Ⅱ.3. 再会
ブリーフィングが終わり、それぞれが夜間の作戦準備のために散っていく中、宿舎へ向かっていたアレンの足が、後ろから聞こえた声に止まった。
「アレン、保安検査のときに預けた剣、もう取りに行ったのか?」
声をかけてきたのはキオンだった。いつもと変わらない気軽な口調だが、その一言は、アレンの胸に小さな波紋を広げた。
「いえ、まだ行ってないです」
ごく自然に返事をしたつもりだった。だが、内心はひどくざわついている。言葉にはしなかったが、喉元で飲み込んだ思いがあった。
何か嫌な予感がする。
剣というものに、説明のつかない重苦しい感覚を抱いている。理由は、いくら考えてもわからない。ただの記憶喪失による不安ではない。剣を使うことそのものに対する恐怖ではないのだ。むしろ、自分は剣を扱える──そう信じるだけの自信は、どこかに根強く残っている。体が覚えているという確信もあった。それでも、胸の内で何かが囁き続けている。
「なんでですか、副隊長!」
「そうですよ!副隊長といえば、あの剣ですもんね!」
横から割り込んできたのはダリオとニクスだった。二人の顔には、完全に「大事だ!」と書かれている。
「いや、ちょっとな……なんか気乗りしなくて」
アレンは曖昧に言い訳をした。だが、ニクスがすぐに反応する。
「なんですかそれ。気乗りしないって、剣が泣きますよ!」
「そうですよ。あの剣がないから調子が出ないんじゃないですか?」
立て続けに責めるような言葉を浴びせられ、アレンは「そうかもしれないな」と小さく呟いた。だが、モヤの正体は依然としてわからないままだった。
そのとき、キオンが突然三人をまとめてヘッドロックで捕まえた。
「俺も早く見たいもんだ、アレンの剣」
その腕の力強さは圧倒的だった。キオンの行動に逆らえず、アレンもニクスもダリオも、ずるずると引きずられるようにして武具保管所へ向かわされる。
────────
「ここだ。開けるぞ」
キオンが低く短く言うと、ドアの横にある小さな箱を軽く叩いた。乾いた音が暗闇の静けさを裂く。その瞬間、鉄製の重厚なドアがわずかな振動を伴いながら自動で開いた。薄暗い空間に冷たい光が流れ込み、閉ざされていた部屋の内部を無機質に照らし出す。光は薄氷のように硬く、アレンの胸にわだかまる不安を浮き彫りにするようだった。
アレンはゆっくりと足を踏み入れた。目の前に広がる部屋は宿舎の一人部屋の四倍以上の広さがあり、所狭しと並べられた武具が乱雑に積まれている。剣、盾、鎧。それらは無造作に置かれ、どれもが黙したまま、冷えた空気の中に眠っていた。誰にも使われることなく放置されたそれらの存在が、どこか物悲しく、冷たい孤独を帯びているように見えた。
「俺らの部隊の区画はあっちだ」
キオンが指さした先に、壁にもたれかかるように立てかけられた布包みがあった。薄汚れたボロ布で覆われ、中身を見せることなくひっそりとそこにある。それがただ静かに息を潜めている姿は、妙に生々しく、不気味ささえ感じられる。
「ああ!副隊長の愛刀をこんな風に扱うなんて!」
ダリオの声が軽い怒気を含み、武具の間に響いた。誰よりも早く布包みに駆け寄り、大事そうに持ち上げようとする。その仕草は丁寧だったが、手が包みに触れそうになった瞬間、アレンの全身に稲妻のような衝撃が走った。
胸の奥底で押し込めていた何かが暴れ出す。記憶の底に沈めていた恐怖の感覚が、鋭い爪で心を引っ掻くように疼き始めた。布の中身。その正体に触れた途端、すべてが崩れ落ちる予感がする。それが現実の恐怖なのか、単なる心の幻影なのか、答えはわからない。ただ、止めなければならないという確信だけがアレンを突き動かした。
「ッ──!──やめろ!!!!」
声が出たとき、アレン自身が最も驚いていた。悲痛な叫びは震えていて、怒りとも恐怖ともつかない感情が混じり合っていた。ダリオの手はピタリと止まり、武具保管所の空気が凍りついたように静まり返る。キオンやニクスも目を見開き、アレンの顔を見つめていた。
「副隊長……どうしたんですか?」
ダリオが戸惑いを隠せない声で尋ねる。しかし、アレンは答えられない。目の前の布包みから目をそらすことができず、胸に渦巻く焦燥感が次第に大きくなっていく。
