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Ⅱ.5. 失意

 


 目を覚ましたとき、アレンは天井を見上げていた。見慣れない薄白い木目の板天井。どこかひんやりとした空気が肌に触れて、医務室だと気づくのに少し時間がかかった。自分がここにいる理由を思い出そうとした瞬間、胸が苦しくなり、思考が途切れる。


「はぁ、ようやく起きたか。アレン」


 低く抑えた声が耳に届いた。枕元を見下ろしているのはキオンだ。ベッドの横に立ったまま、いつものように腕を組んでいる。その姿はどこか気怠げで、目は不機嫌さと安堵が入り混じった曖昧な色を宿していた。


「キオン隊長……私は──」


 言葉が喉で途切れる。何を言いたかったのか、アレン自身もわからなかった。ただ、その瞬間だけでも謝罪しなければいけない気がしていた。


「気にすんなよ」


 短くそう言うと、キオンは視線を窓の方へ投げた。小さなため息をつきながら、何かを振り払うように無造作に背を向ける。アレンが起き上がろうとすると、背を向けたまま手で制した。


「今は休め。分かったか?これは隊長命令だぞ」


 命令。そう言われると、アレンはそれ以上返事ができなかった。ただキオンの背中を見送るだけだ。その背中が扉の向こうに消えても、胸に突き刺さる重い感情はそのままだった。失望──自分への失望。そして、キオンの表情に一瞬だけ垣間見えた落胆。そのすべてが、アレンの胸を冷たく締めつけていた。


 その夜、医務室の天井を見つめながら、アレンはただ目を閉じることもできずにいた。



 アレンはいつのまにか一面血の海に立ち、沼にのまれるように徐々に沈んでいく。

 目の前には少女が膝まで浸かっており、こちらをじっと見据えている。

「アレン」

 その少女が呼んでいる。彼女はそれ以上は沈まないようだった。アレンは近づこうともがくが、血の海面は腹まで来ていた。

「──なんで」

 自分のものとも少女のものともつかない言葉が胸を貫いた。その少女の顔がアロポスだと気づいたのは血の海に沈む瞬間のことだった。



「うぅっ──!」


 叫び声をあげながら跳ね起きたときには、既に朝の光が部屋を照らし始めていた。昨日深夜のうちに医務室から自室へ移されたのだろう。窓の外は白みがかっていて、薄白い空がどこまでも続いている。新しい朝が始まっている、はずなのに。


 だが、アレンの体は冷や汗で湿っていた。枕もシーツも、夢の中で何を見たかを明確に物語るようにぐっしょりと濡れている。


「最悪だ……」


 アレンは嫌悪感を覚えながら、重い体を引きずるようにしてベッドから降りた。寝汗も悪夢も、昔から大嫌いだった。汗を拭い去らなければ、体に纏わりつく不快感がさらに自分を苛立たせる気がして、すぐさま洗面所へ向かう。


 蛇口を捻ると、勢いのない水道からぬるい水が出た。太陽に温められた水が管の中に溜まっていたのだろう。その温さが妙に腹立たしかったが、仕方なく布を濡らし、下着を捲って汗を拭き取る。


「……体は上限のレベルに慣れたみたいだな」


 布で肌をなぞりながら、アレンはぽつりと呟いた。筋肉の張りや腕の重さに異常はない。身体はすでに戦闘前の状態に回復している。

 レベルキャップの解放も行ったから、それ以上だろうか。


「だとして、この体たらくか」


 静かな部屋に響いた独り言。胸の奥が重く痛んだ。ぼんやりとした記憶を辿りながら、アレンは扉の方へと視線を向けた。冷たい水で拭き清めた体だけは軽い。けれど、その心は、未だにどこか深い暗闇の中に沈んでいる気がした。自分の未熟さが嫌になる。頭では割り切るべきだとわかっていても、心は受け入れられない。


 そのとき、腹の音が鳴った。情けない自分に返事をするような響きだった。


「……食堂、確か宿舎を出てすぐだったよな」



 自嘲混じりに呟きながら立ち上がり、宿舎を出る。食堂は確か、この先だった。自分の記憶だけはまだ裏切らないだろう、そう信じながらアレンは歩き出した。


 ────────────


 アレンは食堂の引き戸に手をかけた瞬間、まるでそれを待っていたかのように、レイヴンの笑い声が耳に飛び込んできた。その声には、いつもの軽薄な響きがあった。


 彼がそこにいることに気づく前に、アレンはそっと戸を押し開け、ほんの少しだけその隙間から中を覗き込んだ。まだ朝早く、食堂の中はまばらな人数で、特に利剣のメンバーが目立っている。


