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最終話

 手取川の戦い、そのあと。



     ・上杉謙信


 能登救援の為に加賀国に侵入した柴田軍だったが、上杉謙信率いる軍団に追い散らされた。その後柴田軍を追いかけて越前国まで侵入したという話もあるが、果たして補給線が伸び伸びになる戦を積極的にするだろうか……?


 天正五年九月二十三日(1577年11月3日)の深夜にあったとされる手取川合戦後、謙信は春日山城に帰還。


 天正五年十二月十八日(1578年1月25日)に帰還とあるが、戦闘終結後に随分とのんびりと時間を掛けて戻ってきてる様子だ。


 十二月二十三日(1月30日)に次回の遠征大動員令が下される。どこへ侵攻しようとしてたかはいまいち調べても不明。知ってる方がいらしたら教えて欲しい。(やはり越前侵攻からの西進なのか、それとも関東仕置きか?)


 ただ、遠征六日前に脳溢血(?)で倒れ、そのまま帰らぬ人となり、その後は皆様もご存じの通り御館(おたて)の乱にて上杉家は内乱状態となる。





     ・鏑木頼信


 この人の記録、実は殆ど残ってない。

 松任城を開城してから上杉謙信より和睦、そして書状を貰った……までなのだ。そのためその後どうなったかよくわかってない。一説によると謙信亡き後に柴田軍が加賀国に再侵攻、その際に戦死したらしい。子孫は生き残っており、加賀前田藩時代は石川郡で十村肝煎をしていたそうな。



 で、その鏑木家の子孫が、


松任城と一向一揆: 一揆の雄 城主鏑木氏を探る

鏑木 悠紀夫(著)


という書物を書いている。

 ただ昭和63年12月初版(北國新聞出版社)と、随分の古書だ。石川県立図書館に有ったので読ませていただき、今回の小説の下敷きとさせていただいた。



 なお、石川県(旧)松任市では、この鏑木頼信の知名度は殆ど無いだろう。


 (旧)松任市の小学校三年生は社会科で『私たちの松任』という独自テキストを使って松任の産業や歴史を学んだのだが、そこで出てくる人物といえば


『枝 権兵衛』


という、七ヶ用水の元を作った人の勉強をするらしい。



※僕もカミさんも(旧)松任市出身だが、小学校は電車バス乗り継いでの金沢市内だったので、高校時代の旧友に聞いてみた。



 で、松任城の跡地は今でこそ『松任城址公園』と呼ばれ整備されてるが、僕が幼いころは「おかりや公園」と呼ばれていた。街中にある鬱蒼とした公園だったなぁ。よく高校生カップルがイチャコラしてた記憶───爆発しろ。




     ・宗顒


 どのタイミングで還俗したかは不明だが、後に「長 連龍」を名乗り、織田信長に仕え、信長死後は前田利家に仕えた。よく金沢へ観光に来る人たちが『長町武家屋敷跡』に行くのだが、その長家の屋敷があったからそう呼ばれてる。(その長町武家屋敷跡にある、金沢市が設置した案内看板より)




     ・遊佐続光


 七尾城落城後は上杉謙信によって能登の所領を安堵されたという。しかし謙信没後の御館の乱に乗じて柴田軍が七尾城を包囲、旗色が悪いと見るや遊佐らは降伏を申し出てきたという。もちろん、長家を弑逆した遊佐らを織田信長は許すことなく処刑にしたという。(信長公記)


 長家譜では、七尾城から脱走して隠れていた遊佐らを長連龍が捕らえ、斬ったという記述もある。






 あとがき



 前述通り、僕も今は亡きカミさんも(旧)松任市出身です。

 しかもカミさんに至っては水島町出身です。


 で、僕らフツーの松任人は水島(みずしま)と読みますが、カミさん及びその義家族、そして近隣住民は『水島(みぢしま)』と少し訛ります。


 そのため、あえて『水島(みぢしま)』と表現しました。



 で、そのカミさんに、


『ねーねー、YouTubeで“手取川の戦いを再現してみた”ってやってみない?』


と提案した事があるんです。ずんだもんに扮した僕が黄緑色の全身タイツを着て、秋深まる11月に手取川を泳いで渡るって企画でした。


『あんた泳げんがいねー。本気でやるなら生命保険の受取金を倍プッシュしといてね?』


と一蹴されましたが。

 ちなみに僕は泳げます! 平泳ぎしてただけなのに白山市民プールで救助されたぐらいですから!



 でもまぁ、カミさんの実家に遊びに行った際、あちこちフィールドワークし、小説の構想を練り、図書館で下調べなどをしてた頃にカミさんを急に亡くしました。とはいえ二人であれこれして作った作品なのでなるべく早くに世に出しておきたいと思い、大型連休を使って書き上げた次第です。




 そのカミさんとのフィールドワークをしてた際、『手取川古戦場石碑』を見に行きました。河口から1kmほど上流にあるのですが、この時にカミさんが言いました。


「でもさぁ。もし水島に陣を敷いてて、上杉謙信に驚いて逃げてったって話だけど、何でこんなとこが古戦場になるん?」


 確かに水島から古戦場石碑まで距離として約4kmも離れてます。慌てて逃げるにしても、わざわざ河口域までぐるりと遠回りするでしょうか? しかも手取川河口はけっこう深いですし。


 てか、あの石碑は確か旧・美川町の教育委員会が設置してましたが……どういうつもりで設置したんでしょうかね?



「むしろ、小松から水島まで侵攻するルート、どうやって来たと思う? やっぱ北鉄41系統の金沢・小松線?」


 いやいや、41系統は金沢・千代野線だろ? と思い、北陸鉄道70年史見たら41系統でした。(当時の松任線が40系統)


 現在では42系統となった金沢・寺井線(金沢・小松線のなれの果て)も、寺井中央より手取川を渡り、水島を通り、松任バス停の真ん前に松任城址公園があるぐらい。


 確かに北陸鉄道の路線バスは古い街道をなぞるような路線が多いです。まぁ石川県に数多とあった私鉄や路線バス会社を買収しまくって出来た会社で、その営業免許をそのまま今も利用してるような会社ですから、今回の侵攻ルートもその路線をなぞってる次第です。



 今回は、(旧)松任市民ですら、石川県民ですら殆ど知られていない戦いをモデルとした娯楽小説を書いてみました。もしこんな形ででも、僕ら夫婦の地元に興味を持っていただけたら幸いです。


 なお、(旧)松任市に観光名所はありません、びっくりレベルで長閑な田舎町です。しかもどんどんと寂れてきてます。食パン列車こと419系が生まれた松任工場もついに閉鎖しました。そして新幹線駅は出来ませんでした。(まぁ誰もできるとは思ってませんでしたけどね)


 また、地元をネタにした小説を書いてみたいですね。

(なお、現在は松任を離れて違うところに住んでおります)

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