──ただの剣ではない。記憶を欠落させた自分にとって、触れてはならない過去そのものだった。だが、それを知る者として振る舞うことは、自分を責めるようで、許されることではない。言葉にならない葛藤が、アレンの心を苛み続けていた。
「やめてくれ……」
アレンの声は、誰にも届かないほど小さかった。それは誰かに向けた言葉ではなく、自分自身を落ち着かせるための呟きに近い。けれど、その一言が耳に触れたのか、部屋の空気は一層重く、張り詰めた静けさが漂った。
「すまない。怪我でもしたら危ないから、私が開けるよ」
自分を落ち着けるように、静かに取り繕う。声は平静を装っていたが、その言葉を口にするたび、胸の奥で小さな音が反響しているようだった。後ろからやってきたニクスが「デリカシーのないやつめ」とダリオを小突く。、アレンは一歩進み、ダリオの隣に立った。震えそうになる手を無理やり押さえ込みながら、包みをゆっくりと持ち上げる。
ただの包みだ。それだけのはずだ──そう言い聞かせるように、心の中で何度も繰り返す。それなのに、なぜか胸の奥が冷たく硬直していくようだった。指先にはじっとりと汗が滲み、心臓の鼓動は速く、そして重い。包みの布越しに触れる感触は、普通の剣だと告げている。けれど、そこに込められた記憶が、鋭い針のようにアレンの心に刺さってくる。
「そう……大丈夫だ、何も起きない……」
そう自分に言い聞かせながら、アレンは包みを机に下ろすことにした。意図を察したのか、ニクスがすぐに机の上を片付け、十分なスペースを作る。彼の無言の行動に、アレンはほんの少しだけ肩の力を抜いた。
包みが机の上に置かれる音が小さく響き、再び静寂が訪れた。アレンは深く息を吸い込む。恐れと焦燥が絡み合った感覚が胸の中を支配している。それでも、ここで立ち止まるわけにはいかない。
「副隊長、ずいぶんもったいぶりますね」
ダリオの軽口が緊張をわずかに和らげた。彼の明るい声が部屋の中でぽつんと響き、硬い空気をほんの少しだけほぐしていく。
「しょうがないだろ。記憶がないって俺たちじゃ想像つかん。アレンさんも気が気じゃないんだよ」
ニクスが言葉を継ぐ。その声にも優しさがにじんでいた。
アレンは二人の気遣いに気づきながらも、それを返す余裕がなかった。今、包みの中にある剣は、単なる武具ではない。それが記憶と結びついている確信は、胸の奥で確かに感じている。けれど、そこにあるのは温かな懐かしさなのか、それとも恐ろしい過去なのか──答えはまだわからない。
彼女は再び息を整え、布に指をかけた。その動きは、躊躇と覚悟がせめぎ合うように、ゆっくりと慎重だった。
アレンは意識を集中させた。片手で包みの中身を抑え、もう片方で慎重に布をめくっていく。その作業は、普段ならほんの数秒で終わるはずだったが、時間の流れが異様に遅く感じられた。まるで、目に見えない何かが、包みを解く手を引き止めているようだった。
布の端を一枚、また一枚とめくるたびに、胸の奥で何かがざわめいた。その音は大きくもないが、確実にアレンを追い詰めてくる。目の前の包みが、ただの物体でなく、何か大きな真実を孕んでいると告げているようだった。
ついに最後の布がめくられ、包まれていたものが姿を現した。
──でもそれはドワーフ製の短剣だった。
長年使い込まれたその刃は、かすかに光を放ち、部屋の冷たい空気の中で存在を主張していた。アレンの呼吸が止まる。どこか拍子抜けした自分もいたが、思い出したのだ──これはただの武器ではない。彼女にとって、ひとつの「思い出」そのものだった。
「ああ……」
それだけだった。アレンの口から漏れた声は、言葉というより、心の奥底からこぼれた息遣いのようだった。記憶の断片が一気に呼び覚まされる。ドワーフ族長との会談の場面、贈り物としてこの短剣を手にしたときのこと。友情の証として、大切にしてきた日々。それが今、手の届く場所に戻ってきた。
胸の中に渦巻いていた冷たく不安な感覚が、次第に消えていくのをアレンは感じた。思い出した記憶は、冷たく重いものではなかった。それどころか、どこか温かく、懐かしい響きを持っていた。久しく忘れていた旧友に再会したような、そんな感覚が胸を満たしていった。
