09話 決戦前日
この小説は、史実に基づいたフィクションであり娯楽作品です。
松任城の付城となってた地に陣取ってた上杉謙信の下に、松任組旗本の鏑木頼信と和平の使者となった下間頼廉、そして自軍を率いて松任城を囲んでいた七里頼周が来る。なお頼信は顔を真っ青にして俯き震えており、頼周の顔は疵だらけだったが。
「此度は頼廉殿、ご苦労様でした」
「いえいえ、頼周も話が判る奴───ですからね。無事に兵を引いてくれましたし」
頼廉が話してる途中でちらりと頼周の顔を見ると、彼は肩をびくんと振わせていた。というか頼周は謙信の下にやってきた時から皆の耳に届くほどに歯をかちかちと音を立てていたが。
「それよりも鏑木右衛門尉、よくぞ開城の決意をしていただいた!」
そう言い謙信は頼信へ両手を差し出したが、彼も俯き、そして先ほどにも増してがたがたと震えだしたのだ。鏑木殿、どうなさった、面を上げられよ、と謙信が言うが、頼信は震えるばかりだ。
「これ、右衛門尉。上杉殿がお声掛けしてるのだから」
頼廉が声を掛け肩に手を置いたとたん、頼信は地面に這い蹲り頭をこすりつけた。
「上杉殿、本当に申し訳ありませんでした! 拙者や周りの親族が、先の戦いで戦死致しまして、どうしても頼周殿から言われた上杉家への協力に正直うんと言えませんでした。それに頼周殿ともしっくり来ておりませんでしたのでこうやって兵に囲まれる失態にも繋がったのであります!」
頼信がそう言うと、頼廉が大丈夫だぞと声を掛けながら横に侍る。それをしばらく冷静に見てた謙信は床几から腰を浮かして頼廉に軽く会釈すると膝を付き頼信の肩に手を置いて、言った。
「遺恨があったから、うんと言えなかったのか。───それにしても右衛門尉。数万の兵に囲まれ、しかも救援が来る見込みが薄いのに家臣らを暴発させず抑え込むなんて守将としては敵ながら天晴れと言わざるを得んぞ───良かったら顔を見せてくれんかの?」
へ? そう言いながら擦り付けて汚れた額の頼信が顔を上げる。謙信は貴殿はよくできた守将よと笑顔で言う。
「で、ですが───」
「嫌な奴から何か言われても素直にうんと言えないのは理解できるさ。それよりも拙者は貴殿のような有能な守将がいる松任の地、是非とも今後も守ってほしい。───なんなら金一万貫を出してもいいぐらいだ。何なら一筆書こうではないか」
「き、金一万貫!?」
そう言うと頼信はかたかた震え、暫くすると白目を向いてぐったりした。横にいた頼廉が何度も声を掛けるが、どうも失神したらしく首を横に振る。そして農民兵ら数名を呼ぶと頼信を陣幕より担いで出て行った。
「───それより、七里頼周! 貴様は加賀国で何をしてるんだ!」
そう言うと頼廉は手にしてた数珠を握りしめすぎたのか、球が派手に飛び散って地面に跳ねる。頼周は床几より降りて地面に突っ伏し何度も頭を地面に打ち付けた。
「しかも勝手に兵を動員して混乱を招くなんて───織田軍が越前国より侵攻してるのに兵を引かせないとは……お前は本当に恥を知れ!」
そう言うと頼廉は手にしてた数珠の残骸を頼周に投げつけると、しばらく御坊にて謹慎しとれ、そう言ってどかどかと足音を立てて陣幕を出て行った。しばらくして農民兵が入ってくると頼周を抱え、出て行った。
謙信は床几に腰掛けると大振りの酒盃を傾けながら溜息をついた。しかしこれで松任城に入城し休息出来る事を考えると、やってくる織田軍に対して万全の体制が組めるな、そう一人ごちた。
* * *
寺井庄より粟生宿を過ぎた織田軍は手取川を渡って木呂場を通ると水島に入る。ここを野営地とすると柴田勝家は命じると各隊はそれぞれ陣幕を張った。
「おい、お前それどうしたんだ?」
「あぁ、これは“こんか”ってんだ。ほら、儂らは海側より北上してきたから本吉湊で買うてきたんよ」
小松・安宅より海岸沿いより北上してきた部隊は湊川(手取川下流部の古い呼び名)を渡り、本吉湊(現在の白山市美川町)より北上して水島へやってきたという。そこで路銀を使いご当地の肴を買ってきた兵もいたようだ。
「なんじゃ、その“こんか”っちゅうのは」
「本吉あたりじゃ、魚の糠漬けをそう呼ぶんじゃ。───ちなみにこれ、河豚の卵じゃぞ?」
「な、なな、なんちゅうもん食おうとしとるんじゃ!」
「なーん、大丈夫じゃって。少し炙ってから薄く切って食べると良いって言ってたわ───そういえば、本吉湊の連中らが、相川浜に謀反人一家の頸を並べてあるとか」
