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01話 能登畠山家、救援を求める

この小説は、史実に基づいたフィクションであり娯楽作品です。

「ほぉ、───んで儂らに救援せよと申すか。───ん?」


「左様にございます、このままでは我々は“龍”に飲み込まれてしまいましょう。───このまま座してれば勢いづいた“龍”が越前、若狭へと駆け下りてくるのも想像に難くないかと」


「成程のぉ」



 謁見の間に通された急使の宗顒(そうぐう)は上座にいる神経質そうな男に能登での窮状を訴えた。彼は能登への救援の約定を必ず取ってきてほしい、そう言われて孝恩寺より急ぎ近江国安土城へと出向いたのだ。




   * * *




 能登畠山家は平和と混沌の歴史である。


 そんな中、七代目当主・義総(よしふさ)(1491-1545) の頃の能登畠山家は全盛期だった、なにせ彼が辣腕振って内政に力を入れたからだ。七尾湾や富山湾の海運流通による富を吸い上げ、鉱山開発も行い、それらの上がりを用いて所口(しょこう)の町造りに宛て、商人や細工師らも保護して産業開発まで行ったのだ。折しも日本国内は戦乱期。荒廃する京を離れて下向してきた公家らも保護した結果、所口の地は小京都と呼ばれるまで発展したのだ。



 ちなみに『所口』という地名は現在の七尾の当たりを指す。なお七尾と広く呼ばれるようになったのも実は明治八年からで、それまでは所口と呼ばれていたようである。なお七尾の名前の由来は七尾城なのだが、当時は松尾城と呼ばれていたそうだ。




 非常に紛らわしく、諸兄らの混乱を防ぐため、今後は七尾、七尾城と記す。




 しかし能登国の平和を作り出していた義総が病死し、その義総の次男・義続(よしつぐ)(?-1590) が家督を継いで当主となった。そしてすぐに七尾の平和は張りぼてであり、すぐに崩れていくものであると皆の目に映るのだった。義総が病に臥せってる頃より長家、温井家や三宅家といった譜代の重臣らが当主そっちのけで権力争いを繰り広げるようになっていたのだ。もちろん病床の義総がそれを諫めることはできない。そして当主の座を継いだばかりの義続が止めることもできなかったのだ。こういう時こそ当主である義続がきちんと重臣らを導けば義続も父・義総のように名君と呼ばれたのかもしれない。だが彼は権力争いを止めることも出来ず、むしろ重臣らが結託して実権と主導権を握るようになれば、義続なんてただのお飾りでしかない。


 そんな権力争いの最中に城内で小競り合い発生し、そこから飛び火して七尾城が一部炎上する騒ぎが起きてしまったのだ。こんな失政や重臣の暴走が続けば義続はもう心が折れてしまったのだろうか、ついに政務を放棄して隠居。家督を子の義綱(よしつな)に渡したのだった。(能登天文の内乱)



 その跡を継いだ義綱は主君である権威を取り戻すために近習の飯川義宗、そして父・義続と共に謀り、なんと重臣・温井総貞(ぬくい ふささだ)(?-1555)を暗殺したのだ。


 その頃の重臣らの権力闘争は佳境に達しており、筆頭家臣の遊佐続光を差し置いて温井総貞が実権を握っていた。それを騙し討つかのような暗殺は成功したので温井家が反旗を翻し、奥能登の輪島を本拠に立つ。それに温井家とは昵懇だった三宅家が呼応し、加賀一向宗徒らまで味方に付けて大規模反乱にまで発展するのだった。


 しかし義綱は越後国の上杉家の助力を得てそれらを収め、温井家や三宅家を許すが二家を遠ざけて今後も専制支配することが出来たと言う。(弘治の内乱・1550-1560)


 しかし義続・義綱父子による専制支配も長くは続かない。永禄九年(1566)に重臣の長続連と遊佐続光、八代俊盛らが反乱を起こし、ついに義継・義綱父子を能登国より追放したのだ。続連らは義綱らから遠ざけられてた温井家や三宅家を呼び戻し、重臣ら年寄組織による傀儡当主として義綱の子・義慶(よしのり)を擁立したのである。(永禄九年の政変・1566年)




