Ⅰ.9. 黎明
キャミィが向かったという北門へ行く途中、アレンたちは一度それぞれの寮に戻ることになった。どうせなら装備を整え、軽食を取っておいた方がいいだろうという判断だ。
アレンの寮は六階建てで、彼の部屋は最上階の角部屋にある。一見すると良い部屋のようだが、夏には太陽に焼かれて暑く、冬には吹きさらしの風で凍えるような場所だ。授業中ということもあり、寮内はひっそりとしていた。誰にも邪魔される心配がなさそうだったので、アレンは身体強化魔法を使い、階段を一気に駆け上がった。
六階に到達すると、目の前には幅の広い廊下がまっすぐ伸びている。廊下には湿度を感じさせない淡い灰色のカーペットが敷かれていて、こうも一番奥まで見渡せるのは珍しく、廊下の長さを初めて実感した。普段なら寮生たちの声や足音が絶え間なく響く場所だ。しかし今は、どこまでも静まり返っていた。聞こえるのは、ドワーフ製の回転する換気口の低い唸り声と、自分の靴下がカーペットを擦る音だけだ。その静けさに、不思議な高揚感と冒険の予感が胸を満たした。
部屋の鍵を開けて中に入ると、案の定、冷風魔法が切れていて空気が重く暑い。アレンは手早く装備を整えた。剣帯にドワーフ製の手によく馴染んだ短剣を下げ、ユイ先生からもらった軽い革の鎧を身につける。さらにラアス先生にもらった硬甲も巻きつけ、準備を終えた。
装備を整える音は、遠くからも微かに聞こえてきた。同じ寮内のラッツとアルたちが、それぞれの部屋で同じように準備をしているのだろう。その音に耳を澄ませると、妙な一体感が生まれ、アレンの中の緊張が少しだけ和らいだ。
支度を終えて階段を降りると、昇降口にキャミィが立っていた。彼女は下駄箱に寄りかかり、どこか所在なげな様子だった。そっと近づいて驚かせようとしたアレンだったが、背後から「何やってん」とラッツに声をかけられ、目論見はあっけなく失敗した。
すぐその後、アルが「お待たせー」とドタドタ降りてきて、最後にセシルの小さな、ふぇという鳴き声が玄関の方から聞こえた。こうして、リンドウの仲間たちが揃った。姉の寮は、離れたところにあるため、移動に時間がかかる分、アレン達よりも遅い。
武器や装具の点検をしながら、アレンは改めて仲間たちの姿を眺めた。全員がフル装備をしているのを見る機会は滅多にない。互いに少し興味深げな視線を交わしながら、それぞれの準備が整っていることを確認し合った。
アレンは何気なく自分の手首を見下ろした。そして、ふと気づいたことがあった。仲間たちの手首にも、自分と同じ銀色の腕時計がつけられているのだ。
「それ、ラアス先生のだよな?」と、ラッツの腕を指さしながら尋ねた。
ラッツは少し照れたように笑って「せや」と頷く。
「なんで全員持ってるの?」
アレンの素朴な疑問に、アルが声を上げて説明を始めた。
「あれだよ、あの第一試合覚えてるだろ? 強化魔法魔法を使いすぎて、怪我するやつが続出したって話。で、その後にみんなから文句が出てさ、結局、安全対策とそのお詫びってことで全員に配られたんだよ」
「なんだそれ!」
思わず吹き出したアレンの顔を見て、ラッツとアルも釣られるように笑い出す。
ラアス先生の授業は、近接格闘を実践的に学ぶものだったが、あまりにも白熱しすぎて負傷者が続出したらしい。それを受け、学校側が対策として配布を決めたというのが真相のようだ。
「それなら最初から配っとけよな」とアレンは呆れたように呟きつつ、自分の腕時計を見つめた。この時計がどれだけの意味を持つのか、今はまだ誰も知る由もなかった。
その一方で、キャミィはどこか焦ったような表情を浮かべていた。おそらく、禁足地までの日程を計算しているのだろうと察したアレンが彼女の顔を覗き込むと、彼女はふっと笑ってみせた。
「どうかしたか、王太子殿下。心配しなくても今日中には着くさ。ちょっと足を速める必要はあるけどな」
そう言われて、アレンは少しだけ肩の力を抜くことができた。
「あなたたち!」
少し離れた場所から声が飛んできた。アレンたちが声の方向を見ると、一人の女性がこちらに向かってくるのが見えた。最初は姉かと思ったが、近づいてくる姿に違和感を覚え、すぐに思い出す。茶色のショートヘアが風に揺れ、その黒いローブが彼女の職業を雄弁に物語っていた。支援魔術学の担当の女の先生だ。ラアス先生の同期で、どこか冷たい雰囲気を漂わせる人物だと記憶している。
「あなたたち、どこへ行くつもり?」
声には鋭さがあり、彼女の目はアレンたち一人ひとりをじっと見据えている。その視線に、キャミィが何か言い返そうとしたのが分かった。彼女の鼻息が荒くなり、口元が小さく動いている。アレンは慌ててキャミィの動きを制し、自らが前に出た。
「授業の代わりに巡検に参ります。先ほど許可申請を済ませました」
「ほう、熱心なことね。それで、行き先はどこ?」
先生の視線は剣呑で、問いただすような口調だ。アレンはその意図を感じ取りつつ、冷静に返した。
「行き先についてはラアス先生にご確認いただければ。私たちは許可をいただいております」
