ノンフィクション
子供の頃父親の背中がとても大きくて憧れだった。
実際に身長は180近くあり大柄な方だった。
今私は40歳だ。
父ほどの身長はないがそれでも170は超えているので平均かそれ以上ではないだろうか。
父の背中に憧れたのは大きいからだけではなかったのかもしれない。
きっと家を支える大黒柱として毎日働き家族の生活を養い。
家に帰ってこればビールを飲みながら夕飯を食べテレビを見て笑っていた。
家で仕事の愚痴をこぼしたところは見たことがなかった。
私の家は収入は多くはなく、4畳半二間の県営住宅に父、母、妹と家族4人で住んでいた。
中学を卒業して高校に入る頃には自分の置かれた家庭環境に不満を漏らすことも多々あった。
自分の部屋もなく寝る時は家族4人川の字で寝た。
それでも不満を言い続けた私に両親は4畳半のうちの一部屋をカーテンで区切って妹と私の部屋にしてくれた。
今思えば優しい両親だと思う。
高校3年の春、父は一軒家を建てた。当時は自分の部屋ができて嬉しくて堪らなかった。
成人してまもなく仕事の関係で私は実家を出た。
私は29歳で結婚した。
妻は一才歳上。子供は欲しかったけれど、私と妻で妊活に対する取り組みの真剣さに差があり諦めた。今考えると妻はそこまで子供は欲しくなかったのだと思う。そして自分は欲しいと言っている割に真剣に取り組まなかったのだと思う。いづれにせよ。悪いのは自分だった。
私が35歳の時、父がいきなり会社を辞めたと母から連絡があった。助けて欲しいと。私は意味が分からなかった。
実家に帰ると家の金銭面の話をされた。
まだ家のローンが数百万あるというのだ、さらに預金通帳の残高はほぼ残っていなかった。父は辞めた原因を話さなかった。さらに根拠もなくなんとかすると言った。数ヶ月待ったが改善はなかった。私は父と話し合いの場を持ち。実家の家計簿の見直しをした。この時父を全員で攻める形になったことを私は今でも後悔している。この時は父の背中が小さく見えた。
これ以降父は余り話をしなくなった。
妻にも事情を話さざる終えなかった。税金対策のため両親を一時的に自分の扶養にし、形だけの仕送りをし、今後の話し合いの為、度々私は実家に帰った。
当時は仕事に不安と限界を感じて嫌気がさしていたことと、両親にはお金、妻には子供の件や実家の話でうまくいってなかったことが重なりとても嫌な空気が常に自分の周りを覆っていた。不安が限界を超えた時更なる不幸が重なった。
私は健康診断で引っかかり精密検査をした。
結果は大腸がん、入院を余儀なくされた。周りは絶望的な空気だった。私は少し安心していた。死ぬかもしれないという恐怖が、一時的に全てのことから解放されるということより小さかったのだと思う。この時は死んだ方が楽だとすら思った。馬鹿げていると思う人も沢山いるだろうが、人は精神的に追い詰められると死よりも恐ろしさを感じるのだと思う。
実際手術後は本当に死ぬのかもしれないと不安にもなった日も多々あった。
妻はあなたは幸運だと私に言う。
私はきっと歳の割に精神的にとても幼い。物忘れも激しいし、基本ネガティブだ。その割に努力は余りしない。人付き合いも苦手だし、あまり笑顔を作らない。仕事は以前ほど情熱を注げなくなった。その都度周りの人間に迷惑をかけているのかもしれない。それでも自分では精一杯だと思っている。
それでも今まで1人で悩んでいたことを人に頼っていいのだと思えるようになったのはガンになったからだと思う。
今でも会社帰り精神的に追い詰められて1人落ち込むことがある。私はいつまでこの会社に固執するのか、なぜ固執しているのか?わからなくなる。自分に自信がないからなのか。人間関係を1から作り直す自信がないのか。収入がなくなることに不安があるのか。
それでもまだ生きている。父とは今は少しづつ話せるようになっている。妹に子供がいることが父と母には良い影響を与えているようだ。孫はやはり可愛いらしい。大変だと言いながら笑顔が増えている。私はなにをしてあげれたわけではない。むしろ何もしてないのではないだろうか。
人はなぜ不安を漏らしながらこれほど強く生きれるのだろうと思う。常に不安に駆られながら明日も明日がやってくる。
私は生きたいと思って生きているのか?
生きたいと思って生きたい!生きようと思える日が毎日ではなくてもいいから何日かあれば生きてはいけるのだろう。