 が、義慶は天正二年(1574)に急逝。すぐにその義慶の弟・義隆よしたかが立つが天正四年(1576)に続いて死去し、その義隆の子・春王丸が擁立されたという。


 その春王丸の畠山家当主擁立に待ったを掛けたのが、“越後の龍”こと上杉謙信だったのだ。




     * * *




 上杉謙信の元にはかつて義続(よしつぐ)の子、義春(よしはる)が人質として越後に赴いており、その義春は子の居なかった謙信の養子と一時なっていたのだ。なお義春の人質理由は、弘治の内乱時に上杉家介入のためだと言われている。


 その後義春は上条家の養嗣子となり上条政繁と名乗っていた。その上条政繁こそが正当な能登畠山家当主であるからして、今すぐ兵を引き払って七尾城を明け渡せと上杉謙信から使者が来たのだ。 


 こんな使者が来れば重臣らは真っ二つに割れるのも道理である。義慶が当主となった理由は重臣らのクーデターなのだ、その正当性に疑義を求めて介入されるのは想像に難くない。そのため重臣らは織田か上杉のどちらに付くかで意見が割れていた。その重臣らの年寄組織でここ最近、力を持ち始めたのが(ちょう) 続連(つぐつら)である。



 長続連は能登穴水の国人領主である。

 穴水は七尾湾の最奥にあって良港を持った地であり、七尾から珠洲・輪島への陸路、海路共にどうしても立ち寄らないといけない、交通の要所でもある。つまり義総時代の海上輸送における独占施策は長続連に利をもたらしたのだった。


 重臣たちの中には遊佐ゆさ 続光つぐみつ(?-1581) のように親上杉派も居た。しかし長続連の政策に押し切られる形で上杉謙信からの要求を蹴ったのだった。




 越中を落とし、能登へ進攻してきた上杉軍は七尾の町を焼き払い、町民たちが慌てて逃げ込んだ所を確認して上杉軍が七尾城を包囲した。もちろん後方を脅かされないよう、謙信らは奥能登にまで進軍し支城をいくつも落としている。そのため七尾城は孤立した。


 天正四年(1576年)に始まった七尾城への包囲は一年間続いた。しかし運がいいことに謙信が越後国を留守にしている頃、北条家が北関東への大規模侵攻の動き有りと知らせが届いたのである。それを聞いた謙信は留守役のみ残し、一旦陣容を引き払って越後国へと帰国したのであった。


 上杉本軍が去ると、落とされた支城を取り戻すべく畠山家は反攻を開始。能登のあちこちに配置された上杉留守軍を徹底的に叩いたという。特に長綱連は自身の居城・穴水城を取り戻すべく自ら出陣したという。


 七尾城攻防戦を成功させた事で七尾の民らは大いに喜んだ。城へ逃げ込んだ農民たちは各々自分らの村に帰り、踏み荒らされた土地の回復と次回の侵攻に備えていつでも避難できるようにしたという。


 そしてこれらの成功が、重臣らの年寄組織は長綱連が完全に台頭し、遊佐続光などの親上杉派は綱連らが言う施策に何も言えない状況となっていたのだった。




     * * *




 宗顒(そうぐう)は平常を保つ素振りを見せながらも、あの上座の神経質そうな男がいつ脇息を蹴とばして斬りかかってくるかとはらはらしていた。何せ、かの男は何をしでかすか判ったもんじゃない。何せ五、六年前は比叡山を焼いたとも聞いてるし、ちょっと前は伊勢長島で一向宗門徒を焼き殺したとも聞いていたからだ。


 失礼の無いように僧の正装である袈裟や切袴を着てきたが、背中から流れ落ちるのが判るほど脂汗をかいていた。



「おい、宗顒とやら」


「───はいッ!」



 突然声を掛けられた為、返事が上ずってしまう。




「よし判った。貴様らに力を貸そうぞ」



 神経質そうな男、織田信長は右頬を上げ歯を見せて笑った。

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