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08話 謙信、加賀国に入国する

この小説は、史実に基づいたフィクションであり娯楽作品です。

 天正五年九月十五日(1577年10月26日)

 能登畠山家の重臣らは、長連綱ら長家一族の頸と春王丸の亡骸を持参して、上杉謙信に下った。特に最初から内応していた遊佐続光や三宅長盛らは謙信から厚く礼を尽くされたという。


 そして城明け渡しの証紙を遊佐続光らと取り交わすと、謙信は夕刻頃に七尾城へついに入城した。そして本丸に聳え立つ楼閣より下界を眺めた。目の前に広がるのは、紅色に染まる七尾湾、そして丁寧に区画整理された町が広がっていたという。


「御館様、夕風は身体に沁みますぞ」


 上条政繁が謙信にそう声をかけて西洋外套(マント)を肩にかけた。この西洋外套は数年前に織田信長からの献上品である。政繁がそう言うが、謙信は肩にかかる西洋外套を丁寧に畳み政繁に優しく押し渡した。


「こら政繁、かようなもの不要だ」


「ですがもうじき能登も冬が参ります。この時期の夕風は身体に障りますので」


「まぁ少し冷えた程度なら、酒でも飲めば温まるさ。───それにしても絶景だな」


「えぇ。此方(ここ)こそが拙者が生まれた地でありますからな。───御館様、拙者の為に取り返して頂きありがとうございます」


「能登の仕置、貴様に任すな」


 謙信は政繁の肩に手を置いた。これにて能登国は上杉家の手に落ちた。




 翌朝には謙信一行は兵を引き上げるとゆっくりと南下を開始。翌日の夕刻前には加賀国・津幡城に入った。謙信は馬から降りると二の丸にある小さな庵へと向かったのだ。



「遅くなり申し訳ありませぬ。開城に手間取りましてな」


「いえいえ。───それよりも能登国攻略、おめでとうございます」


「ご丁寧に痛み入ります」


 謙信は庵に入ると床間に座り、手を衝いて頭を下げる。その庵の奥には身綺麗な恰好に袈裟を掛けた僧都が座っていた。


「さてと、上杉殿はどこまでお話を伺ってますかな?」


「えぇ。夕べ、軒猿より文を頂きまして」


 謙信は政繁と七尾城下を見下ろしてた時に軒猿が密書を持ってやってきた事、そしてその内容について語りだした。それを静かに聞いていた僧都はうんうんと目を閉じながら作業をしつつ聞いていた。僧都が茶碗をすっと差し出すと、謙信はそれを持ち上げて口にする。



「上杉殿。当家にとっては誠に恥ずかしい話です、一揆衆が一揆しあってるって様は」


「そんなこと申し上げれば、かの能登畠山家は家内統制が効かぬばかりに無駄な争いごとを続けてた結果、あぁなったのです。ひょっとしたら当家も儂に何かあればそうなるやもしれませんから、他人事ではござりませぬな」


「そう言って頂けると少しは救われますな。───それで、この前の拙僧からの返答は如何で?」


「委細承知した。こちらにとっても僧都にとっても都合が良い話でしょうからな───()()殿」




     * * *




 謙信が越後国を発つ前に文を出した相手は、実は七里頼周にだった。その内容は織田家が北上して能登国の救援に向かうから、加賀国での上杉軍の通行許可と兵糧等の購入を持ちかけたのだが。



 石動山の本陣にて七尾城を包囲してる頃、何故か下間頼廉から文が届いたのだ。しかしその内容は、頼周に送った加賀国通行許可などの文の返書だったのだ。その中には、ここ暫く続いてる松任城を包囲する七里頼周らの軍勢を威圧してほしいという内容だったという。その代わりに織田軍の動きを詳細に報告するという条件も付けてきたのだ。なお頼周らの軍勢を解散させた暁には松任城での休息や補給も許可するとも付け加えて。



 頼廉としては加賀国に赴任する前から七里頼周の暴走については目に余るものがあった。しかも一向宗徒らを煽って同じ仲間を攻撃させるなんて言語道断としながらも、頼廉が頼周達を攻撃してしまえばさらに内部闘争が激しくなってしまう。