「いやあ、マジで傑作!『確実にやれる方法をとらせてもらう』キリッ!だってよ!俺、あの場にいて笑わなかった上に、あいつを見捨てずに巨牛にトドメ刺したの偉くねえか?」


 レイヴンの声は、食堂の静かな空間に響き渡り、その内容に思わず眉をひそめたアレンの耳にまで届く。その声の端々には、確かに昨日の戦いを楽しんだ者だけが持つ、あの自信と高揚感がこもっていた。


 アレンは深いため息をつく。その気怠い吐息が、まるで心の中のモヤを吹き飛ばすようだった。レイヴンの言動をそのまま放置しておくわけにはいかないのに、それを注意しようとすれば、面倒ごとを引き寄せることになるのは目に見えていた。アレンはその重荷を背負いたくない自分に、うんざりしながらも、少しの間待って、リビルを唱える。姑息だが、隊の連中とのレベルの差を確認しておきたかった。ここに至るまで隠していたアレンのレベルは68だ。エリオンでは上位数%に入る超ハイレベルだったはずだ。少し自信を取り戻すように思い起こしながら、先のライアンのセリフが物理的に聞こえるはずのないタイミングで食堂に入った。


「おい。やめとけって。声でけえんだよ、おめえは」


 食堂に入って数は進んだ時、レイヴンの隣のテーブルから、少し年齢のいった男性が、冷めた目でレイヴンに声をかけた。

 男はレベル以外を隠しており、レベルの数値を見て愕然とした。見間違いかと思って二度見をする。男のステータスバーには158という数値が並んでいた。

(私とダブルスコアも上のレベル──!?──そんな人間が私の部下──)

 少し疲れたような顔をして、その男は揚げ物を頬張りながら、横目でレイヴンを見ている。その様子からは一切の強者の雰囲気は感じ取れなかった。


「いやサニス!お前も笑ってたろ!あっ──アレンさん。ちっす!起きてきて大丈夫っすか?」


 レイヴンがこちらに気づき、まるで試すように、フォークの先を向けながら、下卑た笑顔とそのレベルを見せつけてきた。

 アレンは、レイヴンの顔よりもステータスバーに目が釘付けになった。


 アロポスの声が遠くから聞こえてくる──

『我々がまだ見ぬ本物の強者は、自分のレベルをあえて表示させるんじゃ。同様に名前も効果的じゃの。名声や悪名が高いやつは特にの。動物や魔物でいうディスプレイ行動みたいなもんじゃ。相手に攻撃する気概すら持たせないんじゃ。そしてなおかつ、自分より上だったとしても、其奴に打ち勝てる‘何か’を備えているものじゃ』


 煌々とレベル表記が赤字で光っている。

【レイヴン・ドレイクモーン Lv.212】

 驚きを隠そうと、すぐにレイヴンの顔に視線を戻した。

 その態度には、アレンが以前まで知っていたものとは明らかに違う軽蔑のような色が浮かんでいる。恐れ以前に、身分が上の自分に対するその態度が、歩みを一つ進めるごとに鼻につくようになってきた。


「ん。ああ。ありがとう。大丈夫だ」


 アレンは、なるべく冷静に返答をした。だがその口調には、心の中で感じている慄きと苛立ちがほんの少しだけ表れていた。それを隠すために、普段通り無理に微笑んだが、舌の根が乾いていくのがわかる。どうしても、この場に流れる不快な空気を避けたかった。しかし、心の奥底では、無言で舐められているような屈辱感が消えなかった。


 ああ、このままでいいのだろうか。そう思いながらも、アレンは何も言わず、面倒ごとを避けるためにその場をやり過ごすしかなかった。自分には、それを真っ向から受け止めて反論する勇気も、実力もないことが、これほどまでに胸に突き刺さっていた。


 食堂の常連メニューはいつも通りで、席に着けば決まった通りに配膳される。だが、アレンはただ食事を待つのではなく、深く息を吐き、心拍を落ち着けようとした。頭の中で、次第に広がる思考の渦をなんとか抑え込もうとしている自分がいた。そのうち、レイヴンに助けてもらったことを思い出す。そして、感謝の気持ちを伝えようと立ち上がろうとしたが、どこか気恥ずかしさを感じ変な体勢のまま固まってしまう。机に右手をつき、前かがみになったままでいる自分に、ふと、我が身のプライドの高さが厄介に思えてならなかった。あんなにも高く、どこまでも高く見せていたはずの自分が、今やこんなにも情けない状態であることに、嫌悪感を抱くのだった。


