揺らしていた。


 春(17)は机に肘をつき、ぼんやりと外を眺める。時計の針はもうすぐ正午を指そうとしている。外は眩しいのに、部屋の中はどこか薄暗い。半分閉めたカーテンのせいだ。


 母は今日も眠っている。隣の部屋の戸の向こうから、かすかな寝息が漏れる。誰とも話さない時間が、もう何日続いているのだろう。


 春はノートをめくる。昨日描いた落書き、小さな雲に手を伸ばす子どもの絵が残っていた。

 ――空を飛べたらいいのに。


 その時、窓の外の光が不意に強くなる。カーテンの隙間から射し込んだ光が、床に白い帯を描いた。


 部屋の空気がわずかに変わった。ひやりともせず、暑くもない。ただ、湿ったような匂いがふわりと鼻をかすめる。


 春は顔を上げる。風もないのに、カーテンの端がゆっくり揺れていた。


「……?」


 窓辺に歩み寄るが、外には何もない。晴れた昼の空。

 戻ろうとした瞬間、机の上に見慣れぬ“しみ”があった。ノートの端が湿っている。


「冷たい……」


 その中心から、小さな光が滲み出すように広がった。光の粒がゆっくり形を取り、やがて――ひとりの少女になった。


 小さな体。髪は薄い灰色で、光を透かすように柔らかい。瞳は雨上がりの水たまりのように澄んでいる。

 少女は机の上に立ち、春を見上げて言った。


「こんにちは」


 声は水の底から響くみたいに柔らかい。


「……だ、誰?」


「湿気だよ」


「しけ?」


「うん。あなたの部屋、乾いてたから来たの」


 春は言葉を失った。肩にかかった髪が揺れるたび、淡い光が滲む。身長は30センチほど。こんな小さな存在が目の前にいることが信じられない。


「勝手に……?」


「勝手じゃないよ。呼ばれたの」


「呼んでない」


「ううん。心が、呼んだの」


 春の胸の奥がわずかにざわめく。心が呼ぶ――そんなこと、あるはずないのに。

 少女の笑みに触れて、反論する気持ちは少しだけしぼんだ。

 ――長い間忘れていた記憶が、陽だまりの匂いと一緒に蘇るような、不思議な安心感。


「幽霊なのか?」


「ちがうよ、妖精」


「妖精?」


「そう、“湿気”っていう妖精。雨が好きなのに、晴れの日にだけ現れるの」


 少女は窓辺に歩き、机の端に乗る。光を見上げ、つぶやく。


「きれいだね、今日は」


 春は視線をそらす。晴れた空は、昔から好きじゃない。空の青さが、胸の“空白”を際立たせる気がする。


「別に、きれいなんかじゃない」


「どうして?」


「まぶしすぎる」


「それは、あなたが目を閉じてるからだよ」


 湿気は笑った。その笑顔は母の面影を思わせる。


 少女は両手を広げ、くるりと回った。空気そのものが彼女を支えているようだ。


「ねえ、春」


 自分の名前を呼ばれ、胸の奥が跳ねる。


「どうして俺の名前を……」


「知ってるよ。ずっと、見てたから」


 湿気の瞳が揺れる。春は言葉を失う。


 ――泣いてた時、誰にも見られたくなかったのに。


 少女は近づき、頬に指を伸ばす。触れた瞬間、冷たいはずの感触が温かさを帯びる。


「心が乾くと、痛くなるでしょ」


「……痛くなんかない」


「嘘。だから、来たの」


 微笑む湿気の手のひらに、小さな水滴が光る。


「これ、わたしの涙。泣くのは悪いことじゃない。心を湿らせるためにあるんだから」


 春は黙って少女を見つめた。胸の奥に静かな波が立つ。


「……また来るのか?」


「うん。晴れたらね」


 湿気は光の粒となり、ゆっくり消える。残るのは湿った空気と、机の上の一滴の水。


 春は指で水滴をなぞる。冷たさが心の奥までしみ込むようだった。


 ――晴れた日は、また来る。


 春は窓の外を見上げ、青い空に浮かぶ雲を眺める。どこかに少女の笑顔が混ざっている気がした。

 心に、少しだけ湿った温度が残る。寂しさとやさしさの境界にある、言葉にならないぬくもり。


 春はノートを閉じる。表紙には、小さな水の跡が丸く残っていた。




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