Ⅱ.4. 巨牛
南方の国境付近は、夜の帷が静寂を覆い尽くし、息をひそめたようにひっそりとしていた。鬱蒼と茂る森は闇の中に沈み、風が木々を揺らす音だけがわずかに耳を刺す。そんな中、利剣の部隊が指定されたポイントに集結していた。全員が訓練された無駄のない動きで配置に就き、ただキオンの指示を待つ。
「各員、ここから対象を人の声の帯域に絞って聴力強化を使用しろ。最終ポイントで俺からの通達後、速やかに解除すること。念のためな。いくぞ」
キオンが短く命じると、全員がほぼ同時に両耳に触れ、聴力を強化する魔法を施した。簡潔な指示ながら、それだけで場の緊張が一段と高まる。森林の入り口付近に立っていた隊員たちは、音もなく木々に登り始めた。無造作に見えて正確な動作で枝を伝い、目にも止まらぬ速さで移動していく。その動きはほとんど獣のようでありながら、どこか研ぎ澄まされた人間の技術を感じさせた。
アレンはその様子を見ながら、自らも動き出した。木々を伝う隊員たちの姿は、まるで闇そのものに溶け込んでいるようだ。彼らの動きに合わせ、アレンも足音を消しながら前進を続けた。
「そろそろ最終ポイントだ」
キオンが呟くように声を漏らした。その声は蚊の鳴くほどの小ささだったが、隊員たちには明瞭に届く。彼の言葉に応じて、全員が無言で拳を軽く口元に当てた。了解を示すハンドサインだ。スピードを抑えながら、それぞれが最適な位置を確保していく。
鬱蒼と茂った森の中、薄い月明かりがまるでスポットライトのように一角を照らしていた。その光に浮かび上がるのは、広場のように木々が倒された空間。そこには、まるで巨木を枕にするかのようにいくつもの影が横たわっていた。巨大な斧を抱えたまま、いびきをかいて眠るミノタウルスたちだ。その巨体は一度寝返りを打つだけで、周囲の木々が軋みをあげるほど重く、威圧感がある。
アレンは両目に軽く触れ、視力強化の魔法を施した。視界が鮮明になり、ミノタウルスたちの寝息やその表情までもが手に取るように見える。その恐ろしい姿を見て、彼女は自然と拳を握り締めた。
「ブリーフィングでは作戦もクソもないような意見ばかりだったな……」
アレンは草陰に身を潜めながら、キオンと部下たちの動きをじっと観察していた。隣ではダリオが、普段の軽口をすっかり捨て去り、鋭い目つきで前方を見つめている。先ほどまでの冗談交じりの空気が嘘のように、部隊全体に張り詰めた緊張が漂っていた。
「じゃあ副隊長、よろしくな──と言いたいところだが、まだ本調子じゃないだろう」
キオンがちらりとこちらを振り返り、冗談めかした口調で言う。それでも、彼の目は鋭く、冷静に状況を見極めているのが分かった。
「5体か。報告より多い……まぁいい、誤差の範囲だ」
キオンは静かに言いながら、視線だけで部下たちに指示を送る。隊員たちはその合図を受けて、さらに無駄のない動きで散開していく。
「ツーマンセル、各個撃破でいくぞ。やつらにはそのまま、おねんねしてもらおう」
キオンの低い声に、全員が無言で頷く。その動きは、まるで戦場の空気そのものを制御しているかのようだった。
アレンは静かに息を吸い込みながら、自分の胸の中にわずかに芽生えた不安を押し込めた。「これでいいのか?」という思いが心の奥底をかすめる。キオンが部隊の実力を測る意図は分かるが、彼の真意は掴みきれない。それでも、彼女には与えられた役割を果たすしかなかった。
そして、一同が静寂の中で最初の一歩を踏み出す時が訪れた──。
ミノタウルスたちの眠りが深い今が好機だ。一体、また一体と、静かな動きで隊員たちは獲物に接近する。そして、まるで闇に溶け込むように斬撃を放った。
剣が一閃するたび、驚くほど静かに巨大な体がより深く地面に沈みこんでいく。その様子を見届けたアレンは、内心で感心していた。普段の雑談や軽口からは想像できない彼らの姿は、職人のような正確さと冷静さを持っていた。
──だが、一体だけ、予定通りにはいかなかった。
「副隊長、最後は俺らっすよ。準備できてますか?」