「そう」
先生は一言だけ答え、懐から何かを取り出した。彼女が持っていたのはラアス先生が使っていたのと似たガジェットだ。いくつかのボタンを押し、低い声で何やら話し始めた。
「……なるほど、確認できたわ」
数秒後、彼女は手元の機器をしまい、キャミィに視線を投げた。
「いってよし。ただし道中には気をつけること。巡検中、あなたたちの位置情報は学園に共有されるわ。後方支援は常に用意されているけれど、それに依存することなく動きなさい。これはあくまで実戦だから」
その言葉を残し、先生は踵を返して去っていった。その背中を見送りながら、ラッツが鼻を鳴らした。
「なんだあいつ。えらっそうに」
その言葉に、キャミィが嫌そうな顔を見せた。それを察してか、ラッツはわざと口調を荒くしたようにも見えた。
「まぁまぁ、すぐに話が通ってよかったじゃないか」
アレンが軽く肩をすくめて場を取り繕う。
「にしても、あの先生、こんな場所で何してたんだ?」
「さあね。外から来た人だし、散歩とかじゃないの?」
その何気ない返事に、キャミィの眉が一瞬だけ僅かに動いた。
「もう二年は経つよな」
ラッツが呆れたように両手を広げる。
「二年でもまだ新参だろう。お前らはここで育ってきたんだから知らないだろうが、新しい土地に慣れるのって本当に大変なんだよ」
キャミィが愚痴るように呟き、どこか遠い目をしている。その表情には微かな疲労が滲んでいた。
そのとき、反対方向から姉が全速力で駆けてくるのが見えた。身体強化魔法で速度を上げた彼女は、満面の笑みを浮かべながら手を振っている。
「お待たせしました!」
姉は到着するや否や、リーダーシップを発揮し始めた。
「これから北門を抜けるから、みんな巡検証を出しておいて! 衛兵さんに失礼のないようにね。学籍番号と生年月日、それと目的を聞かれるから、変なことを言わないように!」
その声にアレンは苦笑しつつ答えた。
「はい、お姉ちゃん」
「……んー! 素晴らしいわ!」
姉は目を閉じ、喜びを全身で表現している。そんな彼女の様子を見て、セシルが小声で呟いた。
「ふぇ、王族の顔パスとかないのふぇ」
「そんなの無理よ。変装されてたら分からないでしょ?」
「いや、簡単に見破れそうだけどね」
他愛のないやりとりを交わしながら、一行は北門へ向かった。しかし、女の先生の鋭い視線やキャミィの僅かな表情の変化が、アレンの胸に微かな違和感を残していた──それが何を意味するのか、彼はまだ気づいていなかった。
概ね順調に北門を越えた。ラッツは、赤点の治癒魔法術の授業を抜け出したようで学校側から連絡があり、一悶着あったが、キャミィが半ば強引に突破した。
「ふぇ、良かったんですかねえ」
「モテるって辛れえわ」
「ま、ラッツが授業受けたところで、赤点には変わりないよ」
「悲しいんやけど、反論できないんやわ」
とぼとぼとラッツが歩く。
「ちょっと時間をくった!軽くジョグるぞ。セシル、支援魔法は二重付与可能か?」
「ふぇ……はい!身体強化なら重複します……ものにもよりますが」
「全員にかけるとして、燃費はどんなもんだ?お前が魔法使って、へばったら本末転倒だしな」
「キャミィ、セシルは、おそらくこの中の誰よりもMPあるから、お気になさらず」
アルは自慢するように言って、鎧を揺らす。
「三日三晩、魔法打ち続けられるんやないの?」
「ふぇ、そ、そんな!せいぜい二日です」
「例えでいったんやけど、すげえわ。大物になりそうやの。今のうちにサインもろとこ」
「ふぇ、サ、サインなんていくらでもあげます!!では、コホン」
セシルが聞き取れないほどの早さで、吃ることなく流れるような詠唱した。
「おお、体軽いし、泥もつかなくて快適!」
体の奥がじんわりと熱くなり、走り出しは自分の体ではないように滑り出した。
「じゃあ私が先導するから、殿はアレンの姉にお願いする」
「仕方ないですわね!」
キャミィ、リンドウ、姉の順で、街道を走行し始めた。体感したことのない勢いで、道際の木々が後方に流れていく。
「すこしだけ熱がこもりやすいので、水分補給は適度にしてください。水がなくなりましたら、私が魔法で出します」
セシルが、風切り音に負けないように、拡声魔法をつかって伝達する。
「セシルの水を飲むんかあ、なんやぁ、それって」
ラッツは拡声魔法を無駄遣いした。
「…!!…」
顔を真っ赤にするセシル。みかねてアルがラッツの頭にチョップする。
「それ以上はキモいぞラッツ。やはりお前は教室に残るべきだったか」
「おーおー、タンク不在で巡検をなされるんですか?」
「私は魔法職以外ならこなせるぞ?ま、魔法も少し使えるんだけどな」
言うだけあって、キャミィは、身体能力の高さが走りのフォームだけでわかる。足運びのストライドが大きく、同じ速度なのに、ピッチが他の誰より緩やかである。
「まぁじすか??堪忍してください」
通常の三倍ほどの速力がでているように感じる。奇妙な感じ、気持ちの高まり、速さへの恐れが混ざり合って、結局のところアレンは楽しんでいた。