 そんな時に本願寺家にとって不俱戴天の仇ともされる織田軍がやってきてると報告が来ており、早くなんとしてもこの件を何とかしなければならなかったのだ。『百姓の持ちたる国』と評される加賀国に織田軍が土足で入られるのも堪らない。


 その為、謙信から通行許可を求められたのは僥倖と思い、それなら謙信と一緒になって松任城を囲む頼周を威圧し、包囲する一向宗徒を解散させられば自軍の損失は減らせると考えての交換条件だった。しかも義に篤い謙信が、後々になって過剰な請求はしないだろうという思いもあったのだが。




「ところで、儂は確か七里頼周殿に文を出したと思ったんだが、どうして頼廉殿が受けてくれたのだ?」


「その件ですか。───かの者には上杉殿の提案を処理できる能力が無いと思いましてね。ただでさえ松任組旗本の鏑木頼信殿と当本願寺家の頼周が揉めた直接的な理由も既にご存じなのではないのですか?」


 そう言って謙信より返された茶碗を脇に置くと頼廉は正座を直してこう言った。



「松任城に居た頼源という僧、上杉殿の軒猿でしょう?」




     * * *




 菅沼(すがぬま) 定盈(さだみつ)が守る野田城を武田信玄が開城させ、そこから織田家とは盟友である徳川家康の居城・岡崎城が攻めるには容易い状態になった筈なのに、西上作戦をついぞ中止し甲斐国へ引き返して行った。(野田城の戦い・1573年)


 そして同年七月。一度は正親町天皇の執り成しにて和睦したはずなのに足利義昭が反織田信長を掲げ再度挙兵、槇島城に籠る。しかし本気で攻め立てた信長軍に恐れをなした義昭が講和を申し入れ受諾した。その後、京を追放される。(槇島城の戦い)


 同年八月には越前を攻めて朝倉義景を討ち、翌月には返す刀で近江国の浅井長政をも討った。



 これにて信長が極限まで追い込まれた包囲網は瓦解した。そして織田家の拡大政策が本格的に始動したのだ。もちろんそんな状況を越後国で座して見てる程、上杉謙信という男は暢気では無かった。各地に軒猿を放ち、情報収集をしてたのだ。



 七尾城攻略中、松任城に放っていた軒猿が下間頼廉宛ての書状を持って報告に来た。そこで松任城の鏑木頼信と七里頼周が揉めてる事情について詳しく説明したのだ。


 曰く頼周は、頼廉が大坂より赴任時に持ってきた本願寺家と上杉家との関係改善に置ける連絡業務を命令されていた。しかし一向宗徒にとって上杉家とは長年敵対していたため、頼周は時間を掛けてでも各所に説得し飲んでもらうしかなかったのだ。しかし普段の振舞いなどからこの説得工作が殆ど進んでおらず、むしろ仲間らと揉める原因となっていたのだ。


 もちろん鏑木頼信が七里頼周と本格的に揉めたのも、上杉家への工作失敗が原因だ。理解しない頼信にあれこれと言いがかりをつけたのも当てつけなのだろう。



「では、明日にでもここを出立して松任の地へ参りましょう。鏑木頼信殿へよくも籠城して耐え頑張ったという書状を書いて参りました。これを頼廉殿に直接届けて頂きたいのです」


「つまり、拙僧が和平の使者として行く、と」


「そうです。───それでも和平を望まないのなら、不本意でしょうが我々で松任城を飲み込むまでですが」


「───なるほど、さすがは上杉殿ですな。では準備が整い次第、出立しますか」


「そうですね。では明日にでも出立して一旦は太平寺館に寄り、その後は状況を見て松任城の付城にでも入りますか」


 そういうと謙信は結構な御点前でと言うと庵を出て行った。



 その後ろ姿を見送った頼廉はふと一人ごちた。上杉殿はどれだけ加賀国の地理を勉強してるんだ、と。

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