レイヴンの声が、冷たい夜の空気を切り裂いて響いた。その言葉に応じて、アレンはわずかに肩をすくめて頷く。返事はしなかった。ただ、手にした短剣を握り直し、自分自身に言い聞かせるように心の中でつぶやいた。
(私の部下たちが一撃で仕留めている相手だ。これくらい、やれるはず……やれるに決まっている)
だが、その自信の裏側には、別の声が囁いていた。
(何年も空白がある。私の体は以前と違う……筋肉のつき方だって変わっている。それに──)
自分の迷いを悟られるのが怖いかのように、アレンは短剣を逆手に持ち替え、そのまま剣帯に収めた。
「副隊長?」
レイヴンの声が再び耳に届いた。彼は特に驚く様子もなく、むしろ想定していたかのように、巨大なグレートソードを静かに大上段に構えた。その目はまっすぐミノタウルスの首を見据えている。
「確実にやれる方法を取らせてもらう」
アレンの声は低く落ち着いていたが、その裏には決意が込められていた。彼女は詠唱を開始する。返事を待つこともせず、口から静かに言葉が紡がれ、空気が微かに震える。レイヴンはその様子を横目で見ながらも構えを崩さなかった。むしろ体中に力を溜めるかのように、膝を屈曲させ弓を引き絞る瞬間のような緊張が漂っている。
(信じられていないのだろう──かつて“王子”だった頃、天才と呼ばれた私のことを。ならば、この一撃を見せつけてやる。今の私を認めさせる!)
アレンは心の中で強く自分に言い聞かせた。そして、ついにその言葉を口にする。
「レベルキャップの解放を宣言。上限の一切を棄却」
禁じられた術式が再び発動される。体内の魔力が解き放たれ、その圧倒的なエネルギーが彼女の体を駆け巡った。アレンの全身から雷光がほとばしり、彼女自身が光の核となって輝く。
「まあ、タンランの領域内ですし、多少騒がしくしても敵にはバレないでしょう。ただし、魔力の残滓を──」
レイヴンが何かを言いかけたが、それが最後まで言葉になることはなかった。
アレンはすでに全力の雷魔法を詠唱し終え、放つ寸前だったのだ。
雷光が閃き、夜の森が一瞬、昼間のように明るくなる。周囲の木々の影が鋭く浮かび上がり、利剣の部隊員たちが驚きに目を見開く様子までが鮮明に見えた。その閃光がアレン自身の顔をも照らし出す。彼女の表情には確信があった。
(これで……終わりのはず──!)
稲妻が炸裂し、巨大なミノタウルスの姿を包み込む。大地が震え、木々が揺れる音が辺りに響き渡る。アレンは雷煙の中を凝視しながら、その結果を待った。しかし、その時、視界の端にレイヴンが動く気配を感じた。
彼は引き絞った体を一気に解き放ち、グレートソードを振り回しながら煙の中へと飛び込んでいった。回転するその刃が煙を切り裂き、濃密な魔力の残滓が消え去るとともに、光景が露わになった。
煙の奥に見えたのは、片膝をつきながら巨斧を杖代わりにして立ち上がろうとするミノタウルスの姿だった。その巨体はまだ動きを止めておらず、その瞳には怒りの光が宿っていた。
「なんで……まだ動いてんだよ……?」
アレンの声はかすれていた。驚きと焦りが混ざり合い、彼女の胸を締めつけた。だが、その巨体にレイヴンのグレートソードが容赦なく振り下ろされる。刃が風を切る音とともに、ミノタウルスの首が切り離され、巨体が崩れ落ちていく。
その光景を見届ける間もなく、アレンの体は急激な疲労に襲われた。解放された魔力の代償が全身を苛み、彼女はその場に膝をつく。前方の足音の方を見上げるとグレートソードを小枝のようにクルクルと回してピタリと肩に止め、軽々と担ぐ部下の姿が露わになる。
「手を抜かないでくださいよ、副隊長」
レイヴンの声が軽い調子で響いた。その言葉にアレンは苛立ちを覚えたが、返す言葉が見つからない。
「ふざけんな……あれが……わたしの全力……だ……」
そう呟いた瞬間、アレンの意識はふっと途切れた。最後に見たのは、倒れたミノタウルスの巨体が自分に向かって崩れ落ちてくる様子。そしてその影をかき分けるように現れた、キオンの鋭い動きだった──。