「どうです?久しぶりの相棒との再会は。何か思い出しました?」
ニクスが、軽くからかうように言った。その問いにアレンは静かに頷き、答えた。
「……そうだな。旧友に会ったような気分だよ」
言葉を発した瞬間、アレンは自分でも驚いた。それが本当に胸の内から出てきた素直な感想だったからだ。短剣を見つめる彼女の瞳が、静かに滲む。涙ではなかった。ただ、どこか置き去りにしていた感情が再び胸の中で形を持ち始めたのだ。
「おお、じゃあ記憶が戻ったってことですね!」
ダリオが興奮気味に声を上げた。その勢いに押されてニクスも続く。
「やっぱり、触ってみると違うもんですね。隊長、完全復活じゃないですか!」
その言葉に、アレンは小さく微笑んだ。けれど、心の中では少し違和感を覚えていた。
「いや……子どもの頃の友だちに会った気分だ。申し訳ないが、ここ数年のことはまだ何も思い出せない」
一気に肩を落とすダリオとニクス。その様子にキオンは肩をすくめて笑った。
「あんまり期待しすぎるなよ、二人とも。アレンだって、いきなり全部を思い出すわけじゃないんだから」
いつもの軽口のやりとりに戻る部下たちを見て、アレンは静かに息を吐いた。再会の感動に浸る暇など、彼女には与えられなかった。だが、そのことが逆に、彼女を少しだけ安堵させた。目の前の短剣は、まだ完全には彼女の記憶を呼び戻さない。けれど、確かにその存在が彼女の中で何かを揺さぶり、また新しい一歩を踏み出す力を与えているのだった。
「ん……?」
胸の奥で、何かが引っかかった。そうだ、あの日私はもう一つ──。
「変なことを聞くが、私はもう一つ剣を持っていなかったか?」
ぼんやりとした記憶が、石畳の上に浮かび上がる。その感覚をつなぎとめようと、アレンは眉を寄せた。
「ああ、いつも予備の剣は持ち歩いてましたよ」
ダリオの返事が即座に飛び出すと同時に、その情景が霧散する。
「──!?どんなだった!」
自分でも驚くほどの勢いで、ダリオの肩を掴んでいた。力が入りすぎたのだろう、ダリオが悲鳴をあげる。
「あだだだ!痛いっす副隊長!」
「あ、すまない……」
慌てて手を離すと、ダリオは肩をさすりながら、それでもどこか嬉しそうに微笑んだ。
「副隊長に求められるなんて、ちょっといいっすね」
ふざけた口調に、ニクスが呆れたようにダリオの頬を指で弾いた。ダリオの顔が横にずれ、むっとした顔をする。
「ばか。くだらないことを言うな」
ニクスが鋭い目でダリオをたしなめると、ダリオは小さく肩をすくめた。
「でも、どんなって言われても、毎回違う形の剣に持ち替えてましたよね。だから、どれがどれか……」
小柄な体をさらに縮めるようにして、ダリオは困ったように口を尖らせた。
「その、竜の牙のような剣だった気がする……」
「竜の牙?」
ニクスが眉をひそめ、アレンを不思議そうに見つめる。
「そんなすごいもの、俺ら庶民は見たこともないですよ」
「俺は見たことがあるぞ」
キオンが口を開いた。その言葉に、ダリオの目が輝く。
「マジっすか、隊長!」
まるで英雄譚を聞く子供のような表情に、キオンは苦笑しながら胸を張った。
「ドラゴンの討伐に参加したことがあるからな。そのときだ」
「うわぁ……やっぱ隊長もただ者じゃないんだな」
「そりゃ、アレンさんの上に立つ人だしな」
ニクスとダリオが感心したように唸りながら、目を瞑る。
「まあ、あのドラゴンは大したやつじゃなかったけどな」
キオンが軽く肩をすくめると、二人は「やっぱりすごい」と声をそろえて感嘆した。
「さて、行くぞお前ら。ちゃんと飯を食って、コンディションを整えろ」
「了解!」
「うす!」
「はい!」
バラバラに応じる三人を引き連れて、キオンは武具保管所を後にした。
だが、アレンだけは最後に振り返り、薄暗がりに沈む部屋をじっと見つめた。
あの日──何かを置き忘れたような気がする。いや、確かにそこにあったはずなのに、今はない。それが何だったのか、どこへ行ってしまったのか──。
ふと視線を下ろすと、自分の拳が硬く握りしめられていることに気づいた。知らぬ間に、力が入っていたのだ。アレンは静かに拳を開き、また一歩、皆の背中を追いかけるように歩き出した。