「おお!副隊長!」


 その声に振り返ると、ダリオが朗らかにこちらへ近づき、アレンの隣に座った。彼の顔には、無邪気な安堵の表情が浮かんでいる。


「もう大丈夫なんすね!よかったー!俺、心配で。今朝までずーっと女神様にお祈り捧げてました!通じたんすかね!よかったー!」


 その言葉に、アレンは精一杯の笑顔を作って返した。だが、どうにもぎこちない。ダリオがもし犬ならば、喜びに尻尾を振っているだろう。その姿を見て、アレンはまたもや胸の奥に湧き上がる恥じらいと自己嫌悪を感じた。だがその背後、食堂の引き戸から入ってきたのは、キオンだった。アレンは反射的に目を逸らしたが、キオンはその動きを察したかのように、ズンズンとこちらに向かって歩みを進める。


「まぁ、そんな日もある」


 キオンが言う。だが、その声には、昨日の医務室での失望が嘘のように消えていた。隊長としての貫禄を見せるような、どっしりとした激励の言葉が続く。キオンのレベルは隠されていた。


「あの、いえ。申し訳ないです……」

 すっかり目を伏せてアレンは何度目かの謝罪をした。

 キオンは気にせず続ける。

「それに記憶を失っているのなら、もしかしたら魔法自体を忘れてしまっている可能性もあるよな?」

 アレンを励まそうとダリオも優しく声をかけてくれる。

「そうですよ!副隊長はあんなしょぼい花火みたいな魔法を、以前はうってませんでしたよ!もっと洗練されて無駄がありませんでした!」


 二人のその言葉は思惑に反して、アレンを虚無感の海に引き摺り込んでしまう。

(しょぼい──花火?──あれが今の私の全力だけど──?)

 アレンは口に出そうとしたが、彼らの期待に応えられぬ申し訳なさと、恥ずかしさで消え入りそうになる。

 そんな様子を知ってか知らずか、キオンはさらに続け、アレンにとっての死の宣告を告げた。

「ただ、副隊長。待てるのは1ヶ月だ。我々は1ヶ月後にニエフに戦争を仕掛ける。それまでに、お前が勘を取り戻さないなら、我が隊からは出られない。出さない。故郷に帰れ、アレン。お前ほどの実力と人望のある奴を俺はむざむざと殺したくない」


 実力と人望、それは今やアレンにとって最も空虚なものに思えた。しかし、そんなことはどうでも良かった。キオンの発した言葉にアレンは囚われてしまう。

 ──ニエフ。その国の名前が、アレンの冷たくも悍ましい記憶を、これでもかと刺激していた。

(エリオン滅亡の元凶どもとタンランが戦争だと?叩きのめし、命乞いを何度もさせ、そして許さなさい。あつらだけは。ユイ……ラアス……リィリィ。そして、ラッツ!)


 一瞬の沈黙の後、アレンは勢いよく立ち上がり、椅子を倒す音、机を叩く音と一緒に喚いた。食堂が静まり返る。


「記憶が戻らなくても!!ダメでも!!僕は……私は!!行きます!」


 アレンの音圧に負けじとキオンがその巨体を揺らし、ゆっくりと立ち上がり、アレンに立ちはだかる。


「ゆるさん!察するに、アレン!お前、」


 アレンは拳を固くして身構えた。アレンが今一番言われたくないことをこの男はを言おうとしているのではないか。


「死にたがっているな?」

 拍子抜けした。そんなことは、決して思ってはいないはずだ。


「いえ、私はただ」

 いや、なくもないか──。慕ってくれている部下の期待に添えないくらいなら、友も家族も地位も名声もあったはずの幸せも、何もかも失った私に生きる希望など。


「記憶と自信をなくした今のお前は自分すら見失っている。やけになって、お前は死にたがってるとしか思えん!」


 キオンの少しズレた推察にアレンは安堵する。それもそうか。アレンの、この心情を的確に答えれる人などいないだろう。自分でも上手く表現できないのだから。


「実績は認める。だが、俺はお前を死なせたくない。なによりお前の部下は、俺が指揮する部隊でお前を死なせてしまった場合、俺をゆるさないだろう」

 キオンは、ゆっくりと瞬きをして、アレンを諭す。

「……ッ!……」

 アレンはぐうの音もでずに歯を食いしばった。


「とにかく1ヶ月の間、集中して勘を取り戻してみろ」

 キオンは、どかと座り椅子の背もたれに両腕をかけた。

「はい……」

 アレンは、意気消沈してすとんと椅子に座る。アレンの心情を表すように、か細く椅子が音を立てた。アレンの返事を待っていたかのように、食堂の活気が戻る。

「まぁそう気を落とすな。俺も付き合ってやる。腕一本程度の怪我なら許容してやろう。タンランのクレリックたちは優秀だぞ!」

 励ますように伝ってきたキオンの言葉は、朝食の配膳と同時にアレンの元に届く。


 キオンへの返答は、アレンの掠れきった声の代わりに、彼女の腹の音が慎ましくも伸びやかに返すのであった。

 

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