「ふぅーん、謀反ねぇ。農民同士の粛清か?」
「なんか長一族とかって話やぞ」
加賀国水島、柴田軍本陣幕内。緊急評定が行われていた。
「───とまぁ、海側より北上してきた一部隊の足軽共が言ってたそうだ。申し訳ないが宗顒殿、偽首の可能性もあるが……」
「えぇ判りました。良ければ柴田殿、馬を貸していただけませんか?」
「承知した。───そこの者、共廻りの者らを連れて馬廻衆のとこへ宗顒殿を案内せよ」
そう言うと、勝家の横に侍る小姓の一人が立ち、宗顒を連れて陣幕を出て行った。
この地より相川浜まではおおよそ三里。
越前国より出立し、時には接敵によって駆けたりもしてた。そんなときでも冷静に馬に乗ってた宗顒なら夕刻前には帰ってこれるぐらいの距離だろう。
問題なのは、もしそこに置かれてる頸が本当い長家一族のものであったら七尾城は既に落城している、ということだろう。落城していれば救援は失敗となるし、今回の出兵事由を加賀国南部の一向宗徒が知れば我々は敵国にて孤立無援の状態となってしまう。それよりも二万の軍勢を引き連れる上杉謙信が南下してくれば、例え四万の動員兵を持つ柴田軍ですらひとたまりもないだろう。
そのため、今後どうするかと与力らと膝を突き合わせて善後策を練っているところだった。
「という事でもし七尾城が落城してた際についてなんだが───羽柴筑前殿、折り入って話がある」
「はっ、如何致しましたか柴田殿」
「前にそちの今孔明殿───竹中半兵衛殿より一つ相談を貰ったんじゃ。当家で中国地方との窓口に荒木殿が担当してるのは知っておろう」
「えぇ、そうですね。荒木信濃守が如何しました?」
「どうも毛利家と接点があるのでは、それならば窓口は懇意の羽柴殿にして欲しい、そう小寺の官兵衛殿から文があったと」
「───ほう」
荒木村重。流行りの茶道に精通しており、かつ豪胆な性格からか織田信長に好かれて家臣の一人として取り立てられた男である。何せ信長が大太刀を抜き、それに餅を突き刺したのを村重の顔面に持ち出したところ、それに齧りついたという話を聞いた事がある。信長の命にも粛々とこなす、文化人の顔をも持つこの将は織田家でも頭角を現してる一人でもある。
その村重に中国地方からの情報を齎してくれるのが小寺官兵衛という姫路の男だ。この男、元々は薬売りの家柄なのに成り上がって今の地位にあるらしく、それを聞いた秀吉はものすごく親近感が湧いたという。それに兵学に詳しく切れ者で、しかも用兵にも秀でた男でもある。
その小寺官兵衛から荒木村重への謀反の匂わせ。しかも窓口を変えてほしいという文が届いてた事は知っていた。しかしそれと今回の評定とどのような関係があるのだろうか。秀吉は親指の爪を齧り考えた。しかしそこまで学があるわけでない秀吉に判る筈もなく、勝家からの次の言葉を待つ。
「そこで一つ、儂の作戦なんだが。───羽柴筑前殿、撤兵してくれんか?」
「はぁ? 柴田殿、一体何を仰ってるんです!」
秀吉は思わず床几から立ち上がる。何事かと他の武将らも床几から立ち上がってしまった。
「柴田殿、ここで、ここで拙者が撤兵なんかしたら総崩れになってしまうではないか!」
「羽柴殿、少し落ち着かれよ───別に貴殿への褒美をやりたくないとか他意とか、何もない。ただ、半兵衛殿は急ぎ長浜の地に戻り御屋形様の次の命があるだろうから準備を整えたい、と言うのだよ」
「で、ですが!」
「そのついでに一つお願いがある、頼む、聞いてくれ!」
そう言うと勝家は頭を下げた。それを見て秀吉は僅かに冷静を取り戻す。なにせ土豪の出で織田家譜代の家臣である勝家が、生まれこそ家柄は決して良くはない秀吉に頭を下げたのだ。それを見た周りの者らは息を吞む。
「知恵者の貴殿に、死地に活路を求めつつ越前まで走り、そして長浜へ戻って欲しいのだ。難しい頼みなのは重々理解しているつもりだ。頼む!」
「───わ、判り申した。いつ撤兵を始めれば……?」
「宗顒殿が相川浜より戻って来て、そこに打ち置かれた頸が本当に長家一族の物であったのが判れば、すぐにだ」
「───し、承知した」
その後、皆でどの様に退路を確保するかを綿密に話し合い、宗顒の帰りを待つことにした。
その日の夕刻、宗顒は共廻りの者らと共に帰陣した。そして桶に詰められた物を取り出し静かにこう言った。
「間違いなく、我が父続連と兄綱連でした」